宝ヶ池の沈まぬ亀 第41回

2006年の監督作『こおろぎ』が12月7日から新宿K's Cinemaで公開(1月8日にはDVDも発売)される青山真治さんの連載「宝ヶ池の沈まぬ亀」第41回。最新作の完成を前に次回作の準備も本格化し、シナリオ直しや打ち合わせ、ロケハンが続きます。その最中で見た『イメージの本』(ゴダール)、『砂の器』(野村芳太郎)、『第七天国』(ボーセーギ)、『女の香り』(アルドリッチ)、『香も高きケンタッキー』(フォード)、『ロリ・マドンナ戦争』(サラフィアン)、そして朗読劇『不在証明 松田優作30年の曳航』などについて記された2019年11月の日記です。

41、次へと至る七転八倒、またはただ香も高き作品のために



文・写真=青山真治

P1000005.jpg 64.4 KB



某日、昼にBSで『パーフェクト・ワールド』を見てしまい、涙腺をやられる。フィリップくんが追って来た農夫のおじさんの手をガブッとやるあの瞬間から延々と堤防が決壊するのも定番。見終えて少し落ち着こうと買い物に出たのだが、動揺したままで頼まれたものを何も買えないという体たらく。そうしてそのまま夕方まで眠ってしまう。そこからまた仕事なのだが、どうしても9時過ぎには再び睡魔に襲われる。頑張っても11時。午前3時に目覚めて少しばかりやるのだが、二時間が限度。そうやって二日間書いて、見て、しかしあと少しというところでとうとう思考停止、またしても爆睡。もう少し早く取り掛かっておけばよかったと後悔するが、こうやってケツに火がつかないと動かないのだから仕方ない。もはや明日に下駄を預けるほかはない。
 
某日、そうは言っても休日は待ってくれない、ということで論評完成前になぜかダメ押しの伊豆へと出立。今回は平日ということで、極めて無難な東名〜小田厚ルート。結果、無難。雨戸を全開にし風呂へ行き、そこで夕餉を摂り、買い出し。ノックは『シャイニング』北米版だったが、途中から寝落ちしてラストがどうなっているか結局確認せず。マサルは「レッドラム」が口癖になる。その後、マサル主導でニュージーランド×南アフリカの録画。これもとてつもなくすごい試合だった。結果疲れ切って再度寝落ち。原稿書けないまま。
とはいえ人が寝ている間に仕事をする人間なので、二日目、伊豆だというのに早朝三時から原稿。朝になってようやく脱稿、四人囃子のライヴDVDをかけっぱなしにしていて、書き終わり送った瞬間に「一触即発」が鳴り始め「空が破けて声も聞こえない」の歌詞にただただ心を癒される。さて、これで今年の原稿仕事は終わりである・・・あ、この原稿はサッシャ・ギトリについてのもので、この数ヶ月ずっと考え込んでいた。その結果である。だから何度目かの『とらんぷ譚』も見ながらフィニッシュ。ギトリについて考えることは大部分、梅本洋一大兄を想うことでもあった。恩返しになったかどうか。とにかく勉強になった。
「昨夜あさりとエビと椎茸と人参と鶏を名古屋コーチンのだし汁で煮たんに朝サツマイモを入れてさらに煮詰めたん」を食す。美味いが何か足りない。オートバックス〜ユニクロ〜カインズホームと伊東の名店を巡ればすでに夕刻。風呂へ行き、近所の居酒屋で三位決定戦を見ようとするが、ここの守備範囲だと映らないことがわかり、愕然。ともあれ夕餉。マサルは刺身定食、私は天丼、そしてイサキの塩焼き一尾ずつ。超美味。ベースに戻ると見始めた『アレクサンダー大王』がどうも「いま見るべきはこれではない」と腑に落ちず、数分で『旅芸人の記録』に変えると最初の芝居の中断=逮捕シーンで、マサルの母から電話でこちらも中断。電話を終えたマサルとひたすら身の上話。そしていつの間にか寝落ち。
三日目は早朝『ことの次第』を見てから出立、茅ヶ崎へ。テイ龍進の今年最後のBBQ。今年最後の舞台の〆でもある。夕刻までまったりと海辺の光景を楽しみ、夜は龍邸にて贅沢にもシェフの夕餉をいただきながらW杯決勝戦。ひたすら呆然と南アのほぼ圧勝に酔う。終了後、リタマを連れて伊豆に戻る。スーパーであれこれ買い込んで昨夜のスープを改良。決め手は、玉ねぎ・豚・じゃがいも・にんにくだったか。実にマイルドな味わい。まあ一日寝かせたということもある。とにかく美味。これをもって明日に備える。そこで『代理戦争』四周目に行くが、どっと疲れが出て、いつの間にか眠る。起きたら『頂上作戦』アキラとショウゾウの雪の別れに至っていた。明け方にしんみりしてしまう。
四日目、マサルが「創業以来注ぎ足したスープ」にうどんを足して堪能し、朝風呂でリフレッシュしてからリタマを駅に送り、戻ってベースキャンプの掃除。しかし連休の中日ということでマサルのナビは小田原の先まで真っ赤。これが解消されるまで出立は得策でない、ということでおもむろに『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ザ・ウェスト』をブルーレイで。いい映画であることには変わりないのだが、やはり何度見ても歪である。マサルも流石に目が肥えているというか、ジェイソン・ロバーズとカルディナーレの良さを味わってくれた。結局、出立は十一時。東京到着は二時過ぎで、腹が減ったので車を置いて出るのだが、近所では牛丼屋しか開いていない。仕方なく初入店の「すき家」で軽く食べて解散。
今年の合宿は以上。また来年。
 
