映画川 『光りの墓』『世紀の光』

原智広さんによる「映画川」。今回はアピチャッポン・ウィーラセタクン監督の『光りの墓』(2015)と『世紀の光』(2006)を取り上げます。生と死、前世/現世/来世、さらに輪廻転生がテーマとなっている両作品が、私たちに何を見せ、どのような思考を促しているのか、私たちがアピチャッポン監督の映画に魅了される理由はどこにあるのかが考察されています。
※『世紀の光』は8月10~16日に早稲田松竹で、『光りの墓』は8月24・25日に川崎市市民ミュージアム、9月15~17日に伊那市・赤石シネマにて上映されます。
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『光りの墓』



我々は生きているのか、死んでいるのか

 
 
文=原 智広
 
 
早稲田松竹にて8月10日から8月16日までアピチャッポン・ウィーラセタクン監督特集が開催される。一般的には、2010年カンヌ国際映画祭パルムドールを受賞した映画『ブンミおじさんの森』で知られている監督で、この作品も確かに見どころ溢れるものがあるが、今回は敢えて『光りの墓』と『世紀の光』について取り上げたい。
 
アピチャッポンの映画は観たらすぐに分かると思うが、「記憶」と「生死」、「来世」、「現世」、「前世」、「輪廻転生」がテーマになっている。『光りの墓』は東北のタイ、イサーン地区(タイの中で最も貧しい地区として有名である)が舞台になっており、「眠り」と「記憶」に関する映画である。廃校を利用した仮設病院で、「眠り病」を患った兵士たちが病院のベッドで眠っている。この映画の色彩の豊さには魅了されるものがある、青から赤、そして、緑へと、移り変わる季節のような静けさ。私には考古学をやっているタイ人の友人がいるが、タイでは不可思議なことがあると何でもピー(タイ語で精霊という意味。一般的には幽霊という意味で使われることが多い)のせいにするという風習があるらしい。このことを踏まえるとピー信仰がまだ根付いており、看護師のジェンは兵士イットが目覚めるようにお祈りをする。とりわけこの台詞が印象的だった。
 
「廃校をつかった病院の下には、かつて王様の墓があった。兵士たちが眠り続けるのは、今もなお地面の奥底で王たちの魂が、兵士の正気を奪って戦争を繰り広げていると」
 
なるほどね。学校や集団が途轍もなく苦手だった私は誰にも馴染めず、誰とも同調せず、誰とも話さなかった、沈黙は身を守る手段として常に正しいと私は思っていた。私は間違っていたのだろう、だが、そんなことはさして問題じゃない。私は10代後半から20代半ばまでアルバイトでお金を貯めては頻繁に物価の安い国外に避難していた。何をしていたかも、何をしたかったかも自分でもよく覚えていない。理由なんぞ何もなかった。ただ何もできない自分に苛立っていた。ただ強烈な自意識を消し去ることを望んでおり、猛烈に使命感に飢えていた。命を賭けても夢中になれる「何かを」求めていた。私には青春というものがなかった。「私は20歳だった、だがそれが人生で一番美しい時期だったとは誰にも言わせまい」(ポール・ニザン)。そういうわけで、私は目も鼻も口もない、のっぺらぼうのような形相でチェンマイの狭い路地を徘徊し、暗い呪い陰鬱の僧衣を纏った。私に語りかけるのはオカマか詐欺師かプッシャーだけだった。今はもしかしたら、違うかもしれないが、その当時の印象だと、タイ人にとって国王というのは特別な存在で、誰もが国王を愛していると即答したものだった。
 
