Television Freak 第67回

家では常にテレビつけっぱなしの生活を送る編集者・風元正さんが、ドラマを中心としたさまざまな番組について縦横無尽に論じるTV時評「Television Freak」です。今回は江藤淳の「閉された言語空間」というテーゼをもとに現在のテレビについて思考。さらにドラマ『東京放置食堂』(テレビ東京)、映画『MORE モア』(バーベット・シュローダー監督)のミムジー・ファーマーなどについて記されています。
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「閉された言語空間」

 

文・写真=風元 正


江藤淳の仕事とここまで長くご縁があるとは、われながら不思議である。没後20年の2019年に平山周吉さんの大著『江藤淳は甦える』を担当しても、まだまだ続きそうな気配だ。生前、5度対談の末席に坐り、酒も呑んだ。活き活きしたしゃべりを起こせば目覚ましい文章となる強靭な頭脳に敬服しっぱなしだった。喜怒哀楽も率直に表れて、座がぱっと明るくなる。しかし、表情にふっと絶対の孤絶ものぞく。ばか正直だが悪人でもあり、大人か子供かわからない。もちろん若造に見せない貌もある。
1988年、大江健三郎との歴史的な「和解」とされた座談会が初対面で、大江の「本妻は文学、情婦は文学で生きてきてもね、三十年間、小説をやっているとね、何か積み重なっているものがあるね、それを人生と呼ぶね、僕は」という発言に対し、「それはそうだな」と膝を叩いて頷き昂る姿は昨日のことのように覚えている。 
しかし、文藝家協会の理事長を務めていた当時は、狂気を帯びた危険な存在として扱われていた。なにしろ、『自由と禁忌』などで丸谷才一、山崎正和、中嶋嶺雄、粕谷一希、百目鬼恭三郎の仲間褒めによる文壇・論壇政治を徹底的に批判していて、論壇では完全に孤立していたのだ。その論拠になる認識は、「閉された言語空間」である。ここは、江藤さんご自身にご説明頂こう。
「橋本(龍太郎)さんや、自民党幹事長の加藤紘一さんの世代以下になると、その意識の最下層にアメリカによる占領の影響が刻印されています。私が『閉された言語空間』で指摘したように、教育とマスコミを押さえるのが、アメリカ占領軍の巧妙な方法でした。その二つを押さえておけば、実際の占領が昭和二十七年に終ったあとも、いつまでも占領の効果は消えません。占領中に厳格に検閲し、かつ規定しておけば、教育のカリキュラムや価値観は拡大再生産されて次々に伝えられていく。そこで勉強した人間が教師になって、また次の世代の生徒に教える。現行憲法を習った人間が官僚になれば、官僚は基本的に日本国憲法が自分たちを官僚にしてくれた憲法だと思って、それに対する遵守義務を持ちますから、憲法を超える発想をすることができない。政治家も法制局長宮の言うなりになって、そこから一歩も出ることができない。マスコミも占領下での検閲のあとに、自己検閲が始まって、憲法から出ることができない。あとは新憲法、新教育課程の中で勉強した秀才たちが、自分で気がつかないうちに、戦後民主主義という占領中に規定され、日本の言語空間の中でしか通用しない価値観から出られなくなっている」(「日本・第二の敗戦」)
いやいやいや……。正直、これはまずい、と思い切り引く言い分だった。そして、われわれは豊かな「民主主義国家」で「言論の自由」を謳歌していると信じていた。ところが、40年たったらどうだろう。試みに「配慮」「忖度」などという思考癖を「検閲」と置き換えてみて下さい。今や江藤の批判した一億総「検閲」社会が目前に現出した。そして、江藤の指摘する「自己検閲」は、「空気を読め」という強要に転じ、すべての病いの源となる。
占領軍でも何でも、どこかに検閲官がいて、これは却下、とバツを付けてくれれば、伏せ字でも痕跡は残る。検閲の余白を探すこともできる。しかし、明文化されない暗黙のタブーの共有を強制される社会では、価値基準が限りなく曖昧になってゆく。いったい、「空気」とは何だろう。突き詰めればある小集団それぞれの政治的な力関係にすぎない。そして、自然と権力者の意向を先回りする「自己検閲」に長けた人々が重用される社会ができあがる。
私たち業界人は当時、江藤の「戦後批判」を読まなかったことにし、たとえば「漱石論」などの中途になっている仕事の完成に力を注がないのかと、「小林秀雄の後継者」のご威光におどおどしながら訝しんでいた。しかし、時を経ると、ボンクラなのは私たちの方だった。


