妄想映画日記 その119

樋口泰人による2021年5月1日~10日の日記は、居間の壁を塗り替え、映画とカーネーションのライヴを配信で観るなどほとんどで出歩かずに過ごしたGWと、母親のワクチン接種に付き添うために山梨の実家で過ごした週末の記録です。
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文=樋口泰人


5月1日(土)
一昨夜は夢に黒沢さん夫妻が出てきて、昨夜は安井くんが。そして起きたら居間がこんなことになっていた。居間の壁の塗り替えをやるのである。

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まるで黒沢さんの映画だと言いつつ壁塗りをしていたら荷物が届き、『大いなる幻影』DVDだった。数日前、マスクの時代に再度見ておかねばと注文していたのである。夜、再見すると安井くんが出ているのはもちろんそうだが、主人公たちが部屋の壁塗りをしているので呆れた『大いなる幻影』の1日。そして20年以上を経た今こうやって観てみると「幻影」ということなのか、その後やそれ以前の黒沢映画へのさまざまな道筋がぼんやりとはっきりと浮かび上がる。ああこのスーツケースはシベリアで前田敦子が引きずっていた。この海辺は『トウキョウソナタ』でも『岸辺の旅』でも観たし、アテネ・フランセの松本さんは『CURE』に出演していてもおかしくないし、主人公が種を育てる屋上では菅田俊も植物を育てていなかったか。そんな記憶や妄想がふと浮かび上がり続けるのは確かにそれらがどこかでつながっていることもあるだろうが、この映画の時間の流れによるところが大きいのだと思う。冒頭、主人公がコピー機のところに散らばった書類を片付けるのだが奇妙に時間をかける。丁寧というのとも違う。何かひとつひとつをかみしめながら、愛おしいものを抱きしめるように紙を拾い、落とし、そしてまた拾う。かつてそこにあったもの、今や失われてしまったものを思い出すというより、まさにかつてそこにあったものや失われてしまったものが今そこにあるかのように、彼女はそれを拾い、落とし、そして拾うのである。奇妙な悲しみと愛に満ちあふれた時間が流れる。もちろんそれがその後の物語と関係しているわけではまったくない。だが、映画の最後、彼女の仕事場が襲われた後、散らばった事務所内の書類を、彼女は同じしぐさで集めるのである。この時観客たちは、彼女が過ごした時間と愛する男との関係を十分に知っている。彼女のそのしぐさの中にはその時間と愛が静かにそして豊かに流れているのを知っている。そしてまた、冒頭のコピー機のところの彼女のしぐさの中にも同じものが流れていたことを、わたしたちは冒頭から知っていたのだということをその時気付くのである。つまり、冒頭のシーンは、最後のシーンの彼女のしぐさより後の時間のものであると言ったらいいか。通常の時間の流れならあとに来るはずの時間がこの映画では最初に来て、その時間の流れの混交が、わたしたちを大いなる悲しみと大いなる幻影へと誘い込むのである。生きるとはそういうことではないか、われわれはあらかじめ知っていることを後から気付く。われわれが生きているいくつもの時間の層が交差する場所こそがわれわれの身体であることに気付くと言ってもいい。映画はそんな身体を映す。だからそこには悲しみと愛があふれているのだ。マスクのシーンは記憶より圧倒的に少なかった。

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5月2日(日)
壁塗り2日目は慣れもあって順調。予定の作業はほぼ終わった。昼食は高円寺のペルシャ料理レストランのランチ。腹が減っていたので格別おいしかったのだが、腹が減っていたために写真を撮り忘れた。夜は、昨日の『大いなる幻想』の余波でエドワード・ヤンが観たくなり、『恐怖分子』かなとも思ったのだが、『台北ストーリー』を。侯孝賢の主演、共同脚本ということもあり、その後のふたりの映画が見えるような作品で、その若さも含め何度観てもドキドキする。しかしその「若さ」とは裏腹に冒頭から圧倒的に憂いに充ちた空気。これからここに引っ越して新しい暮らしを始めようという人間の新たな時間への待望とは限りなく遠い悲しみの視線が、そこには溢れていた。それは最後近くのまだ借りたての新事務所のがらんとした空間の中でのやりきれない思いがそのまま最初に反復されているかのような憂鬱と言ったらいいか。「若さ」というかけがえのない時間だけではなく、そのかけがえのなさが自分の中から抜け落ちてしまったその空虚を抱えながら生きていかねばならない人生の悲しみが、まだ引っ越し前の何もない部屋を充たしていた。おそらく相当な低予算で撮られているはずなのだが、登場人物たちが住む家や部屋の佇まいの豊かさにいつもながら驚く。そしてこの豊かさが気が付くと消えていく台北の80年代の変化の中で、エドワード・ヤンと侯孝賢はそれぞれ別の道を選んだのだろう。

