江藤淳/江頭淳夫の闘争 第1回

boid/VOICE OF GHOSTより発売のKindle版「江藤淳全集」の編集を担当する風元正さんによる新連載「江藤淳/江頭淳夫の闘争」。江藤淳の批評を見直し考察する本連載。今回は全集の第1巻『奴隷の思想を排す』から「奴隷」について。全集は約50タイトルをリリース予定で、こちらの連載も不定期に更新してゆきます。
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「奴隷」はどこから来たのか



文=風元正
 

 *

江藤淳。本名・江頭淳夫。1999年7月21日、自宅浴室で自殺した。享年66歳。 
江藤について考えようとする時、この事実は避けて通れない。江藤が死を選んだのは新連載から二回目の「幼年時代」の原稿を編集者に渡した日だった。ずっと書き継いできた『漱石とその時代』もまた未完のままで終わり、残された仕事は道半ばという印象を拭いえない。江藤淳の生涯には深い屈折が刻まれている。「60年安保」の頃、「若い日本の会」の幹事役を務めていた時期の議論から考えると、晩年の政治的発言とはへだたりが大きい。不慮の交通事故で亡くなった親友・山川方夫との訣れは、自死の八か月前の慶子夫人の病死とともに悲劇的だった。
傍らに、江藤が葬儀の司会を務めた小林秀雄の生涯を置いてみよう。戦中、従軍記者として戦地を巡った履歴を、戦後に「利巧な奴はたんと反省してみるがいいぢやないか」と語り、大きな矛盾を抱えつつ、「死に支度」として十一年がかりの大著『本居宣長』も完結させ、「宿命」に従う生き方を貫いた。夭逝した中原中也との三角関係も伝説となり、ぴったり「批評」を演じ切った姿はまさに「人生の教師」にふさわしい。
しかし、ここで江藤自身の批評の言葉を通してその来し方を見直してみよう。たとえば、中村光夫『二葉亭四迷伝』について論じた一節は示唆に富んでいる。
「著者によると、漱石が適切に評したように、二葉亭は《政治家臭くない政治家、教師臭くない教師、更に文士臭くない文学者、一口に言えばまともな人間》で、その故にあらゆる分野で「失敗者」として終り、《明治という不思議な過渡期の孕んだ理想の悲劇的体現者》となった人物であった。ある意味では彼は文学者でさえなく、その作品は生活の「色あせた反映」にすぎない。だが、そういいながら中村氏がこの評伝でえらんだのはこの「まともな人間」をもっぱら「文学者」としてあつかうことである。」(『二葉亭四迷伝』書評)
文中の「二葉亭」を「江藤淳」に置き換え、「二葉亭自身の生涯をさらに文学否定の機軸からとらえなおす」という中村への提案を適用してみる。すると、幼時から結核などの病に苦しみ、長年教師としても働いて、政界への直接的な介入や物議を醸す発言を続けつつ、孤独な放蕩にも惑溺したひとりの「行動家」の人生が目前に浮かび上がる。「人間」江頭淳夫は、しばしば過ちも犯しながら「歴史という舞台」で戦い抜いた。その大きな振幅を「文学者」江藤淳は書き尽くしてはいない。文学と実生活の関係は複雑に絡み合い、遺書の「形骸」という言葉が別の意味で生々しく立ち上がる。
私は、小林秀雄について、作品の外の伝記的事実から考える必要を感じない。偉大な自意識家の文章は、晩年に至り発表時の時代背景すら不要となり、永遠に向けられた「文学」として屹立する。文士「小林秀雄」は行動しない。しかし人間は「文学」という器に美しく収まれば済むものなのだろうか。小林と江藤の双方が最後に意識した正宗白鳥のような「生活」と「文学」の境目がない自在な達人の姿も思い浮かべつつ、明治、大正、昭和、平成という四代の大きな変転を経た令和年代の今となっては、「文学」という器自体の危機を意識せざるを得ない。
私は、「まともな人間」である江頭淳夫の精神と行動を意識しながら、江藤淳を読み解いてゆく。そして、孤独な行動家の精神の軌跡を追うことにより浮かび上がる、「文学者」江藤淳の批評文が孕んでいる意図されざる拡がりが、我々の学ぶべき教訓となるはずだ。
 

