映画川 『快楽の漸進的横滑り』

今回の「映画川」は原智広さんが、昨年末から全国を巡回中の特集上映「アラン・ロブ=グリエ  レトロスペクティブ」において日本劇場初公開された『快楽の漸進的横滑り』について書いてくれました。1974年にロブ=グリエが監督した本作は、その内容や表現が反倫理的であるとして各国で上映禁止、フィルムが焼かれる事件まで巻き起こした作品です。しかし、原さんはこの映画に「意味を求めてはならない」といいます。
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アラン・ロブ=グリエ レトロスペクティヴに寄せて――『快楽の漸進的横滑り』



文=原 智広


先に宣言しておくと、『快楽の漸進的横滑り』に意味を求めてはならない。バロウズがジョイスについて語ったように、アラン・ロブ=グリエはただ感じたままに撮っただけだ、そこにあるもの、ただそれだけだ、それがあなたたちにとって何も意味しないのなら、それはあなたにとって何も意味を持たない、ただそれだけのことだ。芸術の役割は人々に自分では知っているがまだ気づいてないことを気づかせるためにある、そして必ず一定数の人はそれに反発する、気づきたくないからだ。だが、ある程度の時間が経てば、拡大された知覚が必ず受け入れられることを私は願う。
 
ここには前代未聞のシークエンス、鮮血、唾液、憤怒、散らばったガラス、律動的な物質と肉体との黄金の空間がある。適切、不適切を問わずにあらゆる性の本質が我々の目を射抜く。所有の根底にある有機的で、天上的な快楽。ある種のサド的な魅力と、シュルレアリスム的なカットとカットの繋ぎ、この作品はある種の強度のあるルネッサンス期の絵画に近いようであるが、実際にはかなり遠い。それほどの強度はない。マックス・エルンストやアンドレ・マッソンの系譜と言ったほうが正しいだろう。深紅色や青いショールにくるまった新しく生まれた胎児たちを踏みつける、なんて愉快なことだろう!
 
正直に言うと私はアラン・ロブ=グリエの小説は全く好きではない。どこか本質的ではなく、ただ煌びやかなイメージや一見突飛と思われる発想が垣間見えるが、表面的なものにすぎないと思っていた。その感想に変わりはないが、この作品だけは違う。脳みそが一面に流れている白い壁とコントラスト、髪を掻き分け、肉体に讃歌を奏で、バターを塗った頭蓋を濡らす。ある種の微睡の渦中で性の滴が滴る。ぶらぶら揺れている輝き、そして下腹部に傷をつける。ああ、美しい奴隷たちは唇の縁に涙を濡らす。こめかみの皮膚を剥がす。何か脈絡のないことをぶつぶつと呟き、彼女の手が、彼女の唇が肉体や顔を愛撫する。彼女の脚を掴んで瞳の上に吐いた唾液を舐める。嘔吐物を波立たせ、空は青い、鮮明な青は我々に時間を忘れさせる。岩場で長々と横たわらせた人工呼吸、額と額とを合わせ。耳から熱い血が流れる。赤い雨が岩壁にはねをかける。水盤の中の血が燃えたぎる。剥き出しの足はオニックスの粉で濡れ、唇は魚と戯れる。そして、ゆっくりと夜明けを待つ。海辺に打ち捨てられたベット、地下牢獄、拷問、叫び、仰向けにひっくり返った女の肌を撫で、吐き気が空間を圧迫する。髪の毛を砂浜にくっつける。唇に短刀を押し当てて、刃の上に集められた液を薄める。赤く染まる口を夜明けの火に向け、あなたたちは画面に釘付けになり、肩を揺さぶり、震えながら、銃の引き金に触れる。物凄い情感があなたたちに襲ってくる、夢のようで夢ではない。赤い映画館の座席からあなたたちは立ち上がれなくなるだろう。裸のまま金縛りにあったように混じった血を頬に撫でる。双生児の血、青く透けて見えるような血、鼻汁で汚れた唇の血、叫び声を上げたような血、亡霊どもは遠ざかり、遥か彼方に痙攣した人影が見える。その光景を目の当たりにした後で、あなたは自分で自分の首を絞めるだろう。ひくひく動く喉、血液を空っぽにした後で静かに立ち上がる。
 
しかし、ヌーヴォーロマンとは一体何なんだろう。私はいまだに理解出来ない。意識の流れなど当たり前にあることであるし、作家はある種の瞑想状態を保ちながら書くことはごく普通のことだ。何ら斬新なことではない。私が私であると認識した時の恐怖から逃れるために忘我状態で書くのだ。目の焦点を曇らせながら、私は一時期テル・ケルを熱心に読んでいた時期があったが、この前の映画の撮影ですべて燃やした。私はそこから逃れたかった。永遠に脱出出来ない迷路から。ベケット、デュラス、ソレルス、確かに優れている作家はいるが、彼らはそれぞれ全くスタイルが違う。文体とは人間であるとマルクスが確か言ったはずだが、別にこれと言って共通しているものはない。グリエに関して言えば、彼らよりは正直劣る。
 
