宝ヶ池の沈まぬ亀 第52回

青山真治さんの連載「宝ヶ池の沈まぬ亀」第52回は2020年9月末から10月にかけての日記。お粥・自転車・写経・読書といった日課に加え、地点の舞台『君の庭』、映画『オン・ザ・ロック』『デッド・ドント・ダイ』『シカゴ7裁判』『スパイの妻』などを観るために外出日もどんどん増えていった様子。さらにいよいよ公開された『空に住む』の完成披露会見や福岡~大阪~名古屋をまわるプロモーションツアーで大忙しだった日々の記録を、浪速・通天閣で撮影された写真とともにご覧ください。

52、(*写真はイメージです)が、映画はイメージではありません。



文・写真=青山真治


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某日、明け方まで降ったようだが、自転車で出る頃には上がり、やがて久しぶりの快晴となる。朝病院。尿から糖を排除し、体内に戻るのを妨げる画期的な薬が認可されるということで採用することになる。これにより昨日のごとき高血糖に苛まれることもなくなるか。体重が入院時より五キロ近く増えている。肥った感覚がないのでこれは自転車により筋肉が増えたことによると見られる。実際筋肉が身体を締め付ける感じはある。自転車をやめたら途端に落ちるだろう。
自転車はだからサボらないが、読書は長いことサボっており、然し今日も些事にかまけて写経すら手につかない。途中で切り上げ、あっという間に昼。食後カズモへ向かい、初のリモート取材。30分ほどPC画面上の人と喋る。家で女優がやるのを何度か見ていたので違和感はない。帰りに数日分の食材を贖う。何とか本日分の写経を終わらせ、夕餉を終えると今日もいくらか高血糖気味に眠くてだるい。読書は本日もできずじまい。
 
某日、新企画のために民俗学・史学方面に甚だしく興味が向かっており、明け方目覚めるなり宮本・網野を繙き始める。ことに以前はつまみ食いに終わった『忘れられた日本人』をこの際通読し、やがて柳田『海上の道』へと至る目算。すると『ストレンジ・フェイス』の頃に片足を突っ込みかけた「南島イデオロギー」に改めて拘泥することになるのか。考えてみれば同じところをぐるぐる回っているのかもしれないが、それも映画のため。先行きを見越して思いつきを記しておくと「海・交・禅」という三つの要素を巡ることになる。いまのところ意味を説明することはできないが、やがて明瞭になるだろう。三、ということは想像界・象徴界・現実界とも関係してくると思われるが、もちろんこれらがバラバラにあるのではなく、バランスの問題である。特に日本人論などと大上段に振りかぶるつもりはさらさらなく、いまそこに作るべき映画が見えかけているというだけだ。
そんなわけで午後まで、写経含めてあれこれ試み、遅い昼食後に事務作業を遂行し、拙作の試写へ。始まってからミッドタウンのユニクロへデニムを贖いに行く。戻って宣伝部とお茶してから終映後の御挨拶。帰宅して夕餉。寝る前にフリート・フォクシーズの三枚目『クラック-アップ』を聴く。フィッツジェラルドの「崩壊」は拙作『冷たい血』冒頭の献辞、彼らの前作は『ヘルプレスネス・ブルーズ』、とどことなく縁があるような。それはともかくこのアルバムは素晴らしい。ついに跳んだな、という感じだ。セカンドも聴き直してみて悪くないことを確認したが、やはりこのサードの風通しの良さに感銘を受ける。まもなく新譜が出るとのこと。
 
某日、まだ3時だというのに目が覚め、今後の予定を立てる。主に映画。午前中にようやく読書を再開。マーロウが一服盛られてぶっ飛んでいるところでストップしていた。苦笑。
昼飯に作った肉野菜炒めが旨くなくて落ち込んでいるとペドロ特集の「ユリイカ」が届いたのでパラパラと見るが、全て目を通したわけではないものの本気で映画としての『ヴィタリナ』に驚いている感じがいまひとつ伝わって来ず、ここでもどうも落ち込む。まあ、焦るな騒ぐな、とこちらを窘めてくるような映画であることは確かだが。ともあれ、そんなことはいいから自分のことをやれよ、ということで、決めていた時刻にS社編集者Aと駅前茶房にて久方ぶりの会合。何となく今後の動向を互いに測り合う。
帰宅して夕餉に向かうが、帰宅していた女優に昼の失敗を告白すると、そんなのはドレッシングかければ食べられるようになる、と断じられ、では、とパクチードレッシングをかけたらあら不思議、食べられる味になったではないか。すごい。ドレッシング、天才。
さらに「ユリイカ」を眺めていると今村純子さんという方が「平行線は無限遠で交わる」という文章を寄せており、これは何を隠そう、拙作『空に住む』の主題の一つであり、思わず土田環に連絡してこの方がどういう方なのか尋ねてしまった。最近こうした偶然の一致が多くて眩暈がするのだが、現在の思考の流れからすると当夜BS『英雄たちの選択』の芭蕉というのもその一つということになるので折角だから見る。で、隠密説が割合真実味を帯びて語られたのだが、隠密とは民俗学者のような、宮本常一のような側面もあったのではないか。さらに曾良という人の正体が面白い。もろに幕府直参のフィールドワーカー。
 
某日、5時前にどこか人目を忍ぶように雨が降る。起き抜けから何故か非常に疲れていて、それは寝る前にアイスバーを食したからかと訝ると当然、高い血糖値(高血糖まではいかない)が出るのだった。かつては普通にやっていた悪癖だが、実はこれほど身体に影響を及ぼすかと日々知る。いつまで経っても雨止まず、7時過ぎると道が混むので自転車休み。
淡々と食事、淡々と仕事。しかし日々をこうして過ごしていると、というのは持続的に勉強していると、という意味だが、次々に連鎖的に仕事が増えていく。今年前半、本当にサボっている暇なんぞ無かったと改めて悔やまれる。去年が忙し過ぎたのだ。でも文句を云っても始まらないので、黙々と前進あるのみ。
ギターを修理に出そうと決めたのも前進の一環である。六年目にしてようやっと完全な形で335が戻ってきた。さすがに美しい。まだ音楽まで頭のネジを巻き戻せないが、そのうち改めてやろうとしていることはある。プリンスを分かりたいというのもその一つ。
で、自宅にとりあえず安置して、買い物に出て、夕餉を摂ったりしているともう夜だ。朝は高血糖、夜は低血糖、誰かに会えば元気元気と答えるが、実は点で云うなら体調不良の連続でもある。だから結局、映画の日であっても映画に行く余裕なし。まして普通の日は尚更。時間は勉強に割く……もちろん映画館に行くのも勉強だけれども。
ところで。「ユリイカ」ペドロ特集を見ていて何か忘れてると思ったら、それは「現代思想」ブラック・ライヴズ・マター特集で、先月(もう十月!)の中頃には目を通し始めていたのにアップされた日記では一言も触れていない。これは不満なので口出しすると、ダーク・マター(これは丹生谷さんの文章に出てくる)という熟語について知ったのはゴダールによってで、それが『マリア』だったか『決別』だったか判然としないのがもどかしいが、ともあれ先日廣瀬純と会ったときにゴダールが持ってるでっかいラジカセが話題に上り、それは『カルメン』なのだが、そこを拡大して言えば、あの時すでにゴダールは「黒人」だったということにしてもいい気がしている。というか「もう半分」でもある所の白人か。ともあれそのようにして宇宙を考えるところにしかこれから先の人類存在はありえない、とすでに八十年代には結論に達していたのではなかったか……
 