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『台北ストーリー』
「台湾巨匠傑作選2021―侯孝賢監督デビュー40周年記念<ホウ・シャオシェン大特集>」
6/11(金)まで新宿K’s cinemaにて開催、6月名古屋シネマスコーレ、6月下旬大阪シネ・ヌーヴォ、7月横浜シネマリン、夏UPLINK吉祥寺他順次公開、他UPLINK京都、神戸元町映画館にて開催予定(※上映作品&スケジュールは劇場の公式サイトへ)



5月3日(月)
調子いいとは言い難い日が続く。午前中は壁塗りの最後の仕上げをして、午後からはパソコンに向かっていたはずなのだが、いったい何をしていたのかまったく記憶にない。まあ、ただ向かっていただけ、というのは大いにあり得る。ああ、電話で何人かと今後の企画の準備について話をしたのだった。2年ほど前、今後は違う形でやれたらと思い始めた時にさっさと次の準備をしておけば今もう少し何とかなっていたかもしれない。そんな思いもよぎるが今更取り返しはつかない。
夜は『はちどり』。見逃していた話題作をようやく。予想よりは普通の映画だった。『大いなる幻影』からの流れだと、後半の橋の崩落事故の後の食事のシーンで、主人公の姉がすっと消えていかねばならなかった。もちろん、当たり前だがそうはならない。それをやったら観客はみな腰を抜かすが、この映画は成立しない。とはいえ勝手にちょっとそんなシーンを想像してニヤニヤした。だがその後の、ちょっとスーサイドを思わせる50年代のスイートポップ風韓国テクノを聴きながら主人公がダンスするシーンでは、きっとこの子も『20センチュリー・ウーマン』の主人公のように、グレタ・ガーウィグみたいな誰かからこの曲の入ったディスクをプレゼントされたに違いない、そしていつかこの子も成長して誰かに思わぬ曲を思わぬ形でプレゼントする、そうやって音楽は荒野を焼く野火のように広がり始めるに違いないと、『過ぎゆく夏』でエルモア・ジェイムスのレコードをギターケースに入れてテキサスの田舎町の少年院に赴任してきたジョン・トラヴォルタ扮する音楽教師のような気持になってウルウルするのだが、だがそんなこちらの身勝手なロマンティシズムをもあっさりとすり抜ける、見事なダンスだった。



 
5月4日(火)
連休中はずっと自宅だったので、1日くらいということで吉祥寺に行ってみた。仕事部屋のライトを買いたかったのともう6年くらい使っている眼鏡も新しくしたかった。しかしライトは思うようなものはなく、眼鏡は蜜を避けるため予約制になっていていきなりでは無理だった。別のショップでもよかったのだが、今回は訳あってここでという指定があり、また別日にということにする。昼食は1年2カ月ぶりにピワン。定番のチキンカレーと海老キーマカレーを。ライスも含めたバランスが絶妙で、ああやっぱり時々ここに来ないとねと幸せなひと時を過ごす。石田くんから、特製カレールーをもらった。しかし吉祥寺は平日とは大違いの賑やかさで、天気が良かったせいもあるのだろう、緊急事態宣言中の街とは思えなかった。そして久々にあちこちうろうろしたら、いつも来ているはずなのに新しい店が増えていて驚いた。まあいつもいろんなことに焦っていて、こんなにのんびり街を歩くなってことはなかったのだった。こうやって忘れていた時間を思い出すと、もう元には戻れない。どうやったらこういった時間とともに生きていけるのだろう。そんなことを思い始めるとますますこの日本の現実との距離が開いていく。GW中のいくつかの仕事を断り、友人たちのイヴェントにも行かずほぼ自宅でじっとしていたわけだが、おそらくこれでよかった気がする。