1957年の江頭淳夫は、ようやく「生活無能力者、高等遊民、半端者、怠け者という言葉」から逃れる手がかりを掴んでいた。1955年、山川方夫編集長の「三田文學」11、12月号に初めて「江藤淳」という筆名で、「夏目漱石――漱石の位置について」を分載し、続篇を合わせて1956年11月、東京ライフ社から『夏目漱石――作家論シリーズ・12』として刊行。 新進作家でもあった敏腕編集者、山川との親交も支えとなった。慶應義塾大学文学部3年生だった江頭が同人誌に書いた評論に眼を留めて原稿を依頼し、読み込んでいた堀辰雄や小林秀雄でなく漱石を対象として選んだのは山川の慧眼による。
ひと夏を費やして書いた漱石論は、伝記作家・小宮豊隆などが祖述する「則天去私」神話を剥ぎ取り、「東洋的な諦念の世界に去った孤高の作家」ではなく、「「個我」の尊厳を信じ、芸術作品の自己完結的な完成を目ざしている現代作家」として捉え直す試みであった。まだ私小説の小説が規範だった当時の文壇において、近代小説の祖ローレンス・スターンの系譜に漱石を位置づけて颯爽たる新世代の登場を演出し、「文學界」の中村光夫、伊藤整、臼井吉見の座談会で話題になった。
大学院進学は、結核が完治せず、就職の望みがなかったからだ。しかし、西脇順三郎教授が君臨する当時の慶應義塾大学大学院文学研究科は、研究に必要となる高価な洋書を自力で購入できる財力が暗黙の前提になっていて、家庭教師などで稼いで学資の足しにしている江頭とは肌合いが違っていた。何より、学生の分際で雑誌に文章を掲載する悪目立ちは、今も昔も学者の世界では嫌われる。日比谷の秀才は予測不能の困難に見舞われ、大学教員への道も閉ざされつつあった。
八方ふさがりの中、「文學界」編集部の原稿依頼は「命綱」であり、1957年6月号に「生きている廃墟の影」、11月号に「奴隷の思想を排す」を発表した。しかし、初めて原稿料を得るために書いた二篇の評論は、今読んでも新鮮な問題提起はあるものの、生硬な文体で世界文学の歴史をそのまま日本に当て嵌めたブッキッシュな「論文」だった。その上で、日本近代の「文壇」文学の歴史を「廃墟」と「奴隷」と切って捨てて、文壇の大御所を平気で批判しているのだから、江藤の過激さには改めて驚嘆する。
江藤淳が実質的に文壇に出たのは、同年の「文學界」の大座談会「日本の小説はどう変るか」で、大御所の高見順を怒らせて「悪役」デビューしたからだった。荒正人が司会で、石川達三、伊藤整、中村光夫、山本健吉、大岡昇平、福田恆存、野間宏、堀田善衞、遠藤周作、石原慎太郎が出席する豪華版だったが、前々年芥川賞を受賞した石原の名が目を引く。石原は江藤の一級上の、湘南高校同窓生。編集者の新旧対決という意図は明白で、江藤は見事に若い憎まれ役をひるまずに演じ切った。戦争責任問題から逃れられぬ論壇は世代交代が急務であり、石原・江藤の二人は新たなる旗手としての資格を備えていた。
もちろん、ただジャーナリズムの要請に応じるだけでは、書き手として残ることはできない。江藤淳は23歳で世に出てから、ずっと第一線の書き手という地位を張り続けた。その原動力は何だったのか。まず、この若き戦後批評のマレビトが、どのような新しさを携えて文壇に乗り込んだのかを確かめてみたい。

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最初の批評文のタイトルに入れた「廃墟」という言葉は、堀田善衞の『インドで考えたこと』にある「インドは一切の廃墟が生きている」という文章が出典である。そして、1932年、東京生まれの江頭淳夫にとって、幼少時を過ごした戦前の山の手が空襲で灰燼に帰したことは思春期を決定づける出来事だった。祖父が海軍中将、江頭安太郎という職業軍人の家系だった生家は、戦後は祖母の死とともに没落する。1948年9月、湘南中学から都立一中に転校し(学制改革により50 年に日比谷高校と改称)、焼け跡と国会議事堂を見下ろしながら登校する日々の中、「廃墟」は常に手の届くところにあった。