某日、自転車に出ると金木犀の香りが街に瀰漫していた。今年最初の秋である。女優の提案によりお粥から白米を減らし、雑穀米や麦、玄米を増量、アマランサスなるスーパーフードも足した。味はさほど変わらないので、ここからしばらくは味付けの旅へ出るつもり。
フローリングが足に冷える季節に備え、いくらか毛の立ったラグを贖っておいたのが届く。いまはまだ暖かすぎて、朝から眠気を誘う。だが映画の日も余裕ある日も仕事に捧げると決めたのだから寝てる場合じゃない。一気に二日分の写経に挑む。第二部のエンディングだがこの活劇作家ならではのキップのいいクロスカッティングがビシビシ決まっていて、この作品に対する認識がずいぶん変わった。つまり他の作品と同等にいい小説である。
その間に気になることが色々あって、途中でジム・トンプスンやらピンチョンやらに飛び移りながらの作業となった。
買い物へ行って夕餉は肉野菜炒めリベンジ。本日はうまく行った。女優は季節外れ・リモートによるというアクロバティックな盆踊りイベントへ。そんなわけで昼の延長線上としてのウェルズ『審判』。要するに探偵とは社会考察の一環であり、いわば『ロビンソン漂流記』と『審判』の間にある何かなのだ、などという仮説を立てて、地下からその二本を引っ張り出して来たわけだが、まあいつものように『審判』は寝る。というところでチャイムが鳴るので慌てて出るのだが、女優は鍵の所在を見失って持って出ず(これは発見しておいた)帰る前に連絡せよと通達しておいたのだが、眠りのさなかにいきなりの帰宅で焦ったため、階段下に寝ていたぱるるの足を(ごく軽く)踏んでしまい、当然「犬女子」(とその性格を称して今朝から呼んでいる)なので実に大袈裟に上げた悲鳴は玄関まで届き、血相を変えて這入ってきた女優を前に座り込んで動けない態でいたのだが、おやつ?の一言で何事もなくいつも通り回転ダンスを踊るのだった。この一連のアクシデントの中で膝を思い切り何処かにぶつけた惨めな元アルコール依存症老人は痛みを堪えながら仕事場に戻り、『審判』の続きを見るのだが、それにしても何かそういうこととは別の理由で見なければならないはずだ、と確信めいたものがあったのだが、それがラスト近くに氷解した。一つはミシェル・ロンズデールで、もう一つはナイフだった。もちろん前者は追悼、で、後者はちょっとわかりにくいけど『ホース・マネー』の最後の変型ナイフとの関連。ヴェントゥーラは何にでもなる(探偵とはそういうものでもある)が、あそこではここでのKによく似た役割と思われた。で、この考察は明日に続く。
ともあれ、学術会議問題は『審判』なみに不条理だなあと見ながら思った。


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某日、明らかに疲れており、昨日の朝だったかは大切に思っていた湯呑茶碗を割ってしまうし、今朝は急須の蓋を割ってしまった。どちらもつい手を滑らせてのポカミスである。ダメだ、という残念な声が口を衝いて出る。いくらか寝不足気味でもあるだろうか。先走る頭に身体が追いついてない気がする。そんなわけで今日も予定していた映画を断念、家で仕事も休んでぼんやりしていた。
 
某日、昨夜素晴らしいメールを二ついただき、本日は朝から褌の紐を締め直して活躍。朝餉にはなかなか手間暇をかけて鶏胸肉の野菜炒めを作り、お粥はオール雑穀。腹を満たして準備万端、帝国ホテルへ。丸の内ピカデリーにおける拙作『空に住む』完成披露記者会見である。これはネット上でも配信されたのだが、劇場で観客なしで取材陣だけを呼んでの舞台挨拶というのは初めてで、このご時世、こんなこともありかという椿事ではある。終了後、さらにホテルに戻って取材。俳優陣もメイン総出で頑張ってくださった。帰宅後は例によって疲れ切って食事が済んだら閉店ガラガラであった。
 
某日、寝坊して全てが一時間遅延した状態で進む。でも大丈夫。本日は予定なし。疲労困憊は織り込み済みであった。昨日は大河を見たのだが、取材の席でも話したが、大河というのは俳優陣がワンシーンでも実力を発揮するショーケースみたいなところがあり、たとえ大勢の登場人物がいてもそこで丁寧な仕事ができれば当然目立つ。ところが今回の大河は、そうした場面があまりない。あったとしてもすでに認められた人の場合が多い。で、結局全体が緊張感を薄くしていく。勿体ない話ではある。
夕方、女優が大着物探索大会を開催、上から下までしっちゃかめっちゃか。ほとんど便乗する形で私も地下から大量のDVDを運び出す。夜はその中の一点、ブニュエル『ロビンソン漂流記』を。見るのは何年振りだろうか、先日探偵=ハードボイルドの原点としてのこれについて書いたが、それは『ホース・マネー』のナイフとの関連でもあった。で、見直してみると語り始めからナイフであった。実はすっかり忘れていた。何にせよ、手に道具を持つことからサヴァイヴが始まるのは都会でも無人島でも同じことだ。それはそうと呆気ないほど短いが、それ故にか簡潔さがもたらす感動がジワる。最後の犬の声が響く島影など、こちらに涙を許しはしないのがブニュエルだが、実にいい。差別的側面も多数あってゆえに批判に晒されてもきたはずだが、そんなことはうっちゃって評価を高めたい作品である。
 
某日、日々あれこれの思いつきですべきことが二転三転、食事のあり方にも考えが日進月歩あるのか、月末までのスケジュールも固まってきて、取っ散らからないように軌道修正が一苦労なのは結局自分自身である。ところが台風が来ていると言う。まあ季節だから仕方ないが、午前中かけて綿密に考えた計画が夜には引っ繰り返りそうな予感。
それでも昼を食してのち、諸々買い物に行くなど準備だけはする。特に新しい情報がある訳ではなかった小津のNHKの番組を見てから横浜へ。KAATでの地点『君の庭』である。とりあえず中華街・謝甜記貳号店にてお粥。三及粥=豚レバー、豚モツ、豚肉入り。搾菜付き。オーソドックスの極み。家でも徐々に粥作りに欲が出て来たところで、乾燥帆立貝柱を入手してさりげない量を入れてみようかなど、考えていた。その後読書で時間を潰し、観劇。とその直前、一番高いスタンド席の狭い隙間からなぜか眼鏡が転がり落ちて奈落へ。撮影に来ていた斎藤Pが見てくれるが、終演まで無理とのことで眼鏡なしで通さざるを得ない。帰宅すると届いていた「群像」に偶然にも掲載されていた戯曲『君の庭』を、それはもちろん地点=三浦基のことだからズタズタに解体し、繋ぎ合わせ、音像化し、巨大なフランケンシュタインと化す日本国のなれの果てとして80分間一つの呼吸で顕し、消す。いつものように鮮やかな手さばきで。そうして今回は、泣けるなどという俗情との結託とはまるで無縁の悲しみがひたひたと波のように浸潤し、これは地点を見て来て初めての体験。無論、楽屋でもチラリと話題になった「日本学術会議への人事介入に対する抗議声明」に署名した自分自身が根本的に抱える、それは悲しみでもある。撮影部(米倉が中心にいる)の機材撤収とともに東京へ戻る車に便乗。車内でもこの演劇の過激さと数奇な運命がまるで内容と酷似してしまったことの、いわば業の深さについて、斎藤Pとしみじみ語り合った。


