映画音楽急性増悪 第24回

虹釜太郎さんによる「映画音楽急性増悪」では、ウィリアム・フリードキン監督作を繰り返し観ることで浮かんでくる、いままで見落とされてきたかもしれない点についていくつか焙りだしていきます。

第二十四回 共存

 

文=虹釜太郎

 
 ウィリアム・フリードキンの度を越していたとされてきた演出方法の秘密は彼自身も出演している『悪魔とアモルト神父 ―現代のエクソシスト―』(2017年/ウィリアム・フリードキン)でもあきらかにはならないが、ただこの『悪魔とアモルト神父』に出てくるラテランの聖ヨハネ大聖堂の“聖なる階段”にフリードキンがひどく注目するところに、彼の俳優に対してではない演出の秘密が暴露されているのでは。ポンテオ・ピラトの邸宅に続いているこの28段の階段は四世紀に建てられたが、その階段を登るには膝を使う。膝だけを使って階段を登る人々のイメージは人間ではどうしようもない存在をより顕にし、そして階段において人間はその無力さをはっきりとさせられる。常人が普段階段に抱かない感覚。フリードキンだからこそ聖なる階段ではない世のさまざまな階段で人間の限界をより発現させたくなるのか。そうではないなら、では何をしたいのか。負けるのが決まっている世界の中で…
 かつてルターはこの階段を登り啓示を得た。階段を登ったというよりは擦った…
 それを別の擦過の監督たちであればそれをどのように描くか。
 
 
 異所性骨化は実際の難病。
 しかし創作された凶暴な異所性骨化をさまざまにイメージしてきた人はいる。創作された難病(以下、D)に関与するさまざまなXは、単に人間はたまたま利用したが、またそのことで人間たちはぎゃあぎゃあ騒ぎはするが、とりあえず利用しただけで別にその利用先などどうでもよいということ、またそのどうでもよい主体は、人間が作りだしたものであれ、人間より以前からある存在であれ関係ないということ、そこで生じるだろうあるなんとも言えない共存関係へのあまりの選択肢の無さのなかで、Dが具体的ないまこの瞬間の苦痛をとりあえず除去しているなら、Dとは選択肢の無い共存の精度をよりあげるもろもろの機会であるということ。
 フリードキン監督は「単に人間はたまたま利用されたかもしれないが、またそのことで人間たちはぎゃあぎゃあ騒ぎはするかもしれないが、別にその利用先など人間である必要などなく、そもそも人間などどうでもよく、またそのどうでもよい主体は、人間が作りだしたものであれ、人間より以前からある存在であれ関係ない」という態度(以下、C)においてフェアな人間であるというふうに映る。その演出方法はいささか度を越していたにせよ、Cにおいては善/悪も、そして原始的/高技術も関係はないという野蛮さと高難度の公平さ。そのCはいまではほとんど観直されることのない『ソニーとシェールのグッド・タイムス』(1967年/ウィリアム・フリードキン)においてさえ原色たちへのあからさまな信用し無さや快晴のなかの堂々とした翳りにおいて(勘違いでしかないのだが)既に潜んでいたようにさえ感じられる。
 フリードキン映画においては物音に耳をひたすらすますということは要請されない。しかし映画を観る者がいかにCに対する態度を顕わにさせられてしまうのかについては、フリードキンはかなり意識的だったように感じられる。フリードキンは何に対して執拗だったのか。
 
 Criterionオフィス映画ピックアップシリーズ(このシリーズではクレール・ドゥニ回がもっともキュート。ドゥニセレクトは『Carl Th. Dreyer Box Set』、『万事快調』ジャン=リュック・ゴダール+ジャン=ピエール・ゴラン、『ヒズ・ガール・フライデー』ハワード・ホークス、『肉体の門』鈴木清順他)のフリードキン回では、彼は以下のピックアップを。
『悪魔の金』(ウィリアム・ディターレ)
『スリ』(ロベール・ブレッソン)
『真昼の暴動』(ジュールス・ダッシン)
『ウンベルトD』(ヴィットリオ・デ・シーカ)
『M』(フリッツ・ラング)
…これらの映画におけるCとは…
 