ただ、彼は見せ方が上手い、ある種の小賢しさのようなものがある。これは彼にとっての手法で良くも悪くも作品をまとめる上において、上手く機能したのだろう。同時代ということであれば、ジュリア・クリステヴァは本当に才能のない作家だ。意味のないことを意味のあるように書き、まるで意味がないという。そして深層心理までたどり着いていないし、忘我状態でもない。特に『サムライたち』という小説はあまりに酷いので私は窓から投げ捨てた。そういうわけで、私はヌーヴォーロマンからは離れている。デュラスだけは今でも別格だと思っているが。彼女は常に思い出の中で生きている。それは永遠に消え去ることはない。
 
グリエの思考は非常にシャープだ。一見でたらめに繋ぎ合わせたようではあるが、これは彼なりに考えている。恐らく、イメージボードを書き殴り、イマージュとイマージュの切れ端をうまくつなぎ合わせたのだろう。その意味で彼は天才ではなく、秀才だ。彼はきっと夢をあまり見たことがない。ただ夢がどういうものであるかは知っているようだ。ただそれは一般的な人々が想起する夢であり、本質的な夢ではない。そこに彼の弱点があり、強度の弱さが見え隠れしてしまう部分もある。子供がカーテンに包って遊ぶように彼もまた同じような行いをしているのだろう。彼は瞑想も忘我も知らない。気づいてすらいない。無意識も介在しない。ただここまでまとめ上げた力量を私は称賛する。私もまた映画を撮っているので多少は分かるが、スタッフやキャストとこのようなイメージを共有するのは非常に難儀なことであっただろう。私に出来るかと言えば非常に難しいと答えることしか出来ない。アントナン・アルトーが映画を撮れなかったのは彼のイメージがあまりに膨大で現実を凌駕するものであったから、スタッフやキャストと共有することが不可能だったからだ。


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思考の羅列、あからさまな虚偽、みすぼらしいものどもを断罪せよ! 女神の赤い裸、冷徹な亡霊、支払わされた愛、つまり極めて単純な愛。ああ世界よ! 夜に自殺したものたちを埋めたかもしれないと。二つの夢、二つの夜、その境目にある真っ赤な水たまり、夕暮れ、優しさを否認せよ! わたしの皮膚、わたしの汗、わたしの乳房、わたしの人生、わたしの強い匂いがする砂浜へと、水死女たちを漂着させる。なぜこんなにもわたしの心をいっぱいにするのであろうか? 埋め尽くされている、密接に、容赦なく、地球全体が震えるような病気の犬、深夜の注射器に静脈を突き刺される、私は冷徹なまなざしに話しかける、性欲が満たされようと、満たされまいと、勝手にしやがれってことさ! 湿り気のある真っ赤なパンを、髪を解いて、腕を震わせながら、マッチの火を擦る、その時に突如一切の苦悩がなくなる。何故? 異邦人のわたしたちは血だらけのネクタイを買ったから、そいつで首を絞めるのだ。人間は、そう、単純に、踊るものだ。ガス灯の青い焔、螺鈿のボタン、気難しい奴らを凡人を潮の干満に投げ棄てる。興奮した性の戯れ。何もかもが消え去り、やがて雨になる。
 
グリエはそう、ただの装飾家だ、ヴァシェの言い方を借りればポエート(芸術坊や)だ。かつて、アポリネールが語ったように、我々芸術家は室内に閉じ込められ、それを装飾する運命にあると。実に馬鹿げている。そこに何がある? 何もない。空っぽだ。ただむなしいだけの空虚なるもの。しかし、彼はこめかみに拳銃を撃つ用意は出来ているようだ。その点でアポリネールとは違う。
 
