映画音楽急性増悪 第21回

今回の虹釜太郎さんの「映画音楽急性増悪」は主にキム・ギヨン作品における突発と突然、発明され続ける生存の方法について、『水女』(1979年)、『虫女』(1972年)他を取り上げます。

第二十一回  凸



文=虹釜太郎
 
 
 突然だ。突然、世の中の全てに感謝したり、突然、吃音が治ってしまったり、突然、子供が実在していたり  (「突然、子供が実在して」なんて"日本語"がおかしいことなどわかってる。でも仕方ないのだ )、泣き疲れた後に突然のダッシュをしたり、突然鼻つまみお口あーんからの大笑いからの絶望大途絶。玄界灘沈黙または呵々。突然、難病が治り、突然、健全な毒人間たちが消滅する。
 
『陽山道』
『黄昏列車』
『下女』
『玄海灘』
『火女』
『虫女』
『異魚島』
『殺人蝶を追う女』
『水女』
 
 といったギヨン作品においていったいどれだけ突然の凸が頻出したかわからないが、そんな凸映画たちは別にキム・ギヨンだけでなく、『ワイズ・ブラッド』(1979年/ジョン・ヒューストン)他世界にいくつもあるはずながら、しかしあまりにキム・ギヨン作品はあまりに凸での急カーブを曲がり切れないまま強引に曲がっている剛腕が清々し過ぎないか。悠長にワークショップなど試行していたら突然乱入されてぶっちぶちに壊されてそのまま違う映画がでっちあげられてしまうような事態は過去に映画において何度もあったとはいえ、虫女は肉食動物になってしまう反復が強く出現し続けてしまうような事態とは。ギヨン映画に突然現れる赤ん坊を見る度に何度もそれについて途方に暮れてしまう。
 『水女』 (1979年)。冒頭、戦争から負傷し帰還するチンソクを出迎える井戸からの怨声にはさまざまな獣の音が混ぜあわされ突然地上に音が撒かれる。その見えない撒かれの前に、映画では観客は体験できない匂いを嗅ぐ動作が強調される。あたまから既に足が不自由な夫と吃音の妻という話など追っていても無駄無駄無駄なまま。吃音のスノクをずっと映さずに瞬きするカメラ (壁が視線をいきなり妨害する)がまず異様であり、それは井戸からの獣音の撒布と同じく『水女』という作品自体が獣の脈動の一部でしかないことを乱暴に告げる。
 スノクがなんとかして上を見れば、次の瞬間にはカメラは落下し結婚式当日である。
結婚式の日の夜にチンソクが干し柿に視線を移せば戦場の記憶が蘇り、ふと我にかえればスノクが戦場の凸死のように倒れている。このように虫が目の前の刺激に反応するような即興演奏などとはうるさ方が到底認めないやり方でこの映画という獣は脈動している。
 夫婦の突然鼻つまみお口あーんからの大笑いからの大絶望…の情緒不安定は不安定でなくそれに呆れる暇もなく画は電球落下ダブで自在。
 夫婦のありとあらゆる可能性を考え尽くすのか…などと考えていてもそれらは電球落下ダブできれいに拭われてしまう。あることのありとあらゆる可能性を考え尽くすのには記憶喪失な人間がその世界に必要だということ。その理不尽。韓国映画に記憶喪失な人間の登場がきわめて多いかどうかはわからないが。アルツハイマーや多重人格という記憶喪失はあまりに頻出し過ぎていないか。
 ギヨンは記憶喪失を個々の作品を超えて召喚し続けた。それはリメイクというかたちで。
 