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昭和のテレビは、なぜあれだけ鷹揚だったのか。こちらも、がんじがらめの「閉された言語空間」になるのは、スポンサーを必要とする仕組み上やむを得ない。自民党総裁選とくらべて、総選挙についてふれる時間があまりに短いと思っていたら、各党・各候補者を平等に扱わないとクレームが付くので、制作側にとっては面倒な案件なのだという。端的にいえば、自民党が批判に対して口うるさくなり、各党右に倣え、という話だろう。コロナワクチン接種券配布の芸のない「平等」主義には呆れたが、配慮を尽くしたとしても何かの主張を込めればケチがついて炎上する可能性が大なのだから、ひたすら無難を貫くしかない。「悪平等」という言葉はどこへ行った。キャスター久米宏の床屋政談が政権交代の立役者となった時代はもう来ないだろう。
しかし、京王線の事件のジョーカー男が青い背広姿で電車の座席で煙草をすう画像がイヤというほど流れたのを見ても、突発的な出来事の映像が求められていることに変わりはない。視聴者の撮影した動画が使われるのも時代である。送り手側もコンプライアンス遵守の隙間を必死で探しており、安住紳一郎と香川照之が司会を務める『THE TIME,』の“列島生中継”は攻めている。私はたまたま、十和田湖のサウナで汗だくになった後、17度の水温の水につかる青森テレビの新名真愛アナウンサーと、大分放送の甲斐蓉子アナウンサーが鍾乳洞の水風呂に足を踏み外してずぶ濡れになった日に見ていた。芸人でない人がハプニングに挑戦するのは初々しさがあって、香川照之が「こういう番組なんですか」と絶句する瞬間に爆笑してしまった。前日はCBCの若狭敬一アナウンサーが池に落ちたようで、あまりひどい仕打ちでないだけ愉しい。最近は動物の赤ちゃんの企画などが増えて、かなり落ち着いてきたものの、いずれまた何か起こしてくれるだろう。
香川照之がTBS敷地内でホタルを育てる企画も、カワニナを見つけたりして本気度が高く、来年の夏が待ち遠しい。『ぴったんこカン・カン』では、タレントを巧みにあしらいながらただ歩くだけで画面を作る芸を見せ続けてきた、軽く腹黒い「テレビの申し子」安住アナが朝のテキパキした時間帯にどういう技を繰り出してくるか。弁護士と聞いただけでうんざりするコメンテイターがいない番組構成はさっぱりしていて期待できる。香川の堂々たる万能の芸達者ぶりが、生放送ゆえに時折ゆらぐ瞬間があるのもいい。まだ視聴率は低いけれど、どう移行してゆくのか、なるべく早起きして確かめたい。
 