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夜はしばらく間が空いてしまったがジョセフ・ロージー祭の続きで『恋』。原題は「The Go-Between」である。大人たちの恋の仲立ちをする少年が主人公。大人たちからは「メッセンジャー」と呼ばれているのだが、かつて映画の中で、このような立場の人間が主人公になりそしてこのような描き方をされた映画はあっただろうか? つまりメッセンジャーが恋の主役になることもなく、そのまま年老いて再びメッセージを届ける、というような。人間と人間との関係がそのまま擬人化されたとでも言いたくなるのだが、それにしてもこの時間構成。少年時代と年老いてからのふたつの時間が大胆に組み合わせられているわけだが、しかしどこかでそれは、少年が友人の姉を初めて見たハンモックに寝る彼女の姿で止まっているとも言える。映画の中に動かしがたい決定的なショットがあるとしたらあのようなショットではないか。白く輝く夏の光の中、木陰に吊るされたハンモックに寝そべる白いドレスの女。顔は良く見えない。にもかかわらずそれは確実に少年の心をとらえてしまう。そしてそれは確かにそうでしかないことをそれを観る観客たちの胸にも深く刻み付けてしまう。まさに永遠の一瞬と言うべき時間。もうそれで十分である。

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5月5日(水)
低気圧来襲、ということで更に体調は思わしくなくなり今後への不安ばかりが膨れ上がる。とにかく生きていければいい。午後からはカーネーションのライヴを見逃し配信で。リアルタイムでの配信というのにどうもなかなか馴染めず、どうしても数日遅れとかになってしまう。画面を介した瞬間に「リアルタイム」というモードが切れてしまうという感じなのだ。うまく説明ができないのだけれど。
本日のカーネーションはどこか愁いを帯びていた。ライヴを行った4月29日のリアルタイムではなくわたしが映像を見ている5月5日のリアルタイムの天候がどこかに紛れ込んでいるのではないかと思えるくらい、直枝さんの声が湿り気を帯びて聴こえた。デヴィッド・リンチ的な腐臭がほのかに漂うスイートな響きと言ったらいいか。例えばローリング・ストーンズのようないつまでも現役感とは違う、あるいは老いに向けての準備でもなく、自ら進んで生と死に片足ずつ突っ込んで新たな場所を作り出していくような、そんなカーネーションの今後を妄想した。ああでも、リアルタイムで聴いたらまた全然違う印象を受けたのだろうなあ。
夜はGhost Streamをひとりの観客としてちゃんと使ってみようということで、まずは空族の「長い予告編シリーズ」3本を購入してみた。結局3本を一気見。最初の『FURUSATO 2009』からはそのタイトルが示しているようにもう10年以上が過ぎた。ドキュメンタリーということもあってか、そこに刻み付けられた時間の強さが奇妙に印象に残る。『ラップ・イン・トンド』も『ラップ・イン・プノンペン』もただただその時間の中に生きている人たちの姿が映されていた。あるいはかけがえのない過去の喪失を抱えた人たちの現在という時間が当たり前のように目の前に現れて消えた。映画はそんな時間をさらに反転させて輝ける永遠へと変換する装置ではないかとも思うのだが、この3本はそういった映画の営みを台無しにしてしまう。だから「長い予告編」ということなのだが、付属するインタビューにもあるようにもはや何のための予告編なのかわからない単なる予告編になりつつあるそれは、まさにそのことによって輝ける永遠を獲得しようとしているかのようだ。


 
5月6日(木)
俄然不調。SOS状態なのだが何とか乗り切るしかない。体調だけではない。こんな中途半端な宣言が続いたらboidみたいな小さな会社はひとたまりもない。なぜ、「みんなで1カ月休みましょう、補償はします」とそんな単純なことが言えないのか。制度ばかり細かく作ってどんどんわかりにくくなり、本当にそれを求めている人のところに届かない。精密になった制度の網目を潜り抜けていくことができる人のところにだけそれは届く。馬鹿じゃないのか。誰のために仕事してるんだ。今はただシンプルに自分が何をすべきか足元を見つめ直すだけですべての道が開けるというのに。
とかなんとか、ぶーぶー怒って一日が終わる。低気圧のせいもあって、怒りの熱量は思い切り低くテンションは下がりまくって死亡寸前である。到着したDub Syndicateのサードアルバムの音があまりよくなくて、さらに気分は低下。だが、これは気分のせいで音が沈んで聞こえているのだという言い方もできると、B面を聴きながら思った。リズムの跳ね具合はこんな気分をさえ少し持ち上げてくれる。ただピアニカの音が……。その流れで本家のオーガスタス・パブロを聴く。そしてかろうじて各所連絡。松井(宏)は予定通り再来週明けくらいにフランスへ渡るとのこと。行けるなら今のうちに行った方がいい。しかしよく考えると、コロナ次第で今度顔を合わせられるのはいったいいつになることやら。わたしの体調のことも考えるともう2度と会えないんじゃないかとも思える。寂しいがそんなものだ。

