映画音楽急性増悪 第5回

虹釜太郎さんによる「映画音楽急性増悪」の第5回です。今回は1990年版と2017年版の映画『イット』の比較と、2019年9月公開予定の新作で描かれるかもしれないことについて、イットとは、悪とは、ラッキー 7について音メモをもとにいくつか浮かび上がる疑問点について、『if もしも....』『小さな悪の華』『サーミの血』を参照しながら考察されています。

第五回 豚

文=虹釜太郎

パトリックとヘンリーとゲップとヴィクターが暑い夏の午後にゴミ捨て場でお互いの屁に火をつけあいっこするエピソードが好きだ。やつらが屁に火をつけあうはめになったのはレナ・ダヴェンポートのせいで、レナは一度にどっさり豆を煮過ぎる。そのおかげでヘンリーの家の二部屋ある寝室はいつも腐ったみたいな屁の匂いが充満し、ブッチは残したやつを豚のビップやバップにくれてしまう。『IT』の小説のほうのこんなクソみたいなエピソードが好きだが、こういう細部は映画化されない(以下、原作の小説を『IT』、映画版を『イット』表記)。2019年9月公開予定の大人編『イット』ではここらが描かれるだろうか。今度の大人編で、どこかのクソガキがラッキー7たちに「スケートボードにのるのに気をつけろなんてむりだよ、おじさん」と吐き捨てるのを願っている。

ショベルカーに集まった七人の少年少女がお互いに問題を解決をしようとして同じ場所に集まるも、彼らは身を寄せあっているのにも関わらず一人一人しか映されないこと、パイプから漏れる強い光しか映っていないのにそれがきちんと怖いこと、そういったショットやライトのごく当たり前の効果たちに比べて音楽は終始とんかつ大学の親父の日々のくりごとに終始する。とんかつ大学の親父のくりごととは。

1990年版『イット』(『IT/イット』/トミー・リー・ウォレス)のオーディオコメンタリーで擬人化したショットとライトとサウンドとミュージックが四人で監督不在のコメンタリーをするならば、その四人のうちのミュージックはあきらかな不満をライトやショットたちにブゥブゥ表明するだろう。オーディオコメンタリーする「ミュージック」は、なぜオレはとんかつ大学のおやじのくりごとに固定化されてしまうのか、そこから自由になるにはどうしたらいいか、人間どもはなぜ依然として絶対逆らえないことになっているわかりやすさの奴隷でありすぎるのか。人間どもがわかりやすさの奴隷であるのは、それはいったいいつまでか。そしてオーディオコメンタリーする「ミュージック」がいるなら、それは何が活性化された世界なのだろう。オーディオコメンタリーでぶつくさ言う「ミュージック」がいる世界では、『大きな鳥と小さな鳥』(ピエロ・パオロ・パゾリーニ/1966年)のオーディオコメンタリーではカラスがコメンタリーをするだろう。そんな子供たちのバブリング言語世界をすっかり忘れた大人たちが映画『イット』をああだこうだと言う。しかし子らたちは大人と関係ないところでひどいたわごとをブゥブゥブゥブゥ発しているはずである。

町全体がイットだと考えたほうがいいとラッキー7チームが気づいた直後のわずか六秒のべヴの回想時の音楽がすばらしかった(べヴは見事にネグレクトされる)1990年版『イット』と2017年版『イット』(『IT/イット “それ”が見えたら、終わり。』/アンディ・ムスキエティ)の音楽のとんかつ大学のオヤジ具合とはどんなだったか。

ちなみにべヴの回想シーンについては、1990年年版より2017年版の方が「大人の無関心」が描かれていると一部で言われているけれど別にそんなことはなく、大人の無関心については上記べヴ回想時でもしっかり描かれている。2019年9月公開予定の大人編でさらに大人の無関心が回想として描かれるのか、それとも回想以外の手法でどう描かれるか。2017年版で興味深いのは未公開シーンのいくつかが明らかに「大人の無関心」についての議論誘発のためだけに撮られているように見えることで、それはスタンによる「大人の無関心」についてのあまりにわかりやすい演説とスタンによるそれと同時進行するラッキー7たちの体験ザッピングに顕著だが、「大人の無関心」について言葉で簡易にあまりにわかりやすく告発する様を描いてしまえば映画は壊れてしまう。このシーンはさらさら本編で使う気はないのに後の議論のためにだけ撮られたか。そしてプロデューサーが気づけば、もしかしたら阻止されるそのようなことはもっと暗に推奨されるべきだ。

