映画『ディストピア・サヴィア・ケース』撮影日誌 第1回

boidマガジンに「映画川」などを寄稿してくれている原智広さんが現在、『ディストピア・サヴィア・ケース』 と題された映画を製作されています。それぞれ異なる女性が主人公の4つのパートからなるという同作品の撮影日誌を複数回にわたって掲載します。初回は原さんがこの映画を製作することになった経緯や、伊豆大島で撮影された今城沙耶さんが主人公のパートについて記されています。
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映画『ディストピア・サヴィア・ケース』 撮影日誌 今城沙耶編



文=原 智広
写真=狩野 萌
 
 
正直言って、打ち明けた話、尋常でなく目も当てられない、終わりよりもさらに悪い、産まれる前から既に私は墓場に突っ込まれている。撃滅に過激にもう何回愚かなことを繰り返しただろうか? 数えることもおぞましい、キチガイじみている、ナイロビの牢獄で首を吊ろうとした後、タオルは引きちぎれ、天国に入ろうと試みた、何度も、何度も、何度も、だが失敗に終わった。政治運動(アナキズムだって?)のおままごとをやっていた10代から20代前半、映画に方向転換して、24の時にすべて私財を投げうって撮ろうとした映画があったが(今読んでみたら脚本の出来が酷いし何でこんなものを撮ろうとしていたのか分からない)、頓挫してホームレスをやってからプノンペンで自殺未遂をし、27と29に原作と脚本とプロデュースをやった映画があったが、29の時に撮った映画の現場が本当に地獄で1年半も鬱病で外に出られず、もう金輪際、映画とは関わるまいと思っていたのだが…殆どのことは解決不可能で、何もかも諦めているし、幸福なんぞどこにもないことはますます明らかになっていく。ものはどんどん汚れていくし、生活は困難になっていく、人生に解決がないように、映画にも解決はない。だから、私は物語(シナリオ)を書くことは殆どないし、物語(シナリオ)に解決を全く求めない。映画とはそういうものだと思っている。果てしない苦痛の数々は映画という歴史性と共に、時間というただなかで、垂直に立つ。それに決して逆らってはならない。流れるままにいくのだ。したがって、そこには喜びも目的も何もあってはならない。私自身は途轍もなく空っぽで愚鈍な人間であるととうに気づいているので、撮りたい映画やテーマが先にあるのではなくて、出演者にあて書きをし、聞いたエピソードをそのまま脚本に持ってくることもあるし、心理(心理であろうと、精神であろうと、実はそんなものはあるようでないのだが、私は見えたものを蓄積させてさらっていく。分かりやすいようにこの言葉を選んだ。心理学に没頭している人間は自分自身が抜け出せない汚物の中にいる)を分析して、彼、彼女ならこういうことを言いそうだと思いそうだということを原作にいれる。そこから始める。だから撮り始めるまでは何も見えていないし、何も言えない、当然ロケーションにも左右されるので、場所(風景)と人物と文体に左右されて、私は殆ど即興でカットとシーンを作り始める。このやり方が正しいのかどうかは不明だが、私は自分自身が書くように映画を撮りたいと思っているのは確かだ。別に自分が語るべきことなど本来は何もない。(想像力に限界があるように)巫女のように憑依して誰かが語ってくれるのを静かに待つ。自然に誘導されるのを待つだけだ。私は自分で決断しているわけではない。私は映画を撮っているときも文章を書いているときもそうだが、自分で考えて書いた文章というものが殆どない。何らかのものに憑依して書く。分からない。それが一体何者なのか。ただ自分の言葉ではないというのは確かだ(辛うじて自分自身が書いた論文くらいだろうか)。実際に言葉やイメージは外部空間から飛来してくるウイルス(バロウズ)のようなものであり、この世界のどこにもないし、誰にも見つけることは出来ない。
 
