映画川 『北の橋』

4月8日からヒューマントラストシネマ渋谷で開催中の「ジャック・リヴェット映画祭」で上映されている『北の橋』の映画評を掲載します。リヴェット監督がビュル&パスカル・オジェとともに、1980年のパリの街を舞台に短期間・低予算で撮影した本作の魔術的ともいえる手法について、原智広さんが考察されています。
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ジャック・リヴェット『北の橋』 魔術的映画の文法と方法論



文=原 智広


ジャック・リヴェットが制作する実態なき微粒子のような、だが、極めて異質で特異性のある、そして、奇妙な連続性をもつ映画の数々は、エモーショナルなものと共にフィルムに焼きついている。リヴェットの映画が一般的なドラマツルギーというものから、逸脱しているということは、言うまでもないが、求めてはいないのに押し寄せてくるカオス、昼と夜が1秒ごとに明滅し、貫かれた徹底的な熱死状態、津波のようなそして冷たくもあるような残像シルエット、遠い風景、カットバックと跳躍、流暢さ、価値のないようで価値のある戯言、ああ、この映画の中に封じ込められることがこんなにも心地よいなんて。夢は夢のようで、パスカル・オジェとビュル・オジェの二人の関係性が世界を浚うときめきが形容しがたい、パリという理想郷を思い起こす。同じくある種、こう言ってしまえば簡単だが、物語性が破綻している『セリーヌとジュリーは舟でゆく』という傑作を撮った後のことだったように思う。どこかで読んだ朧気な記憶があるが、ジャック・リヴェットは確か、深刻な鬱状態に陥ったはずだった。『北の橋』は観ればすぐに分かるが、全編オールロケで、殆ど資金を提供する協力者がいなかったのだろう、雀の涙のような予算しかなかったようだ。ただ、この作品で、リヴェットは手法をより洗練させたのだろう、彼は限られた条件のもとで、映画的文法を高めるために奮闘した。そう、まさしく偶然性を愛し、恐らくその場に身を任せた、一種の啓示のようにも見受けられる即興演出(恐らく)でつくられているものだというのが伝わってくる。私はこの映画の内容自体には、あまり関心がない。それよりも、出口の見えない魔術的空間を彷徨い、軽やかに逃走し一緒にパリの街を散策しようじゃないか、映画を崩壊させ続ける流動と嵐、恐らく、真なるものに接近しているという開眼、そしてまがい物のポスターの目を切り裂き、カンフーによって、屈服することなき生、否定し得ない生、薄っすらと蘇る生、それは奇跡ともいえる映画的覚醒なのだ! コンクリートと雑踏に情景を抱き、ほんの鮮やかな、しかしとても愛しいと感じるパスカル・オジェの眼の中に日光が差し込む、そして、ビュル・オジェの暴力的な絶対的な連続性の中で破滅への欲望が希望と化し、楽しげで、軽やかなサーカスのような立ち振る舞い、ビュルとパスカルの感情の螺旋がエモーショナルな叫びとともに騒めく雑踏、このときめきのある楽しい会話は、物語とは全く別の形で提示される、切り裂かれ、真なるものである映画という固有の言語で構成される空間を生み出すのだ。記憶とレファレンス、闘争、そして同時に演者双方にもたらされる眩い二重の存在(母なき母、娘なき娘、その両義性を審判にかける)、映画という真理を生み出し、物語を崩壊させ続ける波動、リヴェットは新たな方法論、新たな形式を探求し続ける、曲芸的とも、魔術的ともいえる、明確な意図をもたないこの手法は恐らくリヴェットは脚本が完全に書きあがっていない状態で、撮影を始めているように私は思う。映画(ヌーヴェル・ヴァーグを回避せよ!)が彼にそのような制作手法を要求せざるを得ない、これがリヴェットの類まれなる独自性でもある。そこに、どんな脅威があろうとも絶えず自問し続け、吹きすさび荒れ狂う感情のドグマ、永遠の暴風のように見える、言うまでもなくこの唯一無二の存在たるオジェ親子がいるからこそ、成立しているのが、『北の橋』だ。ひと繋がりのしかし微細に粒子化されたイマージュの濁流と感情、「私は視界がぼやけ赤子のようにゆりかごの中で眠っていますか映画を見つめていますかそこに何がありますか」、すべてがリヴェットのヴィジョンを肯定性とともに高みにあげる。実際にとうの昔に終末を告げたであろうこの映画の語り手は、いつの日か永遠に麻痺した状態で、「不可能」という場において、死滅し、生成し、クラッシュし、破裂、ええ、むしろ事実はこうですね、映画の文法(そんなものは知らないけれど)を壊して、突拍子もない会話を思い浮かべて、現実から逸脱しているから、そして、既視感のあるものをすべて取り除くように命じられ、リヴェットの深層の奥底にあるものを掬いあげて撹拌させて、ええ、私は何も要求されませんから、世界は介在してはきませんから、結晶を磨きあげて、あれらの無時間性、想念、フィルムを通した光がふたたびそこにあるのでして、監督としての自分は消された姿で、在るところを在らぬままに見えぬ隔たりがあるとして、ナンセンスな展開、反射光、救いがたい喪失感の中で生まれる強度をともなった何かのことでしょう。その何かが映画を決定づけるものとなる。