  また『Leap of Faith: William Friedkin on the Exorcist』(2019年/アレクサンドレ・O・フィリップ)においてフリードキンはカール・テオドア・ドライヤーの『奇跡』(1955年)を真っ先にあげている。
 
 フリードキンの物議をかもした苦痛演出とされてきたものを正当化するつもりはない(フリードキン、キム・ギドク、ジョージ・スティーヴンス…)。素人神父であれピアノ線で脅されたエレン・バスティンであれ突然の弾丸恐怖症にさせられたジェイソン・ミラーであれなぜそのような目にあったのか。Cの前では人間は…
 
 ある事物が在ることで、そこでより人間の限界が顕になる場となりうるかへのセンサーを持つかどうかは事故誘発力とは違う力の宿りかどうかはともかく、それを持つかどうかは、それ単体ではなんでもないはずのものがどうまがまがしく在ることになるかについての認識の差をただ生むことでしかない。しかしこの認識と全く関係なくさまざまな映画を語り尽くし分析し倒してもそこであきらかになる膨大な構造と歴史は映画製作のモチベーションをなんらあきらかにはしない。なぜある映画作品がある新たな映画の製作を惹起させるのか(フリードキンの言葉なら“provoke”)を映画史に関する膨大な知識を持ちながらも実感できない者、その周辺の予知を持たない者が今日も歴史の整理に忙しい。『真昼の暴動』は少なくともフリードキンの『恐怖の報酬』(1977年)、『ブリンクス』(1978年)、『Killer Joe/キラー・スナイパー』(2011年、邦題に納得できないため以下、Killer Joe)らに恐ろしく長期に渡り影を落とし(『真昼の暴動』の冒頭の刑務所内を映す直前の外壁とその右側の『Killer Joe』でのデジャヴと『真昼の暴動』のジョーとルース、『Killer Joe』のキラー・ジョー・クーパーとドティー)、『M』が時間をかけてフリードキンにおいて『ランページ/裁かれた狂気』(1987年/ウィリアム・フリードキン)と『クルージング』(1980年/ウィリアム・フリードキン)の二つにあからさまに分裂したなら、フリードキンが再び立ち上がるならそれはどんな最後の偵察になるのか…
 
 足が使えても膝を使って過ごし目を開けていても手をつたいながら遮蔽物の感覚を再認していくなかであきらかになる映画史。その困難が今後もなければ多くの映画は無数に製作され続けるドラマたちにとって代わられていくしかない。フリードキンのブレッソン論、ディターレ論とは…
 
 
 『BUG/バグ』(2006年/ウィリアム・フリードキン)においてフリードキンは、ファン、虫、ヘリコプターをCにおいて区別せず、しかし人間どもはぎゃあぎゃあ今日もわめいている。アグネスはCへの気づきに近づくも思いっきしの人間の限界のままにまた出勤する。『BUG』と『スキャナー・ダークリー』(2006年/リチャード・リンクレイター)を改めて観比べれば、ロトスコープのような強引な曖昧さの強制執行の武器を使えない『BUG』のずさんなファンの接写や乱雑に繰り返されるヘリコプター視点がいかに魅力的かがはっきりする。しかし脊髄反射に特化した、いや馴致され過ぎた人間たちは  『BUG』の古臭さに閉口するのかもしれない。室内のファンがヘリコプターになり、人間界からは相互パラノイアな世界に侵入した世界の明日からのハエ取り紙柱の朝、希望の朝の音楽。
 住む部屋からバグラボに変容した場に侵入するゴス。ファンが廻る下でバグスプレーをでたらめに噴射しながらベッドに横たわるゴス。廻るファンの下でこれだけの阿保面と挙動を晒した映画が他にあっただろうか。 
 『BUG』の「話」自体は、Cとは関係ない人間たちのデルージョンとして進行してゆくようだが、紫タマネギへのフォーカスから何度でも別の軌道を描けるかもしれない編集が魅力的だった。『エクソシスト』(1973年/ウィリアム・フリードキン)の種明かしとか時間を超えた解題とか霧散する続編であるかどうかは別として(『BUG』後半のリズムは『エクソシスト』というより『The Night They Raided Minsky's/警察がミンスキー劇場をガサ入れした夜』(1968年/ウィリアム・フリードキン))、Cの感覚を実感した存在にとっては本作もまたある回に過ぎない。紫タマネギが映されることによりその回を認識する存在がいるということがはっきり示唆される。本作の紫タマネギと『悪魔とアモルト神父』の階段。
 