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某日、78年というからこちらは十四歳、いわゆる「中二」であったということか、あるいはすでに中三だったかもしれないが、まだギターは弾き始めだった。すでに兄はクラッシックギターを学び、それ以上にエレクトリックギターの腕前はかなりのものになっていた。その兄がある日見知らぬバンドのアルバムを運んで来た。『炎の導火線』といういささか食傷気味に汗臭いタイトルのそのレコードに収められたギタープレイに、しかし目玉をひん剥かなかったギター小僧は世界中にいない。バンド名は・・・ヴァン・ヘイレン・・・? オランダ系? すでにフォーカスのヤン・アッカーマンによってオランダ人ギターは注目されていたが、このエドワード・ヴァン・ヘイレンの場合、なんというかオモチャ箱を引っ繰り返すようにギターの常識を覆してしまうところがあった。ほとんど同時期にパンクの洗礼を浴びてしまった我々兄弟は呆気なくもゆるゆるとそちらに流れて行ったが、兄はその流れのさなか一週間もかからずにライトハンドをものにした。エドワード・ヴァン・ヘイレンという、私から見ると来るのが遅すぎた人は、そうして行くのも遅すぎたのかもしれない。そんなことを言う資格は誰にもないが、結局は「誰もジミヘンにはなれない」という標語の再確認だっただろうか。しかし同時代者としてのMJ「ビート・イット」で披露した文字通り火の吹き出るようなソロを一度聴いた者は、とにかく死ぬまで忘れることはないだろう、ジミヘンのアメリカ国歌同様に。謹んで冥福を祈る。
午前中、ぱるるは女性誌か何かの取材で女優とともに写真撮影に出かけた。どうやら御機嫌に撮影をエンジョイした模様。
ふと気づくとソフィア・コッポラの新作をやっている。『オン・ザ・ロック』という妙な名前だが、何がしたいのか理解に苦しんだ前作の後で何を成したか、検証のために見ておかねばなるまい、ということで、降り出した雨の下、渋谷へ。『SOMEWHERE』の二十数年後みたいな設定の内容について全ての説明を放擲して言うが、大問題作である。恐らくは昨年の撮影、でなければまるでコロナ禍などなかった「かのような」NYでまるでコロナ禍である「かのような」ひとけのなさで撮る理由がわからない。その上でそうした状況を小津であると強弁する暴挙。やはりこの人は只者じゃない、というか、やるときはやる奴だ。現在を撮ることのできる才能というのは特殊だと思うが、この人にはそれがある。これは2019年と2020年の間にニューヨークでしか作り得ない稀有な作品だと思う。前回書いた「外部から共同体を訪れる何か」というフォードの法則は稀薄か。あえて云うとすればそれは夫ということになるだろう、父親ではなく。その意味で最終的には夫が家族になるための通過儀礼ということなのかも知れない。いまさらビル・マーレイの良さについて語りたくはないが、主演女優のラシダ・ジョーンズ、美女というわけではないが堂々としている。ソフィアもいい塩梅の彼女の寄りをいくつか撮っていた。調べたら何とまあ、クインシーの娘。エディ・ヴァン・ヘイレンの死んだ日にそんな人の映画を見ていたとは。ちなみにこれ、アップルの配信映画なのだそう。


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某日、雨天につき自転車休み、朝餉を食したのちゴミ処理、斎藤Pの出迎えで大泉まで。拙作最終試写。東映の試写室は評判通り大変良い。上映館がこのように上映してくれたら文句なしである。我々には何よりこのように万全の状態で映画を見る権利があり、であるがゆえにこのような状態で上映する権利があると考えるべきである。朝早く雨の中、あんなに遠いのに中原、三島、照明の金子が来てくれた。多謝。
渋谷に戻り、取材三社。途中、水大福なるおやつをいただく。喋りながら何やら小津のことばかり考えていた。帰りも斎藤Pに送ってもらう。途中、ドンキとコジマに寄って買い物。犬猫用が主。帰宅後夕餉。疲労困憊。
そういえばラジオで明日誕生日だというジョン・レノンの曲ばかり流れていた。そんなに日本人はジョンのことを好きだったのか。知らなかった。
あと書きあぐねているのが『リトル・シスター』の感想。昨夜読み終わっていたが、どう受け取るべきか悩む。例のミソジニー問題だが、この(二段階の)結末は明らかにそちらに向かう傾向を強く感じる。ハリウッドへの皮肉という意見もあるようだが、これまでの作法から言ってそれだけでは済むまい。オーファメイもドロレスも明らかに軽侮の対象と見ざるを得ないのではないか。それは刑事たちの扱いの変化によっても推察される。『高い窓』のマール・デイヴィスになり損ねたオーファメイは母親共々『ミリオンダラー・ベイビー』のマギーの家族のように醜悪な正体を晒すし、ドロレスは『水底の女』のクリスタルほどファムファタル的な謎を煽り立てることもない。こうなると『ロング・グッドバイ』をそこに焦点を絞って再度読み直し、チャンドラー=ミソジニスト説の真偽を見極めたいが、やや疲れたのでしばらくチャンドラーはお休み。読書は別の方角に向かう。
 
