宝ヶ池の沈まぬ亀 第61回

青山真治さんによる2021年6月下旬から東京五輪の開会式が行われた7月某日までの日付のない日記です。前回から引き続いて通院と短期入院で治療を受けながら、『たけくらべ』の写経や『燃えあがる緑の木』他の読書を進め、日曜日のルーティンとなったラジオ番組で“ポチり”に拍車がかかる日々。その合間に駆けつけた「Peter Barakan's Music Film Festival」で見た『BILLIE ビリー』(ジェームズ・エルスキン監督)と『ランブル 音楽界を揺るがしたインディアンたち』(キャサリン・ベインブリッジ監督)、さらに『ブラック・ウィドウ』(ケイト・ショートランド監督)や『青べか物語』(川島雄三監督)についても。


61、「耻」「疵」そして「痛苦」とともにある入道雲の集中

 

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文=青山真治


某日、午前三時半に目が覚めてしまう。ここ数日まとまった睡眠が四時間ほどに短縮され、あとはちょこちょこうたた寝することで賄う形。そういえば眠りに落ちる直前だから十時半ごろか、外で激しいクラクションが鳴っていて、あれが巷で懸念される暴走族かと認識した。希望があるとしたら深夜、晴海の選手村を彼らの爆走で気の毒にもアスリートら寝不足・体調不良から無残な結果、という「団の面目丸潰れ」状態が最終的に残された自縄自縛の可能性として賭けてみるのはどうか。『AKIRA』最終計画というか。『デジャ・ヴ』五十周年ということだが、オルタモントのような悲劇が起こらなければいい。
午前中、以前から気になっていた映画がこの七月にあれこれやるので予定を組んだが、予定はあくまで予定と言わざるを得ない。しかし成澤昌茂とケリー・ライカートというどう見ても真逆な二種を追う引き裂かれた夏といった感じで、ちょっといい。その間に今度こそ見逃せない『ランブル』も入ってくる。
全然身を清める感じでもなくシャワーを浴び、点滴に備える。最初はビクついていたが今回は余裕の構え、と言ったら嘘になるか。主治医は今回の方がきついと。
昼餉直前に点滴開始。三本目のアレルギー止めで急激な眠気に襲われ、ダウン。その後、放射線へ向かうまでまるで記憶なし。戻って第二の薬を入れる際、刺さった針からその周辺を急激な激痛に見舞われる。無数の針が血管に沿ってその周囲を繰り返し刺す感じだ。腕を変えて右に打つ。すると、それを境に次々と薬の副作用が繰り出され、前後不肖。十時ごろ、看護師の巡回で目覚めたときには歯痛があった。虫歯とは違った腫れるような痛み。とりあえず歯磨き、うがい、自販機に出かけるが、冷たい緑茶を取り出す際、予告されていた痺れと刺すような痛みが指先に走る。飲むと痛みは口腔、喉にまで広がる。体温は37℃台。ひたすらだるい。
十時だから当然Wi-Fiは切断されている。もう一度寝るしかない。
 
某日、朝四時半体温38.3℃。針の刺さっていない左腕にも痛み。感染症の疑いから、すわコロナか、と一時騒然。しかし血液検査およびCTの結果、ネガティヴ。主治医による説明、退院は週明けに延期、つまり土曜のアテネ=スイス映画は無理となった。尽力してくれた土田環、ゲストに応じてくれたレナート・ベルタ氏に本当に申し訳ない。
昼過ぎて徐々に平熱近く戻り、昼餉も普通に食し、ここにある存在理由のために、といったような生理食塩水の点滴が繋がっている。といってもこれは再度針を刺す苦痛を減らすためでもある。たぶん薬に変わった瞬間に再び激痛が走るのではないか。そういう不安に苛まれ、同時にうとうとしながら、午後を過ごす。
夕餉後にスイス映画特集へのメッセージを書く。また発熱、そのまま眠る。
 
某日、微熱中年は深夜に目覚め、『たけくらべ』写経。本日が亡母の命日であることを正太の境遇を書き写していて思い出す。
喉が痛い、というほどではないにせよ強い違和感が続くので痛み止めを飲む。
アテネ松本正道氏へ詫び状を書き、ご丁寧なお見舞いの言葉をいただく。土田に観客の皆様へのお詫びとメッセージ、それにレナートへの質問を書いて送る。
放射線再開。今日はいつもより長く感じた。
一日かけてゆっくりと熱が下がったかと思うと夕餉間際にまた上がった。
残りの時間は写経。執筆時、二十二歳の小説家は労咳の発作に苦しみ、血を吐いていたかもしれない。だがこのみずみずしさ。この躍動感。この生命力。写しながらひたすら感動。
 
某日、寝汗で目覚めてパジャマを着替えた。熱も引くはず。それでもまだ四時半なのでぱるるの動画を見て、ひたすら和む。写経続けるうちに日が昇り、快晴。
いつも通りの点滴と写経の一日。註は勉強になるが、中には載っていない単語もある。例えば「尤物」だが、ふりがな通り「まれもの」と打つと「希物」などとなり、この字だと「たぐいまれなもの」という意味になる。いまひとつしっくりせず、ふと「もっとも」を思い出して「尤も」から変換して組み直すと、訓みは「ゆうぶつ」意味は「すぐれたもの。非常に美しい人」と出て、文脈上これが相応しい。ますます勉強になると思った。ちょうど真ん中に当たる第八章では吉原周辺のざっとした紹介がなされるが、これが見事かつ奇天烈であり、特に後半、吉原で芸を披露した芸人たちが明け方、塒に帰っていく描写など実に見事かつパワフル、これまた大変勉強になった。ただ読んでいただけでは知覚できなかったものが写経によってまざまざと浮かび上がった。
ほとんどそうやって一日を過ごした。徹底的な孤独。これも大いに味わおう。
イベントの時刻、ひたすらアテネの方角に念を送る。うまく行くよう願う。
そしてそのうち消灯の時間。バイクの爆音は聞けなかった。
 
某日、疲れたので寝たのだが、やはり予想以上に熟睡でき、点滴交換とトイレ以外六時間一度も目覚めなかった。なので朝はやけに快調で不意にシナリオを再開させる。朝餉までみっちり向き合った。
朝のTwitterで小津の『東京暮色』についての話を読んだ。曰く「ドラマが多すぎた」と。前作からたしかに人物其々に割り振られた説話が重層的に構築するエピソード主義的側面が見られるが、しかしそれが問題とは必ずしも思えない。尺への懸念は当然だが、それが直接失敗に結びつく訳でもない。問題は社会と小津・野田との間で均衡を測りづらい戦後ジェンダー描写に関する齟齬に行き着くのではないか。つまり男たちと母親、つまり旧世代に対する原の取りつく島のなさの不自然か。結果、これを解決したのはセクハラ、つまりオヤジ三人組という巧妙な「装置」の導入と言わざるを得ない。性を引退した男どもになお片足を抜け駆けする裏切者を配するというアクロバティックな設定によって深刻を喜劇化する、この苦肉の策が転じて大発明と化したのだが、演じる三人のあまりの芸達者と科白の高度な頭脳プレイによって未だそれを凌駕どころか援用できる者さえいない。残念だが現在もなおこの「装置」は洗練されすぎているというわけだ。『東京暮色』から『彼岸花』にかけての変化はモノクロからカラーに留まらない。最大の変化は男たちの脱=性化である。もはやバックボーンさえ語る必要のない男たちはことの推移を眺めるだけ、時々チョッカイを出して叱られもするがその程度、気づけば全体は進んでいる。たぶん中途半端の勝利だと思う。確信犯でも行き当たりばったりでもなく、やってみたらうまくいった、ではもう一度、といったいい塩梅ではなかったか。ともあれこれにより後期小津はエピソード主義の重苦しさからイチ抜けできたのである。
昼、下剤が効いたのか、二日ぶりのお通じ。それでぐったりして午後はぼんやり。
サンソンは寺内タケシ追悼特集。いままで触れてこなかったが、それはよくわかっていなかったからで、わかっていなかったというのと聴いていないということは違っていて、聴いてはいるしこういうことだという考えもあるが、それに確証を持つほどは聴き込んでないということ。で、いくらサンソンでもたった一回聴いただけでわかったつもりになどならないが、でもさすがの選曲とサウンドだった。で、わかったことはテリーには二つの要素があり、ひとつはリンク・レイ、もうひとつはジョー・ミークである。ギターとサウンドデザイン、とこれをあっさりまとめるのは早計。これは反米であり反体制であり反伝統の伝統ということ。テリーはそこにいた、みたいだ。年一回慰問のようにやってくるヴェンチャーズとはそこが決定的に異なっている。ただこれは個人的な話だが、テリーのプレイは前のめりも細かさも性格があまりに兄貴に似すぎていて、こちらを多少重い気持ちで動揺させ続けることは否めない。だから本気で向き合えない。それにしてもブルージーンズとバーニーズという二つのバンド、バカテクであった。
とにかく満足して夕餉。のち、バラカンビート。これまた思いがけずジミー・マクグリフが聴けて感動しているとあれもこれもと名曲ばかり、バラカン・モーニング以来の名盤片面コーナーはアリーサ。今やっている映画の音源、アナログB面がかかる。これ以上のブルースというかR&Bというかゴスペルというか、はないのではないか。というかあっても私には必要ない。これが必要だ。アナログで手に入れたい。プレゼントに当選されたリスナーを生れて初めて羨ましいと思う。番組はジョン・ハッセル追悼で終わり、ああ今宵もいい夜だったと再びラジオに感謝した。
本当は間に『報道特集』の「赤木ファイル」問題をネットで見たのだが、尻切れトンボで終わっていて釈然としなかった。麻生というのは自分がどこまでラスボスとしての悪を全うできるか、現実で試しているのだろうか。そういう妄想狂が表立って国を左右する事実をアニメとゲームで慣らされた国民はあまり違和感なく受け入れているということなのか。そして奴が待っているのは自分の眉間を貫くゴルゴの放った一発の銃弾、そういうことか。
 