某日、昼に四谷。シナリオ打ち。隣のデスクでは演出部、制作部、美術部が揃って顔合わせと軽い打合せ。こちらは夕方まで侃侃諤諤、疲れ切った上に発熱した模様で、終わるなり早々に帰宅。夕餉はフライパンに残っていたチキンライスですませ、そのまま眠る。
早朝シナリオ直しを始め、その後は寝たり起きたりを繰り返しながら。
途中明日の予定を勘違いしていることに気づかされ、慌ててキャンセル。翌日までシナリオに集中。ところが追い詰められるほどに注文は増える。それもほとんど現場で処理できる細部だ。そんなことにかまっちゃいられないというのが本音だが、対応するのが仕事なので、世の中もこうした理不尽に耐えているのだとでも思ってやるしかない。
ところで、しんゆり映画祭事件はとりあえず無難な着陸を見たようだが、映画祭などどれほど歴史があろうがなくなってしまっていいし、見たくもない顔ばかり並んで聞きたくもない話ばかりやっているらしい映画などわざわざ見たいとは思わない。そんなシニシズムに付き合おうとは思わない。我々は何かの権利があって映画を作ったり上映したりしているのではなく感動を持って見たいものをやりたくてやっているので、どこかのホールを借りて上映しようとした若松プロの姿勢は買うが、公権力の横暴に抵抗しない者に「ものを作る権利はない」などと言うのは暴言に等しい。繰り返すが権利でやっているわけではない。私たちにあるのは「生存の権利」に過ぎぬ。芸術でもプロパガンダでもない、ただの映画をやりたくてやっているのだ。集団的自衛権同様の行為への参加を押し付けないで欲しい。
なおTIFFにも一切足は向かず。
 