もっとも、江藤のいう「生きている廃墟」は、単なる焼け跡ではない。日本の文明開化は「西欧的知性と日本的感性の奇妙な雑婚」により達成されたが、その底には「知性による限定を拒絶しようとする」不可解な剰余が常にあって、それは「生ける廃墟」として社会の底で蠢いていた。その特性は、「ことだま」という言葉に象徴される日本語の詩語に近い呪術性から生まれる。現代においても、たとえば「絆」のような主語のない曖昧模糊とした情緒的なメッセージが、「ポエム」と嘲笑されつつ十二分に機能しているのだから、状況はまったく変わっていない。
江藤は、「生ける廃墟」にハーバード・リードによる「散文」という概念を対置した。「散文」はさまざまな形で展開されているが、まず、自身による定義を引いてみる。
「散文が結局、空間的な伝達(説得)か、時間的な伝達(記録)というような最も根本的な機能を持っていることを物語っている。散文はもともと日常的な口語から発生しているし、その原始的な機能はこの伝達(コミユニケーシヨン)ということよりほかにないのである。
この機能は、元来、呪術的な呪歌から発生した詩のそれとは根本的に異質なものである。そして、詩から物語を借り、劇から対話を借りて散文で書かれるという、およそ考え得るかぎりで最も不純な要素から成立している小説という様式―それを様式というならば―は、いかにそれが詩に近づき、劇に近づこうとしても、あの伝達という、最も人間的な、しかも日常的な機能を忘れれば、全く骨抜きになってしまわぬわけにはいかない。そして伝達というからには作家の前には他人がいる。他人がいるからには、彼は何らかの意味で倫理的にならざるを得ないのである。」(「現代小説の問題」)
ここに批評家の生涯を貫く重要なテーマが現れている。江藤のいう「廃墟」はよくわかる。日本の近代文学は、志賀直哉の『暗夜行路』を頂点に、極度に感覚的な詩的言語によって書かれた主観的な作品の歴史だった。それは「生きている廃墟の影」の成せる業であるが、江藤はそのアニミズム的な「文壇」言語の閉域から出て、「出来合いの日常語」である「散文」で作品を成り立たせて、さまざまな葛藤の中にいる「旺盛な生活人」を「行動」に誘う小説こそ書かれなければならないと考えた。その目標を達成した小説は、『トリストラム・シャンディ』の影響下にある夏目漱石の『明暗』であり、あるいは福澤諭吉『福翁自伝』や勝海舟『氷川清話』もその系譜にある、という論旨だった。
いささか単純化しすぎたかもしれない。しかし、江藤の表看板と呼ぶべき「散文」論が晩年において失速し、見方によれば放棄されたことをわれわれは知っている。江藤淳という批評家の面白さは、批判する対象の美点をよく知っていることだ。たとえば円地文子のような江戸の粋を繊細な日本語で表す作家の最も巧みな代弁者は江藤その人であり、つまりは「生きている廃墟」の一番の理解者でもあった。あるいは、初期はマラルメ的なサンボリズムを「強力な政治思想、非常に必然的な論理と説得力を持つ政治思想の席巻から文学者を守るための楯」として用いたとして小林秀雄の批判者として登場したが、後に日本における初めての「自覚的な批評家」と再評価した『小林秀雄』を書いたことを思い出してもいい。
このような江藤の軌跡の中でしばしば行われる「態度の変更」は、いわゆる「転向」として捉えていいものであろうか。いや、断じて違う。私はむしろ一貫性の現れであり、その鍵となるのは二作目の表題に用いた「奴隷」という言葉に秘められた思考だと考えている。ただ、「廃墟」と違って、「奴隷」の方は出典が明かされておらず、素性がはっきりしない。「奴隷の思想を排す」の中には、「奴隷」という言葉が後半の「五」に四度出てくる。
「もし私が自分の空腹を、飢餓という言葉で対象化し、カジメを食つてそれを支配しなければ、逆に私はカジメや馬糧、つまりはものに支配されてしまつたことであろう。カジメの奴隷になるなどという屈辱が人間に許されるか? われわれは、いつも「生きたい、生きたい」と叫んでいる。人間を死や、悲惨や、動物の方向に傾斜させるのは、すべて死の思想である。われわれは常にものや環境の奴隷ではなく支配者であるべきである。」
「作家は言葉によつて現実―経験の支配者となる。それに失敗すれば、彼は逆に経験に所有される奴隷となつて深い孤独の中に沈むであろう。」