我々は常に潜在意識の中で永遠の眠りを求めている。断ち切れぬ麻痺への渇望、無時間性の自失の永遠化への欲望。「何もしたくない、何も見たくない、何も聞こえない」。そして、嘔吐、繰り返される悪夢、ゆっくりと促される自殺。自ら首に縄をかけようとも、断じてブルトンがかつて引用したように、「殺す者と殺される者は同一ではないのだから」(テルドーア・ジュフロア)、それを阿呆みたいに九官鳥のように繰り返す。静脈をただ痛めつけるだけの暮らし。かっぱらいの暮らし。嘘で塗り固められただけの暮らし。ああ、もう何もかもうんざりだ。現状、物心ついた時から私の何が変わったかと問われれば別に何も変わっていない。相変わらずこの世界は不幸で不平等で醜いもので溢れかえり、窒息しそうになり、私は未だに無知のままである。そして、まだ私は地獄の最中にいる。私という存在は私である限り既にもう死んでいる、この映画の兵士たちの眠りのように、まどろみの渦中に我々はいる。亡霊は足音を立てずに密かに森の奥に去っていく、或いは錯綜した苔むした墓標の中に。それでもなお、『光りの墓』の何が美しいかと問われれば、かつていた我々自身をそこに発見するからであろう。目を覆いたくなる光景もあるが。真実ならば仕方あるまい。謹んでお受けしよう。あなたがかつて見たこと、語ったことを信じよう。悪徳の旗印、自分に似ていない自分を見ること、葬列と頭蓋骨、戦場では栄光を勝ち得た、名前も知らない兵士たち、未来の詩学は一体何処に? 封じ込められたフィルムはコオロギのような音色がする。磁気の霊気、寒々とした魚の尾。食べて、吐き出し、また亡霊へと姿を変える。あの影は一体何であろうか? 問いかけても微かに息吹が聞こえるだけで、存在を認識するのは容易ではない。


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『光りの墓』 

  

中盤の女性たちが団欒するシーンで二人の女性が言う。
「私たちはもうとっくに死んでいる」
何度この言葉を私は聞き、語ったであろうか。
 
確か私の記憶だと、2006年に軍事クーデターがタイで起こったはずで、軍政による検閲や締め付けが増したようだったが、映画の登場人物たちはその現実から逃避するように、「眠り病」へとおちていく。ある兵士の魂が憑依して、不可視の王宮を彷徨うシーンがある。廃墟となった公園にも見えるが。こういうことはあまり言いたくないのだが、実は私も魂や霊魂、来世の存在を信じている。普通(何が普通かどうかもはや分からない、私は錯乱の最中にいる、私は普通を体験したこともないし、全く興味もない)よりか、恐らく私は感覚が鋭い。時折、嫌なことも良いこともひっくるめて、何かを感受してしまう性質だ。
 
アントニオ・ネグリの言うように「その科学がいかなる最高度の段階を想定しようとも、付随した原因から発して、不可思議な諸現象の一定の総体を説明できる完成された至上の科学などどうやっても構成できない」のは明らかであるし、古代のスコラ学者、ドゥンス・スコトゥスの言葉を転用するならば、自然を超越するものは「非自然」と言うことも出来る。しかし、「超越」も「否定」も、何かを超越する、何かを否定するということは、必然的に「意味」を持ってしまう。したがって、前もって、「ピー信仰を肯定する概念」、すなわち、肯定の理解がなければ、「超越」と「否定」を並べても無意味なものとなってしまう。ピーについて否定的に言われることよりも、まず『光りの墓』で描かれていることをすぐさま肯定せねばなるまい。そのように考えるならば、「現実」、「記憶」、「生死」、「来世」、「現世」、「前世」、「輪廻転生」、「眠り」の区別は全く無意味なものとなる。すべてを一緒くたにして坩堝のように考えねばなるまい。無論のこと「霊魂」に優劣などあるはずがない。
 
