映画音楽急性増悪 第17回

第17回目となる虹釜太郎さんの「映画音楽急性増悪」は帰還兵が描かれる映画について。 『アメリカン・ソルジャー』(ジェイソン・ホール監督)、『ザ・ファイブ・ブラッズ』(スパイク・リー監督)、 『光あれ』(ジョン・ヒューストン監督)などからゾンビ帰還兵映画、そしてこれからの帰還兵映画へと展開します。

第17回 帰郷


 
文=虹釜太郎


 既に死んだ者とこれから死ぬ者しかいない場から帰還した者がいる。しかしその者は既に死んだ者とこれから死ぬ者しかいない場に様々に戻ることをやめようとしない。本人がそうしたくないとしてもそうなる事態について改めてそれをなんと呼べばよいのか。
 
 『アメリカン・ソルジャー』(2017年/ジェイソン・ホール)と『メフィストの誘い』(1995年/マノエル・ド・オリヴェイラ)を交互に何回も観る。
 『アメリカン・ソルジャー』のソロの光たちへの耐え難さはよく作られている。ソロたちの告白は1951年製作の帰還兵たちの告白が多数収められたある映画からあまりに何も変わっていない。帰還兵の一部がやむを得ず服用したがったMDMAはできたけれど。
彼らがなにを体験し得たのかは悉く音楽で誤魔化されてしまう。だからサーキット場での会話と音響が無理やりに活きてくることになったが、なぜこのように音楽を入れ続けなければならないのか。
 『メフィストの誘い』の誤魔化さないことのごほうびはより誤魔化さないこと。
 『アメリカン・ソルジャー』が『メフィストの誘い』化すると『ジェイコブズ・ラダー』(1990年/エイドリアン・ライン)になるわけがない。
 『さまよえるヒーローたち』(1987年/NHK放送)と『アメリカン・ソルジャー』と『ジェイコブズ・ラダー』を続けて見ると森から出ようとしない兵士たちの森との見えない関係はまだ映画ではつきつめられていないのではないかと思ってしまう。
 兵士たちと森との見えない関係。完全に無視されてるとさえ感じる『ザ・ファイブ・ブラッズ』(2020年/スパイク・リー)は、複数の森映画と共に観られることで、金塊などとは関係なく、森に引き戻され、そして別の目的で森を洗うことたちとの共闘を法の外で可能にする希望が込められていた作品だった? 『ザ・ファイブ・ブラッズ』で救われるべく共闘を呼びかけられたのは複数のベトナム映画たちだったように感じるが、その「無理強い」についての議論はない。
 しかし『ザ・ファイブ・ブラッズ』の愛され過ぎ息子にはどうにも我慢できない。もちろん彼がいたからこそ地雷撤去チームとの狂言廻し、いや共闘による希望は新世代に生まれたようにも見える。しかしどうにもこの愛され息子には違和感を感じる。本作は過干渉の失敗はいかに結果的に乗り越えられるかの度合いが強過ぎはしないか。愛され過ぎていることが全身から滲み出る愛されジュニアと対照的なのは『雨に願いを』(2017年/アレックス・ラナリヴェロ)のエマである。あらゆる点で中途半端だと酷評されている本作だが(音楽化調漬けも酷い)が、お父ちゃーんボクも連れてってよーお金もほしいしーの『ザ・ファイブ・ブラッズ』の愛され息子と違い、ベトナム帰還兵の娘で新聞記者のエマは父の死に疑問を感じてからはいきなり全米自然協会事務所に乗り込んでわかりやすく喧嘩を売りホールドアウツ(土地売却抵抗派)とフォーセール(売却派)のボードもしっかり記憶する。ラナリヴェロ監督があまりにテレビドラマな撮り方のために映画としてあまりに半端だと酷評されているが、本作を『突然の訪問者』(1972年)のエリア・カザンが撮っていたらどうだったか。いずれにしてもベトナム帰りという設定はあれど『雨に願いを』は全く帰還兵映画ではなく新聞記者が主人公の西部劇だった。
 『アメリカン・ソルジャー』に話を戻すと、この作品のレビューであまり問題にならない闘犬だが、見捨てられた闘犬が、闘犬として差別されない世界を国から公然と捨てられる帰還兵が用意していることが新たな世界を開くような瞬間は確かにあった。死の淵をさまよう闘犬が出てきたとはいえこの映画には犬が足りず、登場人物が聞けない音楽ばかりが兵士に知らされず渡される麻薬のように豊かである。その豊かさは当然ながら世界を壊している。このような世界の破壊を生む体制は大き過ぎて潰せない。しかしそうできないなら世界はこの依存から抜け出せないままに地盤崩壊し、それへの予兆に満ちたフィクションたちはどれも陳腐過ぎ、最後にはなんのためにわかりやすく偽装されたのかすら忘れられた音楽に似たような何かだけが世界で鳴っているはずだ。
 