「われわれに生きることよりは死を、努力よりは諦念を、支配することよりは支配されることを教える、澱んだ、飢餓と怠惰と死の、奴隷の思想の中に。」
そして評論は次の文章で結ばれる。
「作家は自信を失うべきではない。あらゆる可能性が、あらゆる想像力の余地があなた方の前にはある。しかし、それに盲目であるものは、多分、何十年か後に精神的怠惰のそしりをうけるであろう。何故なら、彼らは人間をものの奴隷にし、生命を死に売り渡した人々であるから。」
全編の論旨は、「坪內逍遙が輸入し、現在までの文壇を多角的に支配して来たアリストテレス的、「実体論」的方法」では、孤独な死の思想、すなわち「ことだま」というものの原型にある「無」の「奴隷」になることから逃れられない、と要約できる。しかし、「奴隷」という生々しい表現を用いる論拠としてはややわかりにくい。 
江藤淳ほど明晰な日本語を駆使する人はいない。批評文を読んでいて、意味がわからないという経験をしたことがない。しゃべり言葉まで統御されており、晩年の総合雑誌の原稿はすべて談話筆記だったが、起こした原稿に手直しの必要はまるでなく、必要な枚数までぴったりであった。しかし、ほとんど明快で雄弁な文章の中で、何かが故意に言い落とされているという印象を受けることがある。そして、その欠落の下に語りえないものが拡がっている。「奴隷」という言葉は、私にとって江藤淳の作品を初期から順番に読み進めていく時の、一番目の躓きの石だった。
「奴隷」からすぐ思い浮かぶ概念は、ヘーゲルの「主人」と「奴隷」の弁証法だろう。当然踏まえられているはずだが、「奴隷の思想を排す」は日本文学の中に弁証法的な発展を見出すという意図で書かれた批評文ではない。もうひとり、当時の江藤が依拠していたユダヤ系のドイツの哲学者エルンスト・カッシーラーの唯一の英文の著作『人間』に次のような文章を見つけた。「歴史は、生命と行動の下僕としてより外には、なんらの意味をももたないのだ。もし下僕が権力を奪い取るならば、もし彼が主人となって上に立つならば、彼は生命のエネルギーを阻まれる。歴史の過剰によって、我々の生命は不具となり変質するに至る。(中略)我々の大多数は、忘却して意識しないときに限って、行為することができるからである。無制限の歴史的意識は、その論理的極限まで突進して未来を根絶する。」(『人間』カッシーラー)
この「下僕」が「奴隷」かも、と睨んだが、残念ながら〝servant〟であった。ただし、ナチスに追われアメリカに亡命した「最後の百科全書派」(野家啓一)カッシーラーの思想は江藤に大きな影響を与えている。「人間文化は、人間の漸次的な自己解放の過程として記述することができる。言語、芸術、宗教、科学は、この過程におけるさまざまの側面である。それらのすべての領域において、人間は、新たな力を発見し、これを試みる―それは、彼自身の世界、「理想的」世界をきずき上げる力である。」(同前)という認識は、そのまま初期江藤の思想に重なる。
それでは、「奴隷」はどこから来たのか? 探しあぐねた挙句、ふっと頭に浮かんだのはアメリカの南北戦争の争点である「黒人奴隷」だった。妄想とも思いつつ、江藤が生涯、日本人は有色民族だという意識の下に行動していたのは確かだ。青春期を過ごした占領下の日本は、国家としての主権をほぼ完全に奪われていた。大東亜戦争で敗戦したにせよ、古代ローマの「属州」よりひどい地位は戦前の自主独立国家日本を知る江頭淳夫にとって、屈辱的な事態だった。そして、江藤淳が「日本はアメリカの奴隷である」という言葉を口にすることを自らに禁じていたとするならば? さまざまな言動が腑に落ちてくる。理由は想像するしかないが、口にした瞬間に現実になる、という江藤の嫌う言語の「呪術性」にあると仮定してもいいし、自尊心ゆえ、でもいいだろう。
傍証として、1986年に語り下ろされた『日米戦争は終わっていない』に「われわれは、〝平和〟という言葉の呪縛にかかって、〝奴隷の平和〟、あるいは〝家畜の平和〟というものがあり得るということを忘れていました。自由に支えられていない〝平和〟などというものは、どれほど繁栄の見かけを呈していても、じつは〝奴隷の平和〟、あるいは〝家畜の平和〟にすぎないのです。」という箇所があることを挙げられる。ここでいう「奴隷」はまさに、「日本はアメリカの奴隷である」という認識と同じである。