某日、ともあれ仕事と家事を順繰りにダラダラと。夕方になると『ゲゲゲの女房』(朝ドラの再放送)が始まるのでそちらに集中。夕餉に女優が大変美味なステーキを振る舞ってくれる。付け合わせがオクラと春菊のソテー、スープは小松菜とトマト。文句なし。その後『アリー/スター誕生』を後半だけ見てまあ涙腺の緩むこと緩むこと。だがこんなことではいかんと、昨日届いた『イメージの本』をデッキに入れる。なんら理解したとは言えないもののとにかく心洗われた。近年稀に見る感動。特にラスト、これなんだっけ、『天井桟敷』?とかボケたことを呟いているとおぎりんが『快楽』だと教えてくれる。数年前見たばかりなのに。ぼけぼけである。しかしそれもどうでもよし。最後にダンスシーンのフランス女優で〆るJLGについて誰もが様々に思うところではあるだろう。しかし映画監督の気持ちなんて、JLGの本心なんて誰にもわからない。これは『映画史』番外編である、とか今という時代のための『映画史』である、とか誰にでも言えるだろう。だがそこでJLGが何を言わんとしているのか、はそう簡単に明かし得ない。少なくとも私にはわからない。が、感動は止まらない。眠りはしたが、その感動は朝になってもやまなかった。
夢を見たのだが、それは某社某社長が新規事業としてアジアのどこかから輸入販売する高床式の家屋の宣伝文句を書けという依頼を請けて、あれこれ考えるというものだった。それには当然その国のバンドの音楽がついていて、書いている場所でそれが延々と鳴っている。で、私は「この家はライヴだ。だから私は形式で攻める」と書いてから後半を消した。どういう夢なんだろう。異国情緒は当然『イメージの本』から来ているのだが。
この日、今冬初の灯油購入。午後までゆっくりと注意深く仕事をしていたが、郵便受けがゴトッと鳴ったので慌てて見に行く。そうして届いた封をこじ開け「文學界」を取り出すと、餓鬼のごとく食らいついたのだった。一時間半ほど経って、ああ今年の楽しみは終わってしまったと。しかしまだこれは「序章」に過ぎず、(つづく)とあるのだからそれは来月も載るんじゃないの?と自らの背中を叩き、そうだそうだまだまだ今年もあと一号出るぞ、来年はもっと出るぞ、と言い聞かせるのだった。それにしてもどうしてわたくしたちはジョン・フォードにこれほどいかれちまってんだろう、という愚問を前にするとシナリオ直しは永久に進まないのでここらでやめておく。とにかく昨日に引き続き、ここ数年最も感動的で刺激的な読書であった。
そうしてフォードと蓮實先生のおかげで20時までに颯爽とシナリオ直しを終える。


P1000004.jpg 46.61 KB



あとはひたすら茫洋と漂う。土曜の午後に先週の『いだてん』再放送を。どこかもうひとつ歯切れの悪い気がして考えたが、それは色彩の問題だったかもしれない。もっとドラスティックな変容が試みられるべきではなかったか。明日の回はどうだろう。
午後、届いた「新潮」の連載「令和元年のテロリズム」第二回。背中に神経がビシッと蘇る気がする。途中で「どん詰まり」という言葉に当たった。大木雄高と私がある深夜だか明け方だかにふと符合して漏らした「すんどまり」と同源同義。次の舞台は内容としてここから展開することにしている。時代のどん詰まりにいることを、そのテロル(恐怖)をどう語ればいいか、それをこの画期的な論考とともに考え始める。
 
某日、大変美味なおでんを朝餉にいただき、午後は祝賀パレードの渦中、四谷にて衣装メイク打合せ。とうとう具体的に準備が始まった感。製作母体からさらなるシナリオ直し案が来るが、半分近く受け入れ難い。まあそれほど目くじら立てて、というものでもないが。帰宅して真千子が響灘で1メートルのヒラマサを釣り上げる『釣りびと万歳』を見て感動。昨日の大河は地上波、この日はBSだったが、思った通り明らかにカラコレ段階の処理が以前と変わっているのがBSを見て分かった。より鮮明かつシャープな色彩。いわば90年代以降のアメリカンに近い。これがやりたかったのか、と勝手に納得。
 
某日、ロケハン1日目。9時集合。京王堀之内→調布→竹ノ塚→渋谷→目黒。ロケハンというのはピンと来る来ないに関わらず、映像を構築する準備である。取捨選択だけではなく実際ロケする場所もしない場所もそれぞれが刺激しあって少しずつ構築を進めてくれる。だから行けば行くほど進化して行くのだ。しかし帰宅すると全く使い物にならないほど疲れている自分に気づく。ということで、夜、なぜかDVDで『砂の器』デジタルリマスター版を見終えてすぐに気絶。図らずも山谷初男氏追悼になってしまったが、ほとんど事件の全貌が露わになった後の回想場面(そして組曲「宿命」)の長さに恐れ入る。ここまで1時間20分くらいでここから後1時間。こんなに長かったっけ、と首をひねったが、よく考えるとこの作品、ちゃんと見たことがなかった。その証拠に私が覚えている「映画館の謎」はテレビ版の、田村正和が球場のスタンドにいるニュース映画の方で、そうなるはずだと思いながら見ていたからだ。で、映画館に貼ってある写真を見れば、ああそうか、と思い出す。自分の記憶力になさけなくなるが、まあそういうものだ。で、個人的にはあの球場の映像はショッキングだった。さて、ひとがこの映画のどこを面白いと思っていたか、それが橋本忍によるのか、野村芳太郎によるのか、はたまた山田洋次か、いやいや松本清張なのか、色々聞いてみたくなる。私は芥川也寸志とつい言いたくなるのだが。あるいは加藤嘉。
 