この映画は確か企画してから、2週間くらいでメインのスタッフやキャスト、ロケ地が決まってしまい、もともと少数先鋭でやろうと思っていたので、資金が少ない中であっという間にアクセルを踏むことになった。共同監督・撮影・CG・編集に守屋雄介、助監督・スチールに狩野萌、美術・サウンドコンポーザーに若松ぜぜ、制作・車両に田邊祐介、照明に加藤大樹、プロデューサーに+Mという具合に動きがもの凄く軽かった。実際にプリプロでもロケハンでも撮影中もトラブルが確かかなりあったはずだが、私はそういうことをあまり覚えていない。ネガティヴなものはすべて消し去るように鬱病になってから努力している。単純に私自身の記憶力が悪いとも言えるのだが…実際にそのくらい馬鹿じゃないと自主製作で映画をまた撮ろうとはしないだろう。だから、スムーズにいったという印象しかない。人を恨んだり、疑うということを私は殆どしない。それは純粋ないい人という訳ではなくて、単純にそういうことを考えるのが面倒くさいからだ。


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主演の今城沙耶は事務所に所属しているアイドルで、実際アイドルと仕事をするのは初めてで、鬱屈している感じが今敏の作品である『Perfect Blue』を想起させ、惹かれて会ってみることにした。私は人が嫌いだし、友人(2人)や仕事関係以外と会うことすら滅多にしない、物凄く精神を摩耗してしまうから、電車にすら乗れない。別に緊張も全くしないし嫌われようがその辺はどうでもいいと思っているが。写真から垣間見えた彼女のある種の魅力的な冷たさが(ファムファタール的?とも言えるような)『ホムンクルス』という漫画に出てくる女子高生を私に思い出させた。私は暗い影があるような不愛想で正直な人間が好きで、愛想がいい人間は好きではない。生活が楽しいわけがない。人生は実に不快な嘔吐をもよおす物語だ。フェルナンド・ペソアやヘンリー・ダーガーやヘルダーリンのように生きれればいいのだが…私は人生の選択を誤った、今更どうしようもない。
 
今城沙耶の趣味嗜好は全く理解出来なかったけれど、彼女が抱えている周囲の有象無象の人間たちに抱えているイメージは私と近いものがあった。
 
「私に関心を示すものには興味があるけれど、私に関心を示さないものにはまるで興味がない」
 
このストレートな言葉に正直だなと思ったし、私は好感を持った。関心の示さないものにわざわざ時間を作るのも馬鹿馬鹿しい。ただでさえ自分を騙して、誤魔化して生きているのであるから、最低限作品を作るうえで、その弊害は消し去らねばならない。そのほうが人として健全だろう。
 
脚本らしきものが出来たのが確かクランクインの3日前、衣装や小道具は若松ぜぜさんに完全にぶん投げて、守屋くんと田邊くんと伊豆大島のロケ地を巡った。同録というものが嫌いだし、面倒くさいので音声スタッフはいなかった。結局音声トラックをポスプロの作業で分けなければならないし(実際はぜぜさんに少し録って貰ったが)。事前に構図もほぼ決めない(唯一水中映像が撮りたいとは確か言ったはずだが)。大体のイメージだけ先行させておいて、あとはあるロケ地と人物に嵌めるというやり方をとった。とにかく早撮りして、イメージに近いものを蓄積させていって、その撮れたものに従っていって、作品の方向性を決めていく。だから、シーンが増えることもあるし、撮るはずだったシーンが減ることもある。脚本はかっちりしたものは決めない。実際にシーンを撮りこぼして、追撮のために時間や予算をかけても実際に嵌めてみると別に必要なかったではないかということがよくある。ヴィジュアルとか構図は守屋くんにほぼお任せで、私は必要なところだけ撮りたい雰囲気だけを伝えた。私は方向性や演出を決めるだけなのでやり易かった。撮る前にPVっぽい感じになるのではないか、映画的な強度が出てこないのではないか、観客に何も伝わらないのではないかと、当然責められたが、もう既に分かりきっているものを撮る気が私は全くない。もし、分かっているとしたら、それは想像力の範囲内のものなので、まずやめたほうがいい。自然に導かれるままに誘導されるのだ。私自身が考えたものなんてたかが知れている。私は楽観的なので、別に追い込まれても、いつでも、どうにかなるだろうと思っている。それにたかが「映画」だ。それ自体に崇高さや神秘性も何もない。
 
だが、守屋くんと狩野さんとぜぜさんは物凄くセンスがある上に仕事も出来るので私のような抽象的な撮り方でもどうにかなった。脚本はほぼ存在しないようなものだし、その場でロケ地もどんどん変えたし、インスピレーションが沸いたら、その場でアイデアを考えて、所かまわず特攻隊のように突っ込んで撮ってしまう。これが少数先鋭の良さでもある。しかし、そんなにまだ付き合いも深くないのに、我々の中には何故か共有している感覚があったのだ。私は本当にこの出逢いに感謝している。
 