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某日、降る降ると言ってなかなか降らないと各ラジオも訝っていたがこの朝も群青の空が広がっている。今日こそは退院したいがどうなのか。世間的にはオリンピックはやるもんだと、すでに反対派も諦めたことになっているらしい。早晩内閣支持率も上がるだろう。諦めの悪い人間は自分に何もできなくても最後まで反対し続けるが、世間は何かホッとしたように最初から振り返ってみる映像を流し、あの猿回しと猿、板ひっくり返して「トキオ」と言った白人から邦人が飛び上がって喜ぶ様を最初に見た時(あれが二〇一三年か?)から延々と感じ続ける背筋に悪寒の嫌悪感をまたぞろ繰り返す。
外に目を向ければただうんざりするのでずっと内向きで生きることになる。
内向きになるとアナログを贖う。アリーサ、ジョン・ハッセル、エレン・マキルウェイン、ハリー&マックとこのところ耳目につき、CDも持っていない人たちを。特にアリーサは、亡母生前中に聴かせて、というか見せてやりたかった。見る前から想像がつく大感動な出来栄えの映画『アメイジング・グレイス』を見たら、寝たきりの母ははらはらと涙を流しつつ立ち上がって踊ったかもしれない。涙もろい、ゴスペル好きの母。自民嫌いの母。
二日連続で飲んだ下剤が効きすぎて腹が空っぽになった感じ。力が抜ける。
内向きのままシナリオ前半を書き上げる。もちろんこれは第一稿でさえなく、ここから可変されていく断片集である。とりあえず各位へ。速攻で斎藤Pより別件の提案。沈思黙考。
血液検査の結果、白血球の状態よろしからず、退院は明日に。残念。
放射線今週1回目。明日の時刻変更を依頼。
夕餉の後まで断続的に写経しつつ考えつつ、ふと写経の内容を違う目で見始め、というより一葉的世界ということだが、いわば箱庭的・浄瑠璃的劇空間を考える。第八章の、早朝大路を帰宅して行く芸人たちの光景は、蜷川の、横一列で舞台奥から手前ににじり寄ってくる奇人変人たちの、あの演出に相当するのかもしれない。
明日は朝飯抜きである。
 
某日、どうやら夜を徹して盛大に降っていたらしいようやくの雨は、予報によれば帰る頃に止むようだがどうなのだろう。遣らずの雨では困る。
予定通り放射線を終え、病室に戻って荷物整理も終えたところでちょうど雨が止み、階下に降りてレストランで天ぷらうどんなど食していると戸外に陽が差しさえするので、まあ多少調子付いた形で帰宅。ぱるるは割合落ち着いた出迎えだった。
それなりに大量な注文物・郵便物を捌いた。中に阿部くんの新刊『ブラック・チェンバー・ミュージック』も毎日新聞出版様より恵投いただいており、帰還次第注文を考えていたので有難いかぎり。ハリー&マック、アナログ注文したつもりがCDで届く。がっかり。でも楽曲は悪くない。ニューオリンズ録音。99年夏。私たちは九州にいた。次は何処へ行く。
病院で聴けなかった音楽を次々に。スティーラーズ・ホイール、フェアポートのセカンド、ベン・シドランのファースト、CSNY『4ウェイ・ストリート』。探したけど『デジャ・ヴ』が見つからない。五十周年盤を街に出て贖うか。
吉田広明氏のさらなる労作『映画監督 三隅研次』も作品社様、恵投くださった。三隅の半分も見ていないが、いつかははっきり分かりたいと思う監督である。
久生十蘭の文庫群、武田麟太郎、フォークナー『土にまみれた旗』、など。フォークナーはかつての『サートリス』の冒頭、「いつものように老フォールズはジョン・サートリスをその部屋に連れてきていた。」が「連れこんだ。」になっていた。同じことだがこれに慣れなければならないか、と思う。これにあの(とうとう始まった)感を置き直さねばならない。どうということはない。そもそも取り返しのつかない話というほどでもなかったのかもしれない。忘れて読み込むことにしよう。
CSNYが終わらない。長いよね、このアルバム。こないだ寺内タケシ聴きながらやっぱギターインストは向いてないな、と思ったが長いインプロはそれ以上に苦手……
 

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某日、一週間ぶりにキッチンに立つと様々なことが変わっている。主婦は二人いらないという話を聞くが本当にその通りだろう。まあたかが瓶の配置やらその程度のことだからたんにたえず自分のやりやすいよう直せばいいだけの話。何処の世界でもスピードを気にすると揉め事は起きやすい。スローライフ。朝餉をたっぷり、かかりつけに薬を取りに行く。
ジョー・ボイド人脈のフォークの人ジョン&ビヴァリー・マーティン、タイトルが『ストームブリンガー!』なのでパープルかよと笑っていたら、なかなかどうしてドノヴァンの弟分的な曲もあり、全体に悪くない。下手するとカミさんの方が才能あるのか。ケヴィン・アイヤーズみたいなヒッピー感さえあり、好感持つ。
竹田賢一さんがツイッターで毎日取り上げてらっしゃるので、そもそも論的に高橋悠治『「不屈の民」変奏曲』。ジェフスキーについてもチリのピノチェトへの抵抗歌についても何も知らなかった。この脳が洗われる感じは37年前にサティで味わったのと同じ。あれとともに大学へ入った気がする。
続いてケイル『恐れ』。この時期これと『スロウ・ダズル』未聴だったが、いいねえ。ベスト盤『ガッツ』収録曲は飽きるほど聞いたが、その他の楽曲がいい。それにしてもやっぱり「Gun」のサビは、というかもはや全体だがある種のアニソン、殊に悪役を嘆く挿入歌、はっきり言ってハカイダーのテーマだが、思わせるよねえ、そういうのを。昔から思ってる。で、ケイル自身ヴェルヴェット内でのハカイダーかと。でも歌うと気分いいんだ、これが。ケイルってそういうところがあるのがいい。まあルー・リードだってそうだけど。
暮れ方降りだし、遅くにやむ。


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某日、そしてまた明け方に降り始めた雨は今日はもうやむ気ないようだ。朝餉に冷凍されていたトキシラズなる鮭を焼く。美味いが言うほどとびきりというのでもなく。昨夜からまた七〇年代日本のポップスを探ってみたが、やはり結果は変わらず。それはイギリスでもアメリカでも変わらない。もう自分に合うものはあらかた聴いたのか。昨日のジェフスキーのような驚きもなくはない。小説は随分サボったからまだまだあるけど。
書庫を探すと、ここ数日見つからなかった一葉の現代語訳が見つかった。助かった。
放射線、早く出すぎた上にタクシーがえらく飛ばすので待合室でだいぶ読書できた。帰りはりんかい線。三時半過ぎると混む。危険な気がする。こんなことで危ぶんでしまうなんてやはり我が人生最悪の七月が始まったなと思う。でもこんなにやる気のある七月もなかった。何しろ七月にシラフなんて考えられない。だがそうなのだ。なんでもできそうな気がする。
当日記を読んだ某ヴェテランが心配してメールを下さった。有難いかぎり。
夜は出来合いの角煮とワンタンスープを温めて食す。
 