ただその美しさがまるでこの世の終わりを予言する生命の雨と賛歌の様に、そして絶え間ないか弱き鼓動と狂おしき大地に見紛う般若の面の様に、すべてはゆるやかに溶けて交差し混ざり合っていく・・・欺瞞と汗水と結晶と涙と革命の光と策略と裏切りと湯水と疫病と肉体と頬骨と城壁と歴史と奏でられたとある楽曲とそこに佇むべき音楽家と古代より幽閉されるべき森林とそこで暮らすとある部族と満面の笑みの老いたマザー・テレサと縄遊びする孤児たちとアウシュビッツの死刑場跡地とネオナチスのデモ行進と魔物たちの血の池と魔女裁判で火炙りにされた罪なき民衆たちと放蕩する貴族と西洋の名家の末裔と深い海に沈む溺死者の腕時計と海草に覆われた古代神殿マヤ文明と星座を創り愉しみを得た砂漠の遊牧民と繋がれた馬車馬の耐えがたき労働悲惨な末路と砂浜で産卵する海亀とそれを見守りインスピレーションを得たむかしばなしの作者の釣り人と蝙蝠が蠢く洞窟の静かに時を刻む鍾乳洞と棺の中の吸血鬼の洋館と空に閃光する雷鳴と霧に覆われた薄い緑色の湖と流れ着いた腐った流木と空き缶の中の囚人の手紙と整形手術に失敗した中国人と傍らで笑う隣人たちの火おこしの吐息と絶滅した動物モアの優雅さと地図を失った盲目の狩人と闇市で精製される濁酒と戦争未亡人たちが売る洋服の数々と自転車修理工の欠けた脂で汚れた黄色い前歯と髪飾りと着物で装飾した江戸の町娘の白いうなじとエタ非人たちが腐った牛の臓物で煮た鼻につく雑炊と雉の絵柄の扇子と羅生門の強盗と病室の千羽鶴とニューヨーク近代美術館にひっそりと眠る狂気フランシス・ベーコンの絵画と電気治療室のウォーホルとエンパイアステートビルと見世物にされる檻の中の動物たちと結核の特効薬の発明と蔓延するエイズウイルスと黒ん坊の子供たちの教会の賛美歌とサバイバルナイフで抉られた人肉とメコン河に架けられた橋で逃げ惑う着火したベトコンとベルリンの壁の崩壊で飲まれたシャンパンの空き瓶とスターリンの全体主義と闇に潜む多種多様なアカ組織と米軍のヘリコプターの羽音と救命胴衣とナパーム弾と網で焼かれる塩漬けの小魚とシェイクスピアの悲劇と嘔吐されたパンの屑と饐えた臭いとヘロイン中毒者の無数の注射痕とミシェル・フーコーの脳内の蛆の交信と腕が変に曲がった溶接工とヴェルヴェット・アンダーグラウンドのニコの歌声と公衆トイレに捨てられた黒いガーターベルトとトルコ貿易の死の商人の麻薬と小麦粉で練られた屋台のパンケーキとムンクの叫びに似せた北朝鮮の独裁者と農業に従事する博打好きの男たちと熊と格闘するハンターと鉱石所で眠る無数の特殊工員と鉄条網に突き刺さった鹿の角と高速道路開通記念パーティーとアンドレ・ブルトンの溶ける魚とアントナン・アルトーの苦悩に満ちた嘔吐とアルチュール・クラヴァンの鉄の拳に隠れた優しい憂鬱とエドモン・ジャベスの乾いた言葉の砂漠とルイ・フェルディナン・セリーヌの慈悲に満ちた呪詛とアルチュール・ランボーの暴力に支配された錯乱とが・・・ロートレアモンの老いたるわだつみの中へ消えていく・・・そしてそれらすべてが交差しゆるやかに溶けて混ざり合っていく・・・ゆっくりと稼動する時計塔の歯車の様に・・・仕方なく映画館の椅子に座り無声映画の滑稽な情景を思い描き、ただスクリーンに映っているのは自分自身なのだから結末は想像がつく、芥子の実を額に擦りつけ永劫の麻痺を希求し、苦い青々しい果肉を頬張り死者たちの群れを走馬灯に燈す、煉瓦で身体の周囲を隙間なく塗り固め、形容し難い荒んだ容貌の凶暴な化け物を背中に背負っている、行きつくところは糞尿まみれの家畜小屋か地下牢かそれならまだ幸運だ、地獄への渡し舟の船人よ迎えに来るのは暫し待たれよ、時折耳に囁いてくる念仏はもはや聞き飽きた、三つ子の時分から何遍も同じことばかり繰り返す。
 
歴史は動く、歴史は動く、何故? 何故? 誰も止められないのか?
 
グリエは歴史を停止させようとして、失敗した。それを愚かな行いと嘲笑うのは容易だろう。だが、我々がそれを出来るかといえば殆どの人間はそんなことは不可能だろう。時が止まることを『快楽の漸進的横滑り』を観ながら祈ろうじゃないか。
 
たとえ僅かな慰みであったとしても。



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快楽の漸進的横滑り Glissements progressifs du plaisir
1974年 / フランス / 106分 / 監督・脚本:アラン・ロブ=グリエ / 出演:アニセー・アルヴィナ、ジャン=ルイ・トランティニヤン、マイケル・ロンズデール、イザベル・ユペールほか
特集「アラン・ロブ=グリエ レトロスペクティヴ」において上映

「アラン・ロブ=グリエ レトロスペクティヴ」今後のスケジュール
12月7日(土)~13日(金) シネマテークたかさき(群馬)
12月7日(土)~20日(金) 桜坂劇場(沖縄)
12月21日(土)~2020年1月10日(金) シネ・ヌーヴォX(大阪)


原智広

1985年生まれ。中卒。作家、翻訳家、脚本家、映画制作。訳著に『戦時の手紙、ジャック・ヴァシェ大全』(河出書房新社)、論文に「光学的革命論」、「仮象実体的社会と電子的スペクタクル性、その全貌への憎悪」 。映画『イリュミナシオン』『デュアル・シティ』(共に長谷川億名監督)の原作、プロデュース、脚本。「ル・ポン・ド・ソワ」、「NOBODY」などの媒体で映画批評、フランス文学について連載中 。現在、 監督最新作『ディストピア・サヴィア・ケース』を撮影中。