 『アメリカン・スナイパー』の冒頭。カメラの位置があきらかに低い。子供の目線よりも低い。これはどのいきものの視点かというくらいに。そして映画の最初の台詞は「砂埃が犬の糞みたいに臭え」。では『メフィストの誘い』のカメラ位置の高さとは?
 
 『光あれ』(1951年/ジョン・ヒューストン)では、兵士の神経精神疾患に対しての催眠療法(hypnosis)や麻酔統合(narco synthesis)がとりあげられている。字幕ではnarco synthesisは麻酔統合となっているが、睡眠統合、麻酔総合療法または別の用語が適切だったかは専門家の意見を。平和時の神経症はそれが慢性的であるため上記の療法には効かないと映画がはじまる前に既に示される。1951年から70年がたち、その効かなさたちについてわたしたちはどのような認識をしているか。
 冒頭からあきらかに帰還する兵士の生身とその彼らの影がわかりやすく提示される。この影自体がいまとなってはかなり新鮮に感じる。メイソン総合病院のシーンでもあらゆる場所に影がある。
 影のない世界を作ってきた優秀なはずのものたちにとってこのあまりの影の多さはどう感じられるか。あまりに影のない現在の映画たちは『絵文字の国のジーン』(2017年/トニー・レオンディス)たちの国の影の絵文字に馬鹿にされて当然だが影の絵文字はなく…
 ちなみにこの映画の主人公は「ふーん」だが(ふーん=meh)、この映画はエスペラントというものに対してのかなり遅れた奇妙な回答ではないが、エスペラントに伴う無力感は全編に漂う。『絵文字の国のジーン2』がもし作られるならば、それは更なる非実用性のバトルフィールドとなるか。世界の言語の文法の作り自体への疑問と語彙の規則性への疑問についての新たな映画を予感させたことにおいて『絵文字の国のジーン』の功績は大きいが、いまのところ無視されたままである。それぞれひとつの感情しか表せないはずの絵文字の中でなぜか複数の感情を表すことが発現しているキャラクターは、ポリバレントについて様々に議論する未来のフットボール映画の登場も予感させる…わけではないが、いまや皆が忘れたあのアルゼンチンのロコ、デモニッシュな元アルゼンチン代表監督と現在第一線で活躍する監督たちによるポジションについての議論は映画にならないわけがない。ゴールキーパーがあまりに孤独でなくなってからどれだけ時間がたったか。malは反意語を作る接頭辞、エスペラントによるそれだが、malだらけの世界でその存在意義に疑問を持つレプリカントによる反乱の様態の荒唐無稽はアニメーションでしかできなそうだが、それをそうと全くさとらせずに準備している未来の監督に期待している。
 『光あれ』には声が小さい人間がよく出てくる。彼らはあまりに声が小さい。なので観る人は彼らを凝視してしまう。『光あれ』でさえ凝視してしまう作りなのだ。しかし凝視ではなくじっと聴くことの映画が作られるようになってから大きな変化が起きたことは歴然としている。凝視とじっと聴くことの違いについてはまた別の機会に。
 ワイズマンの映画でもあまりに声が小さい人間はほとんど出てこないが、『光あれ』で特にたった二言だけ小さな声で喋っただけで編集でカットされてしまった人間のことが忘れられない。そのシーンの編集はあれでよかったのか。彼らの声の小ささにはあきらかに理由があるが、しかし映画というものはあまりに声の小ささに不寛容である。上手な囁きやうんざりする囁きや流暢なそれらには常に溢れているが。そして他の帰還兵映画はもっと無理に笑顔を作ろうとするシーンに溢れているが、この映画には作り笑いはない。
 改めてジョン・ヒューストンとは何者だったのか、そして戦争映画にとりつかれた監督たちについて新たな本が書かれなければ。ジョン・ヒューストン監督とサム・ペキンパー監督が宇宙規模の善と悪の闘いに巻き込まれる映画の続編もまた今後も作られるはずだが、それらの馬鹿馬鹿しさと意外性にいつまで世界はイタリアに頼りっきりか。イタリアがアフリカに負けた戦争についての白鯨的な映画がまだ必要なはずだ。第一次エチオピア戦争の最中、イタリア兵士のなかで実際にはなにが起きていたのか、そして彼らイタリア帰還兵たちのPTSDの実態はどうだったか。
 『光あれ』から『マン・ダウン戦士の約束』(2015年/ディート・モンティエル)他多数の2010年以降の広義の帰還兵映画を観る時に、唐突ながらも第一次エチオピア戦争でのイタリア帰還兵のトラウマとはどういうものだったのか、その実態が気になってしまうような人は世界には少なからずいるはずだ。敗北するイタリアこそがヨーロッパで唯一信用に値するとのたまう人間もいる。当たり前過ぎるが帰還兵は世界中にいて世界にはまだ帰還兵映画が少な過ぎる。そしてなぜイタリアの敗戦は信用できるのかとは別にもちろん考えなければならないのはこれまた当たり前過ぎて人々が毎日毎日忘れ直しているイタリアの北と南だ。そして帰還兵映画だけでなく戦争映画だけでなく「映画」において、映画音楽は北である。それだけでなくサウンドデザインも音響も北だ。しかし音の一部はそうでないものとして映画の中で生き延びる。それをわかりやすく南と言うことはできず、それは北ならざるもの、非北としか当面とらえられず、それら生き延びたものについてのノートや日記を発見していくことは、それはいままでの結果主義では不可能なことだ。
 