某日、台風が接近中でここ数日は雨天のため計画した伊豆行きは中止、という訳で自転車も二日連続、たぶん明日も走れないだろう。で、そうやって何かがぶれると、少しずつ階段を昇るように状況が悪くなり、何となく恐れていたことがやがてふとした気の緩みから起こってしまう。またしても茶碗を割ってしまったのだ。割れ物、今月に入って三個目である。私は神経が細っこすぎるのか、それでひたすら憂鬱の霧雨に飲み込まれてしまう。
だが鬱々としていても雨はやまないし、日々は移ろう、こちらとは関係なく上映は終わるのだから、昼食をかきこみ高田馬場へ。早稲田松竹にて『デッド・ドント・ダイ』。昨年の作品だが、見事にソフィア同様コロナ禍下の映画になってしまっている。トム・ウェイツが森で見つける『白鯨』が世界の終末とメルヴィルの時代のパンデミックを象徴するように引用されるが、それこそジャームッシュがコロナ蔓延を予感していた証左だろう。ここ最近のジャームッシュは曖昧な映像、というか暗さとピントとデフュージョンその他の効果によって多くの画面をオブスキュアなものに向けており、かつての明確さとそれ以前、つまり『ストレンジャー・ザン・パラダイス』の個人映画的な(というのはほぼジョナス・メカスのことだが)16ミリモノクロ的な荒い画調との落差にもう一度戻っていく感じがある。ほとんど『パンツの穴』の記憶に直結しかねないUFOの登場と夜のパトカーの窓を通した無数のゾンビたちの朧げな姿のコントラストに接すると、今を描くにはこうした落差と共にあるしかないのではないかと考えてしまう。これはカラー作品だが、オブスキュアな部分はほとんどモノクロと言ってもよくて、本気でモノクロと向き合うにはこれくらい時間がかかることなのだと昨今のニセモノクロ作品の作り手たちには一言言ってやりたくなる。その中で『異端の鳥』には期待している。
帰宅して食後、何の脈絡もなく『リンカーン』が見たくなり、盤を見つけると封が切られていない。公開時から一度も見直していないのかと驚く。で、すぐに見始めるのだが、冒頭を見て止める。やはりすごい傑作なのだ、これは。それがわかっていたがゆえに見直していない。そういうこともある。2時間30分がどれくらい整合性を持つか。大量の長台詞が入ってくるかこないか、ギリギリの速度ではないか。たぶん速すぎるのではないか。明日、メイキングを見てみることにしよう。
 
某日、そんなわけで『リンカーン』ブルーレイのメイキングを見る。特典映像というものでそうそう感動などしないのだが、これはかなり来た。何よりサリー・フィールドにやられたのだ。ダニエル・デイ・ルイスよりも自分は十も年上で、実際にはリンカーンが夫人より十歳上だったけれどそんなことは問題ではなかった、と語る彼女の自信に満ちた表情こそが映画の説得力となる。それだけでなく、この作品はあらゆる細部に至るまで歴史映画、伝記映画の理想的な作られ方をしている。博物館まで行ってリンカーンの懐中時計の音を録音しようとする音響スタッフの熱意、二百人以上いる議会場面の出演者ほぼ全員の髭のスタイル維持など、驚くべき細部があちこちにある。そして言わずもがなのダニエル・デイ・ルイス。彼の演技の強度がどこから現れるのか、何度も注意して見なければなるまい。本編を本日は見ない。いずれ、そのうち。
で、何か見ようという気になり、見たい映画(九割がたモノクロで欧州系)をリストアップしているうちに30本を超えてしまい、先日集めたDVDに追加して並べているうちに夜も更けてしまった。それらは明日以降見始めることにする。


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某日、ようやく台風が過ぎ、自転車を再開できる。とはいえまだ小雨降る中を走ることになったのだが。午前中はさらにリストアップした作品を並べることに終始。昼を食してからアップリンク渋谷へ。『シカゴ7裁判』を見た。やっぱりダメ、と断じるか、ないよりマシというべきか、こうしたアメリカの「政治映画」というのは相変わらず始末に困る。音楽もひどいし、演出も内容と争う気は無い。革命を叫びながら映画そのものはそんなものを微塵も目指そうとしていないわけで、それはずっとそうであって今更残念だの自堕落だのと批判しても仕方ない。ドリームワークスでこの企画を通したマーク・プラットが偉いというべきなのか。デミの最後の二作をプロデュースした功績は忘れ難い。そうしてスピルバーグ組を含めた俳優陣の思いも寄らぬ頑張りも称えたい。ジョゼフ・ゴードン=レヴィットなんて昨日も見てたし、マーク・ライランスもジョン・キャロル・リンチもやっと名前を覚えたところだ。だがもし夜の公園の場面を『よろこびの渦巻』のように、とは言わないが、せめて『ゴーストライター』のように撮ってくれたらなあ、などとついないものねだりをしてしまうのもよくない癖であろうか。だがこれ、ニコラス・レイが取材したのだ。記憶は曖昧だがジーン・セバーグも何らか関わっていたはずだ。そのことをマーク・プラットはわかっていたのではないか。レイは、警察によるブラック・パンサーの幹部フレッド・ハンプトン暗殺直後に彼のアパートを撮影したそうだ。そうした曰くのある話だからもう少し真剣にやってもよかったのではないか、などというのもないものねだり、ハンプトンを必要以上にフィーチャーすることで満足しておかねばならない。自分が何か一つでもそれに匹敵する仕事をしていれば声高に言うけれど、この国では望むべくもないか。このままでは本当にダメな映画しか作られない国になりそうだが。だからアメリカにこの映画が「ないよりマシ」であると言わざるを得ない、かつての『ニクソン』がそうであったように。
食材を贖って帰宅、女優の焼くステーキを食し、大河を見るともう眠い。見るべき映画のリストアップとDVD採集はそろそろ打ち止めにしよう。早く見始めたいが、今週はプロモーション行脚で間も無く東京を離れてしまうのが気にかかる。
 
某日、朝が来て若干の疲労が残っており、計画を変更して本日の外出をやめる。ようやく雨が消え、晴れ間がのぞく。昼は青空を見た。明日に備えて写経を二日分こなし、フローリングワイパー作業。昨日は洗濯機三回回して室内干しまで行なったが、旅へ出るのが近づくとあれこれ家事について気になる。こんなことは今までなかったが、昼食後はダニエル・デイ=ルイス祭りのつもりで『ファントム・スレッド』を見始める。しかし今見たいものはこれではない、と直覚し、『コーヒー&シガレッツ』を。うちにある盤は無字幕のリージョン1で、とうとうこれのかかるデッキを地下から仕事場へ導入する日が訪れる。公開時に見たきりだが、『デッドマン』から『ブロークン・フラワーズ』まで『ゴースト・ドッグ』を挟みつつの長い年月、これをこつこつ撮り溜めながら持ち堪えていたジャームッシュの頑張りに頭が下がった。この時期、私はあまり良好な関係にあったとは言えないが、それでも『ブロークン・フラワーズ』以後の、ワンランク上の良さというのがあって、黙って見て来た甲斐があったという思いがする。
筒美京平先生が身罷られた。謹んでご冥福を祈る。
夕食後、気を取り直してDDL祭りの続きとして『エイジ・オブ・イノセンス』。公開時割と評判が良かったが私はダメであったシリーズ。当時『恋のエチュード』と思うと猶さらに頭に来たものだが、いま『お遊さま』だと思えば可愛いもんだと許してしまえる。総本山は当然『ボヴァリー夫人』ということになるのだが、更に言えば、こうした作品を自分も作ってみたいものだとつくづく思われた。こうした作品というのをどう表現したらいいのか言葉に窮するのだが。
 
