映画音楽急性増悪 第31回

虹釜太郎さんの連載更新です。最新の虹釜さんの音活動は、DSM-XXX『cure N』のreconstructed。また、現在世界から消滅してしまった「ライナーノーツ」活動で音楽家セキグチサトルの4枚組最新作『Eye the Sky』『PAN GAIA』『Silver Hole』『ガビッギラー邸』のライナー担当も。
「映画音楽急性増悪」では、リトウィック・ガタク監督作品での、タクシー、ダンスと演劇、河、息つかいなどの音響について書かれています。

見通し 



文=虹釜太郎


『Ajantrik』(リトウィック・ガタク/1958年) 
ボロボロのタクシーを運転する主人公。それは運転というよりは執心、車好きというのをはるかに超えた愛、というよりはひたすらな執着であるが、そのタクシー自体も意思を持っているかのような車の眼や口の動き。
 全編通してタクシーは限りなくボロボロになり、その人生末期に入れられた音たちが長い。
 車は喉が渇く。水を軽快に飲ませてやる運転手。ごくごくと水を飲む車。その水を飲む音がただごとでない。実際にはラジエーターの水不足。しかしその実際たちがどれも運転手の常軌を逸した車への執着が別の生物の生態を見せるごとく変容させる。そしてそんな車の末期の描き方は長い。
 牛の群れを観察するようなタクシーに運転手はやさしく話しかける。
 水を飲んだ車が歌い出す運転手にちょっかいを出すシーンが観終わった後も何度もよぎりまた観直すと、また子との出会いのシーンに遭遇し、子が道を横切ったり、道脇に隠れたりがひたすら映されているのにまたまた出会う。メインのテーマ音楽の近づきと遠のきは繊細で、ボロ車は常に人の押し支援を必要とするが、そのことが人と人の会話をさまざに生んでいた。
 インドのタクシー映画といえば、最近では
『リクシャー』(ロヒット・ミッタル/2016年)があったけれど、映画監督を目指しているリクシャーの運転手の狂気が徐々に染み出すのに比べて(家族からの糾弾が苛烈)、『Ajantrik』の運転手は車への愛自体が狂気を超え、車自体はそれをより引き込むためにぼろぼろだ。実際にはそのためにぼろぼろなのではなく元々ボロいのだ。なかなかエンジンがかからなくなった車はさらに車でも人間でも発しないかのような奇声を発するかのように発奮しながら死に向かう。そうなってからの車が発する奇音とそれに寄り添う音楽(電子音他)を後半長い時間をかけて体験することになる。そんななかに突然のオレオン族。大きな旗を振りながら踊り進行するオレオン族の映像が長く入るところがガタク監督ならでは。
 車が最後を迎えようとする前の晩に小灯で下から照らされる眼球(ライト)のひび割れたち。そこからの15分にわたる音響終末劇の場は暗く暑い。エンジン音だけでないさまざまな奇音に人々がハッとする。
 車がひきずりだす最終の音たち。
 
『理屈、論争と物語』または『理由、ディベート、ストーリー』。
リッティク・ゴトクまたはリトウィック・ガタクによる1974年、最後の監督作。
バングラデシュから来た女を帯同しながらの対話劇には異なる劇団の上演が重なる。しかしその上演には最初に殺される男が素のままに上演に紛れ込む。インド人民演劇協会(IPTA: Indian People’s Theater Association)の西ベンガル州支部での活動が活きて後、論理の衝突にはダンスが、ダンスには歌が…歌は世界に溢れているが現実にはまた戦争が。貧困、無知、戦争、病気のうち病気以外のことらについて。この作品の構造は、ゲリラ、サンスクリット語教師、ポルノ作家らとの対話以上により立体的に。
 ほぼ半裸の老人が正面でもなくどこかをじっと見つめる場面にかかる音とその次に矢継早に登場する、ジョナサン・グレーザー『アンダー・ザ・スキン』で人間の外皮を剥がされた後の黒人形な人が三人現れ自在に踊り尽くす。
 印象的なのは男たちが二回死んだ後に再度登場する半裸の老人とすぐに登場する黒人形、およびバングラデシュから来た女と男の会話での奥行があまりにある空間。この空間が可能にする外部の取り入れが拡張したままに映画は進み、男は撃たれて死に、その後に半裸の老人とすぐに登場する黒人形が。半ば茫洋とした半裸の老人の登場の際の音響の存在がこの映画を何回も駆動する。そして繰り返し観る度に異なる劇団の上演の重なりが何度も観る者を通過する。この通過は1957年のパリでシェークスピア戯曲の上演準備中に起きるさまざまな事件が描かれた映画との同時上映が望ましいとの声もある。全体主義のなかで混乱する陰謀のなかでの劇中劇と異なる劇団の上演が重なる『理屈、論争と物語』。
 
『ティタシュという名の河』(リトウィック・ガタク/1971年)
 『Ajantrik』での音の処理がユニークだったガタク監督による本作での音響処理。特に結婚初夜での長く延々と続く息づかいとその暗さ。その息づかいは花嫁と花婿を置いてさらに旋回していく。
 煙の後ろで葉の奥で建物の奥でいかに男は女を巡って狂ってゆくかが語られる。皆が狂っていくできごと。キショル、アナンタ、バサンティ。
 彼らが狂ってゆく過程で映る白昼夢と櫓の音、息の音たち、虫と蛙の声たち。記憶を失った男。キショルは愛する女を夜中に船上で盗まれてしまうということで狂ってゆく。バサンティは愛する人を失いなすすべもなく。
 『Ajantrik』に挿入されるオレオン族の行進に『ティタシュという名の河』で相当するのは、ティタシュ河で開催される舟漕ぎのレース。このレース映像のシーンは長く、この映画があくまでティタシュ河が舞台であることを強調する。でその相当は正確には正しくないかもで、漕ぎの激化は登場人物バサンティの感情の激化にシンクロする。
 ラジャーヒとキショルが再び出会うまでの間に双方は極度に疲弊してしまうが、そして二人の再開後の生活は一切ないが、ティタシュ河の映像は舟レースを置いても広がりを随所で見せる。それはガタク映画が登場人物同士の会話で会話者の視線のいくつかよりも彼らもいる背景を映すからでもある。その背景には親がいない家庭、旦那がいない妻への無慈悲という犯罪以前や誘拐らの犯罪が存在する。しかし犯罪以前とは…?そして漁民と農民の不和や欺きがある。
ラストが『Ajantrik』とかぶるようだが、この映画の冒頭はティタシュ河のいくつものはじまりを短時間に見せる。しかし河のはじまりの映像はキショルが発狂後のものと同じである。
 河に足をつける。そこから河の映画ははじまる。しかしその同じ映像は第2部にある。娘を失った男が乾いた明日を語る。そして荒い息つかいは何重にも重なってずれてゆく。