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5月7日(金)~9日(日)
母親のワクチン接種のための付き添いなどのため実家に。東京暮らしのほうが山梨での暮らしより長くなって久しいためか、帰郷するたびに新しい場所に還るような不思議な郷愁にとらわれる。雨模様だとさらにそれが増す。ジャ・ジャンクーの映画などを思い出しながらぼんやりとJRの駅前に佇むわけだが、何か特別な物語が湧き上がってくるわけではない。思い出といっても具体的な風景とか行為とかばかりである。『帰れない二人』みたいな思い出があったらとか思うが、まあ、それはそれで大変だろう。

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ワクチン接種は思いのほかスムーズであっけなく終わった。87歳以上限定ということもあったのだろう、会場でのフォロー体制も万全、混みあうこともなくのどかなものだった。小さな町はこういう時はいいね。都会もこれくらいののどかさでやれたらと思うばかり。気が付くと晴れた空の青がぼんやりと霞がかかっている。これはいよいよ白内障かと思っていたらどうやら黄砂の影響らしい。ニュースでは盛んに伝えていたとのこと。たった3日間で世界から取り残されてしまった気分である。ネットでつながっているゆえに、その取り残され感が増幅される。1カ月くらいこういう暮らしをすると果たしてどうなるのか。

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5月10日(月)
3日間の疲れもあってぼんやりしつつも各所連絡事項多数。そして実は、緊急事態宣言が11日で解除されたら12日からお台場の爆音映画祭リヴェンジを企画していたのだが、夕方までギリギリ告知を待った挙句に都内のシネコンは一斉休業が決定。うんざりである。これで都内での爆音は秋まで無理か。一時支援金や文化庁のキャンセル補償で生き延びるしかない。演劇などの会場はOKで映画館はNGという区分けの理由の説明もなく決定事項だけが示されるのだとしたら、それに対する補償はしっかりとするのが筋だろう。どうしてそれができないのか、という説明をニュース解説者はどうしてできないのか? 抗議の声が上がりましたという誰でもわかることを伝えるだけで解説もないニュース番組にいら立ちは募る。「みんな大変」という取材ばかり。それじゃあ感情的なことしか伝わらない。
夜はスズキジュンゾくんの「みみのこと」のニューアルバム『マヨイガ』。このアルバムの告知を見た時以来、ずっと『マイヨガ』と空目していた。「わたしのヨガ」ってどういう意味なんだろうとずっと思っていたのだが「迷い」だった。でもこうやってカタカナ表記したとたんに誰も思ってもいなかった形で何かが浮遊し始める。その浮遊した何かが雲のようになり、その中から聞こえてくる音が1枚のアルバムになったような。そんなおぼろげな感触のせいなのか、久々に歌詞を見ながら歌を聴いた。「焼け憑かれた地図 間に舞う広場」というフレーズの生み出す、意味を越境していくイメージの鮮烈さに心打たれた。それぞれの楽器のエコー感とボーカルの定位のさせ方が独特で、これはピースミュージックの中村さんではないのかと思い、スズキジュンゾくんに尋ねようと思ってクレジットを見たら、やはり中村さんだった。録音もピースミュージックだったとのこと。

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樋口泰人

映画批評家、boid主宰、爆音映画祭プロデューサー。98年に「boid」設立。04年から吉祥寺バウスシアターにて、音楽用のライヴ音響システムを使用しての爆音上映シリーズを企画・上映。08年より始まった「爆音映画祭」は全国的に展開中。著書に『映画は爆音でささやく』(boid)、『映画とロックンロールにおいてアメリカと合衆国はいかに闘ったか』(青土社)、編書に『ロスト・イン・アメリカ』(デジタルハリウッド)、『恐怖の映画史』(黒沢清、篠崎誠著/青土社)など。オンライン映画配信ウェブマガジン「GHOST STREAM」をオープン。