 『エクソシスト』や『恐怖の報酬』が好きで『ガーディアン/森は泣いている』(1990年)にひどく失望した者は多いかもだが、またこの作品はひどく酷評されてもきたが、森の精霊の直接描写がひどく失敗しているように思える本作は、森のスプリガン・マザーの恐怖というよりは、人間本体や母や怪物的母性とされるものとも関係のない行き場のない母性はそもそも人間などどうでもよく出現し暴走し、また人間より以前からある存在がいきなり、または断続的に姿を現すと人間どもが勝手に解釈する時、また誤認する時、または他のもろもろのストレスをそれに押し付ける時、人間どもはいかにまたしてもおたおたぎゃあぎゃあするか、またそのことで、でっちあげられる森の精霊どももいかに困惑するかの少数報告に映る。
 フリードキンは人間だけでなく精霊どももぎゃあぎゃあ騒ぎよるわということを写しとりたいだけのようだ。人間どもからいったん切り離した衝動のひとり歩きの観察。その観察の冷徹さはこのバカバカしい姿の精霊の前で徹底されている。
 その写しとりたさがこの世界では突発的な超常現象のストーカーホラーの失敗作ということにされ映画ダメ出し人間たちによって几帳面に保管される。しかしストーカーとか超常現象とかなどどうでもよく、本作はまたしてもの共存の難しさたちの反復で、母性は人間やモンスターとも関係なく暴走し、その共存の難しさが執拗に顕にされる。本作で母性はそもそも人間やモンスターとも関係がないというのは、二人の母(キャリー・ロウエルとジェニー・シーグローヴ)がともに哺乳瓶を必要以上に強く廃棄することでわかりやすく強調されているではないか。本作がホラーであるなら怖い箇所はここになるが…
 本作が失敗してるとするならスプリガンの直接描写や精霊樹アクションの稚拙さではなくて、『Killer Joe』冒頭の陰毛による横っ面はりの出迎えや『BUG』における宅配ピザの場面のようなつっこみのバカバカしさの過疎ではないかと。人間にもモンスターにも関係なく疾走する母性がアホパワーに転ずる奇跡があったなら。そして他作での紫タマネギと階段に相当するのはここでは飛び出す絵本になる。
 