某日、ロケハン2日目。8時集合。鶴見→たまプラーザ→芝→江戸川→水元公園。昨日を含め最初のロケハンとしては好成績ではなかろうか。もちろんどれもまだ決定には至らないまでも二割くらいはイメージを喚起し始めている。ともあれロングドライヴ(東京横断二往復)につき解散時には連日の疲労困憊。夜道を照らす満月がせめてもの救いだった。
 
某日、次回作主演女優と初顔合わせ。大変に明るく健康的な美女である。しかも飲み込みが早い。非常に良きことである。しかしそれとは別件で問題発覚、夕方の打合せは延期とする。帰宅すると驟雨。干しっぱなしで二度降られた布団をあわやというところで救出。天空はかなり不安定。この日、定期購読を開始した「週刊金曜日」の最初の配刊。支持できる記事はあまりないが、知らないことも多い。首相の花見が公選法違反の疑獄事件として話題になっている。もはやここで逮捕しかない。逃げ切らせてはならない。まあ辞職しなきゃ逮捕できないのか。女優が撮影で仙台に一泊ということで、寝る前に『第七天国』。なぜか見なければならない、と感じていたが、実は次回作ではなくすでに完成間近の最新作のためであるべきだったのかも。たんに抽斗を開けると入っていたので見たのだが、大作家フランク・ボーゼーギがさすがにキューブリックやスピルバーグより偉いのは当たり前だが、しかしムルナウほど偉いわけではないというように感じるのはなぜだろう。どこか造形的=静止画的な絵画としての完成度が逆に映画としては弱いと感じられるのだろうか。ムルナウの、あるいはフォードの偉さが、例えばボーゼーギと一線を画すのは絵画的に思われつつも実際見るとその殻を破って映画=モーションピクチャーを実現していた、ということか。そしてこの垂直を目指したドラマがやがてオーソン・ウェルズを産むが、その領域でウェルズが他の追従を許さないのはボーゼーギとギトリのおかげだと改めて思う。開巻、淀川さんが熱弁を振るって下さる様も久しぶり。


P1000003.jpg 49.12 KB



某日、疲れが癒えぬまま午前中をぼんやり過ごし、午後スタッフルームへ。演出部とともにシナリオ洗い直し。まだ細かいところまで入り込めないので、微妙な結果に終わる。CGがらみ然り。夕方帰宅するが、胃痛のせいで一向に食欲湧かず。何もできず昏睡。
目覚めると胃の調子は戻っている。うどんを食し、午後の主演俳優顔合わせへ。聡明な若者と会うことはいつでも気持ちが良い。そうして下北沢へ移動し、ギターショップを巡るのだが、そうやってギターショップでギターを見て回ることは大抵の場合、気持ちが良い。そしてその後、来年をめぐるテイ龍進とのミーティングも気持ちよく過ごすことができた。
 