某日、もうほとんど降る方ではなく止むのが気まぐれのような雨が始まり、これは例年のことで、たぶんこれから一週間は続くだろうが、こんなに寒かったか、というくらい気温を低く感じる。昨日も書いたが例年七月上旬は泥酔していて記憶があまりない。
昨日、ネットで海外逃亡劇に及ぶ集団的殺人事件のルポを読んだが、いよいよ現代的な犯罪に魅了されないことがわかった。魅了されないというのは私の場合、映画にしたいと思わないという意味だが、ヤクザも警察も嫌い、犯罪者はそれぞれだとしてももはやそこに何かファンタジーとして仮託できる意思を見いだすことがなくなった。他者としてそうした自分なりの関係を築けるとしたら誰より男性化されない女性であり、そのドラマにはかなり心が動く。ゆえに『空に住む』は作り手として根源的な欲求が強い。
三時半に目覚め、五時にぱるるによばれ、階下に降りる。と、暗い。電球切れではないと咄嗟に感じた。スイッチをあれこれ探るが、明らかにブレーカーが落ちている。まだ薄暗い中で模索。東京ガスのサービスに電話。指示通りあれこれやるうちにどうやら先日のエアコン工事の際に何か漏電の原因が発生し、この雨でそれが顕在化した、らしいというところまでは推測。よって配電盤の不要不急のスイッチをOFFにして、残りを通常通り動かす。エアコン以外は問題なし。修理サービスは十一時以降到着ということで、それまで冷蔵庫を放置するわけにはいかない。
マイケル・チミノの忌日。これらトラブルもマイケルのいたずらか。
『たけくらべ』という子供を主人公とした(児童文学ではない)作品を書き写していて最も頻繁に変換する文字は「耻」である。例えば公文書改竄などという現実に国民として「耻」を感じ、行った者は全員「耻知らず」であり、その「耻」の大きさゆえに責任の重さに耐えられない自殺者が後を絶たず、しかしそうした事態を「耻知らず」たちは隠蔽可能と考え、この「耻」の感覚が希薄であるらしい一般市民はよく分からぬままに、ふーん、でもまあこのまんまでいきたいんだけど、と思ってる。しかし、常識的に考えて「このままでいるためには何もかも変える必要がある」のである。このまんまでいることは「耻」の感覚を失わせる方向で動き続け、最終的には「耻知らず」どもが濡れ手に粟と儲けるために公文書改竄が思い通りに行われる社会になるからだ。「耻」とは人間が美しく生きるための土台だ。社会が清くあるための土台だ。それを失くした人間はただ醜い。
犯罪映画に可能性があるとしたら、とギリギリの線を考えると、それはエド・マクベイン的なドラマとアンソニー・マン並びにフリードキンだと考えていたところに虹釜太郎さんがフリードキンについて卓抜な論考をboidマガジンに書いてくださっている。ちょうど見直して行くべきだと考えていたところだった。大いに参考にすべし。そこには「疵」と「痛苦」、そして「耻」がある。
昼前に修理サービス。調査の結果、原因は地下の排水ポンプであろうと。何年前だったか、一度修理した部分。とりあえず二台あるうちの一台は正常に動いているので、危うい方だけを停止して他を生かす形でよしとした。待っていたAmazon再配達もその間に到着。本日は午前中だけで予定された業務は終わった。
放射線通院、買出しして帰ると、女優もだいたい似たような食材を贖っていた。夕餉後はフリードキンについて多少予備知識を、ということでフィリップ・カウフマンも出ているインタビュー番組『フリードキン・アンカット』をアマプラで。問答無用でフリッツ・ラングの登場に痺れるのだが、フリードキンがトリュフォー同様、リアリティを超えることを目指していたと感じ、なるほどと思った。リアリティではなくリアルということ。そして以前も聞いた話だが『エクソシスト』でのジェイソン・ミラー起用にまつわる米横断列車の旅で和んだ。ほとんど『デッドマン』冒頭だ。そのミラーからマシューまでギリギリの決断でキャスティングして来たところがフリードキンの賽の目だったか。つい深作を想起しがちだが案外増村か大島に近かった気がした。ジーナ・ガーションともう一人『キラー・スナイパー』に出た若い女優が熱くフォローしていて、この人にはミソジニーは欠片もないだろうとも認識した。きっと奥様が優れた方なのだ。なんとなくほだされて『恐怖の報酬』を入手しようかとも傾きかけたが、さすがにあれをもう一度は見ない。喋りに出て来たワロン・グリーンがちょっとよかったけど。
 
某日、雨さらに強まる。午前中、SNSで宣伝を見かけたので、アマプラで『I AMアルフレッド・ヒッチコック』。映画的記憶が『フレンジー』から始まっている(それも怪しいけど)人間だと一応目を通すのが仁義であり、ほぼ目新しいものはないし例によって全盛期はこうであれは失敗でという識者然とした馬鹿者どもがピヨピヨよく喋るとしても、まあ在りし日のお姿を拝するだけで何かジーンとするものがあって、こうした作品には神なき者の礼拝室みたいな役割がある気がする。で、金髪美女切りの話はこれまでもあって目新しくはないし、脚本家ジョーン・ハリソンの話は初耳だけど、とかく真偽の怪しい話では仕方がない。ヴェラ・マイルズなんてひどい扱い。後の『サイコ』でチャラのはず。あと『鳥』撮影中のケーリー・グラントのネタも初耳。ただの伝説に過ぎないのではないか。
雨は昼前にやんだ。
その後何をしたか、夕方皆さんのご飯を買い足しにコジマへ行ったことしか記憶にない。というのもこの前後どこだかの百分間、ある映画を見て、考え込んでしまったからである。
最初は有楽町でやっているバラカンさん企画の音楽映画まつりに行くつもりでいたが、監督でもある宣伝マン佐向から盤が送られて来たのでこれを先に見ようとついつい始めてしまったのが、この記憶喪失の元。ビリー・ホリディのドキュメンタリー『BILLIE ビリー』だが、これがただ悲劇のブルースシンガーの生きた記録で済めばよかったのだが、そういうことでは済まなかった。ここにはある「装置」があって、そのことで決して終わることのない犯罪映画と化してしまっている。何の説明も付されないが明らかに顔が変形するほど殴られた痕跡を化粧で隠したビリーの顔の大写しには凄まじいインパクトがあるが、それと同等にしかし静かに深く潜行するかのごとく描かれる死んだルポライターのエピソード。この二重構造が深いエコーをなして素描する、終わらない、消えない、差別と偏見と疵と痛苦。それをどう画面に響かせるか、この現代映画としての難題にこの作品は果敢に、しかし静かに挑戦している。その結果、前景であるはずのルポライターが幽霊となり、ビリー・ホリディが現前する。通常なら不愉快なはずのモノクロへの着色になんらか効果を見出すとしたらここだ。大過去ならぬ、大死者の生々しい現前。そして誰かが泣かなければならない。涙を見せるべき人が見せることにも成功している。スクリーンの背後に広がっているのは死んでも消えない快楽と憎悪であり、フィルムノワールとはそれを垣間見るための暗い窓だとしたら本作は『ミスター・アーカディン(秘められた過去)』や『パリの灯は遠く』に比肩する。『ビーチ・バム』『アメリカン・ユートピア』と一昨年から昨年にかけての作品が今年になって非常に馨しい花を開かせたが、これがそこに並んだ。フィクションを考える面においてはダントツである。少し前のマチュー『バルバラ』を痛切に思い出した。そして「なぜ女性歌手は早世なのか」の言葉に深く沈んだ。
夕餉は女優の卵スパムトマトピーマン炒め。超美味。
 

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『BILLIE ビリー』 アップリンク吉祥寺ほか、全国順次公開中!