 『突然の訪問者』もまたベトナム帰還兵の映画だが、本作はカザン監督の自主映画とも言える、カザンのキャリアの中でももっとも重要な作品と思えるがいまだに無視され続けている。
 赤ん坊の泣き声と執拗な風の音ではじまるこの映画は、ベトナム帰還兵がなぜ仲間を受け入れるかのいろんな場合の中でもかなり過ちを犯した風が始終吹きまくる。映画においてあまりに風の音を多用するのは逃げだと思っているが、本作の逃避がいかに「公私」ともに仕方なかったかについてはもっとさまざまに論じられてほしい。本作はあまりに忘却され過ぎである。
 帰還兵刑務所映画ではなく軍旗違反のベテランが刑務所長独裁による刑務所を自らの死と引き換えに解放に導くかのような『ザ・ラスト・キャッスル』(2001年/ロッド・ルーニー)。バスケのボールをひとつにして喧嘩を誘発しゴム弾頭部狙撃で合法的に殺す独裁者との戦い。旗を掲げるヒーローの予定調和でなく、務所に帰還後にくすぶり続ける無数の無名帰還兵を描く刑務所映画こそ撮られてほしい。
 ヒーローのアーウィンの行く先をただただ漠然と映す『ザ・ラスト・キャッスル』と違い『プライベート・ライアン』(1998年/スティーブン・スピルバーグ)は帰還兵の歩く先をしつこく映さない。それは記憶と引き換えでもなかなか映せないということで、大げさ過ぎる音楽と比べてもそこは抑制される。アーウィンの場合は戦場での記憶と後悔があまりに曖昧なままである。敵のために祈らなくても、逆さにあげるはずの旗をそうはあげなかった。しかしそれが唐突な大団円に留まるのは上記の曖昧さによる。
 
 ゾンビ帰還兵映画は『地獄の謝肉祭』(1980年/アンソニー・ドーソン)他いくつかあるが、ゾンビ帰還兵が演説をして選挙に行ってくれと訴える映画はなかなかない。
 『ゾンビの帰郷』(2005年/ジョー・ダンテ)はまさにそれであり、原題は『Homecoming』である。この映画についてのかなり拡大されたコメンタリーメガフィクションが必要である。ダンテ作品だけに俳優の演技は非常に魅力的なのだが本作にはあまりに大きな問題がある。それはゾンビになっていかに人間を引きずるか引きずらないかについての態度である。『ゾンビの帰郷』と『ランド・オブ・ザ・デッド』(2005年/ジョージ・A・ロメロ)の境目の穴は巨大だ。それはたとえば後者において歩いている途中でおもむろに馬の首を積極的にではなく喰いちぎり通過するみたいなことが前者においてはどうなのかということである。
 そのことにおいてロメロは『ランド・オブ・ザ・デッド』で無記中立の立場をとっているようにさえ見える。ロメロがいかに上品であるかはそこでもはっきりしている。
 原始的な執着に大帰還することにより、結果的に理不尽な執着や狭義のトラウマからは自由になっている存在が選挙に行けと言えるはずがない。この古くからあるゾンビの分水嶺をあなたはどうとらえているか。
 