 
 『悪魔とアモルト神父』では、実際のエクソシスト記録映像を見て、テルアビブ医療センターのイツァク・フリード博士が脳の帯状回の抑制という治療法について語る。
 
 難病と創病がCにおいてどう再編されるか。そのことにとらわれた表現者は地球にはまだまだ少ないのかもしれない。しかし少ないながらもDの提示はいくつかの作品で試されてきた。あまりに足りないけれど。
 Cという認識ではなくCという実感に日々浸っていくなかで、時に人は反復を繰り返せる強度などと言いだしたりもするが、反復・強度でなくとりあえずは別の症例を見てみるか一応とかまたはなりゆきでみたいな態度には何という名をつければよいのか。共存相手を意識しないままの共存、それは共存という呼び方が相応しくないのなら、ではどういう呼び方をすればよいのか。
 『悪魔とアモルト神父』のヴェナフロ村のクリスティーナについては感情の抑制、前部帯状回吻腹側部をどうこうというより、クリスティーナ自身が偽旗作戦を周囲に行ってるようにわたしには見えた。もちろん映像を通してだからわからない。アモルト神父の悪魔祓いもイツァク・フリード博士による脳の帯状回抑制治療もクリスティーナには有効には思えず、彼女がいまのコミュニティにいる限り問題は全く解決しないように見える。たとえそのコミュニティが善人たちだらけに他人にはいくら見えようと。あるコミュニティへの依存と呪詛が両方とも強度がありすぎる場合、そのコミュニティにずっと留まることしかないオプションのなかでは、聖人がいかに力を酷使しようとも偽旗作戦の変形はそれを常に超えるように作動してしまうのでは。
 自らが所属するなにかにおいて、そこから容易に離れられない場合、または離れられないと自ら決めつけている場合、どんな表面的理由であれそこに執着する場合、そこへの違和感と広義のpretentiousやacting coolが接合した場合に起きる事態については、そこでダメージを受け疲弊し困惑する当事者の悩みについてその周囲にいる者たち(時に支援者)に原因がある、正確にはその当事者と周囲にいる者たち(支援者を含む)との関係だけに原因がある場合が多いのでは。その場合の解決法は問題が起きている場からの強制離脱しかないのではないか。しかし当事者は問題の解決を求めているのだと常に死にそうになりながら、実際には表面上の強い共感だけを望み続ける場合も多々ある。そんな事態と悪魔祓いのようなものの反復。治癒不可の反復。
 強制離脱先でクリスティーナが共存相手を意識しないままの共存について新たに語るみたいなことが、今後クリスティーナ以外の誰かができて、それを皆が共有する事態が増えていけば、そこでこそささやかな解呪がやっとひとつ可能になる…だろうか。やっとひとつだけ。たとえいくら人が死んでも。フリードキン作品でその可能性にもっとも接近したかもしれないのは、わたしは次にあげる映画ではないかと思う。
 