世界はそんなに単純ではない。
 
アピチャッポンは我々がこうした現象のすべてを考察するように促している。ひとつの魂となって現世を浮遊すること。その原理、原則に従うならば、サンジュストの言うように「自らの魂を高みに置くならば、不道徳を決して信じてはならない」。そもそも脳を通して我々は何らかのものを知覚すると一般的には認識されているが、自分の脳を見たものなど誰もいないし、私は脳の存在を信じていない。我々が何かを知覚しているとき、使われているのは脳ではない。では、一体何であろうか? 言葉で表現するのは非常に難解だが、端的に言えば、微粒子のような虹色の手の触感を通した不可知の紙帯のようなもので触れることである。そこに現実以外のすべてがある。日々繰り返し体感する、いいものも、悪いものも、亡霊となって彷徨い続ける。彼らが救われることはないのかもしれない、当然私も今も将来も彷徨い続けるだろう。登場人物の兵士であるイットに憑依されたケンが障害を抱えたジェンの片足を愛撫するシーンでは、目から溢れた涙と共に夢から現実へと引き戻されてしまう。少なくとも私は現実が心地よいと感じたことは産まれてから一度もなかった。アピチャッポンのフィルムを通すと、彼のまなざしが私でない誰かである私を捉えて、麻痺し、身動きできなくなるが、それが何と素晴らしいことであろうか! ゆっくりと流れゆく止まったかのような時間に身を任せる、心地よい浮遊感、ランボーに心酔し、世界の果てを見つけようともそれはどこにもないのは明らかであるのだが、それを求めてしまう。映画や小説、詩、作家自身、何者でもない何かに憑依し、私はそれらを通して何かを発見するのだ。それ以外の時間は死んだ状態のままである。こうして、私は自分ではない何かに、知覚してはならない領域の何かに語りかけ、踏み込み、真実を彷徨し、アピチャッポンの映画に佇み、私が知らなかったことをまた今日も知ってしまう。これは一般的には「不幸」だと言われるかもしれない、だから何だというのか? 放っておいてくれれば宜しい。私は決して探求することをやめることはないだろう。私は既に亡霊であるかもしれない。



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 『世紀の光』
 
 
『世紀の光』は『光りの墓』と比べるといい意味でよくまとめられた佳作である。この作品のほうが映画として評価されるのは妥当な判断だろう。説明するまでもなく、登場人物の多くが、前世や来世について言及し、アピチャッポン好みの輪廻転生の思考と共鳴する本作は2006年のヴェネチア国際映画祭で惜しくも受賞を逃した。本作は「映画監督は、社会の公序良俗や公序良俗を乱したり、国家の安全と尊厳を脅かすという理由で4つのシーンのカットを要求された」。公序良俗? 社会の秩序? 糞くらいやがれ! むしろそれに反抗することこそが我々の使命なのであるから。本作はタイの暗部が描かれている。とりわけ性的なことに関すること。タイほど売春が盛んな地区はないのに国内では未だに売春の存在は認められていない。日本にも公的にはホームレスは存在しないことになっているらしいが。そんな馬鹿なことはあるのだろうか? 芸術表現の自由を求めるのは当たり前で普段人が見えてはいるが、それを気付かせることが芸術の役割でもある。だが、必ず一定数はそれに反発する。気づきたくないからだ。だがいずれ拡大された知覚は必ず受け入れられる運命にある。
 
無論のこと、現世で「不幸」であった人物が来世では「幸福」になるという安易なメッセージに捉えてはならない。アピチャッポンの言う輪廻転生とはニーチェで言うような永劫回帰のような永遠の反復であり、時は止まるようであって止まらないし、何者かが介入するということもない。幸福は約束されてはいない。医師は治療を中断し、病院は静寂に包まれ、女性医師は前世で会った男性への恋の物思いに耽り、医療用具はマルセル・デュシャンのような美術品として放置され、こうしてすべての世界が止まったかのような感覚がし、あらゆる存在が眠りに落ちていく。
 
語っているのは誰なのか? 無論のこと神ではない。その目で凝視した精霊(ピー)なのだ。つまらない言い方をすれば集合的無意識とも言えるかもしれない。精霊(ピー)はとても気まぐれであるから、通俗性には属さない魂を吸い込む。何人かの気骨ある人物は病を治すために、精霊(ピー)を追い求め、行方不明となった。接近すればするほど訪れる神隠し。そこに踏み入ってはならない。悪を表現する言葉を植え付けられるから。
 