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今城沙耶はとにかく無防備だった。まず自分がどう撮られているかとか、美しく撮られているかだとかそういうことを全く考えない。シーンやキャラクターの意味を聞かれることが多いのだが、私は便宜的にそういう質問には答えることにしているが、別にその場で答えたことは後で変わることも多いし、意味はとくにない。撮影中に確か一度も聞かれなかったはずだ。普通は自分がどういうイメージで撮られているか、どういう意味があるのか聞きたくなるものだが、今城沙耶は根性がある。演出したことに対してとにかく真っ直ぐに一生懸命応えるというタイプだった。私と守屋くんは決められた時間の中でとにかくカット数を稼ごうとそれだけを意識した。大体一日で200カットくらい撮っただろうか。さすがにここまでの早撮りは私の撮影経験の中でも初めてだ。この撮影初日でこの映画のすべてがほぼ決まるなというのは私も守屋君も分かっていたので、何とかして感触を掴みたかったのだ、大きな電燈が点滅しながら、濁流に巻き込まれながら、突風で粉々にされても、ロマンチシズムに浸っていたのだろうというのもある、ある種の幻想的な体験、我々はこの映画の成功を初日で確信した。
 
私と守屋君はいい絵を撮ることと演出のことしか考えないので、全く何のフォローもしないという傍若無人っぷりなので、ご飯や休憩の時間まですっ飛ばして撮影しようとして、狩野さん(最初はスチールの担当のはずだったのに、今はラインプロデューサー兼助監督兼スチールだ。今や私のかけがえのない創作パートナーである)とか他の制作スタッフはさぞフォローが大変だったとは思うのだが。とにかく、初日と2日目で今城沙耶のシーンが撮れたのは本当に大きく、ほかならぬ別の世界を発見したという確信に満ちていた。
 
守屋君が自前のブラックマジックシネマのカメラをラップで包んで水中撮影をしようとしたとき、照明の加藤君が、そんなの現場で見たことないよ、大丈夫なの? と言っていて、私も心の中でほんと? ま、人のカメラだからいっかと思っていたのだが、田邊君がクリストファー・ドイルも同じことしてましたよ、とか言ってたけど、あれはさすがに嘘でしょう?


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しかし、私は現場のことを思い返そうとしてもやはり覚えていない、この撮影日誌を書くにあたってどうにか思い出そうとしても思い出せない。私は別の方向を見ている。エピソードを語れとは無理な話だ。私はそれを恐らく経験も体感もしていない。別の時間の中で存在していたからだ。実際にはほぼ何も存在してはいないのだから、やはり映画に記録する行為というのはかなりむなしい。やがて、うんざりしてきて、何もかも相変わらず続いているということに気づくだけのことで、幻想の穴に落とされる。そして這い上がるのに死ぬほど苦労する。この映画は4つのプロットに分かれていて、それぞれ女性が主人公で、今城沙耶のプロットはつまらない言い方をすれば、冷静かつ客観的で残酷な世界と自分の在り方みたいなものだが、別にそれをやることに意味があるかと言われれば別にない。すべてのことは本当ではない。10代じゃないからさすがにニヒリズムに浸るということはないし、世界に対して何かを訴えるという気概も情熱もないし、私に取り巻いているのはこの世界に対する呪詛だけだが、そういう段階も過ぎてしまった、だが私は永遠に告発することをやめることはないだろう。端的に言えば私は殆どのことを諦めている。私は何でも白黒ハッキリつけたいほうで、生か死か、勝利か敗北か、正解か不正解か、実はそういった問いかけは無意味であることは知っているのだが、私の友人は最近の世界の兆候に対して興味深いのは絶望から始まって何も目的も希望もないことと言っていた。霞んだ記憶のように顔は見えず黒いシルエットだけだったから、時折顔がなくなり、床を横切る身体の動きだけが認められ、我々は茫然と立ち尽くす。「この世のものでないものに触れてしまうこと」。実際に私は何度も体験しているが、映画や文章、翻訳をやっていると段々とその作品と現実の境目の区別がつかなくなって、作品で書いたはずのことが現実でも頻繁に起こる。恐ろしいやら、嬉しいやら、ただそういうことが頻繁に起こる状況はとてもいい、必ずだからこの映画はうまくいくという確信が私にはある。漂流者のように光は明滅し、彼女はイマージュに満たされて、彼女が感じている「現実」を保護し、彼女が感じていない「現実」を破壊するのだ。土砂降りの雨の中で濡れながら、両肩に乗った大きな魚のヒレを意識しながら、寄せる波が7つ目ごとにより高くより荒れる海の動きのように、昨夜の眠りの小さい断片が一日の渦と裸足と流れの中に戻る。私は相変わらず一人きりだ。それでいい。心地いいのだから。
 