 フリードキン作品の中でももっとも過小評価されていると思われる『ランページ/裁かれた狂気』。『田舎司祭の日記』の皮を被った、『M』への愛憎。
本作の評価は死刑反対論者の検事の設定がうまく活かされないままに後半だれにだれて非常に曖昧ですっきりしないというものが多いのではないだろうか。
  本作に出てくるリーガル・インサニティ問題が全くすっきりしないのもまた一部の観客のストレスをかなり増やしたかもしれない(Gerben Meynenによる『Legal Insanity: Explorations in Psychiatry, Law, and Ethics [International Library of Ethics, Law and the New Medicine]』の早い邦訳を希望)。
 本作の冒頭で連続殺人犯が殺人現場でウィンドウを降ろすが、トニーが曖昧であり続けていることは冒頭のウィンドウ降ろしとなんら変わることはなく、トニーの曖昧模糊さは連続殺人犯リースの猟奇と等しい。
 トニーはこの世界に浮上するCについて、彼の同僚たちと違い気づいている。リースの逃走はトニーにその気づきに答えを出す時間稼ぎになっているが、トニーは答えは出せない。その間、何が写っていたか思い出せるだろうか。
 本作はフリードキン作品のなかでももっとも音の調整がすばらしい。すばらしいというのは本作で聞こえる/響く音はすべて内と外の区別が無さ過ぎるから。丁寧にそう処理したのかよほどの手抜きでなければこうはならないのでは。トニーが遊ぶ子どもをスローに白昼に視ることとこの距離感を失っている世界の聞こえ方はセットだ。映画を等倍で観ろとかいう老害の強制やめてもらっていいですかキモいんでが日常になっている世界で本作の話の筋だけ把握したところでどうなるのか。本作はまた『クルージング』や『エクソシスト』とは別のやり方で、こども=未来の絶対に対して最低限の疑問を露わにもしている(こども=未来は絶対ではないという観点ではなく、なんらかの条件によりこども=実験的配置としての未来の実現の是非の無限問答と変態する倫理と歪む衝動についてのドゥニ論を希望)。映画の後半で曖昧過ぎるトニーが果てなくだれてるなではなく、トニーはかなり早い段階でおかしくなっていた。そのことは音で先に示され、その音の内と外の区別無さに呼応するかに、トニーはさまざまな区別する能力を失っていく。しかし区別をなくす失能力は実際は福音ではないのか。周囲からいくら不幸になった、おまえはダメになった、おまえは真に終わりつつある、おまえの判断力はもう失われた…などの周囲のワンパターンたち。
  殺人犯リースはなぜ殺人を繰り返すのか。本作を駄作と見捨てる前にそのことにおいてのとりあえずの答えを教えてほしい。
 トニーはリースがなぜ殺人を続けるかについて彼の同僚たちよりは考えている。答えは人それぞれと言わずとりあえず出すのであれば、それは平然と子供を育てる者朽ちよ、で。富めるものは朽ちよ錆びよでなく。リースの殺人の傍らに常に子らがいる。リースが『エクソシスト』の逆のように教会に爆発的侵入をして殺人を犯すのはどうしてか。スペクタクルがどうしても必要だった以外の理由は? 静かに教会に侵入して静かに呪い嘲笑い殺すことだっていくらでも有り得ただろうに。本作におけるリースは快楽殺人ではない理由があり、そのことにトニーの同僚たちは永遠に接近しない。そしてトニーがリースの連続殺人への仮説を孤立して検証しようとしていたとするなら、自らは子を育てていないことによる殺される資格を満たさないこと(え? なんだって?)を含めての直視はよりトニーを疲弊させる。快楽殺人でない殺人の理由を『Se7en/セブン』(1995年/デヴィッド・フィンチャー、この作品の表記はSevenでなくSe7enとしてあげなければあまりにかわいそうなので以下、Se7en)のようにあまりにわかりやすくすれば人々はそのことについてより考えることになるというジョン・ドゥになどならないリースのような伝える言葉を持たない連続殺人犯たちについて、トニーは同僚や仲間や家族たちの助けにも全く頼れずに手記(ここでは携帯録音機)を通して考え抜くしかない。トニーには『カンタベリー物語』や『失楽園』を薦めてくる同僚はいない(そんな同僚はどんな国でもほとんどいないだろうけど)。
 トニーが陥っている八番目の状態は悲嘆であり、憂鬱または嫌気、または霊的怠惰かその全てか。『田舎司祭の日記』の司祭が苦しんでいるのは八番目の心痛ではなく、自分が行っている生活に自信が持てなくなりどうして自分はこういう事を日々しているのか、このようなことを繰り返していったいなんになるのかなどという八番目以前のある一般状態では。ではトニーはどうか。 
 『Se7en』という映画でもっともくだらないと思える部分は「Sloth」のパートである。ジョン・ドゥができずにリースがつきつけたものとは。
 「ブルータル・マーダー」と便宜上されるものについてとりあえず裁かれる場でのジョン・ドゥとリースの表情の違い。
 ジョン・ドゥはあきらかに法廷を望まず裁かれる場にミルズの敗北計画を希望しドヤ顔で笑っていたが、リースは裁かれる法廷での交わされる議論に笑わずに着目している。
わたしなら八つの人間の一般概念でなく九つの人間の一般概念で「遮断」をつけ加えただろうが…愚か過ぎてわからない。
 遮断、感覚遮断、判断停止の呪われた作動…それは映画『ランページ/裁かれた狂気』でもミセス・リースのカーテンを締め切った不自然なまでの遮断で異様に強調されていた。
イマジナリー・イルネス… それについてとらえなおすことのあまりの過疎…この世界での創病のあぶりだされについてのあまりの過疎…
 ケイトも別れてくれ、脳スキャンの結果…なんだそれ? でトニーはやっと上記らについて考えるスタート地点にたった。なので本作はすっきりしないなどというものではない。映画は改めて広大でまだ何事もほとんどなされていないことをフリードキンが鬱々とした皮をかぶって高らかに出発地点にたったと朗らかに宣言した映画だった。
 