我々は普通ではないと認識したものに対して畏怖を抱く。そしてその者は排他される運命にある。だが、もっと視界を、像を広げねばなるまい。あなたたちは自分と周囲のことしか考えない。狂気は時に心地いいものだと私は訴えているのだが。そこから沸き起こる情感、実際に生きる地獄よりも死ぬ安楽さを選ぶという選択肢も別に悪くないだろうと私は常々思っている。完全に狂気に取り憑かれる前に私は仕事を終わらせなばなるまい。
 
『世紀の光』を観た後であれば特にその想いは募るばかりだ。私は目に焼きつける。すぐさま『世紀の光』が消え去ってしまうのではないかと何故か懸念してしまうからだ、そんな不思議な感覚のある映画である。具体的にこの作品の何がいいのかと問われると正直よく分からない、居心地の良さ、現実以外の現実を描いていることと答えるのが私にはせいぜいだ。或いは自分自身の幻影を追いかけるため? そう、私を苦しませる物事、苦しませる現象、とても頭が痛い、「この惑星に私はアレルギーがある」(ジャン・ピエール・デュプレー)。この世界はとても小さく、とても息苦しい、どうか安らかに私を眠らせてくださいと頼むのだが、その願望を唯一叶える可能性を秘めている映画監督がアピチャッポン・ウィーラセタクンである。かつて語った私がもう何者であるか私には分からないから、映画によって封じ込まれた永遠性の時間を私は夢想し没入するのだ。あの日のトロツキーのように「人生は美しい」と一度でいいから言ってみたいものだが・・・語りかけたことが何であろうと私は真実であると認識したいが、その時点では真実なのであるが、それはすぐに現実へと変貌してしまうから。決して掴めない霧のようなものである。今にも私は崖から下に転落して祈る。その間のイメージを私は直視する。私のまなざしは真実を射抜く。それを見ないことは断じて許されない。100年前の眠りから覚めたときのように私の肌は冷たく、それは私を導くものかどうかさえ私には確かめる術もないが、アピチャッポンの映画の登場人物は分かっているように見えるのだ。彼らのように、この映画という凝縮された世界の時間に永遠に封じ込まれたい。それが私の今望んでいる願望である。
 
我々はまだ生まれていない。世界はまだどこにもない。




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光りの墓 รักที่ขอนแก่น
2015年 / タイ、イギリス、フランス、ドイツ、マレーシア / 122分 / 監督・脚本:アピチャッポン・ウィーラセタクン / 出演:ジェンジラー・ポンパット・ワイドナー、バンロップ・ロームノーイ、ジャリンパッタラー・ルアンラムほか
8月24日(土)・25日(日)、川崎市市民ミュージアムで開催の「世界映画紀行 東南アジア編」で上映
9月15日(日)、16日(月・祝)、17日(火)に長野県伊那市・赤石シネマ(赤石商店)で上映


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世紀の光 แสงศตวรรษ
2006年 / タイ、フランス、オーストリア / 105分 / 監督・脚本:アピチャッポン・ウィーラセタクン / 出演:ナンタラット・サワッディクン、ジャールチャイ・イアムアラーム、ソーポン・プーカノック、ジェーンジラー・ポンパット、サクダー・ケーオブアディほか
8月10日(土)~16日(金)、早稲田松竹で開催の「アピチャッポン・ウィーラセタクン監督特集」で上映(同時上映『ブンミおじさんの森』 / レイトショー上映『真昼の不思議な物体』)




原智広

1985年生まれ。中卒。作家、翻訳家、脚本家。論文に「光学的革命論」、「仮象実体的社会と電子的スペクタクル性、その全貌への憎悪(スペクタクルの社会及びスペクタクルの社会への注解の改題)」 。2012年、芸術集団「EK-Stase(イーケーステイス)」を設立。映画『イリュミナシオン』『デュアル・シティ』(共に長谷川億名監督)の原作、プロデュース、一部脚本を担当。 2019年8月下旬に翻訳を手掛けた『戦時の手紙 ジャック・ヴァシェ大全』(河出書房新社)が刊行予定。