とんかつ大学といっても高田馬場の大日本とんかつ大学のことでなく、某系列チェーンのとんかつ大学のことでなく、かつてのいち個人店舗で存在したとんかつ屋のとんかつ大学である。ある名画座に行く通り道にあったそのとんかつ屋さんは良心的な価格でよく通っていたのだが、そこの親父さんがもう延々とほら~○○でしょ○○でしょでしょ、でしょでしょでしょ○○でしょほらっ違うっ?○○でしょっえっ違う?違った ?○○でしょっ○○でしょっ!とずっと言いつづけており、ホールのおばちゃんは親父の○○でしょっを完全スルー。そしてさんざんっぱら親父の○○でしょっを浴びた後に名画座に行き、二本見てもさらにもう一巡したり、酔っぱらいがぶつぶつうるさいので(いまと違ってかつての名画座では酔っぱらいがよくイビキをさんざんかいて、たまに起きては酒かっくらっていたのです)席を変えたりしつつぼけーっと観ていたのだけど、ある日の二本立てで、ホラー演出の際のわかりやすい効果音の数々が直前まで浴びまくっていたとんかつ屋の親父の○○でしょっでしょっとダブる瞬間が訪れる。両者の共通点はあまりにもしつこい確認強迫…それ以来とくにホラー映画にあまりにつけられてしまう怖さの強調音が鳴るたびスクリーンの斜め上か左右どちらかの横にとんかつ屋の親父のほらっ怖かったでしょっほらっほらっの散らつきが出現しはじめ、その音と連動したとんかつ屋の親父のほらっ○○だったでしょはいまだに消えることはない。もちろんこんな病いは自分特有のもので、あまりに馬鹿馬鹿しいものだが、まともな人間ならスルーできる?強調音は自分にはまったくスルーできないだけでなく、それらは常にとんかつ屋の親父の効果確認強迫とセットであり続けている。『イット』で言えばイットのあらゆる突然の登場シーンにつけられるデカ音、どんなホラー映画でもおなじみの恐怖を倍加化調、ホラーを過保護にわかりやすく体感させる音どもが、ほらっほらっほらっ怖いでしょっという確認強迫とともに今日も世界のいたるところで…

ほらっ怖いでしょっな確認強迫の効果音は怖がらせようとしてるのに結果的にコメディ未満になってしまうのは『プロムナイト』(ポール・リンチ/1980年)などのあまたの例をあげるまでもない。何も考えないでホラー映画を作った場合の化調の音の歴史を丁寧に拾う暇人はなかなかいないだろうが、これらが世界から消える気配はない。これら「化調」に対し、登場人物たちの運命を出汁で覆いつくすというわかりやすい「出汁」の例として『柔らかい殻』(フィリップ・リドリー/1990年)がある。いくら俳優たちが名演技をしようと、覆いつくされた出汁の前では観客はどうすればいいのか。『柔らかい殻』のなかで、血を吸われた方の人間は若さを失い…と語られるが、ここで活力を失うのは観客の方である。出汁により観客は観る活力を徹底的に奪われる。87分からの関節炎、狭心症、痴呆症…オシッコもウンチもヨダレも垂れ流す…の語りかけの箇所がよくできてるだけに、他での圧倒的出汁ドバドバがもったいない。

とはいえ『サイレントヒル:リベレーション3D』(マイケル・J・バセット/2012年)のような延々とゲーム開始前のイントロだけが続くような映画の場合は、かえって化調が足りない、最初のうさちゃんのぬいぐるみからもうずっと化調が足りなすぎと感じる人もいて、それは観客のゲーム通過度とも関係するからもはや映画単体でどうこう言うのもおかしいし、そもそも『サイレントヒル:リベレーション3D』が映画かどうかもわからない。

ほらっ怖いでしょっな確認強迫の効果音は映画によかれということで、または観客を傲慢に見積ることにより常に使われ続けるが、監督によっては、それに対してはっきりとよしとしない者もいれば、「専門家」に任せるのが「プロフェッショナル」だということで音響班におしきられる者もいれば、さらにわかりやすい効果音をリクエストする者もいる。『if もしも....』(ドットは四つ。三つにすると秘書にブチきれられる)(リンゼイ・アンダーソン/1968年)の編集アシスタントだったイアン・レイコフによれば、監督は『if もしも....』においてわかりやすい効果音を使いたがらなかったという。音響効果スタッフが作った効果音は生の肉を使った悪意に満ちた恐ろしい音だったが、監督はその効果音を使いたがらず、イアンはそうでなかった。それらの音をせっかくスタッフがわざわざ生肉を何度もひっぱたいてまで作ってくれたし効果的だしでわかりやすく恐ろしさを強調するために使っていたら、この映画の魅力は確実に減じていただろうが、あなたならどう判断しただろう。