「日本はアメリカ合衆国の五十一番目の州」とか「属国」という自嘲的な表現はよく使われる。「奴隷」という形容はよりひどいけれども、しかし不愉快な現実として目の前にある。江頭淳夫は語り下ろし本のタイトル通り、祖父の後に続いて終わりない「日米戦争」をずっと戦っていた。しかし批評家・江藤淳は、江頭淳夫の内心の葛藤をしばしば隠す。その二重性は、微妙に形を変えながら、江藤淳/江頭淳夫の運命を左右してゆく。
 

「奴隷」という言葉を考える時、リチャード・フライシャー監督の映画『マンディンゴ』を逸することはできない。山田宏一によれば「呪われた「黒歴史」の名作」であり、南北戦争直前のアメリカ南部をここまで生々しく描いた映画はほかにない。「奴隷牧場」での黒人虐待の実態を暴く衝撃的な場面が続いて息を呑むが、画面からのメッセージは複雑である。肥満体で不健康さが明らかな牧場主と足が不自由な心優しい息子のコンビの前に、筋骨隆々で美しい格闘士の黒人奴隷が何度も立って、身体能力だけならばひ弱な白人が何人集まっても圧倒的に黒人側が優勢という状態がこれでもかと強調される。普通の神経の持ち主ならば、いつ寝首をかかれても仕方のない緊張関係にあるとわかるわけで、白人側は常に銃を身近に置くだろうし、警察や自警団の力がなければ収まらない。『風と共に去りぬ』のような優等生映画からは出てこない認識で、名匠フライシャーの懐の深いリアリズムが光る。
エドガー・アラン・ポーからスティーヴン・キングまで、アメリカ文学の恐怖の系譜は、奴隷制度の闇から生まれた。銃の所持に対する深い執着も、異人種に対する恐怖が潜在意識に植え付けられていると捉えれば納得がゆく。英文学徒、江頭淳夫は文学作品を読むことでその闇を実感した。そして、日本はハワイ島とはいえ、アメリカの国土に攻撃を加えた唯一の手強い国だった。「脅威」の対象である日本を、戦後はかつての黒人と同じように「奴隷」化しようとしているとするならば―。
もうひとつ、江藤淳が生きた「戦後」を考える際、忘れることのできない風景がある。沖縄の普天間と嘉手納にある、二つの基地である。まず、市街地に近接した普天間飛行場を見れば、危ないという第一印象が浮かび、続いて、配備されている兵器の素朴さを見るにつけ、もはや「ノルマンディー上陸作戦」の時代ではない、という海兵隊の限界に思い至る。あの狭い空港では、21世紀の戦争には対応できないだろう。本国でも不要論がくすぶっており、鳩山由紀夫元首相の「最低でも県外」発言は不用意ではあったが、まるで根拠のないものではなかった。
しかし、嘉手納基地はまったく違う。広大な滑走路に、常時最新鋭の航空機が発着しており、北京、平壌、東京へ即時に打撃を与えうる能力を誇示している。笑ってしまうのは、近接している「道の駅かでな」から基地が丸見えであることで、私が訪れた頃は常に中国人観光客がF-15などの戦闘機に喜々としてカメラを向けていた。基地は有事に対応するためのものだが、「示威」という役目もある。ほとんどミーハー気分で東アジア最強・最大の基地を眺める時、基地問題は重々知りつつも、いったいこの基地がなくなる日は来るのだろうか、という想いに襲われる。
韓国にも基地はあるものの、38度線があり現在も北朝鮮と休戦中というタテマエだから、米軍の助けは必須である。アメリカ本国が常に軍の撤退をチラつかせていることもあり、表向きは基地問題がないことになっている。民族自決の権利、すなわち交戦権を持つことが独立国家の条件であるならば、日本を今でも「奴隷」と見做すのは不当ではない。もっとも、江藤の議論の展開は面白くて、『日米戦争は終わっていない』でも、基地問題にはまったく触れていない。むしろ「海上自衛隊は、今日でも依然としてアメリカの太平洋艦隊が使用している作戦暗号(コード)を知らされていません。リムパックのときには、演習用の暗号(コード)だけを知らされますが、これはもちろん使い捨ての、その場限りの暗号(コード)にすぎない。」というプロっぽい指摘をしている。つまり、米軍と自衛隊は対等でない、という意味である。