 
某日、明け方に雨は再開した。止むのを待って十時近くまでじりじりと粘り、ぱるるを連れて夫婦で都議会議員選挙投票へ。買出しをして帰り、するとポンプ屋さんが来る。タンク内部を調べた結果、電気コードが脱落してショートしかけていた。大雨が原因だった。すぐに修理され、事無きを得る。やがてまた雨は戻ってきた。
サンソンでは「君の瞳に恋してる」の達郎カヴァーが聴けた。私はこの押しつけがましい、血圧の高い歌が昔から本当に好きだ。あと、最後に医療従事者の方々からのお便りが読まれたのが感動的だった。
バラカンビートでかかったThe Subdudesというバンドが素晴らしかった。
 
某日、朝餉を終えた頃にようやく雨はやんだ。まあ今後もかそけくなるだけで降るには降るだろうけれど。選挙は負けた。いつものこと。「耻知らず」は強い。
急に体調が思わしくなくなる。二日間放射線治療がなかったが、今頃影響が出た。じわりと重たい体を抱えて通院し、今週最初の放射線、また重さを抱えて帰宅。唯一の救いはその間『燃えあがる緑の木』第二部をずっと読み続けた。成城石井で買出し。
深夜、読了。長かった。終盤、中上『異族』が意識された。ただこちらは社会生活に熟達したまっとうさを根に下ろしている。そうでない良さが『異族』にはあったが、ではこれがダメかというと決してそんなことはなく、むしろいまの自分にはこちらが近い……当然か、これを書いた作者の年齢にまもなく追いつこうとしているのだから。
そして最終第三部へ。入院も明日から第三回となる。
 
某日、ふと気づくと前日の入院確認の電話を受けてない。入院予約の窓口は午前九時から。仕方なく仕事してやり過ごす。リチャード・ドナーの訃報。愛されて長生きできてよかったと思う。結果本日の入院はなし。部屋が空かなかった模様。むしゃくしゃしながら朝餉。しかしある意味で、というのは食材処理的に一日猶予があった方が遂行できるので、よし。
体力の払底によりぼんやりと荷造りを終えつつ、やがて通院の時刻。買い物もせず単純に往復のみ。夕方、届いたThe Subdudesを聴く。ファースト。「Big Chief」を演っていて笑う。カズーがよろしい。
ふと思い立ち、というのはもちろん『たけくらべ』に熱中しているからだが、見られるものは見ておこうと今井正『にごりえ』。うんと昔に見た記憶あり、ピリッとしない映画だったよなあ、という漠とした印象だが、まるで変わらず。ただ、脇で北村和夫加藤武小池朝雄南美江が出ており子役が河原崎次郎松山省二だったこともすっかり忘れていて、そこらへんはニヤニヤした。小説は葬儀を出して人魂が飛んで終わるが、それをやらない生真面目さが趣味に合わない。徹底してドライである一葉がずっと誤解されているという疑念に確信を得た。結城の造形も的外れと思われ、山村聰が勿体無い。「泣きてののちの冷笑」と言うが、その冷笑の部分がそっくり抜け落ちている感じだ。くどくどと死んでもいない死体を見せてどうすると思う。人魂とともに一葉を再発見する必要がある。
 
某日、準備の済む頃に雨が降り始める。昨日出ていれば割と忘れて出た可能性が高いものが多くあった。それくらいぼんやりしているということか。それでも綺麗に整頓すると見事に用意したカバンに収まってくれた。退院時うまく詰め直せればいいのだが。
採血、画像、で病室へ。午後に放射線。残りは写経。見事な雨の場面。ちなみに田町といういまは失われた町名の現在地を探ると、大音寺から花園通りの東端までごく狭い徒歩圏内である。この小宇宙、新開の銘酒屋街然り、これが一葉の作品世界の肝である。
カンヌ開幕でレオス『アネット』オープニング上映。上映後、アダムとレオスは煙草で乾杯していた。ネット上のレオスの顔が懐かしい。
朝ドラ、いよいよ震災被害の実態が露になり、たーくんの居方がいたたまれない。この緊急事態宣言下で何やら国家的イベントをやらかさんとする現在を更新する毎朝にこれをぶつけてくるとは。だが、ならばなおのこと、あの崩壊した石段の上に座って海を眺める浅野忠信で十五分を押し切るくらいのことがあったっていい。それで一週間分、泣ける。
夜更けのバイク集団、以前にも増して暴走。良き兆候。
 

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某日、すでにこの一日は過ぎ去ってしまったが、いくつかの断片を。
まず写経が終わった。二十代にこれが書けることの驚異。天才である。「格子」を挟んで美登利の「友仙」=紅と信如の「水仙」=白との交換が何を語らうか、その意図されざる対話を聞き取ろうとしなければ、正太のようにツンボ桟敷に置かれるだろう。論争があるのは知っているが、ばかな話に巻き込まれないようにしたい。美登利狂乱の後の信如、一足先の別離の素っ頓狂さこそ「冷笑」でなくて何だろう。
点滴始まる。あっという間に眠気に襲われ、ぼんやりしたまま放射線に行って戻るとどんどん気分悪化、夕餉摂れない状態、熱は38℃超。夜更けまで前後不肖。
二十三時を過ぎてようやく意識回復、口が利ける。前回に続いての未体験ゾーン。看護師も首を捻る。当然か、生まれてはじめてのことを試しているのだから。
朝を迎え、薬のアレルギーか感染症かを巡ってさまざまな検査へ。どのみち前回同様はっきりしないだろう。車椅子での移動だが、調子の悪い状態で孤独に待たされるのには閉口する。だが皆さんお忙しいのだ。病室で前立腺の検査を受けた。肛門に指を入れての触診である。かなり以前やはり病院で受けた気もするが、覚えてない。これもまあすぐ忘れる。
夜、一日ぶりに食事を摂る気になるが、半分がせいぜい。片手に点滴、片手に心電図の記録機を抱えて、トイレさえすんなりとは行けない。寝る前になっても熱、37℃台。
まったくもってうんざりする二日間だった。
 
某日、午前四時濃霧が東京を覆う。相変わらず熱退かず。
すっきりと晴れて朝餉の後、解熱剤を服用してようやく下がり始め、以後ただぼんやり。
レントゲンに行くと本日土曜、静かなロビーで自分の息を聞く。
昼餉の後、やはりぼんやりと過ごす。少し今後の予定を考える。
カンヌはワイズマンがキャロッス・ドール受賞。良きことと考えよう。
しかし相変わらず日本の報道は日本の作品しか報道しない。
夕餉の後も変わらず。多少は頭が働くようにはなった。明日はもっといいだろう。
ネットの門限前に雷雨が始まる。下手をすると雹か。窓外に白い粒を見た気がする。
ふと、しばしば山中湖のことを考えるのはヤギヤスオさんのツイッターを拝読しているせいだと思うが、山中湖にもかつて多くのスタジオがあって、今でも使われている場所があると聞くが、精霊はいただろうか。夏はマジョーレ湖並みにゴミの浮いた汚い水質だが、冬場などはまだ綺麗なのではないか。忍野などは年中綺麗だ。でも精霊のいる感じはしない。精霊は流れのある川に棲むもので、湖はあくまで淀みであって、と考えるべきか。
雨雲はすぐに過ぎ去った模様。
『合衆国最後の日』冒頭で死ぬ凶悪なホクシーが印象的だったウィリアム・スミスの訃報。子役からやっている息の長い名脇役だったとのこと。
こういう現況だからでは必ずしもないが、この一年ほど宗教、というより直接的に神ということを考えることが増えた。なぜかここ数日、自分はキリスト教ではないと言いたがる人を多く見かける気がするのだが、べつにどの宗教であっても構わない。昨年の入院の際に見舞い代わりに斎藤Pが渡してくれた禅僧の本とそれに連なる数種、少し意味が違うが老子、道元、そして『燃えあがる緑の木』に向かったのも存外その方向からの呼び声を聞いたからである気がする。第三巻に入って間も無く、サッチャンが読む『アウグスチヌス「告白」講義』は未読だが、その元の本も近いうちにベッド脇に並ぶ予定。考えるだけでまだそれらを読破したわけではないのだが、K伯父さんの言う通り「本にジャストミートするかたちで出会うこと」が重要なのは知っているし、それは映画でも音楽でも同じで、だから迂闊に人をその磁場に巻き込むことを極力忌避する反面、そこへ向かう流れをいまごく自然に引き込めているのはこの一年かけてゆっくりと着地したせいなのだろう。プレゼントや贈り物を私はほとんどの場合一種の暴力のように感じるが、そのように誰かの意志で強制的に持ち込まれるのではなしに、ふと空からそっと降り立つように目の前に現れる、と言うのがロマンティックすぎるならまるで交通事故のようにと言ってもいいが、それが神かどうかはべつにしてそのような出会いだけが自分にあるべき道を示してくれるだろう。そしてそれは何より、穏やかな進み行きであることは間違いない。先日ラジオでアリーサに接したときも、ネットでヒッチの映像に触れたときもそのようだった。
夜更けに発作で苦しんでいる人の呻きが廊下に響くのを聞く。これも経験だ。でも小学校一年の時、最初の入院からそれを聞いている。
 