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M-1やキングオブコントは審査の現場だから、必死さがしんどくて避けているものの、お笑い芸人の変遷は遠眼で眺めている。どうやら世代交代が進んでいるようで、今さら取り上げるのかと言われそうだが、千鳥とかまいたちの番組ばかりが目立つ。千鳥のノブは『競馬血統研究所』という番組でかなり前から見ていて、人柄の良さに感服していた。もうひとり、名は書きたくないのだが、吉本新喜劇の座長でネトウヨの方が、指南番の競馬評論家・亀谷敬正の意見をまるで聞かずデタラメな馬券に大枚をはたき、外れて暴れるというサイクルで目立とうと懸命でシラけるのと比して、ノブはきちんと亀谷の予想に乗って穏当な馬券を買い、座を盛り上げながらフツーの競馬ファンのように慎ましく振る舞っていた。平成ノブシコブシの吉村が3連単1点で的中させ665万稼いだのはハデな資質の現れとして見事だが、ギャンブル場で芸を見せるのは難しいもので、ノブの醸し出す円満な雰囲気は只者ではない。
11月7日に放映された『超豪華!テレ朝バラエティMC芸人 夢の共演スペシャル!!』は興味深いトークが満載だったけれど、一番印象に残ったのは、ノブの子供が運動会で、ゴールする前に仲間を先にやって、2位を選んだというエピソードだった。ノブとそっくりという話で盛り上がり、よく生き馬の目を抜く芸能界で生き残れるものだが、左に立っているのが「島育ち」の大悟である。水木しげるの漫画で大活躍しそうな、「クセがすごい!」どころではない強烈なキャラクターだから、ぴったりの組み合わせである。2人は高校の同級生で、サラリーマンだったノブを大悟が芸人の世界に引きずりこんだという。最後の三本締めの音頭をとったのは最年長のサンドウィッチマンの伊達。サンドウィッチマンのコンビ仲の麗しさが芸人の世界を変えた。かつては仕事が終わったら口も利かない剣呑コンビだらけだったから、変われば変わるものである。もちろん、千鳥とかまいたちのコンビも仲がいい。
『かまいガチ』で、下積み時代のメシを紹介する回があり、濱家の「かさましあんかけラーメン」と「半額海鮮丼」は美味しそうだった。そして、ザ・マスミサイルの「拝啓」を聴きながら「宇宙人」の山内も泣いて、「ただただエエ話してるやないか」と絶叫する濱家は感動的だった。濱家はギャグの切れ味が鋭く、どんなひどい話をしても清潔さを保っているのがありがたい。仲野太賀がゲストの『千鳥かまいたちアワー』では、卓球の時だけマジなノブの「母乳」サーブに笑い、濱家が思ったより背が高く足が長いのに改めて驚いた。『いろはに千鳥』の最終回は「第2回豚バラびしゃがけ選手権」で、北海道の和弘食品の何種類かのタレでアグー豚の焼肉をトータルテンボスの2人とただ食べるだけだけれど、藤田が感極まって「楽しい時美味しい時いつもお前らが横にいる」と叫び、千鳥の個性を言い当てていた。いやホント、和弘食品の「天丼のたれ」は入手したい。
千鳥とかまいたちはNSC出身である。お笑いを学校で学べるのか、と最初に疑問を持ったけれども、小学校1年生でプロ野球選手を夢みた子供が、リトルに入り、野球部に入り、と同世代の子に揉まれるうちにいつの間にか選別されてゆくのと、お笑いの世界も案外同じことなのかもしれない。横並びに教育を受け、劇場に出ればお互いの力量ははっきりする。お笑いを志す仲間の内でも、山内や大悟と比較すればたいていの人は常識人の部類に入る。ノブも「笑い飯」の2人の24時間続くしごきに耐えて技量を磨いたそうだし、濱家は「劇場番長」として恐れられる巧者だった。お笑いの人々は、徹底的に自らを鍛えなければ世に出られない。最近、若手芸人のギャンブルの借金は定番のようだが、横山やすし的な無頼とは風合いが違う。今はどの職業でも成功しそうな人々がトップに立つ。
流行りモノを追っかけているだけと笑われそうだが、ヒコロヒーの『キョコロヒー』はとても面白い。というか、芸人と一緒でもまるで気にしない齊藤京子(日向坂46)が「どちゃくそカワイイ」とか言っていてすごい。アイドルも色々になってきて、微妙に噛み合わない話をすごい勢いで無理でも続けているのが笑える。ヒコロヒーはPC時代のトップランナーで、いわゆる「女芸人」のパターンを完全に外している。日々の女子トークのテンションで尖ったことをオブラートに包んで発信し、品の良さを失わない。お笑いの売れっ子たちは、「閉された言語空間」の境界線上を早足で歩いている。