 リメイクと呼ぶのがいけないのだろうと思う。その「リメイク」において作品は進化するわけでなく、また解釈が変わるわけでもない。ただ同じ設定は記憶喪失としてはじまるとするなら、それはあることを考え尽くすことになる。たとえば夫婦というものを。あることを強制的に考えさせてしまうフィクションにおける記憶喪失とあることを強制的に考えさせてしまうことについての周囲の実態を露呈させてしまうフィクションにおける誘拐。既に死んだあとかもしれない記憶喪失。記憶喪失ということにこだわらないでほしい。ある場でかりそめにしかし堂々と記憶喪失とされていることがいかに違ったのかが映画そのものであること。無関係だったはずなのに関係してしまうことにおいて召喚されるそれら。誘拐については映画ではどのような触発を人類にしてきたのか。記憶喪失とされてきたもの、とりあえず◯◯とされてきたものが実際には…という意識がないままの製作とは。
 膨張する夫婦の可能性は記憶喪失により最小限になっていく。ギヨンの記憶喪失たちがホン・サンスを生んだ?
 スノクとチンソクが竹細工に励みはじめる時の音楽ははたしてこれでいいのだろうか。これでは無声映画の音楽ではないか。
 あまりにも真っ当に現在を直視したら、それがはたから見たら濃縮した喜劇にしか映らない事態を何度も反芻するかのギヨンによる浮く時間。ギヨン映画のカメラをあっさりと「直書き」するかのようなズヴェーボの「我が老衰」。ギヨンがズヴェーボ作品を映画化していたらその大直視の饗宴はベルイマンとはまた別の大直視映画たちの歴史を作っただろうか。そんなわけはない。しかし二人の監督の執拗な赤へのこだわりとは。
 ベルイマンの『叫びとささやき』は1972年、『水女』は1979年である (『虫女』が1972年 )。
 
 本作の電球落下ダブの次のダブは、抱き竹細工ダブである。おもしろく悲しいのは発明された抱き竹細工が労働の生産物に即座に化し、それで人間たちも生き延びる様であり、そこでは運転手夫婦と赤傘毒女の陰謀などはかすんで消えてしまう。では吃音の伝染はどう消えたのか。忘れないために人は時に強く沈黙して凝視する。沈黙して凝視するのを沈思でなく沈視とすると、それの主体は忘れたくない存在である。ここで安易に『ポエトリーアグネスの詩』 (2010年/イ・チャンドン)を思い出しても他の映画でも (『ポエトリーアグネスの詩』において老女がアルツハイマーの診断に全く動揺しないこと)。しかしある部分に残響を極端に施されてるとして、そこで施されてる主体は忘れたくない存在ではない。ではそこで忘れたくない主体は何か。そこで冒頭の井戸からの声を思い出すべきである。能動としての沈視と見えないところからの聞こえ。見えないところからの聞こえを暗聞とするなら、ここの場だけの沈視と暗聞らの造語を気付かれないままに遂行する、そんな仕事はどれだけの映画において在るのか。しかしそんな遂行こそが肝要で、そんな遂行は記述もされなければ批評もされない。しかしそれらをしている者は確実にいるのである。そして製作者たちの多くはそこだけの沈視と暗聞らを踏み躙りがちである。言葉を失わせる主体は様々である。そこだけの創病と造語を失わせる主体は様々である。
 
 抱き竹細工ダブの次のダブは荒野の仲直り/決裂の繰り返しの中で出来する。ギヨン映画における男女のこの格闘技にも似たもみあいのリズムは1955年の『陽山道』からはっきりしている。
 
 ストーリーの結末に意味はなく、しかしここでの三つのダブは観た者に鈍く沈殿するのである。
 
 ダブは記憶喪失に抵抗する。
 しかしその忘れられない存在は、その抵抗に気づくことはどれだけあったか。
 
 ダブは無念の失意者たちをたどり直す。失意者はもちろん人間に限定はされない。
 
 ギヨンが人間でなく、はっきりと怪獣映画を撮っていたらどのようなハンガンの怪物以外を撮っていたか。
 カプコンは某シリーズの監督にディアブロスを登場させるという現実とは別に、ギヨン・チルドレンの監督たちにイソネミクニ (歴代最高のラッコモーションを持つ人魚キャラ)アンソロジーを作らせるべきだろうが、それはともかくヴィルヌーヴの『メッセージ』(2016年)をギヨンが撮っていたなら、そこには墨の言語の宇宙人の予測不可能性に対して取り組む科学者たちに突発的愛人の予測不可能性が凸する怪作が出来あがり、またその凸は宇宙人の言語=世界を揺るがせたに違いない。揺るがないなら翻訳とは観光とは異星訪問とは何だろう。
 また臨戦建築家と映画、臨戦料理人とドラマにおいても韓国の批評家たちの他国にはない洞察もまとめて読みたいが、ギヨン批評はかの国にはどれくらい膨大にあるのか。ぜひまとめて翻訳してほしい。凸への欲望の渦巻きと外部に映るものは実際には…なさまざまな考えかたと感じかたにもっと触れたい。
 
