映画音楽急性増悪 第28回

今回の虹釜太郎さんの連載「映画音楽急性増悪」は『侵入者』『ホワイト・マテリアル』ほかクレール・ドゥニ監督による6作品についてです。

第二十八回 仕事



文=虹釜太郎
 

『侵入者』(原題 "L'intrus" 2004年/クレール・ドゥニ)
  後半で主人公には話し合いで決められた/でっちあげられた息子が……そのことには驚くしかないが、その驚きは主人公の犬を託された/任された/押しつけられた女の姿にも最後に重なる。
  フランス/スイス国境から韓国、タヒチに移っていく主人公だが、いずれの移動にもその瞬間には人々の正面からのアップどころか、人々さえも映されず、それは進水式の不可解な祝い玉の紐たちの行く末だけをひたすら映し、空へ…という流れにも。
  音楽は移動の隙間に流れるだけ。そして血の無縁ながら結ばれる/拒絶される関係がそこにあるが、それを可能にしているのは金であり、それだけでない。
  ラストで船の看板に横たわる彼の体調は万全には到底見えない。しかしとことん弱りきっているようにもまだ見えない。彼の身体は他人の心臓が移動し、そのまさぐりの途中の不明の場で、彼も移動していく。
  胸に残った傷痕に指をすべらせる動作。その繰り返しは韓国での目の見えない女性から教わったようにも見えるが、その限界は映画が終わった後も続く。
  カメラは草叢の中で執拗に真上を向く。冒頭でふたつの窓から赤ん坊を映し、草むらで上を向きがちで、人々をあまり映さないこの視線は何なのか。進水式の場面でカメラはより多くをとことん映さないのはなぜなのか。そのことを『侵入者』はやりきる。
 
 
『ホワイト・マテリアル』(原題 "White Material" 2009年/クレール・ドゥニ)
  何度も塵で画面が見えなくなりそうに。ヘリコプターの巻き起こす砂塵で、建物が燃える煙で。
  映画は常に移動する人々を描くが、イザベル・ユペール演じる女性だけが、留まろうとする。皆が去って行く。留まるためにユペールはあちこち移動するけれど皆が去って行く。金ができることも限られている。諦めのメロディが何度も繰り返される。
 アフリカでの内戦(国ははっきりしない)だが、ラジオDJはレゲエをかけるが排除されてしまう。
  アフリカ某国での内戦とはいえ、その原因は民族紛争か宗教をめぐるものか代理戦争か資源をめぐるものかはわからないが、収穫前の珈琲農園は崩壊してしまう。1884年ベルリン会議でアフリカが分割され植民地支配がはじまり、それらが段階的に終わっても内戦が他の地域とは異なるかたちで次々と続き、本作で髪を刈った息子のような事態はどれだけあるのかはわからないが、本作でユペールが最後に見た農園は、金ではもうどうにもならず、家族はばらばらになり、それらの修復がどうなるかわからないまま、何度も放浪する馬が途中まで何度か映される。
  スーダン、チャド、リビア、マリなど現在も内戦が続くアフリカのうちリビアは2011年から内戦が続き、同年の「アラブの春」により新政府発足も2014年に分裂する。本作が作られた後も内戦はアフリカでは続いている。リビアは世界各地植民地解放戦線支援で各地のテロ集団を軍事的経済的に支援してきた。
  リビアは長いあいだ西洋の標的にならない残った内陸部の空き地と化していた。シドラ湾ビンジャワード再制圧で約42年間続いたカッザーフィ体制は崩壊、リビアでの内戦は収まったか。本作の舞台の候補にリビアがスーダンがチャドらが入っていたかはわからないが。またアメリコ=ライベリアンや開花黒人(noirs civilises)が映画にどれだけ出てるか、シエラレオネとリベリア(ともにアメリカ由来黒人解放奴隷に植民地化された)らがどれだけモデルになっているか、サヘル地域がモデルになっているかどうかもわからない。
  本作で息子の胸を狙った矢からさらに加速する崩壊は、あの息子がいなければ映画にはならず、放浪する馬がいなければ人間だけが困惑し死んでいくようだ。
  マリー・ンディアイとの共同脚本。ンディアイはピティビエ生まれ。母がフランス人、父がセネガル人。ンディアイとどのような作業が行われたのか。
  映像でいちばん気になったのは家族の家が知らぬ間に複数に共有されていることと電源(の不在)。それは何度も描かれる。息子が菓子を子らにばらまいたのもまたその子らが死ぬにしてもそのようなことがあったのはその複数の共有によるもので、それら共有は内戦の地ゆえに…
  その地に留まろうとするユペールと去る皆ばかりが顧みられる本作だが、家族の家が一時であれ複数に共有される事態の出来は内戦があったから。しかしとはいえそれは続かない。
 