実写映画には、「完璧」なアニメーションにはないさまざまな偶然が入り込んでしまうが、1990年版『イット』の第一部ラストでの少女少年たちの円陣を内側から撮るシーンの新人カメラマンの微細な困惑によるあくまで「許容範囲」な震えは、しかしその円陣に最後に加わり、最後までその結束に許容範囲内で違和感を表明しているような態度のスタンの震えと後の不幸(大人編で彼は誰よりも先に死んでしまう)と準備段階ではあきらかに想定外にリンクしている。その円陣を撮ったカメラマンは日雇いの新人だった。彼は円陣内での廻る撮影に戸惑い続けたらしいが(その撮影に戸惑ったカメラマンは、撮影後に車の中で震えていた)、この円陣での少女少年たちの誓いのすぐ後に、大人のスタンが死ぬシーンが接続される。本作における日雇い新人カメラマンによる効果みたいなことは、いまだとんかつ大学のおやじのくりごと下にあるサウンドデザインの習慣の中で新人エンジニアたちにはあきらかに起きにくいだろう。だが、それをシステムに関わる人に気づかれぬように引き起こすこと、また無意識にぶれ続ける許容範囲をこれからの争点として作品に刻むのは、それに気づいた者たちの責務である。時にはいろいろバレないようにそれを遂行する必要がある。ほぼ争点だけで映画を作りあげることも今後さまざまになされる。

イットが食べるのは、恐怖にとりつかれた人間の肉体。より恐怖にとりつかれていたほうがイットにとってはおいしい。イットがより「美食」になる前の過去のイットが大人を食べてまずっ!や子供だから美味しそうだったのに恐怖にとりつかれにくい子供を食ってしまってけっこう不味いなあという描写は2017年版にはあってほしかったが、それはなかった。そもそも『イット』という映画は怖がらせることより、イットを倒すにはどうするかを観客も共に考えるというより、恐怖の定義と恐怖より強いものとは何かとを考えることを促すもので(キャリー・フクナガ監督が実現していればよりその方向が強まったか)、『イット』に対し、そのものずばり出されても困るんですとかピエロの話とかピエロのモデルはどうとかに終始していてはつまらない。

2017年版『イット』を初めて観た時の違和感は、マイクとスタンの描き方が不十分(俳優はすばらしい)ではないかというのと、差別と動物虐待についての自主規制、パトリックの死に方のおかしさ、何より17:59~19:11の音がやっつけ(初めて観る時にはもちろんタイムなどわかるわけないが)すぎないかということだった。一方ソフィア・リリス演じるべヴのパートはとても丁寧に描かれていたし、ビルへの両親の冷たさはより増し、ビルのやりきれなさが伝わりやすくなっていた。しかしベンの高い能力はあまりに増しすぎている気もする。どうしても気になったのはマイクとスタンの不遇とリッチーの牽引能力がかなり削がれているところと自主規制…

以下一応冒頭から。03:25~03:45 − 03:47~03:59のジョージが恐怖に怯える音はありきたりだが、02:21~02:34のそもそもジョージーが地下室に入る前の音の入れかたがまずとても丁寧。しかし奇妙なのは、07:39~08:00での遊園地の楽しさ音響の直後08:01~の突然の寂しい表情とアンニュイさで、それはジョージーを怖がらせるためにしては寂しすぎる表情だし、実際にジョージーも突然悲しい表情をしたイットを怖がらずにあきらかに退屈になるだけである。イットのこの表情についての、子供を怖がらせるため以外の納得いく説明がない。08:01~08:07のイットはイットとして未熟な感じだ。しかし08:16からはイットは怖がらせる本来の使命というか食欲を思いだす。

ちなみに原作では、ピエロが「ふわふわ浮かぶんだよ」を繰り返す前後にも突然悲しい表情をしたイットの描写はない。突然悲しい表情をしたイットは映画独自の表現で、この悲しい表情の理由は今後の三度め以降のリメイクにおいても重要な部分だと思われる。それはイットとは何か、イットの弱点とは何か、イットの弱い部分は何に由来するかに関わるから。