 
 うるさく吠える犬とうざったらしい豪雨からのいきなりの陰毛からのビンタで義理ママ売りますからフライドチキンイマラチオまでの『Killer Joe』は、旧文芸坐の幾多の特集のなかでも特にすばらしかった特集、痛み過ぎて廃棄寸前フィルムまとめて一気上映のジャンクフィルム特集で傷んだ状態で観たいものでもあったが、クリアな状態で観てもキャレヴ・デシャネルの撮影がすばらしいので全く問題ない。
 隠して録音しました、隠れて録画しましたがあまりに常態化した現在では本作のような作品は設定自体成立しない。どぎついはずの本作はバイトテロにあまりに翻弄され続けるクソ現実世界ではきれいすぎるかもしれない。ワーキングメモリ(前頭葉と帯状回認知領域)が十分に機能していても認知で他の有効な選択肢を選んで行動など全くできなそうな次々発掘され続けるリアルトラッシュバイトたちは本作のようなコメディ? の前提条件にすらならない。そのようなテロが常態化しているこの国ではそもそもスリラーコメディも成立不可能なほど底が抜け過ぎてしまって、その終わりを抑制する皆殺し映画通信でさえ全く効かないほどの終わりきりが更新され続けてしまって、本作の拡張バカ家族たちが全くバカに見えない。
 『Killer Joe』は2011年の映画で、『警察がミンスキー劇場をガサ入れした夜』は1968年だが、「“証人”を新たに作るプログラム」(以下、P)においては、後者の古い作品はバイトテロ以降のクソ世界においてさえ古くならないのが奇妙だ。フリードキンが死ぬ前にPの映画を更新するかはわからない。が『悪魔とアモルト神父』はPの実体化のひとつで、抵抗運動としてのPは必ず映画作品である必要はない。
 『警察がミンスキー劇場をガサ入れした夜』終盤での劇場内の半地下ドラマー(映画内観客からは視えない)から舞台への鼓舞であるドラミングは、表のプロダクションが全滅に見えてもさらに視えないポストプロダクションでの抵抗たちへの鼓舞としてこの映画が作られた半世紀後の現在響く…わけでは全くないが、バスビー・バークレー演出とフリードキンのこの作品を並べて論じたものはぜひ読んでみたい。
 ドキュメンタリーあがりのフリードキンの恐ろしさは『悪魔とアモルト神父』の後に忘れられつつある『警察がミンスキー劇場をガサ入れした夜』を何度も観直すことではっきりする。
 人間には関係ない衝動が疾走して人間どもはぎゃあぎゃあ騒いでいる…から、ついには人間には関係ない衝動すらなくなりつつある世界に。この世界は心底クソだといっても後者のクソ社会では前者にはないどのような死に方がすてばちに発明されるか。生まれてこないほうがよかったを常々議論している人たちが『Killer Joe』をどう観たのか教えてほしい。
 
 『Killer Joe』では誰も見ていないテレビが最初に殺される。その後にフライドチキンとかいろいろあって誰もが納得できない共存のあまりにもな最小単位の数秒(共存のあまりにもな最小単位にはそれ専用の言葉が与えられるべきで、ここではそれを仮にUとするが、そのUは自然発生共同体の不自然な美化や犯罪組織、反社会的組織にもよく見られる親密圏を理想視されるなかでの共存の小さな単位Gとは別のドライ過ぎるもの)が訪れる。その数秒の拡大された瞬間を生きている錯覚。 
 その数秒はどこかで見た覚えが…
 
 『警察がミンスキー劇場をガサ入れした夜』の70分過ぎのでっちあげのダンス。そこで三人めに踊ったガムを噛みながら公然と共存だかなんだか知ったこっちゃないがなあという女の表情をすぐに思い出す。彼女の表情は、一本の映画は延期された自殺であるとかなんとか安心する者の横でも消えずに明滅する。
 
 パーティが決裂してからの共存の模索である『The Boys in the Band  真夜中のパーティ』(1970年/ウィリアム・フリードキン)のアラン登場以降のドン引きからの今夜の告白ゲームの長くて短い時間稼ぎを思い出す(本作では映画冒頭で突然関係なく鳴り響く赤ん坊の泣き声が劇中ずっと不気味な余韻を残す)。マイケルの無理やりの共存の願望の悲鳴。
 
 『大自然の闘争驚異の昆虫世界』(1971年)も濃厚に残存する『恐怖の報酬』におけるニトロトラック二台分岐前のなんでもないようなポケット切除の瞬間の四人のいらつきたちの代え難さを思い出す。『BUG』における紫タマネギが本作のポケット切除にあたるのかどうかはわからないが。
 
