映画音楽急性増悪 第43回

虹釜太郎さんによる『映画音楽急性増悪』第43回はケリー・ライカート監督作品での音、音楽、ナレーションなど、またその不在についてです。

第43回 貨物列車



文=虹釜太郎


 
『ウェンディ&ルーシー』(原題『Wendy and Lucy』ケリー・ライカート/2009年)
貨物列車の音から犬ルーシーの散歩時の鼻歌が続いてからまた貨物列車の音が。しかし今度入る列車の音には列車の映像はなく男たちの顔が。
照明の歴史を試してでもいるかな焚き火で映され続ける顔たち。そして空に映る月も照明を拒否しているような。
世界の悲惨とひとことで言ってしまうのはまったく意味がないのがはっきりわかる車の故障時のエンジンのかからなさの音たち。
このかからないエンジンの音たちは繰り返し現れるが、音楽はかからない。このかからなさがやはりすばらしい。音楽は聞こえず、通り過ぎ続ける車の音たちの反響と断続的に続く鼻歌。
このかからなさのリズムが、音楽があまりに適切にかかりまくる他の映画たちとははっきり違う。
警察に捕まってからの指紋採取他の映像もゆっくりだけれど、フレデリック・ワイズマンほどではなく。けれど劇映画の中ではワイズマンに近いようなリズムで映画は続く。ケリーとワイズマンの影響関係はわからないけれど。マイク・リーからの影響もわからないけれど。また観てみよう。
初めてルーシーと離れる時とひとり歩いてルーシーを探しはじめるウェンディを一瞬とらえる映像の遠さが似ている。
ひとり寝ているウェンディに話し続ける男のおそろしい声には貨物列車の音が重なる。
鼻歌の中で書き続ける家計簿ノート。
エンドクレジット以外に音楽はかからない。鼻歌を除けば。
最後にこの映画でさんざん音が鳴り続けた列車に乗るウェンディ。彼女がどうなったのかはもちろん映画では描かれない。
映画が終わり、数日たって、まったく関係ないのに貨物列車の音を聞いたと窓を開けたら違う。
 
 
『ライフ・ゴーズ・オン彼女たちの選択』(原題『Certain Women』ケリー・ライカート/2016)
またしても貨物列車が。貨物列車が鳴く。
女性たち。
冒頭のローラ・ダーンを含めて、あきらかに他の映画ではなかなか見れない表情たちのどれもが見逃せない。鏡に映るそれらも。
それは見逃せない、というよりか"余計な"音楽たちがないからこそ"見る"ことができる。というかようやくここから映画を観るのでなく見ることがはじまって…
映画音楽がないことのありがたさを久しぶりに…… 
いきなり表情を定期的に隠そうとする扉が現れる。ローラ・ダーンの視線の先にかぶさる風の音。
冬がそのまま映像になるのに必要な音たち。
怒る前の横への視線のそらしかたなどやカーラジオをつけた時に男が泣きはじめての視線のうつろいなども長くは見せてくれない。
ケリー監督作品の夜はどれも暗い。
貨物列車は映らない時も貨物列車の音は鳴り続ける。それもかなり長く。
ミシェル・ウィリアムズのパートは川の流れと共にはじまり。
リリー・グラッドストーン、クリステン・スチュアートのパートは学校から。
愚かな、というかのんきな、というかどうしようもできない男たちとやっていかなくてはいかないのか、それとも…なかすむ光の結びなおしのような表情たち。
横を見る、横をにらむ、横に目をやる表情たちのくすんだ豊かさ。笑顔がうながすはずの先とうながさない先々。音楽が語らず、まったく語らず、表情たちが変わり続け。
鏡に窓に。
太陽がかすんだ光。
映画製作者たちに音をどうするかについての教材に本作が選ばれたらどうなるか。
原作はマイリー・メロイ。『どちらかを選ぶことはできない』論(マイリー・メロイ論)を読みたい。
登場する女たちの行動を映画は音楽で説明も補足も補完もしない。それがどれだけ貴重なことか。
 