某日、久しぶりに自分の意思で眠り、自分の意思で目覚めた。ちょうど六時間。途中三回トイレに起きたが、二十四時間点滴繋げっぱなしなので致し方なし。前回と全く同じ展開。
朝日新聞ネットに『アネット』がらみの堀越さんインタビューが掲載された。いい記事。
だからもうあまりえげつない話は聞きたくないなと思いながらも、カンヌでの『ONODA』に違和感を抱いていたのでつい小野田がらみのツイートなど読むと、かつてテレビなどで知った通りのえげつない行状が見て取れるわけで、そういう人間をどう描いたか知らないが、映画にすること自体胡散臭く思え、ひたすらげんなりする。密林で小動物を食べながらひたすら身を隠していた横井さんに親しみを覚えた子供時代を懐かしく思い出す。
これはもう気分を変えようということで定時にサンソンを聴き始める。通算1500回。ありがとうで棚から一掴み。ボーイズⅡメンが非常によかった。
四時過ぎに黒雲が空を覆い、雷がガンガン鳴り響く。ゲリラ豪雨。まるでバルンガのごとき雲が頭上を過ぎていく。都心上空はおそらく土砂降り。三十分近く幾条もの稲妻を見るともなく目を奪われ、やがて湾岸に達した土砂降りが窓に叩きつけられて、都心も向かい側のビルさえも見えなくなった。どうやらいい虹が出たらしいが私は見ていない。
バラカンビートも定時。本日の収穫はBoubacar “Badian” Diabateというマリのギタリストとニーナ・シモンの68年モントルーライヴ、そしてマリアンヌ・フェイスフルの90年代NYライヴ、そしてハービー・ハンコック「バタフライ」。ハンコックはよく分からないがもうちょっと聴いてみたい気がした。マリアンヌは即ポチり。シモンもやがて。
凪子がある米俳優の写真をTwitterに上げており、誰だか分からず七〇年代の悪役かと思っていたらオーウェン・ウィルソンだと言うので驚く。言われてみればそうなのだが、他の誰よりポストモダンを絵に描いたようなこの俳優はそんな具合に変幻自在なのだ。
それ以外の時間は大江の続き。舞台は転じて伊豆高原。自分たちの家がどういう状況か気になって仕方がない。だがいまはどうしようもない。
 
某日、朝焼けが彩る窓外の東京を見るのは久しぶりな気がする。空もすっきりとはいかないまでも淡いダンガリー色の方が夏の始まりにふさわしい。
結局、副作用ではなく何らか感染症という曖昧な結論に落ち着いたが、そこは専門家に任せるとして、いつ退院か報告がなく、弱る。『ランブル』の機会が一日一日減って行く。
カンヌでの『ドライブ・マイ・カー』上映後、濱口がその場でマイク片手に喋っていた。いつの間にそんなことをするようになったのか。せっかくだから歌えばよかったのに。
♪ビービープ/ビービープ/イエ〜!って。
ブルーノ・ガンツ追悼にもなる。
昼餉後になって主治医から、感染症を完治させたいので水曜まで投薬、ついては木曜退院、なる非情なお達し。愕然。弱った。『ランブル』、ギリギリである。
放射線へ行き買出しした以外はほとんど大江。伊豆から森へ戻ったサッチャン。いよいよ宗教を横溢させるが、岡さんの本が何であるか、明かされる前から、というか最初に話題になるあたりからわかってしまった。私は不勉強かつ無知蒙昧であり、その著者についてろくに知りもしない(一応かつて一冊は読んだ)くせになぜかわかった。そういうものだ。伊豆篇は『讃歌』めくかと思ったが、さすがにそうはならなかった。とはいえ、その問題の本のことといい、中上に宗教的側面を感じる時のアプローチはそれほど違っていない気がする。『奇蹟』はまたべつだが。あの時期宗教について、あるいは神について、もしくは超越について考えない表現者などいるわけがなかった。現実に着手するかどうかだけであり、中上は本格的に手をつける(その気があったかどうかは別にして)前に亡くなった。ただ、やはりドストエフスキーが、お約束的にであれカラマゾフが出てくるとどうしても鼻白んでしまう。それには説得されない。中上の言う通りだといつも感じるし、大江の造型が遥かに上だと思われる。それは小説の進化の部分、ある部分での稠密さが他の大胆さを保証する、というか、例えば「大きい」と書けば描写なしに印象だけでその大きさは認められ確認されるという一種の図々しさでもあるが、二人ともそこに至っていたということではないか。
ともあれこのペースでいけば退院までに読了でき、速やかに『ユリシーズ』へ移行できるかもしれない……不意の脱線さえしなければ。
 
某日、久しぶりに起き抜けの緑茶、八女茶。五臓六腑に染み渡る美味さ。昨日、いわゆる生理食塩水的なものが外れ、点滴が抗生剤だけになったのでトイレの回数も減って、睡眠が深くなった。たぶん一度起きたきりではないか。
カンヌは『フレンチ公文書』公式で午前のTwitterがウェス組一色。大変カラフルでよろしい。シアーシャの不在が残念だが、マチューを見つけた途端に元気になった。ティエリーの隣に並んだビル・マーレイが頭一つ高いので今まで身長を見誤ってたことを知る。彼はでかい。そしてウェスが今回参考にした作品32本のリストというのが挙がっていた。大部分フランス映画だが、全部ではない。ベッケル三本というのが嬉しいし、ルノワールでは『どん底』が入ってるのがいい。あとキートンの晩年の短編の映像がなぜか紹介されており、これが非常に良い。
陽一郎から電話。笑い話に終始。やがて仙頭武則がFacebookに2000年2001年のカンヌでの写真をアップして関係者一同ひとしきりSNSで盛り上がったのは私の誕生日だからでもある。祝福のメールには全てお礼を書いた。シャワーを浴び、放射線へ行き、買出しして戻る。やがて夕餉の時刻。
本日の読書は休憩。読み続けることは吝かではなく、何しろここからはクライマックスなので面白さも格別だが、今日はどことなく疲労している。食後少し熱も上がった。それでも最後はリスボンの旧友フランシスコ・フェレイラもカンヌから誕生メールを送ってくれ、何度かやりとりを交わした。またリスボンに行きたくなった。しかしたぶんもう行くことはないだろう。もうどこにも出かけることはせず、この世の「耻」(shame)と「疵」(scar)と「痛苦」(suffering)とともにあるために、森の礼拝堂のような場所で集中すべきなのだろうと思う。これから行うことはどれもそれと等価の行為だという気がする。
 