某日、朝食後さっさと家を出て取材2件。至極知的な質問者たちに感謝。偶然二人とも女性だったのだが、それは偶然にすぎない、あくまでも。移動の合間に代々木八幡のトンカツ屋で久しぶりにトンカツなど食す。五種のソースが美味。すっかり伸びやかな気持ちにさせてもらえたので、気分良く渋谷の街に出て『TENET テネット』を見る。このタイトルが「主義」という意味だと初めて知ったのだが、で、この映画で語られる「主義」とは如何なるものだったかと聞かれると答えに窮してしまうのだが・・・。だがまあそれにしても気分が良いのは変わらず、作り手がどう考えているのか知らないが、別の時間にいる一人の人物が同一の地平に存在することを「鏡」ということにし、実際そのように撮影・編集したオーソン・ウェルズってさすがに本物の芸術家だったよなあ、と改めて感心した次第。この作り手も『ダンケルク』の方がずっと好きだったとはいえ、これもまあそれなりにね、ということでよしとしないと一体誰に何を期待したらいいかわからなくなる。いや、まあ本当は誰にも期待なんかしてないよ、というのが本音ではあるのだが。
しかしこの大作映画、画面が変に暗い気がした。かつて新宿ミラノ座で時々やけに暗い気がしたことがあるが、あれに近い。いや、ブルース・サーティーズが暗いとかそういう話ではなくて。なんか調整が必要ではないか、TOHO渋谷。まあ、たぶんあまり行かないとは思うけど、ポップコーン苦手なので。
帰りに道玄坂・麗郷にてたっぷりした中華粥。満足。


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某日、旅立つ前にも自転車。買っておいたパンを食し、いざ出動という時にペトくんが体調不良っぽい。トイレで唸っているので、病院へ連れて行くよう、女優に託す。
斎藤Pとともに9時羽田発博多行き。博多駅ビルTジョイ内で取材。まずは同ビルの中華にてお粥で腹ごしらえ。ペトくんは注射3本射ったとか。午後はラジオ含めて5本、さらに移動してKBCラジオの番組収録。さらに宿泊先のホテルにてCROSS FMの生放送に電話で出演。で、本日終了。近場のうどん屋「八州」にて肉玉うどんと野菜サラダを食す。美味。買い物してホテルに戻れば、疲れが出て何をする気も起こらず。
 
某日、4時起き。写経して5時半、自転車がないので散歩に出る。が、地図と眼鏡を持って出ないのがまずかった。駅まで歩き、右に折れて回り込んで住吉神社へ。ここまではよかった。まだ暗い神社内で方向が逆転した。真逆の方向へどんどん進んで行ったことになる。標識が読めず、二度川を渡ったが、いくらか明るくなってちょうどバスが走り出し「博多駅」行きの進む方向へ行けば、と向かえば案の定見覚えのある場所。そこからはすぐだったが、1時間10分、いつもの30分の自転車とちょうど同じほどの汗を流した。
で、朝餉に行くのだが、これがよろしくない。お代わりするしかない小ぶりの茶碗、逆に大きすぎて具を浚いづらい味噌汁のお椀、そして西国のせいか、納豆の理解が浅い。そもそも生野菜も生卵もない朝食とは如何なものか。これは「さっと食ってさっと出る、その割にはちょっと贅沢」を求める向きにはNGであろう。所謂ビジネスホテルとの違いはわからんではないが、しかし残念。
さて、ホテルを出て駅までは徒歩。博多駅で珈琲を啜って時間を潰し、新幹線に乗ると、寝るでも仕事するでもなく、ただ世間話をだべった。新大阪に着くと南森町の天神橋筋商店街の入口にあるFM802のスタジオにて収録。それから斜向かいのホテルの二階にある蕎麦屋で昼を食べ、その一階のパン屋で珈琲を啜り、さらにタクシーで移動、午後はずっと西本町の今回お世話になる宣伝会社で取材やラジオ出演を何件か。暮れてからリリースされ、そこからまた徒歩でホテルへ。なかなかにセキュリティの厳重なホテルである。そこで松本勝と合流。奴の自家用車で奴の地元である住之江区へ。北加賀屋マルナカというスーパーの駐車場に入り、そこからすぐのお好み焼きハウスMONという奴の幼馴染がやっている店で夕餉。これまで食べたことのない食感のお好み焼や出汁の効いたイカ焼きなど超美味の数々。さすが生粋の大阪人が誇るだけのことはあった。マルナカで買い物して、住吉大社の前を通過し、いわゆるあいりん地区(三角公園前)を経由、通天閣を眺めながらホテルまで送ってもらうのだが、その途中9時になると私の電池は赤信号が点滅。勝と別れ、ほぼ部屋に入るなりダウンした。


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某日、そうして再び4時起きで写経。昨日の博多迷子問題で疲れたため、より土地勘の疎い大阪での散歩は控え、ホテルで大人しくシャワーを浴び、朝餉をいただくことにする。このホテルの朝餉は和洋を択べて悪くないが、やはり生野菜生卵はない。もはやそういうのは流行らんということか。8時45分集合で、出かける。通天閣で『空に住む』の写真展をやっているというので見学に。地下鉄駅四つほどで「動物園前」着。かなり臭いのきついトンネル前のトイレの洗礼を受けつつ、将棋倶楽部と串カツ屋の立ち並ぶアーケードを抜けて新世界。初である。大衆演劇の劇場や映画館を見ながらついに通天閣タワーを見上げる。なんか知らんが感動である。途中、ようそろ、ようそろ、ようそろ♪という歌が流れる商店街をそぞろ歩き、喫茶店で珈琲を飲んで興奮を落ち着かせて、10時に宣伝部の方と合流、通天閣社長直々のご案内で最上階まで大見学大会。もちろんそこここに『空に住む』のポスターが貼ってあり、こぢんまりとだがスチル写真展も開催されている。しかしそれにしても上空から見た大阪の街は広かった。名物社長さんの軽妙なトークでもてなされつつ、帰りにお土産までいただいた。
次は必ず天王寺動物園に行こうと決意、名古屋へと辞す。


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新幹線で名古屋着、宣伝会社の応接室でひつまぶし弁当を食していると、お客様がいらっしゃいました、と云われるので??となっていると、見たようなもしゃもしゃ白髪頭が見える。誕生日メールで名古屋行きを伝えておいたが、まさかの登場、仙頭武則氏である。一番手の中日新聞の記者さんに同行して来たのだった。で、取材開始、終わると再会を約して別れ、あとはFMやTVを含めて夕方まで怒涛のように喋った。日も暮れて駅へ向かい、KITTEという駅ビルできしめんを食してからまた新幹線に。さすがに疲れがどっと出て眠りに落ち、フラフラと帰宅。うちで猫や犬に会い、ひたすら和む。出がけに具合の悪かったペトくんも多少元気になった模様。
 