 帰還兵映画といえば真っ先にベトナム戦争…でなくなってから久しいはずだが、アジアで唯一植民地にならなかったタイから見た帰還兵映画史が気になる。ベトナム帰還兵のうちタイに移住している人間は多いはずだ。
 『戦時下女性たちは動いた 1939-1945』(2015年/ユーグ・ナンシー)における、丸坊主にされ帰還した女性たちについては、彼女たちだけについての映画がこれからいくつも作られるべきである。五大文明の頃からの帰還兵の映画史は穴だらけであるのは言うまでもないが、またこの虫食い過ぎる映画史の構想でバビロン絶望する前に、帰還兵映画を考える際に必要なのは映画を巡る書では言及されることのないだろう、何事もなかったかのように生活を続ける態度、自殺するという態度、改めて戦争に行き続けるという態度、共に毒を飲もうという態度といった形の戦争を歓迎する態度たちである。それら歓迎の様態を大々的に幻視しようとして未定稿に足元から瓦解したズラウスキの『シルバー・グローブ/銀の惑星』(アンジェイ・ズラウスキ/1987年)。ズラウスキの常なる無謀さがいったい何に起因するかをなぜもっとしつこく問い詰めないのか。『シルバー・グローブ』と『メフィストの誘い』を同時に論じることの無さ。ここで必要なのは帰還兵のなかでなかなか省みられてこなかった存在とは何だったのかを映画夜間中学で話し合うことだ。その存在のなかにはもちろんゾンダーコマンドも元寇帰還船乗りや学校に行けない少年たちも含まれる。
 そして戦争において何が武器なのか、何が武器だったのか、これからの戦争においてその武器がいかに変わるかについて、夜間中学の帰還兵についての授業は行われなければならない。『フューリー』(2014年/デヴィッド・エアー)の修理中の戦車内での話し合いの何がおかしいかについても。
 モーターの時代が終わるはるか前から既存の武器の時代はとうに終わっているのに、その消化戦、消化試合に生きている人間がずっと差し出されてきたことについて、それらについて人間を主人公にして描くことではもうあまりに不十分なのかどうか、それらについて描いた稀有の帰還兵、メタル化した帰還兵についての映画が『機動戦士ガンダム00 -A wakening of the Trailblazer-』(2010年/水島精二監督)である。
 戦闘ではなく対話に特化した機体の描写。ELS(Extraterrestrial Living-metal Shapeshifter)との対話を終え地球に五十年ぶりに帰還した刹那の身体も機体も元の姿とは形を変えた帰還兵と帰還機体になっていた。刹那の五十年ぶりの帰郷について、反出生主義者にすら見えた彼の人類観について、どうインタビュー出来る人間がいるのかについて、それを描くには、人類は生きる価値があるかについての無残な結論事典の編纂、公開しないそれらの編纂が、それぞれの作り手に必要である。公開などしなくてもよいが、あなたはそれをいままでどのくらいやってきたか。
 帰還兵を生むシステム自体が大きくて潰せないということ。大き過ぎて潰せないとされてるものにいかに死んでもらうかに本人も意図せず挑んでいる監督たちをどうまとめ直すか。
 実写ではこのような無謀な設定はできないのか。帰還する兵士ではなく帰郷先を間違わされた『プレデターズ』(2010年/ニムロッド・アーントル)。落下する兵士。エドウィン、クッチーロ、ニコライ、ハンゾー、スタンズ、モンバサ、イザベル。帰還ではなく拉致による無理やりの共闘という設定でしかあぶり出せない人間というものがあることについての試行はまだまだ足りない。この映画における医師の役割は貴重である。未来刑罰映画の亜種である本作は『エイリアン3』(1992年/デヴィッド・フィンチャー)を含む監獄惑星映画らとともにまとめて『未来刑罰映画〜疎外の実験史』のような馬鹿馬鹿しい仮構で論じ直されるべきである。
 