江藤の指摘した米軍と自衛隊の不平等な関係は今もほとんど変わらない。自衛隊は自らの観測機器で得たすべてのデータを米軍に提供しなければならないが、米軍からの見返りは一切ない。でも、米軍と交流する機会が多い海上自衛隊には合体を望む意見が多いという。災害時の活動に憧れて入った隊員が多い陸上自衛隊は傾向が違うそうだが、自衛隊に蹶起を促した三島由紀夫が知ったらどう考えるだろうか。
もっとも、全世界における米軍の撤退は基本方針であり、嘉手納基地も永遠ではない。江藤が『日米戦争は終わっていない』で示した世界状況への認識は、当時のソ連がロシア+中国になってより強力になり、大きな期待をかけていた「ハイテク日本」が惨めな敗北を喫したこと以外は、ほとんど変更する必要がない。日本の地政学的布置から導かれる必然だとしても、江藤の先見性には驚かされる。ウクライナでの軍事衝突について、ロシア側の情報があまりに貧しいのを嘆きつつ、「知識人」の不在を実感する。
江藤の「奴隷」観も単純ではない。「犬馬鹿」というエッセイの中で、自分がコッカー・スパニエルの小犬ダーキイの「僕(しもべ)」になっている現状を明かしながら、岸信介首相に「犬を一匹飼ってごらんなさい」と勧める。最高権力者だからこそ「奉仕したい欲望」があり、天皇が「象徴」になった戦後日本はアメリカの「僕」になって満足しているようだが、その対象を犬にすべきだというのだ。
「日本国民の大半は「公僕」の僕になることにすでに腹を立てている。その「公僕」が実は米国の僕で、自分たちは結局僕の僕でしかない状態に釘づけにされてしまうことになったら、いかに腹を立てるか。しかし、実はあなたが犬の僕であって、自分たちは犬の僕の僕だということを発見したら、いかにくすぐったそうな顔をするであろうか。」(「犬馬鹿」)
権力者のマゾヒズムについて、谷崎潤一郎流の解釈が冗談めかして展開されているエッセイであり、江藤の内心が「鬼畜米英」一色ではまったくないことが窺える。そして、われわれは1962年、江藤がロックフェラー財団の研究員としてアメリカ留学することを知っている。しかし、ここでひとまず1957年の江藤淳に戻ろう。
 

1950年6 月、北朝鮮軍が38度線を越えて韓国に侵攻し、朝鮮戦争が勃発した。同時に米ソの対立が深まり、アメリカでは「マッカーシズム」と呼ばれる共産主義者の摘発が激化して、第二次世界大戦終戦直後のアメリカの鷹揚な「民主主義」は過去のものとなり、いわゆる「逆コース」が本格化する。一方、占領下にあった日本はサンフランシスコ平和条約が発効された1952年4月28日から、相対的な自由を獲得し、「占領」という「亡国」(=「奴隷」)から脱しつつあった。江藤自身の歴史認識によれば、平和条約発効後一、二年の間は、占領軍の検閲も「いちおう廃止され」、A級戦犯として起訴された元外相・重光葵の『昭和の動乱』、東郷茂徳の遺著『時代の一面』などの回顧録や、外務省編『終戦史録』などの貴重な文献が刊行され、「戦後日本のジャーナリズムが相対的にいちばん自由な時期」だった。
前述の通り、江頭淳夫が江藤淳を名乗ったのは1955年、「55年体制」が成立した年である。「三田文學」に掲載された時期は、ちょうど社会党再統一と保守合同による自由民主党の結党と重なり、しかも「六全協」により日本共産党が「極左冒険主義」に訣別して、宮本顕治体制が成立した年だった。今日から見れば、張作霖爆殺事件の翌年の1929年8月、『改造』懸賞評論の第一等が宮本顕治『「敗北」の文学』、第二等が小林秀雄『様々なる意匠』だったという、後の歴史の分岐点となった時期と同じくらい象徴的な意味を持つ登場だった。江頭淳夫にとって、アメリカの「奴隷」となった母なる国・日本が真に解放されるために、「アンガージュ」を試みるべき時であった。