某日、前夜から降り出した雨はひどくなっている。おまけにやけに寒い。疲れがどっと出ており、6時半まで惰眠を貪る。朝餉ののち、大阪土産の菓子を開け、一つずつ味見。「みたらし小餅」が美味い。そして通天閣で社長からいただいた「通天閣クリスピーショコラ」もなかなかに美味い。
郵便物など開けているうちに昼。届いていたスピナーズ『フィラデルフィアより愛をこめて』に聴き惚れる。トム・ベルによる最高のホーン&ストリングスアレンジに酔いつつ、73年のこの作品がThings got to changeと切々と訴える「ゲットー・チャイルド」に現在のアメリカを想う。
遅くなって昼を食べて、やがて出る。カズモにて釜山映画祭でのQ&Aをリモートでやるためのテストである。画面の向こうは釜山であり、女性スタッフたちが真剣に対応してくれている。こちらも斎藤Pと二人、真摯に対応。先日の記者会見=舞台挨拶といい、昨日までの取材旅行といい、このコロナ禍で実験的に動き始めるか否か躊躇する向きの多い中、我々はとりあえず前向きにこうした活動を実行に移している。斎藤P曰く、誰かがやらないと誰もやりませんから、と。然り。で、とりあえずテストは成功。本番までしばしの猶予。食材を贖ってから家に戻る。夜はさすがにぼんやりと過ごした。
 
某日、疲労はまだ取れず、今朝もまた7時近くまで寝ていた。昨夜は座椅子で寝落ちしたが寒くて目覚めてベッドに潜り込んだはずだ。朝餉は順調に作り、食後は家族で散歩に出かけた。立ち止まったぱるるに女優が「抱っこ?」と訊くとぱるるは歩きを再開する。それがどういう心性によるものかは分らない。公園を歩いた後、武蔵小山のパルム商店街を端から端まで歩き、駅前のオープンカフェで休んだ。いい気候を味わう。大阪であれ、東京であれ、商店街というのはいいものだ。私は好きだ。旦過橋が好きだし、老松商店街が好きだ。今はもうなくなった柳町商店街が好きだった。そこに私たちが練習し倒した小鳩楽器店のスタジオがあった。


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帰宅するとジョン・レノンの新しいベスト盤『ギミ・サム・トゥルース』が届いている。これまでのイメージを塗り替えるパッキパキのクリアーな音で驚く。しかも演奏がすこぶるいい。目の覚めるようなアレンジ。つまり大変に贅沢。そうやって聴いていると、それがいいことかどうか知らないが、自分がジョンのことを誤解してろくに知ろうともしてこなかったのだと気づいた。知らないいい曲、名曲といっていい曲が数多くあり、これから勉強し直そうと思った。それだけでなく、『AA』で灰野さんがジョンを「曝け出し」と呼んだ意味を掴んだ気がした。レココレ首っ引きで聴くのも悪くない。ジョンの特集増刊も慌てて購入した。今年はジョン・レノン生誕80年、私にとって研究元年としたい。ちなみに個人的ベストワンは子供時代からずっと変わらず、初めて聴いた「#9 Dream」である。
と、某葬式を完全に無視して(知ってはいたが、今日だと気づいてなかった)、再び夕餉を摂りに武蔵小山へ出向く。色々迷ってうろうろしたが、最終的にハラミステーキの店に入りたらふく食う。満足。帰宅して、大河を見て、さて眠いな、と仕事場に戻ると、目が覚めることが起きていた。
近藤等則さんとはたしかチベタンフリーダムをおやりになったNHKの野外ステージの楽屋に押しかけて、間章についてのドキュメンタリーを作るのでインタビューを撮影させて欲しいと依頼に行った時が最初だと思う。その時はまだ浅川マキさんとの共演についてまでは知らなかったが、その後NHKの『夢見の芭蕉』を撮影しに一緒に紀州へ行ったりしているうちにゲイリー・ピーコックとのことなんかも聞かされ、近藤さんがオランダへ行くまでなんとなく連絡が来たり、したりしていた。最近日本での活動を再開したことは知っていた。それを聞いてすごく磁力を感じていたけれど、連絡を取ろうと思えば取れたし、向こうからも用事があれば連絡を下さるだろうとそのままにしておいた。ただ、どこかで、もう会えないかもしれない、とも感じていた。何故かは知らない。本日は黒田征太郎さんと中村達也さんとの大阪での共演を予定していたという。そういえばどこかで黒田さんのいる場所で近藤さんにお会いした記憶があるけど気のせいか。夢だったかもしれない。近い将来、黒田さんのライヴを私が撃つ時、そこには近藤さんもきっといらっしゃるだろう。
とにかく近藤さんは旅立たれた。71歳。
お疲れ様でした。ありがとうございました。また会いましょう。
 
某日、ようやく早起きが戻って来て、自転車再開。本日は昨日の続きで武蔵小山方面へ車輪を向けた。パルム商店街の端近くまでで往復30分。これも楽しい。朝餉ののち、レココレのジョン・レノン増刊が届き、知りたい知識を得る。しかし、しばらく離れていたのですでに届いていたプリンス『パレード』を。これ以前の作品とは別人のように豊かな音作り。これはもしかすると、スタジオもできて予算にグッと余裕ができたということではなかったか。これは映画のサントラということだが、普通にオリジナルアルバムとして充分聴ける。というより案外サントラというものをすんなり聴くのは職業柄なのか。
昼を夫婦で外出してビジネスランチ的に。盛り上がった。
しかし店を出ると雨。割と良かった体調が急に鉛のようになる。そんな中にもプリンスは届く。今度は『サイン・オブ・ザ・タイムズ』。新しく出たリマスター版ではなくかつてのものだが、二枚組を一人で作り上げる荒技をやってのけるだけあってかなりの出来。いわゆるプログレ・ファンク的な側面からどうしてもザッパを想起するが、プリンスはやはりポップでダンサブルなのでその差異はライヴで歴然とする。
夕方、女優が出がけに「テレビが消えない」と通告し、直そうとするのだが、どこをどうやっても消えない。そのうちリモコンが不具合を起こしているらしいことがわかる。家電製品が不調に陥るとこちらは手も足も出ないことが多く、それでひたすらうんざりし、食欲さえ無くなる。普通に生きてて一番へこむ。それでも口寂しいので飴玉を舐める。
気を取り直してジョン・レノンについて調べるのだが、肝心の2010年リマスター盤がどれも手に入りにくい。送料も加わる。これはあくまで希望的観測だが、そう遠くない未来に再発されるのではないかと思われ、だからその時に贖おうと考える。出るかどうか、まあ賭けである。プリンスも注文がしづらい。
 