 帰還兵たちがみな少年である『ビースト・オブ・ノー・ネーション』(2015年/キャリー・ジョージ・フクナガ)は、帰還した少年たちが大人に話しても無駄だという態度を忘れない作品で、映画音楽はもちろん抑制的であるが、コマンダーの士気鼓舞の音楽は常に過剰で、そこでの音楽に舞うことは少年たちには強制でしかなく、少年帰還兵の音楽観は今後根本的治療など不可能に思える。そのような音楽の強制について、日本人は特に考え直すことがかなり苦手だ。それは対人恐怖があまりにひどすぎることすら毎日忘れに忘れて音楽に溺れて、その溺れのなかで対人恐怖と村八分を強化することが彼らのなかで常態だからに他ならない。
 死にたくなければ相手を殺さなくてはいけないと同時に死にたくなければその共同体の音楽に至極はまったふりをしなくてはいけない。音楽による村八分が得意な社会の復権に全力な人はこの映画を観てもその点については何も感じないだろう。なにごとかの対抗実現の目撃ではなく対人恐怖の日常が映画を観ることにあまりに地続きな多くの人々、その同調圧力の大きさに相応しいとして必ず選択されるのが状況説明の過度なわかりやすさであり、その度し難いわかりやすさの中に音楽ももちろん含まれている。
 不確実性に全力で耐えなくてよいという訓練を長期間にわたって絶え間なく仕込まれてきた実験地域。そういう場に住んでいる者たちに今後いったい誰がなにか語り難いことを語ってくれるだろうか。
 帰還兵映画たちの近未来では『ジェイコブズ・ラダー』以外の方法で、常態/新常態、ファクト/オルタナティブ・ファクトに体重を固定しない、『岸辺の旅』(2015年/黒沢清)のようなやり方で撮られる映画がいくつも出てくるはずだが、しかしそのような映画がなぜ撮りにくいかについての議論が様々な場所で必要である。帰還兵映画の遠未来においてそれは『緑色の髪の少年』(1948年/ジョゼフ・ロージー)を含むどのようなものがあり得るかの火を囲む会。それらの馬鹿馬鹿しくも真剣な洗い直しから少しずつ現在に戻っていき、帰還兵映画を作り直している近未来へ。部分しかない映像や自作への強い反省らについてコメンタリーを付してのメイキングドキュメンタリーにする方法は、ゾンダーコマンドやアフリカの少年兵らについても試行可能であるが、それにはウェルズの試みを再度ふりかえるだけでは足りない。
 帰還兵がいかに傷ついていったかについての映画は多くても、帰還兵らがいかに国をかわし、帰還先の場でどのような集団になじめず、忌避され、また集団を形成せずにいられるかについては、集団討議の新たな試みもされるべきだが、そこでは音楽により観客を抹殺しないことには最低限の注意が必要なのは言うまでもない。
 また帰還兵映画は、大勢の人間が一箇所に集まり撮影するという方法自体がしばらく不可能になっても(130年以上続いてきた)別のたくましさを発揮できるはずである。
 それら一連についての逸話的音楽さえいま多数作られていないのはおかしなことだ。
 広義の帰還兵の自殺についての逸話的音楽もまたまだまだ世界には足りていない。
 逸話的音楽と世界の再分配について。再分配についても抹殺を完遂した世界で今後さらに帰還兵が複数回死なされる世界がいかなるものかは、あらゆるものがオートン効果風にシンプルに量産される新たな映画製作システムでは強度は弱まるばかりか、いや製作の機会が増えることはすばらしいのだからしばらく目を瞑るべきか、そうであるならその時限とは。
 帰還兵は世界に帰属する存在から毎回解放され、荒野と呼ばれるまたは別の名前で呼ばれるその世界に帰還できたか、それをそうならしめてる存在とは何かについての映画はまだ足りない。
 帰還兵映画が好きだろうと好きでなかろうと関係ない。人々はそれについて話しあうのだし、あまりに辛抱を重ねて口を噤んでいるうちにとりかえしのつかないことがいくつもいくつも起こったのだから、映画を観るとか観ないとは関係なしに話しあうことがはじまればよいのだし、またそれが失われる場などあるはずがないはずだった。しかし失われる以前にそもそもそんな場がなかったならば?