某日、朝の採血の結果がなかなか出ない。良き知らせをじっと待っている。
すでに昨日から赤坂太輔が伝えていたが、九十四歳のジャック・ロジェ夫妻が家を立ち退かされるらしい。ひどい話であり、多くは他人事ではないだろう。ただ同時に選んだ人生を後悔するかどうかは別の話である。かなり昔、清順師匠と加藤治子が夫婦役で車に乗って家を去るドラマがあった。JLGが一時行方不明になりスペインかどこかにいたという話を聞いたときもそのドラマを思い出したが、年齢を聞けば当然ひどいと感じる反面、自分ならどうか、もし健康ならどうか、とも。困るだろうが、それもまた人生と前を向くのではないか。ハタから気の毒がられることではないかもしれない。何しろ生来のボヘミアンのように映画を作ってきた人だ。ともあれ詳細は不明だが、ロジェ夫妻の無事を祈る。
そういえば誰かが濱口について、あとは日本映画界がどう育てるか、みたいなことを書いていてナンセンスだなあと呆れたが、国家はもちろんその国の業界なんか誰もあてにしたりしないのが実情であり、国や業界にできることは金を用意するかどうかくらいで、育てるということはプロデュース的側面に触れる話かと思うが、いまの濱口を始め海外と渡り合う多くはそんなレベルにはとっくにいない。A 24のようなプロダクションがもしあれば会話も成立するかもしれないが、彼らは旧弊な知識とか経験とかほぼ役に立たない領域で仕事しているので、大人しく助成金の算段でもしているくらいしか出る幕はないだろう。
それにしてもロジェと濱口、ボヘミアンと有能な商社マンくらい真逆だな、と笑う。つい『レインマン』的な想像をするが、考えたらあの手の優越感は大の苦手だった。
昼餉前に退院の勧告。放射線とレントゲンをこなし、のんびりと過ごす。
『燃えあがる緑の木』を入院中に読み終えることはなかった。昨日休んでいたせいだが、それが悪いわけでも残念なわけでもない。一歩一歩ただ前へ進めればそれでよい。この小説もそうやって着実に進んでいるように。一昨日、ここでの表現を「一種の図々しさ」と書いたがそれは着実な積み重ねによる実現の成果であって、決していい加減なものであるわけがない。それこそ「壊す人」に導かれた創建者たちが一個一個積み重ねて作った敷石道のように堅固であり、緊密である。その隙間のなさを確認するように読み進めることの独特な快楽。世代的な共感や文体的な感動からはあえて遠ざかって、人間的な饗応のようなものに収斂される肉体性をこれほど感じる作品も珍しい気がする。
入院時に購ったティッシュ一箱を使い切った。除菌用ウエットシートも消費。歯ブラシも替え時だ。積み重ねがさっぱりと次の進み行きを促している。
 

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某日、退院である。大災事が始まる前にこの湾岸からスタコラ逃げ出す寸法。ほとぼりが冷めたらまた戻ってくることになる。流れ者にしてならず者のような身上だが。
寝る前に小説に出てきた『革命児サパタ』から『戦うパンチョ・ビラ』が気になって、ついにホークス本を開く。三週間、常備してようやく。もちろんそれはカザン作品のことでペキンパー脚本でも『奇傑パンチョ』でもない。しかしそうするとベン・ヘクトやらジーン・ハーローやら三度の結婚やらあれこれ気になり始め、そこへ没入しかける。だから私の読書はいちいち時間がかかって先に進まない。だいたい地図は欠かせず、昨日も大瀬から伊方までの行進の道程を探るのに手元の地図帳とグーグルマップ、両方矯めつ眇めつ一時間ほど眺めていた。
朝餉、シャワー、放射線、荷造り。名残惜しみつつ病棟を後に。一階で清算後、レストランで食事。前のめりになってカツカレーにしてみる。出てきたブツを見て最初は失敗かと思った。少量で、しかもカツが薄い。だが食べ進むうちにだんだん味がよくなり、量も途中で投げ出しそうになるほど。結局最後まで食べたが。ただ、やはり退院直後は、というかいまのこの年齢の自分には重かった。もうカレーそのものに限界を感じた。
タクシーで有楽町まで。ところが「オリンピックで通行止」の道が数々、殊に有楽町駅周辺はどこも進入禁止。うんざりして途中下車、帝劇の角で降りて歩く。
角川シネマ有楽町に着くと懐かしさがこみ上げる。ここのよみうりホールで昔オルミやベルトルッチのドキュメンタリー、というか初期作を見たのである。『時は止まりぬ』は未だ忘れ得ぬ傑作であった。上の方のトイレから有楽町駅のホームが狙えるはずだが、いまは女子トイレになっていて入れなかった。中へ入るとかつて同様とてもいい劇場でホッとした。
さて、ようやく『ランブル』を見る。バラカン音楽映画祭最終日に滑り込む、といった感じである。だがこれ、一筋縄ではいかない作品だった。
開巻数分、タイトルが大写しになるまでダメだと思っていた。そこからもまあリンク・レイのパフォーマンス映像を見ていない訳ではなく、育った環境も推して知るべし、というところだ。だが気づくと前のめりになっている。先ほどのカレーと同じだ。話がチャーリー・パトンを経てミルドレッド・ベイリーに至った辺りではズブズブにはまっていた。というよりこれはアメリカ原住民の話ではあるが全くこちらとルーツを同じくする血の話であり、それはいまに至るまで地道な活動を続けることで独自の文化を保ち続ける女性たちのコーラスにはっきり現れていると分かった。このことはジェシ・エド・デイヴィス『ウルル』を聴いたときにも感じたことだった。そうして話が『父親たちの星条旗』でも扱われたアイラ・ヘイズに脱線すると、すぐに『硫黄島からの手紙』の死ななかったニノを思い出し、あそこでも血脈みたいなものが呼応したのだった。初めてスティーヴィー・サラスを認識したが、それとともにランディ・カスティーヨというドラマーのことを知った。イーストウッドを待つまでもなくアメリカ原住民と日本人はWASP内ではセットであり、どちらも差別し蹴散らしこの世から存在ごと抹殺しても構わないものである、と彼らは考えている。その結果がこの八十年の統治であり、この国際スポーツイベントによってこの国の被る地獄である。欧州由来だろうが変わりない、WASPはWASPであり、彼らは彼らの既得権益を守るために妥協はしない。これは音楽だろうが映画だろうが変わりない。この映画にも嘘がないとは言わないし、誇張も見受けられる。ウッドストックでのジミの出番は最終日の明け方で、観客は大多数が帰った後だったはずだ。けれどその程度の反駁でことが済むような被害ではないことは、それで解かれるような呪いでないことは誰もが知っておくべきだ。
帰宅して荷解き、しばしぼんやり、やがて女優も帰宅、夜は出前で済ませる。


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映画『ランブル 音楽界を揺るがしたインディアンたち』DVD発売中! 

 
某日、自宅で用意した朝餉の有難みを久しぶりに堪能。心身ともにようやく落ち着く。
ハービー・ハンコック、マリアンヌ・フェイスフル、オールマンと、このところラジオやSNSで気になったアルバムを聴く。さすがにラジオで聴いたその一曲とかは繰り返し聴いてもやられるのだが、アルバム通して、ということはないかも。オールマン・ブラザース・バンドは何年かに一度、どうなんだと聴き直してやはりダメなのだが、今回は数曲、いいと思えたのはトム・ダウドの功績か。さすがに長いインプロを聴いてられないのは変わらないが、デュエインとグレッグは安定的にいい。
先生の「ちくま」連載第二回。これぞ以前書いた『彼岸花』以降の「セクハラ芸」現代版と呼んで差し支えない。誰もが思っていることを包み隠さず言ったに過ぎないという姿勢の通し方が芸になるという見事な決まり方である。
「新潮」連載「小津安二郎」目を通したが、開いてすぐ嫌な予感がし、最後になって案の定辻政信登場。うんざりする。ここで繋げるのはそれこそある意味無粋ではないか。まあ次回どう繋げるのか待ってみるけれども。
放射線、あと二回。女優の出先が近くだったので一緒に帰ろうと「有明ガーデン」なる複合商業施設で待ち合わせ。二階に当たるテラスエリアで休息。形状としてはんぺんもどきのベンチが十ばかり並べてあり、ご丁寧に飲酒禁止の立札が添えてある。それなりに巨大ながら田舎のモールにはないオシャレ感。それでも子連れ主婦のルックスなど変わらない。小学生だろうか、オシャレな普段着の四人組女子がはんぺんの上を行進して回る様は『スプリング・ブレイカーズ』さながら。もともと海上だからか、よく風が通り、ヨットの甲板の上にでもいるような、ちょいとリゾート気分が根源的な部分から湧き立ち、横たわり目を閉じると途端に気を失う。見えるところに劇場がある。劇団四季もすぐそば。でも映画館はない。映画は、たぶんジャズとともにこの国のハイエンドの文化からオミットされた。大変光栄に思う。その劇場のある建物にはしかし無印の巨大なストアが入っている。たぶんユニクロもどこかにあるはず。ハイな方々の普段使いに最適なのだ。私だって駅でパンツ贖う。
夏空に湧き上がる入道雲が美しい。
女優は予定変更、帰れなくなったというメール。起き上がると疲れを感じ、タクシー拾う。ところが、往路もそうだったことを忘れていたが、首都高が混んでいる。道々運転手さんがあれこれ最新情報を教えてくれる。首都高千円上乗せに関して「緑ナンバーは対象外」とのこと。湾岸は海外の送迎の拠点であり、リムジンバスや何かは一括ここ発着の模様。到着の取材陣など、遠くは福島までタクシーで、とのこと。それらは大会発行のタク券で賄われるが、もちろん何もかも税金。来年の今頃を思うと気が遠くなるが、一九三〇年代から、いや一八四〇年代からそうなる運命だった気もしないでもない。
すっかり疲労困憊、買出しして這々の体で帰宅、どうにか夕餉を拵え、やがて倒れる。
 