某日、雨は止んでおり、自転車も通常営業。朝餉、洗濯、写経、と淡々とこなす。昼飯後、『パットン大戦車軍団』に再挑戦。戦闘シーンはもちろん、アフリカ戦線やパットンの失脚など興味深いエピソードには事欠かないのに全体としてピンと来ないのはなぜか。ジェリー・ゴールドスミスの音楽は素晴らしいのに、何がこう違うのか、と考え込んでしまう。例えばあるシーンについてアルドリッチならどうするだろう、などと考える。そうするともはや才能の問題を通り越して生理的な時間感覚、造形感覚に話は向かう。つまり「ここで望遠で低めからなんかナメて、そのまんまパンして別の何かに寄ろう」みたいな撮影の段取りを指定せざるを得ないのが、物事の運びであるとしたらいろんな事が腑に落ちるのだが、同時に腑に落ちない事にもなる。映画ってそんなに狭苦しいものだろうか、と。無数の可能性があったはずではないか。しかしフランクリン・シャフナーはその可能性を自ら放棄している、と? ここから先は口を挟むところではなくなるのか。
かつてアメリカ映画講義の時だったか、黒沢さんがキャスリン・ビグローとウディ・アレンの例を挙げて「民主主義的映像」という話をなさった。ビグローはいわば専制的で、アレンの映像は民主主義的である、という話。そしてこのどちらが優れているとかいう結論にはならずひたすらそうであるということだけが語られた記憶がある。『パットン』を見ながらその時のことが思い出された。『パットン』が民主主義的かどうかを問われても困るが、その価値判断に近いものがこの作品の前半と後半、アフリカからシチリーで解任されるまで、つまりインターミッションまでとそれ以降のヨーロッパ戦線を明らかに二分している気がする。前半は画面がサイズも長さも平板に連なり、時間経過の不明瞭さが弛緩した印象を与えるのに対し後半のロングショットと中景を組み合わせるきびきびとした進行は、パットンという一種の狂気を伝えきるまでは至らなくても、起こったことの人間的な感受性の緩やかな拡散(ウィリーというブルテリアの存在とそれが関係するかどうかは不明だが)を感じることはできる。つい前半を民主主義、後半を専制的と呟きたくなるが、ことはそう単純なものでもなかろうし、その両立にこちらの目指すところがあるわけでもない。ただ、クロニクル的話法を試みるにあたり、しかるべき分節において、キッチュとまでは言わないが、ある種の美的主観性――それを専制的と形容する他ないかも知れないが――を導入する覚悟は必要なのだろう。そしてその部分は映画づくりにおいて最も敏感にならざるを得ない局面の一つと考える。
夕餉を摂った後、ユーロライヴへ。『空に住む』試写会のトークに行ってきた。対談相手は月永理絵氏。月永さんには先日のYouTube撮影や雑誌記事など多くのご協力を得ており、感謝の念にたえない。30分ほどの対談だったが、あっという間に終わるほど充実した話ができた気がする。終わり頃に「踊り場」の話になったのだが、私が「踊り場」が好きなのは、背景を択ぶとき画面に階段が入ってくる可能性があるからかも、と後で思った。
 
某日、毎朝気をつけているにも関わらず、とうとうやってしまった、スライサーでのキャベツ千切り中の指切り。右の親指の先端。痛くは無いのだが、出血が凄いので閉口する。ともあれ作業続行のため止血用に絆創膏。その後も納豆に入れた卵をこぼすし、ぼんやりしているというか、相変わらず疲れが取れていない。食後、へこんでいるとやがて昼になり、急ぎ昼を摂って渋谷へ。黒沢さんの新作『スパイの妻』である。
事前の情報は神戸と映画以外ほぼなかった。で、私たちが、というのは映画作家が、ということだが、海外で行われる、または海外の学者などが参列する日本映画学会の様な場所に招かれるとしばしば云われがちなのが731についてだ。なぜあなた方は731についての映画を作らないのか、あなた方は作るべきだ、と。律儀な私のごとき人間は真に受けてせっせと勉強し、満州まで取材に行く段取りまでつけたことさえある。結局未だに行っていないけれど。黒沢さんはそんな取材に行く気などこれっぽっちもなかっただろう。もちろんそんな企画が右から左に通るわけがない。ましてこの企画が持ち込まれなければ、たとえ誰からやらないのかと訊かれようと、731を題材にする気になることはなかっただろう。だが以前そのことについて話したことがあるような気もするが、黒沢さんも云われたことがあるはずだ。そうやってこの国の映画作家の誰もが可能性を持つ企画は、誰かがやらねばならない企画として鈴がついた形になった。しかしよもやそれを黒沢さんが一番乗りでやることになるとは……とか言って案外、深刻にやらねばならないなどと考えていたりした、という可能性は万に一つもなさそうなのが、みすたあのいいところ。あの「とうとう来ました」でおなじみの吉岡先輩のいい加減さこそが真骨頂であって、アメリカの国立公文書館に保管されている機密文書は吉岡の祖父にあたる福原さんが持ち込んだもの、というあの野郎の鼻を明かして溜飲を下げるといった程度の動機を事後的に見つけるほどで一向に構うまい。とはいえ、先輩に先を越された後輩どもはむしろそれゆえに猛省しかすることはないはず。無論私も含めて。
ニューシネマまでのカラー映画において昼間の室内というのはリアルそっちのけで見易いように過度に明るいのが普通で、暗いことは娯楽としてサービスに反するという考え方だったのだろうが、それは現在の学生映画においても同様で、技術向上によってふんだんに光を採り込んだ「昼間の室内」というのを見せられると豚に真珠などと吐き捨ててしまいそうになるが、一方で例えば『デッド・ドント・ダイ』を見たときも画面の暗さの贅沢さ、というかその絶望的なほどに美しい映画性に感じ入ることしばしだったが、旧グッゲンハイム邸の窓からの採光の美しさはその光より暗さの強調に貢献しており、映写の際に閉められる鎧戸によって暗さが発明されるような生々しい手つき含めて感動的で、こうなるとさすが8Kとやらも見たくなるのが人情というものであろう。
エンディングは『散歩する侵略者』の延長線上というか、絶望のさなかの光明ということになるのだろうが、その点をこういう一種の象徴主義(これまで隠されてきたがそういう側面がみすたあにないわけではない。例えば小説『キュア』のエンディングの空)で示されるのが珍しくて、それだけで面白がれた。
とはいえ、やはり白眉はあの見事な廃墟の中での夫婦の共同作業のエロティシズムとそこでラストを想起させる「同方向を向く横からの切り返し」だったなあ、と何やら訳のわからないことを考えながら、小屋を後にしたのだった。あと何回か見よう。
帰り道、タワーレコードに寄ってアマゾンで入手しづらいジョン・レノンとプリンスを探すのだが、やはりここでも気の乗る盤は見当たらず、するとふとダン・ペンの新譜を見つけてこれを手に入れたのだった。
帰宅して夕餉の後これを聴き、予想外のバンドサウンドと賑やかさを堪能したのだが、その後『マイケル・コリンズ』、これは何度目かでこれまで一度も乗れたことのなかったものだが、チミノの企画だったこともあり、なんとかその魅力を探ろうとしてきたのだが、まあ『シシリアン』とほぼ同一の話であるということに気づきつつ、『パットン』に続いてここでもやはり映像上の分節化がうまく行っていないことを感じる。回想形式と年号を付した字幕挿入以外に現代的なクロニクル的話法というものはないのかどうか。一つ言えるのはジョージ・C・スコットもリーアム・ニーソンもずっと同じ顔をしている。老けメイクなら老けメイクのまま通している。これで年代記と呼べるだろうか。それが優れた表現かどうかは別として『レイジング・ブル』のデニーロの身体改造が分節化の進歩に貢献したのはたしかだ。この研究はしばらく続けたい。
 