『35杯のラムショット』(原題 "35 rhums" 2008年/クレール・ドゥニ)
  タクシー運転手ガブリエルも住処を探している青年ノエもリオネルには歓迎されておらず、しかしジョセフィーヌは旅立ちを決意する(ラストのふたつめの炊飯器の登場)。
 Tindersticksによる音楽は最後まで違和感があり、それは『パリ、18区、夜』(原題 "J'ai pas sommeil " 1994年/クレール・ドゥニ)における音楽の違和感とも違う。
  リオネルはガブリエルもノエも歓迎はしていなくともジョセフィーヌはどうだったかは全編通して描かれるが、ジョセフィーヌはリオネルを捨てることができないまま関係を続けている。リオネルとジョセフィーヌの二人の関係は、到底ひとことでは形容できぬ曖昧で執拗でそれを取り消す力がずうっと出てこない。ついにジョセフィーヌたったひとりの行動があまり映されないままに映画は最後にふたつめの炊飯器を迎える。
  ジョセフィーヌひとりの行動でなく上記四人が不可抗力でダンスを踊ることになる場がリオネルとジョセフィーヌの別れのはじまりとなるのはたしかだが、その後の車での移動で子らが帰宅する路の合間に留まる車内での刹那が別れのはじまりとしては弱くとも、このような刹那はもう訪れない。最後に置かれるふたつめの炊飯器がなければ本作は成立しないが、子らが帰宅する路の合間に留まる車内での刹那とそこから暗くなる画の弱さが本作を生存させている。
  リオネルとジョセフィーヌの関係はずっと穏やかで深いようだがそこにはずっと違和感があり、その違和感は本作での音楽たちへの違和感とも違う。だからわたしは本作を観れていないだろう。

 
『美しき仕事』(原題 "Beau Travail" 1999年/クレール・ドゥニ)
 「ドゥニ・ラヴァン演じるガルーという登場人物と彼の思い出、そして外人部隊という強力な戦闘部隊についての映画を撮ろうとしたとき、戦闘シーンのある戦争の映画としては表現できないと。そうでなく戦闘的動きの緩慢なる変化としてのダンスを通して表現したいと思ったのです」「私と働くとき俳優は完全に自由でなければならない。スケッチも見せません」クレール・ドゥニ
  シーンの頭から終わりまでを一連で収めるマスターショットを保険的に撮り、次にそれぞれの寄りの映像を押さえていくという主流の撮影方法を批判するドゥニ。この機械的なやり方では恐怖感や危機感や不安が消えてしまうと。何かを映さないと判断をすることが重要。それはある意味リスクを負うこと。その緊張感がなにかを映画にもたらしてくれると考えている。
  そのやり方は怖いが、だからこそ戦闘シーンに溢れた戦争映画ではなく、戦闘的動きの緩慢なる変化たちによる映画が完成した。
  撮影直前にやつらは部隊のイメージを損なう映画だと判断しジブチに来るなと言ってきたが映画は完成している。
  中心に配された楽曲たちがなくても映画はできたかもしれない、とは思えないが、その配置は絶妙。
  兵士たちが輪になっている時の楽曲。オペラ。ニール・ヤングの「セーフウェイ・カート」「リズム・オブ・ザ・ナイト」。
  これらの音楽がまったくない『美しき仕事』は成立しないのか、といえばそうとも思えない(反論ばかりだろうけれど)。音楽がなければこのフィルムにはより膨大な長い時間がさらに必要だったか。これらについては大寺眞輔と樋口泰人による対談「ボリュームへの抵抗」という対談がある。 
  ヘリコプター自体は映らず、軍服の洗濯の干し時間は長い。軍服の色は皆同じでどれがだれの服なのか…
  センテンへのくすぶり。ギャループの鬱積。センテンの圧倒的無言。しかし観終わった後に残るのは戦闘的動きの緩慢なる変化たちの連続。それは音楽がなければどのように残っただろう。中盤のオペラを含む音楽たちがあるからこそ本作は俯瞰と身近な視線とが共存して豊かになったという感想もある。たしかにオペラの効果は強かった。しかし鉄板の「リズム・オブ・ザ・ナイト」の導入ははたしてどうだったのか。何かを映さないと判断をすることが重要だという監督の言葉。
 