原作ではなく、映画だけから今回のイットを考えるなら、今回のイットは出来が悪い、イットは冬眠ごとに能力を変える、イットは友達を増やしたがっている、という三つのとんでもがすぐさま現れる人もいるはずだが、三つめのとんでもは別として、1990年版のイットの08:01~08:07での躊躇いは魅力的だ。それが現場の即興であれ、監督の意図であれ。今回のイットは補食対象に直接恐怖をあたえる能力はずば抜けて高くないことは冒頭ではっきりしたように映る。この八秒間のイットの躊躇いがなぜかについては諸説あるだろうが、原作関係なしに映画だけから観ると、わたしの中では以下の説明がもっともしっくりくる。それはすなわちジョージーはもっともっと美味しくなれたのにいま食べてしまうのかおれはっというものであり、イット自体もデリー村誕生時のようにとにかく量を一気に喰らっていた時とは変化している…

17:59~19:11の音は、初めて観た人は少しおかしく感じなかっただろうか。何もおかしくないとかまったく気にならないという人は以下スルーで。ビルが父に叱られてからマイクがいじめっ子から逃げる場面をブリッジする音楽だが、悲壮感漂う音楽のようでありながら希望に溢れている。子供の感情を補足する音楽であれば、この時点でのあきらかに希望な感触はおかしいし、状況説明であれば、この時点での悲壮から希望への安易さはおかしく、この17:59~19:11はエンジニアや監督が適当にブリッジしたのでないなら、ここでの音楽は、子供たちの悲壮な状況をイットが覗きこんでうんうん食欲がわいてきたぞ(希望)というものである。そして食欲がわく条件は、「恐怖に怯えやすい」から「無理解や虐待からダメージを受け続けている」に微調整されている、そういうことがこの音からははっきりする。2017年版のイットは恐怖に怯える者を補食対象としている存在から虐待されている者を補食する存在へと変異しようとしているように見えるということ。そうであれば08:01~08:07の躊躇いも納得がいく。つまりジョージーは虐待されていないから補食するのに時間がかかったのだ(もっともっと美味になれたのに以外の理由)。これを考えすぎ考えすぎぃ!ふふホラーなんだからさあという大人には、そもそも大人が、バブリング言語とそれと密接な多重生成怪獣世界をすっかり忘れたあんたが『イット』を観る意味はあんのかよと返したい。恐怖する子供を補食するイットの固定をつまらなく力んだところで、それを守っている人はいったい映画を観続けて何がしたいのか。ホラーの通行手形を延々と作りたいのか。しかし通行証を作ってるうちに当のホラー自体は変容していたり。17:59~19:11の後半の明るい音楽は、24:17~24:31のエディが過保護母親から解放されてチャリで遊びに出た時の明るい音楽と同種のものなだけという説明もあるかもしれないが、それにはやはり無理がある。17:59~19:11にはビルにもマイクにもエディの感じたつかの間の解放感など微塵もないのだから。少年少女たちの動きに対してつけられたかのように響くこの音はしかしイットの食欲の増減についてのものでしかないのだろうか。ここでの音楽のいれ方が軸ぶれのように感じられるのは、後のラッキー7の仲間割れ直前の軸がぶれたような音楽の入り方と呼応するようだが、それは後述する。いまだ映画『イット』については演技、脚本についての感想ばかりだが、1990年版も2017年版も俳優たちの演技はすばらしいが、優れたライターには演技や脚本以外の問題や不明点をもっともっと明らかにしてほしい。

ジョージーは虐待されていないから補食するのに時間がかかったのだとしたら、ラッキー7の中でイットの中でもっとも闘いにくい、補食しにくいのは誰かと言えば、それは1990年版ではそれはマイクだったと思う。2017年版ではラッキー7それぞれの固有の恐怖が丁寧に描かれるが、19:39~20:19のマイクのそれは両親を火災で亡くした恐怖の再現になっているが、微細な話かもしれないが、この改変がマイクをイットが闘いにくい相手にさせなかったように感じる。言いにくいことだが、俳優たちの演技も美術もすばらしい2017年版では差別主義者の問題と動物虐待についてははっきり自主規制されてしまっている。しかしそのことでイットの闘いにくい相手を変化させてしまっては、それは問題ではないだろうか。キャリー・フクナガ監督降板の理由が上記に関わることかどうかはわからないが。