ところで…『スパイの妻』は民主主義的だったのか、それとも専制的だったのか。
 
某日、全身に倦怠感を感じたので自転車をサボり、料理に万全を期す。昨日のように指を切るのは御免被りたいのである。
事務作業を経て、写経しながらプリンス『ブラック・アルバム』。ど傑作。やはり『パレード』『サイン・オブ・ザ・タイムズ』で、これ、そして『ラブセクシー』という連打はこの人の才能の爆発であると同時にファンクというジャンルの、ヒップホップとの合流を経た最高の時期との合致をそのまま表しているのではないか。だからそれはジャズでもあり、ゆえにマイルスとの共演も実現し得たのかも知れない、と思わず妄想するくらい興奮した。
遅い昼を摂って自転車で武蔵小山へ。自転車の保険というものに入りに行く。これは自転車屋で申し込む。あちこち点検するため二時間ほどかかるというので、ぶらぶらと武蔵小山再見学。防寒衣やら食材やらぽつぽつと購入、4階建のダイソーにハマる。さらにコーヒードリップセットなども入手。再び自転車に乗って帰宅、地図上で帰り道を発見と思っていたその道は以前西小山のロケ先に自転車通勤したとき通った道だった。仕事から戻り台本作業中の女優に珈琲を淹れる。夕方、うたた寝。
夕餉を摂り、さらにうたた寝を繰り返してようやく目を覚まして10時前に家を出る。新宿ピカデリーにて映写・音響チェック。劇場には『スパイの妻』の衣装が展示されてあった。四人分あったがどのマネキンも妙に小さくて、それぞれ等身大でないことの違和感ばかり感じた。菊池さんとナガシマに劇場前で合流。やがて6階に上がり、チェック開始。単に音が小さく、台詞にフェイズを起こす部分が出てくる。これには菊池さん怒り、5dB上げて痛み分けということになったが、5dB上げてようやく安定という事態が異常だと叫ぶように仰った。全くその通り。如何に音響が蔑ろにされているか。以前、さる地方で入ったシネコンの音の小ささに仰天したことがあったが、本作も小屋によってはそのような環境で見られることになるだろう。かと言って全国に5dB上げるよう指示したってキャパも違えばシステムも微妙に変わるのだから無意味、と菊池さんでなくとも忸怩たる思いは変わらず。我々はたんに観客に最良の状態で作品を提供したいだけなのだが。モヤモヤした心持のまゝ帰宅。
 
某日、そうは言っても初日である。できることは自宅でネット上SNSなどの情報を拡散することであるが、東京は雨がやたら強く降る午前中から終始PC前に貼り付いて書き込みをチェック、そうするうちにあらぬ彼方に妄想が膨らみ始め、増村と川島について地下と仕事場とを何往復もしながら考え込む。もちろん簡単にはまとまらないのが妄想で、それにしても特に川島の盤が一時期を除いてリリースされていないのが解せない。生誕百周年の催しなど行われたのだろうか、記憶にないが、支持する批評家の質が作家の評価までも決定するきらいがあるとしたらそれはいかがなものだろうか。確かにぬるいところがあるけれども、もう少し評価されていい気がする。一時期はかなりファンもいたはずだが。
SNSにかじりつくのも7年ぶりということになるのか、これはこれでやたらと疲れる。夜中ふと気づくと座椅子で眠っていた。
 
某日、深夜目覚めて作業したため、起きたら疲労がきつく自転車を休む。今日を契機に二日に一度ということにするか、と考える。朝餉準備で指を切るなど集中力を欠くのも問題だ。ともあれ本日のひき肉野菜炒めもお粥も上出来であった。
午前中、例のクロニクル的話法の研究を進めるべく再び地下に潜入、10本ほど発掘する。30本見るはずがここ数日で倍近くに増えている。見直したい物が増えたが、さらに注文しなければならない。読書だって全然進んでいないのにどう時間配分するのか。
まあ、悩んでもしょうがない。とにかく晴天の週末だ。
午後、新宿ピカデリーへ。舞台挨拶。多部未華子、美村里江、岸井ゆきのの各氏と再会。時を置けば置くほど、愉快な人たちと思える。撮影中から気づいていたが、多部さんの声にはちょっと普通でない周波数が混じっていると思われる。並びで壇上に立って姿を見ずに声だけ聞いていてよく分かった。それも多部さんの魅力の一つではなかろうか。三人で話している声を聞いていても和声が非常に美しく、その変幻自在の声質から「星屑スキャット」を想起した。
帰りの夜空に踊る半月が綺麗だった。
腹が減ったので簡単に白米と玄米だけで粥を炊く。この構成は久しぶりだったが実にうまい。たまにはやってみるもんだ。
 
某日、いつも通りの朝メニューをこなし、早くから出動。会社にてラジオのリモート出演、お相手は玄里。ワークショップやら短編やらでご一緒しているので、話もしやすい。何やら我が本棚を紹介したりする趣旨だったが、もちろんあくまで『空に住む』の営業。しっかり宣伝してくださった。終わって中空き。渋谷をのんびりウロウロするのも久しぶり。昼はなかなか少なくなった単独営業のうどん屋。讃岐うどんは本場とまではいかないがなかなかの味。ただ、BGMがあの野郎の辞任に同世代としてのエールを送った歌手の歌が延々と流れて、もはや金輪際聞きたくない人間もいるということを客商売としては考えに入れて欲しいかもしれない。ドゥマゴでうとうとした後に会社に戻り、釜山映画祭の上映後Q&Aにリモート出演。「自分にとって映画作りは用意されたイメージを実現するものではなく、何が起こるか解らない状態で俳優の演技をほぼドキュメンタリーの形で撮影するもの」と云った趣旨の話をした。いつもそうだが、今回はっきりとこのことを言えた。
しかし現地に行っても行かなくても大勢を前に喋るということをすると、大変体力を消耗するものだ。斎藤Pに送られて帰宅すると、疲れ切って夕餉を食うなり、ダウン。
 

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(つづく)



青山真治

映画監督、舞台演出。1996年に『Helpless』で長編デビュー。2000年、『EUREKA』がカンヌ国際映画祭で国際批評家連盟賞&エキュメニック賞をW受賞。また、同作品の小説版で三島由紀夫賞を受賞。主な監督作品に『月の砂漠』(01)『エリ・エリ・レマ・サバクタニ』(05)『こおろぎ』(06)『サッド ヴァケイション』(07)『東京公園』(11)『共喰い』(13)、舞台演出作に『ワーニャおじさん』(チェーホフ)『フェードル』(ラシーヌ)、自作『しがさん、無事?』(19)など。

近況:そんなわけで拙作『空に住む』、全国あちこちでロードショー中です。12月6日(日)にはYCAM爆音映画祭2020でも上映。ぜひご覧ください!