 
『ネネットとボニ』(原題 "Nenette et Boni" 1996年/クレール・ドゥニ)
  ベッドに横たわる男の背中とその後の屋外とその後の眠りのくねる映像が皆同じ色をしている。
 △△△△を見ている◻︎◻︎◻︎◻︎が撮られる。
  パン屋の女房を見つめている兄が撮られるというように。
  母の死後、移動式のピザ屋で働いている兄のところに妹が帰ってくるが、兄はパン屋の女房を犯す妄想ばかり。その女房に微笑むギャロが怖くないはずなのだが怖くそれはともかく妹は建物ごし、扉ごし、そして暗闇から突然現れ、妊娠していることを兄に告げる。 
  妹は今度は草叢ごしに寝て、パンが床に並んでいる。
  彼らは兄妹だがカップルのようで、それは『35杯のラムショット』の父娘がカップルのようであり過ぎたのでも繰り返される。
  合間合間に映るうさぎと微笑むだけのギャロが怖く、パン屋周りの映像や音楽はどれも馬鹿みたいだがそれは何度も繰り返され、それはネネットとボニの一見静かか怒りかの映像と馬鹿馬鹿しいほど違い過ぎ、妊娠五ヶ月でもうおろせなくなってからの十五歳の妹の不安とはっきりしないずうっと続く不安とそれに続くパン屋夫婦のバカ幸せ、パン屋女房とのお茶シーンでの兄の戸惑いの視線のいちいちとその後のピザこね異常の悶えもみ。そしてうさぎ。兄と妹のずれは映画が終わっても解消はされず、またこれからの新生児と母親とのずれも。本作にはフランス語以外の言語がいくつも現れては消える。
  妹の腹に顔を寄せる兄、その際の妹の表情とそれにあわさる音楽X、その音楽Xが観終わった後に、乱暴に奪われた赤ん坊との後に(その時に映画では別の音楽Zが静かに流れているのだが)くすぶり残る。このずれこそが。
 
 
『ガーゴイル』(原題 "Trouble Every Day" 2001年/クレール・ドゥニ)
  悲しさや絶望も愛に含まれている。という監督の言葉。
  執拗過ぎる肌の接写。身体の一体どこが映っているのかわからない映像。
  性行為中に相手を死なせてしまう衝動。その治療方法を探すためにパリを訪れるショーン夫婦。
  コレとレオ。ショーンとジェーン。二組のカップル。残されるレオ。ではジェーンは? ジェーンは最後に何を目撃したか。
  コレとショーンの相手の殺し方(愛し方)の違いは男女差よりは個体差か病の進行差かそれとも…
  何かの病いが末期的な症状で、監禁されながら、または自らを半ば監禁に近い状態にしながら毎日を暮らしている人々は世界中にいる。性行為中に相手を死なせてしまう衝動はなくとも、自ら死ぬことでしか解決はないと判断する人は多い。本作はそんな人々に解決を与えない。
  コレとショーンの相手の殺し方(愛し方)の違い。コレとショーンのファーストコンタクトは、コレ自身が監禁されている自宅の階段から血塗れで(自身が先ほど自宅への侵入者と性行為するなかで殺した相手の血で)降りてくるコレとそれを影から見るショーン。そして次の瞬間にはふたりは抱き合い(というよりコレがショーンにしがみつき、ショーンがコレをおさめようとしているかに一瞬)、次の瞬間にはショーンがコレを殺し、次の瞬間には火の手がコレを燃やし、と同時にレオが部屋に戻ってくる。ショーンがホテルのメイドを性行為中に相手の性器を強く噛み切り殺す(愛す)のはその後で、ショーンとコレは同じ病いとはいえ、かなりの欲望の抑制の差がある。ショーンの嗅覚がかなり鋭いことも犯行前にわかるが、相手の殺し方の違いと欲望の抑制力の差、そしてその他の差は本作を何度も観るとより強く気になり、ドゥニの他作よりかなり抑制的な音楽の使い方もそれでもなおそれらは暖か過ぎ、コレは性行為中に相手を出血させて相手が死のうとしている中で相手の血をぺろぺろとなめ狂騒状態はしばらくおさまらない。またコレが監禁されているとはいえ、常にここではないどこかを追い求めていると同時に死にたいと考えているのに対し、ショーンはまったくそうではない。映画の最後はショーンとジェーンが抱き合い、その時にジェーンがなにかに気づいたところで終わったが、映画内では深く描かれなかったコレとレオの出遭いとコレが家から抜け出して愛した後の死体処理だけでないレオとコレが膨大に費やしてきた時間たちが気になる。
  繰り返し観ていると、悲しさや絶望も愛に含まれているという監督の言葉は、性差だけでなく他にもいくつもの差がそこにはたしかにあるという当然のこと以外のことも無数に含むだろうことがコレとショーン、そしてあらためてレオとジェーンから伝わってくる。それは鈍い伝わり方ですぐにばらばらに。しかしレオはまた別のコレやショーンたちと出遭うかもしれない。レオのTrouble Every Dayは映画で終わったとは思えない。
  映画はジェーンの異様な視線で終わるが、レオは最後に何を見たかがずっと残る。レオはコレの燃える死体をたしかに見たが、その後だ。映画では即座にショーンの移動になってしまうが。