某日、昨夜眠る前にどうも居心地が悪く、せめて戦後作品は全てブルーレイで買い換えるくらいしないとこの気分は治らないのではないかという思想が頭を擡げる。もちろん小津についての話である。予算にしてざっと六万、病院までタクシー往復すれば一週間でその程度という金額。ま、往復は昨日が初めてだった気もするが。
オールマン『イート・ア・ピーチ』ライヴ盤。やっぱり長いインプロはダメだが、楽曲そのものはよかったんじゃないかと思えるまでに和解が進んだ。インプロは時代の産物なので今更どうにもならない。ひとつ知ったが、デレク・トラックスはブッチの甥。
ウガンダ選手団から一人脱走。日本で職を、と置き手紙。本当に気の毒だが、ここはそういう場所ではなく、むしろ地獄だよ。警察はアメリカ並みにレイシストだらけだし。とにかく無事を祈る。
開会式作曲がらみについては中原の最初のコメントが全て。九五年当時のことをいえば、正にQJやROJなどから窺い知る傾向への強い違和感・嫌悪感から『Helpless』は産まれたのではっきり記憶しているし、その後阿部くん原作『無情の世界』の企画や『死の谷’95』が頓挫していったのは残念だったけど、それらもその流れで書いたものだった。あのとき病気(胆石)入院がなかったらそっちの路線を進めていただろう。休養を経て『Shady Grove』ができて、それを中原が評価してくれたのが嬉しくて今も忘れられない。
松本隆さんがらみのツイートでとうとう広石ター坊の写真が乗っかった。面白し。
昼を過ぎ、夕方近くまでうとうとぼやぼやしているとなぜか発熱。38℃。そっと食事にして、薬をのんで休む。まだ本調子ではないらしい。朝作った女優の味噌汁、美味。
夜更けに目覚めると快適。
アメリカ人なのにロンドンで活動したエッグズ・オーヴァー・イージーというバンドの『グッド・アンド・チープ』というアルバム。全然知らなかったのだが、これは名盤だろう。随所でさすがアメリカン!と唸らせるポイント多数。それはつまり日本人にもイギリス人にもたぶん無理ということ。そういうものが音楽と映画にはある。ジャケット画がなんちゃってホッパーみたいなのもいい。ブリンズレイ・シュワルツのパブ仲間ということで、さもありなん。楽曲よし、演奏手堅く、歌もいい。こういうものを聴くといかにザ・バンドが不可解かつ奇跡的かよくわかる。ほんのちょっとのことだがそのほんのちょっとのことで何かがとんでもなく変わってしまう。そしてそれでも、人間何が幸せだかわかったもんじゃない。
 

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某日、起きてみれば開会式音楽がらみがひどい醜聞になり、同時にカンヌの結果が出て、二十数年前の草野球状態からよくぞノーベル賞の露払いにまで立身出世しなすったと感心しこそすれ、考えてみれば野蛮な時代だったなあと二つ合わせてうんざりするばかりなので、さっさと忘れてパンデミックに備えないとこちらの身が危ない。
ハンコック『マン・チャイルド』。やはりダメである。バカバカしいとしか。八〇年代の邦画を全面的に支えた感もあって余計に。オールマン『ブラザース&シスターズ』。ここまででは最も聴いてられるかも。特にリズムは非常に良い。まあ長いギターソロになるとやはりダメ、スカイドッグ抜きではさらにつまらない。たぶん私はベッツが嫌いなのだ。
そういえば今日は堀くんの命日なのだった。
ずっとフィクションを見ていない。ドキュメンタリーの影にフィクションの実相を探ってみることもあるが、そのものを見る気になれない。最初の入院前夜に『秋刀魚の味』を見て以来なのでもう一ヶ月を超えた。先日見た『にごりえ』はPC画面だったので数に入れたくないし。しかし何故なのか。フィクションというのはある程度そこで描かれる事象の「本当らしさ」に付き合うことが前提となるが、それがめんどくさいのだ。この「本当らしさ」はショットごとに現れるので、普通それを確認しながら見るのだが、それにも心の余裕というものが必要で、いまの自分にその余裕がないというのが正直なところ。これもまた体調から来る心理であり、今日は『ブラック・ウィドウ』に行く予定だったが、この体調では外出する気にもなれない。だがTwitterで見るべきものとして題名が挙げられた二本が両方アマプラで見ることができるとわかり、ようやくその気になる。
その前にサンソン。「蒼氓」、サム&デイヴ、ダニー・ハサウェイ、スライ、キャプテン&テニールと名曲揃い。買出しから帰って体温37.3℃。微熱中年は「微熱少年」を聴いて涙する。今日は「蒼氓」といいこれといいよく涙が溢れる。夕餉を摂り、薬をのんでからバラカンビート。こちらの体調とは無関係に今日もいい曲目白押しであった。しかし先週のこと(アルバム入手してもこちらの琴線に触れるのは一曲だけ)も反省し、購入は様子を見ながら熟考。中には『レイラ』をライヴでアルバムごとカヴァーしたテデスキ・トラックス・バンドもあり、そちらではなく本家の方を、これは一生手にしないと思われていたが、とうとう贖ってしまうかと迷ってしまう始末。あくまでデュエイン・オールマンの方を向いているのでECのことは相変わらず興味なく。あとシャロン・ジョーンズ、タジ・マハール。
そんなわけでやはり映画を見ることはなかった。
 
某日、起き抜けから具合悪し。一ヶ月半の治療の影響がここへ来てはっきり、ネガティヴに出ている。結果の問題ではなく、表面的に調子の悪さとか痛みとかとして。飯を食うにも倍の時間がかかる。そんな中、先日の『ランブル』の流れで注文していたノンサッチの民族音楽シリーズが届く。高校時代にピーター・ガブリエルからハマった民族系に行くのは『榎本武揚』の時にアイヌと八重山に向かって以来、このシリーズは知っていたが聴いていなかった。とりあえずブルガリア、ガムラン、チベット、トルコと贖った。さすがに現地録音は違う、とかは眉に唾つけて、存分に愉しむ。民謡、宗教音楽を問わず、バリからアイヌを経てアメリカ原住民まで、似ている。聴き始めれば『レイラ』はいち早く忘れ、こちらを集中して聴く気になった。暑い間しばらくノンサッチシリーズを追いかけてみることにしたい。
その後気分も良くなり、放射線最終日。女優が送迎を買って出てくれる。最後ということもあり、皮膚の炎症に気づいた看護師さんが軟膏の必要性を担当医に訴えてくれ、処方箋が出る。帰り道、それを手に薬局へ。今日の首都高は行き帰りともに空いていた。
夕餉後はぐったりして過ごす。小山田くん辞任。遅すぎる/早すぎる。何かやりきれないものを感じ、一晩を棒に振った。向こうは一生だ。
 