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テレビドラマはたくさんあったが、『おかえりモネ』の及川新次(浅野忠信)が息子の亮(永瀬廉)の船の出港に手を大きく振る瞬間に勝るものはなく、『青天を衝け』が薩長中心史観を打破して、徳川慶喜(草彅剛)の偉大さを知らしめ、『婚姻届に判を捺しただけですが』で坂口健太郎がまた「菅波」をやっていることも含め、NHKの進撃が目立つばかり。
しかし、この無聊を慰めてくれたのは『東京放置食堂』だった。片桐はいりが裁判官という職業に疲れてたどりついた大島で、島で育った少女・小宮山渚に出会い、ひょんなことから渚が祖父から受け継いだ居酒屋「風待屋」と手伝うというお話。で、渚役の工藤綾乃がすばらしいのだ! くりっとした挑発的な瞳に伸び伸びした四肢、白いTシャツと短パンで澄んだ海に飛び込み、ちょっとやさぐれた風情で自分で釣った魚を包丁で捌く。幼い頃母親と生き別れ、斜に構えた態度が身についているが、火山島である大島の豊かな自然の中で育ったから、こんなに伸びやかなんだ、と錯覚してしまう。後輩女性に写真を見せたら、「ゴールデン街の超アイドルみたい!」と喚声を上げられた。
大島でも、より小さな港の「アンコ椿は恋の花」の舞台・波浮港側が中心で、思い切り寂れているのが心地いい。いけすかない東京人が店にやってきて、田舎の大島をバカにして、焼いたくさやを出されて改心するという一幕が繰り返されるだけの話なのだが、印象に残るのはむしろ島の料理や風景で、心が洗われる。私は大島に一度旅行したことがあって、再訪したい土地NO.1というくらい好きなのだが、東海汽船にとび乗りたくなってきた。
私がついついテレ東のドラマを取り上げてしまうし、局の中高年向け戦略にハマっていることは承知している。しかし、低予算の制約を逆手にとった振れ幅がテレビの力を生かす。監督は、ここ数年で最も印象に残るドラマ、これもテレ東の『日本ボロ宿紀行』のアベラヒデノブで、私はこの人の撮る映像が好きなのだとわかった。





『東京放置食堂』で残念なのは、片桐はいりが初主演連続ドラマで、とてもいいのは承知の上で、工藤綾乃をもうちょっと活躍させて欲しかった。実際、売れっ子脚本家役の橋本マナミに頼まれて、片桐はいりと母娘の役を演じた芝居は、真に迫っていた。工藤は2009年の「第12回全日本国民的美少女コンテスト」のグランプリ受賞者で、由緒正しい女優なのだが、芸能人ぽさがあまりない。けど美人。その雰囲気は、最近見て腰を抜かすほど驚いた『MORE モア』のミムジー・ファーマーにちょっとだけ似ている。
『MORE モア』は、1960年代末のドイツから、ヒッチハイクでパリにやってきた学生が麻薬やフリーセックスに溺れてゆくあの時代らしい映画である。しかし、破滅に向かっているはずなのに陰惨な印象はゼロで、ただあっけからんとマリファナやヘロインやLSDが使われて、美しい海に女神ミムジー・ファーマーが真っ裸で泳ぐ。あの見返りを一切求めぬ豊かな裸身はただごとではない。ほとんど無造作なカメラゆえ、パリやイビサ島の街角が生き生きと捉えられていて、ああ、ここに「人間」がいる、と感動する。元ナチの麻薬の元締め役のハインツ・エンゲルマンのしっかりと肥えた腹構えと細い眼が、快活な「悪」を表象している。ここまで無造作に作られた奇跡的な瞬間を、今の日本で撮ることはできないものか。工藤綾乃主演で。
 