つまり、この映画は魔術なのだ。狂っている? 誰が。元テロリスト、バーダーマインホフを彷彿とさせるような、26歳を目前に恐らくオーバードーズによって急死した、パスカル・オジェはひとつの洗練されたある儀式として、この映画に身を委ね、意識なき意識を錯乱させ、現実に回帰せよと唱え続ける何者かの言葉を跳ね除けて、やがて、死へと帰還する。それは正しいのか? 分からない、同じく急死した、カラックスのミューズであるカテリーナ・ゴルべワと似たようなものを感じる、尋常ならざる存在感に私は過去の個人的な記憶を重ね合わせ、途轍もなく恐ろしいと身震いしたものだったが(それは現実の女性? 本当にいたのか? アニマなのかもしれないけれど)どこかに眠っている宝を探し求めて、空想にとり憑かれ、彼女らを監視するマックスという謎の男が、まさに彼女たち自身の潜在意識の渦中において、避けがたい「死」なのかもしれないが、とても心地の良い余韻がずっと残響し、眠れぬままに夢遊病者のように夜を散策し、やがて空白となった砂漠へと迷い込み、その足取りと時間感覚のなさはとても心地のいいものだ。何故これほどまでの強度が『北の橋』にあるのかずっと考えてはいるけれど、よく分からない、何らかの呪文と封じ込められた時間と、眩しさと煌めき、純粋な感情の整数と負数の境目(実数、循環小数、1.6666666666…)映画を知覚する運動は実際のところの二進法に由来する、timbakaka pamb ti、engaka pamb ralg pip、En fait, les chiffres sont fous !!!!!!! 低次唯物論には加担するのはやめたまえ、ましてや、マルクスのことなんてもういいじゃないか、アジビラをばら撒き頭の螺子が締まりすぎておかしくなるから、その前にこの映画に憑依され、浄化しようじゃないか、映画や文学や詩というものは結局のところ、憑かれることでしかあり得ないのだから。。そうそう、柔軟性ってものですよ。まあ、軟化しすぎても困りものですがね。綺麗に行き届いた真っ白なタイルと壁、パリ18区にあるトイレの中でどうやって一晩過ごすか、頭を抱えてしゃがみ込み、夜のパリを彷徨い、地下道をすり抜け、黒人に金をたかられて、案内された、一軒のみすぼらしい宿を見つけ、カバンから大量の本を受付でバラまいてユーロ札を数えていると、何故かスペイン語で、バモス(立ち去れ!)と安宿の主人に言われた記憶くらいしか、私のパリの思い出はないのだけれど(その後で哀れに思ったのか黒人はワインを奢ってくれたけれど、結局駅で一緒に寝て、ある目的を果たしてからモロッコに戻った)、実は私も、ナントにある墓地で秘密の儀式をしたのだが、そのことを言うと祟られるので言えないのだ…あとはアカデメイア時代(アテナイのものはまだ残っているでしょうから)の幾つかの対話を呼び覚まし、この映画を魔術的であると認識しましょう。私は、そうです、いま、まだここにいる、パリでも、ナントでも、この世でもどうやらなさそうだ。「この映画を信じないものは、何も経験することが出来ない、経験が出来ないものは、何も知覚することが出来ない」。薄くてブラーがかかった膜から見えるフィルムは前人間がもたらす偉大なるひとつのあるヴィジョン、イマージュが創られる以前のある感覚と存在を伴なったひとつの連続性、出鱈目に、バラバラに、フィルムを引き千切って、あなたの声がもう生きることはないと螺旋状のスクリーンは移り変わる、白は不変、緑は救済、青は夢、黒は確信、赤は受胎、黄色は啓示、ここで奇跡的に成立した物語を破壊するという一つのリヴェットの方法論を認めよう。避けがたい死はもうとっくに訪れているだろうし、古来不変の価値、そう、火を見つけたものは、きっと最初の人類、そして、破壊を夢みたのだから、映写機は実体を喚起するものとして用いられるが、創りだしているのは、まさしくユイスマンスの「彼方」のような幻想なのか? 或いはルイス・キャロルの鏡の中に映っているように見える、マリーとバチストなのか? ゾフィー・ショルのような運命に回帰する? また、また、ご冗談はおよしなさい。取調室はもう御免ですよ。政治犯ならまだ恰好がつきますけどね。オカルティズムおよび魔術とこの映画の類似性、当然クローリーのことなんて私は口にはしませんよ、アルトーの「新たなる存在の啓示」だって、当時は確信を抱き真実を探求するためだったにせよ、過ちだったと本人が言うのだから。「色不異空、空不異色」(それなら般若哲学のほうがまだ正当性がありそうだ)、マニ教的二元論のように幾つもの回帰してきた「神秘」の宣言を最も私は錯乱させながら自身を溶解していくことになりそうだけれど(その未来は避けたいのだ)。そう、イマージュはそれを見る私と、その距離によって図られる(神との距離を当ててみたまえと言ったパスカルのように)。
ただ『北の橋』でそれは空間上に直立して、垂直に比例し、魔術の放射的マテリアルで成立した、終始情報が欠落しているある種断片的ともいえる、このフィルムをアウグスティヌスの「神の国」(歴史的に超越し、永遠なる不変性を兼ね備えた)のようにその愛おしさをただ、ただ、今日も抱きしめる。