某日、なぜかテコンドー道場に通っており、日々サツマイモだのナガイモだのの皮を剥いて鍋で茹でる、といった夢を毎日見るのだが、一向に道場の光景は出てこない。ぱるるはとにかく踏んだり噛んだりするとぴいぴい鳴るゴムボールで遊んで、わざと階段から落として我々に取りに行かせる。典型的なかまってちゃん。楽しいが疲れる。あるいはその逆。
遅い午後、渋谷へ。二日連続でギターショップ見学。が、昨日ほどの成果なし。その後、清水剛画伯のデザイン画を見に、某事務所へ。実に見事というか想像以上の成果に夢が膨らんだ。これを実現できれば云うことはない。解散してやや飲み歩く。それが災いした、と云うわけはなく、しかし翌日午前中から調子悪く、やがてどっと発熱。日がなまどろみ続け、大河を見たはずだがほぼ記憶なし。夜半、野本に翌日のロケハン延期の可能性を訴える。
そして翌朝、やはり立ち上がるのがせいぜいといった状態でやはり病欠願いを出し、この日もほぼ眠る。体力がどんと落ちている。そしてストレスも過重。暮れ方にステーキを食すがこれでまた発熱した。が、それを最後に回復の兆し。田川の非行少年更生塾の話を見て、何か考えることがあった。世間はニューオータニの出方にかかっているように見えるが、エリカ様の一件はこれではなく上関原発のカモフラージュだろうと。しかし、来年の大河で濃姫を演じたエリカ様をそのまま使えと呑気なことを云う向きもあるが、本人が自白した以上年間出ずっぱりのはずの濃姫を以降別人でやるのは、ほとんど山本マーシーのおとぼけ映画ではないか。天下のNHKにそんな度胸はありえず、速やかな撮り直ししかない。
翌朝は6時に起き出し、新宿へ。ロケハン第3日。昨日のリベンジとして、八王子→新宿→大森→神田→神保町、と見て回り、成果を得る。神保町で軽食を摂って最終的に千駄ヶ谷で主演女優の衣装合わせ。ほぼ作りによるもので、出来栄えは見事なものであった。二度目を計画していたが、もう現場対応で十分。夜は前作からのつきあいのイタリア人制作進行マッティア・チモライ君に家の近所まで送ってもらう。疲労困憊、静かに休む。『クローズアップ現代』で車中生活者の話。『カリフォルニア・ドリーミング』を懐かしむ。
 
某日、ロケハンと衣装合わせから出た訂正箇所を含めたシナリオ直しの続き。未だに未確定箇所多数、だんだん腹が立ってくる。五反田イマジカにて前作の試写。ナガシマの予言通り音の細かい直しが出てくる。実は画面についても半秒ほど切りたいところがいくつかあるが、時すでに遅し。ともあれ主演女優の繊細な演技は大画面になればなるほど観客に伝わるだろう。嬉しい限り。終わってナガシマと菊池さんで昼飯を求めて五反田を放浪。ネパール屋にて歓談。夕方帰宅。ニール・ヤング&クレイジー・ホース『コロラド』を聴く。意外に地味で、心地よい。かつてパイレーツを中年ロックと目指したが、これは老年ロック。
 
某日、主演男優の衣装合わせのため千駄ヶ谷へ。女優に送ってもらう。主演男優、実に美丈夫のため何を着ても似合い、着こなす。ちっともだらしなくならない。もっとボロボロの男のはずなんだが、と苦笑い。かなりエイジングが必要か。終わって青山ビルまで移動、地下でうどん(美味)を食し、さらにツインビルの「ライオン」で時間を潰し、やがて『不在証明』。開場後、美由紀様と壇上でライヴペインティングをなさる黒田征太郎画伯80歳にご挨拶。久方ぶりの黒田さんと並んで語る。現場は松田龍平、とよた真帆、それぞれ非常に良かったのだが、圧巻は向井くんの弾いたブルーのシンラインであった。久々にテレキャスターのぶっとい音を聞き、のけぞりそうなほどカッコよかった。もちろん斎藤ネコ、奈良敏博のヴェテラン勢の凄腕っぷりも。帰りは荷物持ちとして活動。

P1000006.jpg 60.71 KB


P1000007.jpg 49.46 KB
黒田画伯の「ブルーバード」 


このところ、と云うわけではないが、気づくとアルドリッチのことを考えていることがやけに多い。作品のことというよりはその人生の推移についてだ。もちろん終始一貫していることにかけて彼ほど強靭な男はいない。例えばバイロックやデヴォル、ルシアーノとの付き合いなど。72年にウィリアム・グラスゴウが亡くなってからデザイナーは次々に変わる。もしもバイロックが早めに亡くなっていたら撮影も一定ではなかっただろう。いずれ、より綿密にアルドリッチ作品の変遷を研究したい。誰がキャメラだとどうなのか、編集マンが変わるとどうなるか、そもそもアルドリッチにとって美術とは、など。
 