「頭」を同音の「藤」に換え「夫」をとるだけで読み方は大きく変わるものの、架空の名という印象も受けない。大学院の内規に触れないための筆名、という必要があるわけでもない。平山周吉氏が重視する自筆年譜と実年齢の一歳のちがいを併せて考えると、「江藤淳」と「江頭淳夫」の間には、本人にしかわからぬ微妙な屈折が認められる。ちなみに、批評の書き手は大学教員などの職業を兼ねることが多く、先行業績がある場合も多いゆえ本名を使うことがほとんどで、批評家・大学教員への道が「江藤淳」と名乗ることから拓かれた江頭淳夫の経歴は珍しい。
『夏目漱石』の刊行は、議論の新鮮さと説得力により「彼(漱石)の名声にはコットウ品特有の事大主義や回顧的な匂いがつきまとっている」という評価を動かし、江藤の批評の戦闘力を担保した。と同時に、親米保守政権の樹立とともにひとまずの安定した形態を見出した日本では、朝鮮特需による好景気とともに小市民階級が台頭し始め、文壇を支配していた「私小説」の伝統が揺らぐ動きも先取りしていた。山川方夫が、漱石が先鞭をつけた都市無産階級小説に新たな息吹を吹き込み、後に庄司薫、村上春樹が続くという系譜を見逃してはならない。
歴史にもしもはない。しかし、もし江藤淳が漱石ではなく、別に候補に挙がっていた堀辰雄や小林秀雄を処女作の素材に選んでいたならば、その内容が文学上の問題に留まり、現実社会との接点となる「廃墟」や「奴隷」のような言葉がタイトルに浮上する展開に移行しなかっただろう。漱石を日本の近代が抱える難題すべてと直面した文学者に仕立て直したのが、江藤の手柄だった。
もうひとつ、東京大学ではなく慶應義塾大学に進学し、井筒俊彦の「言語学概論」を受講したことも大きかった。私の手元に山川嘉巳(方夫)と江頭淳夫の講義ノートがあり、前者ではランボー、マラルメ、ボードレールを中心に詩の象徴主義と言語学の関係に深く分け入り、後者ではソシュール、メルロ=ポンティ、ベンジャミン・ウォーフなどが矢継ぎ早に語られ、言語学の最先端が紹介されているのがわかる。江頭のレポートでは、プラグマチィズムの創始者であるチャールズ・サンダーズ・パースと、一般意味論で知られるアルフレッド・コージブスキーの名が特筆されていた。両者の言語学における主著は本邦で翻訳は出ていないが、初期江藤の散文論、とりわけ「模倣は人間の本然であり、模倣されたものに悦びを感ずるのも人間の本然であることは経験的に証明される」と要約されるアリストテレス的「実体論(リアリズム)」が「私小説」の伝統とつながるものとして批判する論拠に、講義で得た知見は存分に生かされていた。
産みの母と四歳半で生き別れ、登校拒否や結核で学校に通えぬ間、暗い納戸で古今東西の文学作品を読み耽り、谷崎潤一郎に小学校3年生で没頭するという早熟さを発揮し、英語も義祖父から学ぶという家庭環境は、「批評家」を育成するには最適だった。生意気で病弱で幼くして母を亡くした子に、周囲が腫れものにさわるように接し、多少の逸脱は不問に付されたことは想像に難くない。
晩年、江藤は「僕は、慶応の英文を出たら、英語の教師にでもなって、一生にせめて一冊くらい本を出せたらいいだろうとしか思っていませんでした。」と語っている。しかし、時代のうねりと個人の生の「偶然」は複雑に絡み合い、「宿命」となってゆく。批評家「江藤淳」の誕生はある必然に導かれていたが、それは「江頭淳夫」にとって幸福だったのだろうか。しかし、すでに「骰子一擲」は成されていた。




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Kindle版「江藤淳全集」
詳細はVOICE OF GHOSTのページ

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第1巻『奴隷の思想を排す』
第2巻『新版 日米戦争は終わっていない』
第3巻『犬と私』
第4巻『海賊の唄』
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以降毎月2巻づつ発売

風元正

1961年川西市生まれ。早稲田大学文学部日本史学科卒。週刊、月刊、単行本など、 活字仕事全般の周辺に携わり現在に至る。ありがちな中央線沿線居住者。吉本隆明の流儀に従い、家ではTVつけっぱなし生活を30年間続けている。土日はグリーンチャンネル視聴。