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『MORE モア』 新宿シネマカリテほか全国順次公開中


 
江藤淳は、丸谷才一の書下ろし『裏声で歌へ君が代』の書評が発売後すぐに各紙に出て、朝日の一面で、旧制新潟高校以来の同級生、編集委員・百目鬼恭三郎が取り上げたことにつき、「それじゃあ、やっぱりグルだ!」という読者を登場させた。そして、そうした「グル(=仲間褒め)」の輪を最終的に「オロチX」と呼んだ。そして、主体が曖昧でノーベル賞の受賞活動のためとしか思えぬペンクラブの「“反核”決議」に異議を唱え、理事30人のうちたった1人反対票を投じた。江藤はこう論じる。
「オロチXを構成する人ないしは人々は、あるいは現にペンを用いて生計を立てている人ないしは人々であるかも知れない。だが、この人ないしは人々が、いかなる意味合いにおいても文学者であり得るはずがない。なぜなら、すでに述べた通り、オロチXとは多目的な権力構造だからである。そして、ペンを用いて生計を立てていようがいまいが、人が“排除”の論理を強行し、そのことによって権力を維持し、あるいはより多くの権力獲得を志向しはじめたとき、その人ないしは人々は、もはや文学者でありつづけることができない。なぜなら、言葉の正確な意味においてそれは政治であり、決して文学ではあり得ないからである。
逆に文学とは、決して権力構造にはなり得ないものである。そこでは文章が、作品がすべてであり、それを支える個々人の肉声以外の権威はあり得ない。身内から衝き上げて来るこの生身の肉声を、文字に定着したいという衝動がうずきつづけるかぎり、文学に関わる者は“排除”されようが、孤立しあるいは追放されようが、ましてその所信を検閲によって黙殺され、世間の眼から隠蔽されようが、やはり孜々として書きつづけなければならない」(「ペンの政治学」)
敵は丸谷才一のお仲間どころではなく、文壇全体に広がっている。渾身の議論は「仲間褒め」の輪のおこぼれにあずかれぬ嫉妬という下司の勘繰りで解釈されてきたが、江藤ほどフェアな批評家はいない。お金も十分稼いでいる。柄谷行人に「戦後で小説が読めるのは、平野(謙)と江藤(淳)とオレだ(笑)」と胸を張られたことがあるが、『全文芸時評』を読めば、先入観も党派性もなく、公平な視線で大家も新人も平等に批評しているのがわかる。だから「歴史」が生まれる。爆弾を落とされた人はいい迷惑かもしれないが、芸の世界ならばそれが当然ではないか。江藤の批判は黙殺されて丸谷流が常識となり、「仲間褒め」が当たり前になった業界では、「数字」か「賞」という無味乾燥な指標しか外部と共有できない。言葉を使って表現する者たちが言葉により公平かつ率直な評価を示すことができず、内部の「政治」しか表に現れることがないのならば、世間の信頼を失うほかない。
もちろん「閉された言語空間」がいきなり消滅するわけもないし、「肉声」が聴こえなくともちょっと窮屈なだけ、とやり過ごされればおしまいである。発生した契機は確かに占領軍の検閲だろうが、ここまで広がった原因は単純ではない。もはや自主憲法の制定ぐらいでは何も変わらないだろう。中国やロシアのように検閲を前提とする国の勢いが盛んな令和の世に、わたしたちはどうすべきか。江藤の文章を読み、「後世に知己を求めるような仕事」という言葉をひさびさに思い出して、ほっとした。そうすればいい。「仲間褒め」で業界を制圧していた人たちの仕事など、死後10年もすれば弟子筋でさえ言及せず忘れられる。私は、日本での孤立どころか留学先のアメリカでも演壇で震えながら占領政策の批判を展開した江藤の勇気に励まされている。ミムジー・ファーマーの裸身にも。
柳家小三治師匠の訃報にはがっくり来た。3度、句会でお目にかかることができ、「名人」と呼ぶほかない懐の広い人間性に触れて襟を正した。「みっちゃん」は美智子妃殿下。自伝で宮本武蔵と鞍馬天狗の両方が自分の中にいるというが、2通りのスタイルで真摯に落語を隅々まで追及するうちに天井を突き抜けた。いらっしゃるだけで巧まずしておかしいのだが、意味なく笑うと叱られる。次の高座に上がることを楽しみに静かに亡くなられたのだから、さすがとしかいいようがない。またひとり、「閉された言語空間」から自由に逍遥する粋な人がこの世を去った。ここで、小三治師匠が「天」に選んで下さった句を紹介することを許されたい。
 
 恋をして紙の幟で鬨の声


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風元正

1961年川西市生まれ。早稲田大学文学部日本史学科卒。週刊、月刊、単行本など、 活字仕事全般の周辺に携わり現在に至る。ありがちな中央線沿線居住者。吉本隆明の流儀に従い、家ではTVつけっぱなし生活を30年間続けている。土日はグリーンチャンネル視聴。