相変わらず、私は存在していなかった、ぐっすり眠ったままでいられるように、望むらくはただ水中にある気泡のような存在になること、ここでだろうが、可能な限り長く、永久に、存在しないこと、とてもシンプルだ、水色のきらめきと光に満たされた空をギザギザに縁取っている。水たまりの鈍い音、雨が降る。今城沙耶はプールサイドから水の中に飛び込む、私の思ったイメージが私を攫っていき、愚かにも空虚と孤独よりはマシだろうと思うのでしょうか? だが、私が今見ているのはまさに思い描いていたもので、このシークエンス以外のものはなにひとつ本物には見えない、今城沙耶は私にはかなり魅力的に見えたが、現実を超える瞬間があったかのように私には思われた、私ではないのだ、なにひとつとして私ではない、すべてのことの外側にいて、生きるという欲望があったことを愚かにも確かめてしまった。私はいつでも、何も分からず、この水中のような、ひとりぼっちの、正体不明の、感受性が鋭すぎるあの暗闇に、想像しうる限りで最悪の運命に戻ることを恐れてもいるが、私がそれを現実であったと感じたのならば、現実を凌駕したものでそれを吹き飛ばさねばならない、これはある種の治療の一環だ。どいつもこいつも殺してしまいたい、そう思ったのはいつだって夜だった。人通りのない道、炎の輪、帰り道は分からない、夜の海に沈む沈黙。憎しみに満ちた世界に放り出されてしまったこと。水中で目を開けると、あらゆる雑音から解放されて、ぼんやりとした透明さが、どんどん死に近づいていく。発狂してはならない。数多くの他者の観察から保護し、耳を塞ぎ、この世界に新しいものは何も見えないことを知る。映画が虚構であろうが現実であろうが、もはやどっちでもいいのだけれど、私はそれを塗り替えないといけないのでしょうか。私に何が出来るでしょうか? これからどうなるのでしょうか? 生きる場所としては運命づけられてはいるが到底耐えられないこのような世界でどうやって生きるのでしょうか? こういった問題が解決されないことを私は当然知ってはいるのだが、この先不安定なこの世界で生きるとしたら、この映画はひとつの慰みとしては機能するはずだ。人生に苦悩したり、息苦しさを感じているのであれば、束の間ではあるが解放される。生と死の狭間で蠢く煉獄の世界観を露にする。水になる。一人の漂流者として生きること。
 
我々は反逆の専門家である。
Nous sommes des experts rebelles !!!
 
そして、舞台は香港へと切言的、断片的にコネクトし、流れる微粒子のように、我々は水になるだろう。2月20日から、私と撮影の守屋くん、写真家・ラインプロデューサーの狩野さん、出演のカリーナさんという小部隊で突撃する。私は帰りの航空券を買っていないので、納得するまでインタヴューやデモ映像を撮ることになる。
 
そして、我々は香港の雑然とした群衆の中で一人浮いた存在として群衆の中で永遠の眠りにつくのだ。BE WATER !!!


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原智広

1985年生まれ。中卒。作家、翻訳家、脚本家、映画制作。訳著に『戦時の手紙、ジャック・ヴァシェ大全』(河出書房新社)、論文に「光学的革命論」、「仮象実体的社会と電子的スペクタクル性、その全貌への憎悪」 。映画『イリュミナシオン』『デュアル・シティ』(共に長谷川億名監督)の原作、プロデュース、脚本。「ル・ポン・ド・ソワ」などの媒体で映画批評、フランス文学について連載中 。
監督作『ディストピア・サヴィア・ケース』のクラウドファンディングを実施予定。

『ディストピア・サヴィア・ケース』公式サイト