某日、雨中9時集合でロケハン第4日。浦和→本郷→横浜→港北。収穫大。しかしひどく冷たい雨が篠突いた。おかげで普段より余計に疲れる。疲れるのは製作母体の条件付けも同じわけだが。ロケハンしても映せないものが山ほどある。その結果、社会の半分以上を映像作品から切り捨てることになる。しかもその理由はごく曖昧だ。我々スタッフは途中で一体何をしているのかわからなくなる時が来るが、作品のために黙って前へ進むしかない。だがこういうことをやるためにやってきたわけではない、としか思えないのだ。
夜はBSで『The Good, the Bad, and The Ugly』。やはりこの映画の最も優れたショットは望遠で延々とサッドヒルを駆け回るトゥーコを捉えたショットではないか。
一旦眠り、深夜にアルドリッチ研究の端緒として『女の香り』。字幕付きは初見。ルメット『女優志願』をどこかで思い出させるタイトルバックなど、俳優業界というかむしろ演劇界に通じる要素が多く、系列でいえばこちらでは空中ブランコ乗りのババブーンも出ている『The Big Knife』に即応し、三面のセットで引き寄りによる構成も実のところそうだし、階段からの落下と空中ブランコを重ねたプロットと回想の合成の質感において「映像」としての趣向を68年的にしようとしているといえば言えるか。それがうまく言っているかどうかは定かではないのだが。拳銃の火薬の量をめぐる伏線などいかにも演劇的で、その方向ではむしろアダルトで目覚ましいが、それを最後のドッグフードで徹底的に破壊するといういかにもアルドリッチらしい蹴散らし方がとにかく良い。実はアルドリッチは常に全方向性である。古典性も現代性も包含した上で。
 
某日、日がな篠突く雨。取りも直さず休みのためじっとしている。ジャン・ドゥーシェの訃報。とても仲良くしてくれた批評家の一人。いい人だった。心から冥福を祈る。先生より7つも上だなんて知らなかった。俺には少なくともあと七年の猶予がある、と考えるのは甘えすぎか。昼過ぎ、ふとその気になり、ネット上の映像で『香も高きケンタッキー』を見る。J・ファレル・マクドナルドが厩舎へ向けてライフルを一発放ち、その銃を部下に投げ渡すと奥へ行きながら柵代わりの枝につまずく一連はおそらく1ショットで撮られただろう。卓についたヘンリー・B・ウォルソールの目を娘の真っ白な手のひらが覆う横からのショットも息の長いテイクである。これらがやがてフォードの黄金時代を産むことになる。つまり撃ったけど撃てなかったなあやっぱり、という感情(これは極めて複雑な感情だ)をはっきりとは表さずにその後の行動で徐々に明らかにする(『捜索者』のラストショットはこれの劣化版)とか、親子の久方ぶりの再会という情感を娘の手のひらがゆっくりと父親の目を覆うその柔らかさとはあの速度でしかなし得ない、ということとか。まあ、ネット上で一度だけ、という条件では何を言ったつもりにもならないけれど、とにかく見たは見た。まああと何度見ることになるのか知らないが。
実は所用あってこの週末は伊豆へ行くつもりだったが、夫婦ともに疲れすぎ、おまけに雨に降り籠められては動けない。おかげで『ケンタッキー』を見ることになった。怪我の功名のような塩梅だ。その機に乗じて未見のDVDを発掘し、見る気になる。
ということでついに『ロリ・マドンナ戦争』。偶然ながらケンタッキーで起こった実話だそうで、その現実的な描写に何より驚いた。逆にいえば大して驚くような話ではない。隣り合った二つの家族というとだいたい陰惨な話だろうと思われるが、本当に陰惨で、大勢死ぬ。まあそこがいいということになるのだが。一番現実的でないのがロッド・スタイガーとロバート・ライアンの二家族の両長で、つまり長くハリウッドスターをやった人はそういう場所に馴染まない。若手は皆、例えばピーター・フォンダやデニス・ホッパーさえなんとかなるものだ。『メルキアデス・エストラーダの3度の埋葬』のリヴォン・ヘルムを想う。ところでこの映画の肝は誰かが撃たれるがしばしそれを誰が撃ったかわからなくなるというドラマの仕立てである。ゲイリー・ビジーが倒れた時、誰が撃ったか誰もが視線を泳がせる。そしてわかった瞬間に絶望が走る。ごく短い演出だがこれが意外にもこの「家族」映画を他と分離している。要するに取り返しのつかない衝動によって家族の亀裂が明らかにされるのだ。その亀裂の中心たるスコット・ウィルソンのせいではないが二年前の『傷だらけの挽歌』に似過ぎているのに、あちらは美術にしろ音楽にしろ絢爛豪華でこちらはなんともみすぼらしい。あちらが描くはロウリングトゥエンティーズ、こちらは六〇年代というのもある。そんなところも含めて他の何よりも『怒りの山河』を思い出し、ピーターの顔が浮かんだ。ブアマンの『脱出』なんかも思い出すが、六〇年代がいかにみすぼらしかろうと現在の世界を支配する「賤しさ」よりは百倍マシだと当時の低予算映画は教えてくれる。今は映画の中も外もたんに「賤しさ」に冒されている。それは日米問わず現政権を牛耳る者たちの顔が何よりも語っている。あれらの顔が我々すべてにこの「賤しさ」をおっ被せているのだ。あのせいで聖人君主のような奴が言うことさえ賤しく感じる。深作と同年齢(クリントとともJLGとも)のサラフィアンは朝鮮戦争中にアルトマンと出会い、ともに業界入りしたようである。知らないけど二人の間になんかいい話がありそうだ。いい話が知りたい。
 