 『クルージング』冒頭の“CUPPI”のうちのPとUを思い出す。PはPending。UはU ndeterminded。残りのCともうひとつのPとIがなにか忘れた人は各自調べてほしい。本作登場の自白強要謎マンXはガキ使の絶対笑ってはいけないの根幹に影響を。ハワード・ホークスへの反発としては1971年の『フレンチ・コネクション』と本作は二つで一つだろうか。不妊治療などと一切関係のない無精子症を祝福としてはじまる青春映画はまだか。アル・パチーノは本作で、イーストウッドは『白い肌の異常な夜』(1971/ドン・シーゲル)で「テスト」に合格。
 未訳の『William Friedkin: Films of Aberration, Obsession and Reality』(Thomas D)には独立した『クルージング』論があるらしいが、Peter Biskindによるかなり批判的なフリードキン論とあわせ、日本独自編集のフリードキン本の製作が今後あれば。そしてそもそも映画のAberrationたちについても改めて考え直されなければ。ストーリーと俳優以外の常軌を逸したことたちについて。『Leap of Faith』後でもまだまだわからないことだらけなので。
 ラストの鏡での自我剥奪の兆しは、『Killer Joe』ではその剥奪の予兆への猶予すら無くなる地獄となるが、ここでは警官が刑事になる過程という仮の形式のなかで剥奪されていくものとはなにかという、長時間のドラマではなく短時間の映画でしか達成できない放り投げとして鈍く光っていた。フリードキンがこれから新たな刑事未満の映画(刑事未満の存在にはいまださまざまな負の可能性が)を作るとは思えないが、『Killer Joe』のマシュー・マコノヒーが『True Detective』(2014〜2019年/ニック・ピゾラット原作/製作総指揮スティーブ・ゴリン、マシュー・マコノヒー、ニック・ピゾラット他)で反出生主義を含むさまざまな可能性を徹底できなかった疵は大きい。『Killer Joe』の最後が手を取り合って絶滅に向かう第一歩でなかったと言い切ることはできない。いまだに人間はそんなことなどしないのだという映画好きが存在する。刑事未満の存在は時に全人類は生まれるべきではなかったよなあという気づきにもっとも開かれた存在でもあるだろうが(これがおおげさにに聞こえるならおめでたい)、まだまだ刑事映画の何事もほとんどなされてなどいないという立場で死んでいきたい。
 
 
 リチャード・チャンスとエリック・マスターズによるメインストーリーとは別の女たち、工場たち、ラジカセたち他の日常鼓動が過剰に強調された『To Live and Die in L.A./L.A大捜査線狼たちの街』(1985年/ウィリアム・フリードキン)の札嗅ぎを思い出す。このデフォーが演じる札嗅ぎは上記のUがほぼ不可能に近いことを現す印として鈍く思い出される。その札嗅ぎを看過する=睨みつける刹那にはGにはない気化する何かがあり、それが顔面被弾後にも強く想起される点においていまだ『ディパーテッド』(2006年/マーティン・スコセッシ)を凌ぐ強度でGのバカバカしさをひどく顕にし続ける。Gの人類での適用期限終了についてをなんら意識しない作品はその後も世界で量産され続けている。
 
 
 負けるのが決まっている環境の中でどう局地戦で戦えるのかにおいての『ブリンクス』(1978年/ウィリアム・フリードキン)と『エクソシスト』。それを疑うなら、また理解不能なら『エクソシスト』で神父がガラスを突き破ってジャンプする場面で「IN THE MOOD」と「ACCENTUATE THE POSITIVE」を何度も再生してほしい。そんなくだらない意味のないことはできない? なるほど。わたしがバカ過ぎるのはわかっている。賢いあなたたちは『ランページ/裁かれた狂気』の根元をどう切断することができたのかを知りたい。
 Pをぎりぎりで捕える『ブリンクス』型に対し、『エクソシスト』にはなかったPはかなりの時間差で『悪魔とアモルト神父』で模索された。がまだそれは路半ば。
 
 共存はいかに可能かどうかではなく、共存に見えないそれはいかに時間稼ぎできるか。それは『エクソシスト』でも『悪魔とアモルト神父』でも問題にされたが、無駄になる闘いならどう抵抗したかを試し直すDの設定は今後ますます重要になるはずだ。それは表だってそうは全く視えないにしても。
 フリードキンは時間を稼いで階段の下に立った。では他の者たちにできたこととは。