某日、早朝から中原がTwitter上で何とも苦しそうに言葉を紡いでいる。その脇で「耻」の上塗りとも気づかず誰かの受け売りを程よい言葉にまとめてディスりつつも互いを慰め合う企業ライターどもが相変わらずの腐臭を撒き散らしている。こいつらには中原の言葉に混じる血反吐は見えないだろう。中原の言葉に結論めいたものはないが、それが当然なのはこの地獄が続くことが目に見えて明らかだから。
食事を摂らずに病院へ。採血と中間報告的診断。途中で食べたタリーズの「玄米リゾット」に刮目。レンズ豆が入っている。決して不味くない、というかそれなりに美味い、少なくともここが出す中ではトップ。治療の結果の出る八月中旬に向けて三回の診断日程決まる。ということでしばらくは夏休み的空白。復路は電車。がらがらだった。
帰宅すると四月に注文した成瀬と川島のDVDが全部で七枚、届いている。落ち着くまでチベタン密教。久しぶりだが、ブルガリアと並んでやはり素晴らしい。さて、DVD。最も気にしていたのは『青べか物語』だった。何となく周五郎を探ってみようという気になったのはテレビでドラマ『赤ひげ』を見ていた頃だから、去年のことだ。徹底して剣術を嫌悪するというわけではないが、そこに向かうためのドラマというより、仕方なく抜く、という山中的精神を求めてのこと。しかしこれは時代劇ではない。で、夕餉を終えてから見始めたのだが、これが想像以上にツボに入ってしまい、思わず冷静さを欠いてしまった。最初は森繁のかっこよさがむしろ照れ臭く、新藤兼人ナレーションの文学臭をまるで『の・ようなもの』のようなダサかっこいい路線に転じて何とかなるとでも?などと斜めに見ていたのだが。六〇年代前半の東京湾岸空撮から始まるロケーションが何しろ、いい。さらに随所のロケ加工も素晴らしい。その後埋め立てられてディズニーになる、東京湾に突き出た砂州の広がりの見事な美しさ。そこに生きる人々。絵空事としても心が満たされる。森繁が下宿する家の二階=一階構造こそが何より映画的である(たぶんオープンセット)。もちろん役者も全員素晴らしい。森繁を迎え撃つは東野英治郎、山茶花究、その他文学座の面々は先日の『にごりえ』に続き。女優陣も左幸子、池内、乙羽、丹阿弥。総じて猥雑の喜び。何より妹を育てるため乞食をする少女が圧倒的にいい。それからタイトルにもなる「青べか」を始めとする幾多の乗り物たち。水路では葬儀も舟。フランキーのスクーター。廃船に棲む左卜全の元船長のエピソードは何から何まで素晴らしい。ヴィゴやルノワールのようだ。そしてクライマックスに現れる警察の幌トラックは、その一連の演技を含めて最高である。それが最終的に江戸川を渡ってくるダンプのコンボイになる。ケレンとしての『幕末太陽傳』(東京を挟んでちょうど逆位置)より直截的であるだけ痛ましさは増す。ある時代の終わりの終わり。私はこちらを圧倒的に推す。唯一、左幸子の造形はこれでよかったかと頭を悩ますが、まあしばらく考えてみよう。もちろん清順師匠のように壮大な瓦解が露になるような芸は川島にはないし、川島で好きなものをと考えたってそちらの方が少ないのだが、しかしこれはトップに推してもいい出来栄えだと思う。昼寝がしたくなるくらいいい映画。何度もオリヴェイラを、特に『階段通りの人々』だが、思い出された。比較はしたくないが、これがあって『どですかでん』も『うなぎ』もその系列作ということになるのは致し方ない。これを直系として継承するのは同じ森繁主演の森崎東作品群ということになる。
ともあれ、久しぶりに見たフィクションがこれであったことは幸いだった。
 

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某日、一念発起して予定をどっと決めて(ライカート予約とか)週明けの伊豆入りを目指すことにした。ノンサッチは昨夜のチベットに続いてトルコ。素晴らしいのだが、最後にはるか昔、和田勉のドラマで有名になったやつが入っていて萎える。あれはトルコの軍歌だろう。唾棄すべき現エルドアン政権に繋がるような。気を取り直してブルガリアを再度。
キネ旬の作った若手映画作家チャートみたいなのが出ていて、濱口記念みたいなことのようだが、こういうのってセンターに置くことを前提(バランスいいやつってこと?)に作るものなのか? よくわからんし自分も入ってなかったので関係なかった。
渋谷で『ブラック・ウィドウ』。何がマーブルで何がそうでないかなどまるで分っていないが、アメコミのアクション映画化シリーズは気になったもの以外ほとんど見ていない。しかし今回気になったのは女性監督であることとスカヨハへの興味に尽きる。だが蓋を開けてみると、これはフローレンス・ピュー主演か、というのは大袈裟にしても、ほとんど何もしていない彼女を記憶に留めるために物量を湯水のように流し込んだような作品になっているので、そこでまず驚いた。個人的には昨日の今日で『青べか』の妹思いの乞食の姉設定そのままに二十年が推移するがごとき流れだけで涙腺は緩みまくるのだが、事はそれほど単純でもなく、見事に『ストーリー・オブ・マイライフ』から抜擢され未来のシリーズ存続に選ばれたピューが姉に向かって皮肉を吐くたびに、このシリーズが結果的に持つことになるフィクションに対する観客側のシニスムを体現するキャラの部分が増幅され肥大化し、もはやそれだけで一個のアベンジャーと化すことを理解するのに、エピローグを待つまでもない。派手なアクションが売りのシリーズだから諸々の瑕疵についての言及は詮無いことだが、誰もが攻めあぐねてきた「縦の活劇」に関して結局地上での対決に堕するのなら、着地の瞬間に何が起きるか、それこそ『ハートブルー』というその一点に賭けられたような作品があって、いまどっちか骨折したよな、と心配になるような墜落の瞬間を描けるかどうかが見所のはずだが、残念ながらこの監督はその辺雑駁であった。心配は作品中でも話題になっていたが、ウィリアム・ハートの激やせだった。あと「アメリカン・パイ」という有名な曲を私はほとんど知らないのだが、それは効果的に使われたのに、姉妹の間で交わされる口笛、あれ、これ冒頭でもあったっけ、などと客に迷わせるのは不味いだろう。こちらはフォードかホークスかなどと混乱させられていい迷惑だ。何だか『旅立ちの時』で始めたのに後からの増改築でヘンテコな家になっちゃった感。旧ソ連へのディスりというよりほぼ嘲笑もここまでくるとさすがに何かしっぺ返しもしたくなる。全てコピーといってもこれがコピーしているのは宮﨑アニメではないか。しかしこれがアメリカの2021年全米2位作品である。だから今はただ、ピューちゃんの勢いに拍手しておくに留めよう。
 

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『ブラック・ウィドウ』 (配給:ウォルト・ディズニー・ジャパン)
7月8日(木)映画館&7月9日(金)
ディズニープラス プレミア アクセスにて公開中
※プレミア アクセスは追加支払いが必要です。

 
某日、そして今度はラーメンズが槍玉に上がった。ポストモダンもクールジャパンもこれでおしまいだろう。九五年当時にうんざりしていたものが一掃されて、呪詛六割哀切三割残り一割の無関心で乗り切るけど、何とも侘しい気持しか残らないのが現実。
午後までぼんやり。昼に武蔵小山へ買出しに。珈琲豆、緑茶、もち麦、百均のゴミ袋、等。往復の徒歩でそれなりに汗をかいた。
そうしていよいよ、同い年のアメリカ監督ケリー・ライカート特集上映に通い始めることになるのだが、これに関しては次回まとめて書くことにしたい。どうやら自分として大きな話題となりそうな予感大だから。
 
某日、どうやら金満クソまみれ国際運動会は中止される様子はない。みっともないショボいジェット編隊も予定通り飛んだらしい。今宵は開会式らしいが、べつにどうでもいい。ただただうんざりする日々が始まりやがて終わるというそれだけのことだと思えば、やり過ごすこともできるだろう。あとのことを心配することはやめて、ケリー・ライカートとともに集中して、この三十年間積み重なってきたイライラと向き合うとしよう。
今日はエイミーの十年目の命日。
とうに九十を超えた義母はテレビを見ながら泣いていたらしい。ここまで生きていたかったという願いが叶った。この喜びを支えるための幾多の犠牲の苦しみがあることは不問に付して、つぎはぎだらけの世界は粛々と進行する。それならそれで構わないが、それより大事なことは間違いなくあり、血は流れているし、大事なことはまだ何も終わっていない。
そのためにこれからも集中する。


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(つづく)


青山真治

映画監督、舞台演出。1996年に『Helpless』で長編デビュー。2000年、『EUREKA』がカンヌ国際映画祭で国際批評家連盟賞&エキュメニック賞をW受賞。また、同作品の小説版で三島由紀夫賞を受賞。主な監督作品に『月の砂漠』(01)『エリ・エリ・レマ・サバクタニ』(05)『こおろぎ』(06)『サッド ヴァケイション』(07)『東京公園』(11)『共喰い』(13)、『空に住む』(20)、舞台演出作に『ワーニャおじさん』(チェーホフ)『フェードル』(ラシーヌ)、自作『しがさん、無事?』(19)など。

近況:特になし。