某日、最後の休日かもしれない。ヴェンダースが映画を撮ったという教皇が来日したらしいが、現政権には猫に小判であろう。この休日の間、鍋を作り続けた。毎食うまい。コンテというのではなく画面を想定したポンチ絵を描き続ける。大河は結局、ダメな演出家が重要な回を演出したことでずっと損をしてきた気がする。田畑解任のこの回もつまらなかった。
 
某日、いまだに見たくても見られない映画というのがあって『神々のたそがれ』もその一本であり、ただどこかでゲルマンはいわゆる当人をついに越えることがなかった、という評価が手前にあって、さてどうかとパッケージを開けるとメイキングが特典であったので、これを見る。で、やはりまるでペキンパーのようにあまりに魅力的なゲルマン像にほだされて、結局本編はいまだ見ることなし。何故にあるレベルを超えてしまうロシア映画作家にはこういう傾向があるのだろうか。やはり国家というか民族の背負い方が違うのだろうか。『共喰い』の神社の境内で裕子さんが煙草を捨てる時のジュッという音はゲルマンの『道中の点検』抜きにはありえない。だが私はこれから私の『フルスタリョフ、車を!』を作ることができるだろうか? それこそが問題だ。
 
某日、ロケハン第5日。江東区→浅草→(食事。蕎麦屋「十和田」にて、ぎばさそば。超美味)→羽田→都筑→センター北→狛江→布田。まあイーヴンというところか。しかし気づいたのだが、我々スタッフも平均年齢五十を超えていやしまいか。晩秋の寒さがそれなりに堪える年齢であることは間違いないし、トイレの間合いも狭くなる。監督としてはそこらへんの事情も把握しながらやらねばならない。そうしたなか、若手のマッティアに目黒駅まで送ってもらい、マサルと久方ぶりに合流。談笑しきり。

(つづく)






青山真治

映画監督、舞台演出。1996年に『Helpless』で長編デビュー。2000年、『EUREKA』がカンヌ国際映画祭で国際批評家連盟賞&エキュメニック賞をW受賞。また、同作品の小説版で三島由紀夫賞を受賞。主な監督作品に『月の砂漠』(01)『エリ・エリ・レマ・サバクタニ』(05)『こおろぎ』(06)『サッド ヴァケイション』(07)『東京公園』(11)『共喰い』(13)、舞台演出作に『ワーニャおじさん』(チェーホフ)『フェードル』(ラシーヌ)など。今年、初の作・演出『しがさん、無事』を上演。

近況:新作の完成とほぼ同時に次回作の準備、とデビュー二年目以来の過酷な状況の上に三ヶ月以上書けず苦しんでいた単行本用の「サッシャ・ギトリ論」約十五枚をようやく上梓。今年はやたらと書いたが、これで終了。来年は自分のシナリオに専心するつもり。12月7日(土)新宿ケイズシネマで『こおろぎ』初回(12:00〜)上映後、舞台挨拶で若干喋ります。