ただこの美しい
彩られた
結晶の
輝きを放つならば、「映画」という装置は辛うじて機能するでしょう。

では、御機嫌よう あなたがた
明日は永遠に来ませんから



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北の橋 Le Pont du Nord
1981年 / フランス / 127分 / 配給:マーメイドフィルム、コピアポア・フィルム / 監督・脚本:ジャック・リヴェット / 脚本:ビュル・オジェ、パスカル・オジェ、シュザンヌ・シフマン / 台詞:ジェローム・プリウール / 出演:ビュル・オジェ、パスカル・オジェ、ピエール・クレマンティほか
© 1981 Les Films du losange
4月8日(金)~4月28日(木)  ヒューマントラストシネマ渋谷にて開催の「ジャック・リヴェット映画祭」で上映
公式サイト
 


原智広

1985年生まれ。中卒。作家、翻訳家、脚本家、映画制作。訳著に『戦時の手紙、ジャック・ヴァシェ大全』(河出書房新社)、論文に「光学的革命論」、「仮象実体的社会と電子的スペクタクル性、その全貌への憎悪」 。映画『イリュミナシオン』『デュアル・シティ』(共に長谷川億名監督)の原作、プロデュース、脚本。「ル・ポン・ド・ソワ」などの媒体で映画批評、フランス文学について連載中 。
仏・米・露の翻訳文学から物故作家に纏わる創作、死や光をめぐるエッセイ、写真・ドローイングまで、「死者たち」や「光」をテーマに編んだ全作初公開のアンソロジー「イリュミナシオン」が発売中。

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