 最初から実在するかわからない子供、ゲームの終わりは命の終わり…それもいつ突然終わるかわからない、ずうっと始終泣いている女主人公、泣き疲れた後の突然のダッシュ…とあまりに似過ぎている点が多い『バニー・レイクは行方不明』 (1965年/オットー・プレミンジャー、以下バニーレイク )と『虫女』。幼児退行につきあうゲームの中で、三人で公園を歌いながら行進する際のスティーブンでもアンでもないバニーの立場に立つと、またこの映画内の環世界スリラーがいかに恐ろしいかがわかる。環世界スリラー映画祭でどのような映画たちがどのようなコピーで召喚されるかはわからないが、スリラーとつくのはその時に続いているゲームがいつ突然終わるかわからないからなわけで、しかも退行者や準退行者を刺激しないようにその場を乗り切るようなことは我々の多くが経験しているからこそ余計に怖い。その点において『虫女』はずいぶんとやさしい作品だ。
 『虫女』の心中演習に限りなく近づいたバニーレイクの結末部は、バニーを守らなければならないアンが、スティーブンとの永遠の別れも刻々と近づいていることによる引き裂かれ、アンの恒久的安全はスティーブンの精神的死を意味するその裂かれと同時に、ソースミュージックというばかばかしさが突然崩壊する、アンとスティーブンだけの隠された場所を声高に外部に向けて剥き出しにすることが、それがそのままとりあえずの具体的な緊急避難と隠された場所の半永久的な封印を意味するという奇跡的な事態となる。
 環世界全体の幸福の不可能を悟ったアンの最後の表情に最良の答えを出せる賢者は今後もいないのであり、また隠された場所は常に俗世において破壊されるべく定められている。そこから逃げるためにはあらゆる倫理をまず無効にしなければならないとしてそんな覚悟がある者がいったいこの世界にどれだけいるのか。ほとんどいない。
 
 とんでもない逃げ方をするにあたり犠牲にしなければならないものとは。じっくり考えていては何度生まれても手遅れ。ではどうするのか。『フルスタリョフ、車を!』 (1998年/アレクセイ・ゲルマン)。苦し紛れに人間の口腔が出す発声だけでなく、無理な態勢から軋み出す足の踏み込みや摩擦のすてばちな音らがこれだけ豊かな映画はあまりない。ゲルマンやギヨンのやり方は、わかりやすさの無意識の何重もの検閲と予測不可能の凸をはなから意識できない美学に雁字搦めになることがあまりに増えたこの国の人間にはさらに馴染み難くなってしまっているようだけれど逃げ出すことすらできないまま自死する以外の方法で生き延びるには。しかしこの国ではあらゆるすてばちで逃げるよりは転生することにあまりに親和な人たちがあまりに増え、その転生先が言語が全く意味のない場であるならどんなにいいかそしてつらいかだがまったくそうでない転生のリスクの無さに全力のまま。
 力みながら何かを運びつつ思わず出てしまうような発声もないままに、いまや誰もが観直さないアルファケンタウリ系惑星ポリフェマス最大の衛星が舞台の映画の結末がまさかのさらに薄く引き延ばされをして安楽死薬配布待ち状態のいま、アレクセイ・ゲルマン・ジュニアやキム・ギヨン・チルドレンらの生き延びるやり方はこの国ではもしかしたらドンマイ川端のような弾かれ続ける宿命の臨界柔道家に宿っていくのか。あまりに苦し紛れな踏み込みや内股やつりこみ擦れ音。柔道ルール改正により何重にも不利に追い込まれたドンマイ川端の得意技は巴投げである。
 ギヨン映画において現実が特異化する穴が随所に開いていく事態はリスクのない転生にあまりに耽溺している地でこそ何度でもいくら遅れてでも繰り返し観られるべきだろう。