 
『ミークス・カットオフ』(原題『MEEK’S CUTOFF』ケリー・ライカート/2010年)
ロブ=グリエ作品を思い出させるような西部劇の終わり方かと思っても、もちろん違って。
川を渡る馬車と人。そして牛。
1845年。オレゴン。西部へ向かう家族たち。
撮影はクリストファー・ブローヴェルトだけれど、ケリーならではのリズムで。ただ『ウェンディ&ルーシー』とは違って音楽は入る。
家族たちは目的地に向かうのだが…
案内人か先住民か…
『ウェンディ&ルーシー』の気の抜けたナレーションは、本作ではやたらにしゃべる男の声と延々と続く草叢に沈む音楽が代わりに。
男の声は男のいないところでも響きはじめて、そして目的地には…
車輪の修理。家族たちの会話。そうして毎日が繰り返されては、男の声、強い?ようにふるまうような声が響きわたる。
立ち尽くす女たちが日記をつけるシーンは映されないが、疑いの視線からどうなるのかの視線の演技は難しい。
案内人か先住民かの疑いの日々の連鎖などは現代では描くことは不可能なようだが1845年だ。
開始から40分を過ぎる前に不安を煽る、というよりはなにが起きてるかわからなさを静かに募らせはじめるようなどうなるかわからないみたいな音楽がかかる。音楽使用にはいつも抑制しているように思えるケリーによるこの音楽使用をどうとらえるか。
この先どうなるかわからないみたいなことを伝えるような音楽はその先にもかかる。この音楽がなければ映画は成立しないのかは最初はわからず、風の音のさまざまな加工だけでもできたのかとも思えたが、最後を観る限りは必要だったのだと。
映画を見た日本人にはもしかしたらかつて出た迷西部劇小説を思い出した人もいるかもしれない。映画には関係ないけれど、その著者が『ララミー牧場』、『ブロンコ』、『ローハイド』に出てくる原野のどこかでいっつも焚火をしながらの食事たちについての描写が記憶に残っている。
俳優の演技についてばかりの評価だけれど、あらゆる要素を削ぎ落とすやり方たちについての話ももっと必要かもと。
 
 
『リバー・オブ・グラス』(原題『RIVER OF GRASS』ケリー・ライカート/1994年)
ケリーの新作から観直していくと多くの点でゲリラ撮影の工夫が見られるようだけれど、この作品では気の抜けた声でのナレーションがリズムを作りはじめる。
まったく音楽の入らなかった『ウェンディ&ルーシー』と違い音楽が入るが、それらも『フォールアウト:ニューヴェガス』に入るゲーム音楽のように(?)、敵との遭遇、キャラクターたちとの遭遇の距離別に変わるかのような。
部屋でドラムする男の音にあわせて映り変わる映像(室内の写真たちをなめてからの)から車内からの発砲にいたる映像(ジム・ドゥノーによる撮影)が本作のすばらしさを凝縮しているようだけれど、コージーの中途半端さの放浪なリズムが延々とその後に続く。深夜のプールで泳ぐだらしなさたちにかぶさる残響音からのまたしてもの発砲。
中途半端な窃盗と中途半端な冷蔵庫解放と中途半端なレコード再生から逃走からの気の抜けたナレーションへ。
またこれだけ気の抜けきった救急車の走行を映した映像もあまりない。
どの映像からも湿度を感じないが、実際はそうでもないはずだ。この乾燥を強めたのはなんだったのか。ラリー・フェセンデンの編集だけではないはずで。
体のアップの映像からもクレール・ドゥニとはまったく違う乾燥が。
プールにシーツを被せようとする映像が何度か出てくるが、それも中途半端だ。
店舗での窃盗時の男のあまりの半端な殴られ方からベッドに手を上に延ばしたまま虚ろに話す女への移り変わりと乾いた室内のなめ方のリズムからの救急車音(のみ)。そして貨物列車が。発砲。無人の横座席。銃の投げ捨て。置き去り。音楽(たわみ)。