1990年版の後半で、マイクと同じく人種の問題を抱えているはずのスタンがもっとも先に潰れたのに対し、マイクはもっとしぶとかった。しかし大人のマイクは死にそうになるが決して最後まで死なない、最後の決戦にはマイクは参加しない、マイクこそが大人のラッキー7たちを結果的に召喚したとこれらの点を考えれば、マイクの表層の意識は別とし、マイクはイットとあきらかに共闘しているというとんでもな捉え方もあり、そちらの方が怖いかもだが、しかしこれは詳しく書かないが、それは犯罪研究者や消防士にさえ起きうる。マイクとスタンを中心にしたより踏み込んだイット論が待たれる(ずっと待っているのだが)。しかし2017年版ではイットの共犯者はマイクでなくいじめっ子におっぱいと呼ばれるエッグボーイのニュアンスが強くないだろうか。エッグボーイ=ベンの最初の洗礼は、彼の固有の体験に根差した恐怖でなく、彼がデリーの過去を探ることへの警告としてのショックでしかなく、イットは彼にエッグボーイッと脅かすが、そこにはエッグボーイを他のやつらを補食するための道具にしようという気配がある。2017年版でのマイクの描きかたの弱さが気になって仕方がない。

2019年9月公開予定の大人編でも、イットを表面上はすっかり忘れたラッキー7たちを召喚するのはマイクだろうが、2019年版での微細なイットの暗黙の共犯者な描かれ方(そんなわけないという人が大半だろう)との違いがそこにあるなら、それは最大の見所のひとつになるかもしれない。エッグボーイスルーかもだが。しかし28:12のイットのエッグボーイッ!の呼びかけは怖がらせようというだけにしては念がいっている。イット直々だし。パトリックの場合もイット直々だが(パトリックはスプレー缶プレイのいじめっ子)、パトリックは前菜として食われただけだ。パトリックは想像力豊かには怖がらないし、また虐待され度合いもラッキー7よりは低い(?)のでイットにとっては美味ではないので前菜(パトリックの死に方の改変もまた納得できない。動物虐待を描きたくなかったからか)。イットはより美味しく食べるための工夫は欠かさない。デリーが出来上がって人間どもが初めて集まりはじめた当初は大喰らいだったイットもいまは美食家であり、ラッキー7のなかでは比較的なめているエディについては、白昼堂々姿を現しては、パトリックのようにはすぐにはエディを喰らわず(パトリックはもっと美味しくなる余地がなかった)、もっともっと美味しくなあれと逃がす。ラッキー7のうち最初に補食されたのはべヴだが、それはべヴの戦闘力が低いからでなく、リーダーシップをとる力があり仲間を鼓舞する高い能力を持つべヴにはイットは別の方法を選んでうまくいったからで、それは直接戦わずに被害者たちへの同情を誘うという卑劣なものだが、ほんとであればべヴももっと美味しくしてから喰らいたかったはずだ。予想外に脆くてイットにとって「今回」いちばん拍子抜けしたのはリッチーだろうか。ピエロの形態をいちばん笑い飛ばすはずのリッチーは、嘘のリッチー尋ね人の偽のチラシに対して、だっはっはー名前も生年月日もシャツも髪型も全部オレとおんなじ!うっけるーとはならずにまじに怖がってしまう。イットはエディに対しては過保護にお決まりの減衰遊園地音楽や床抜け装置まで用意するのに、リッチーに対しては手抜きの偽のチラシと風に毛が生えた手抜き音響だけだ。イットのリッチーへの手抜きっぷりはひどいが、そのあとにピエロの控え室を案内したり、イットはリッチーを怖がらせるというよりは鼓舞してるようにも見える。そういうイットを味わう歓びが映画にはある。2019年公開予定の大人編ではあまりに勝手な改変は許されないだろうが、ベンとリッチーには補食対象とは別の愛着を感じ、エディに対してはとことん過保護にというイットを見れたのは楽しかった。それにしてもエディは実の母親からもイットからも二重に過干渉されている。映画ではもちろん描かれないが、悪魔主義にもっとも目覚めやすい危険性はラッキー7の中ではエディが一番である。それを救っているのはイットである。ただイットはスタンに対しては、どこか態度を決めあぐねているように感じる。

2017年版でもっとも軸がぶれてると感じたのは89:00~の仲間割れの時の音楽だが、この箇所については音入れ無し以外の正解がいまだわからない。そして今回いちばん監督が悩んだかもしれない編集は、仲間割れの後のラッキー7の過ごし方で、この箇所は本作でももっとも尊い場面のひとつだが、とりわけ気になるのが89:59~90:05のたった六秒しかないスタンのパートだ。音楽に全てかき消されていてわからないが、ここではスタンは大人の無関心への告発を勇気を持って行っている。まるで1990年版大人編のスタンの自殺を補うかのように。2017年版で監督がスタンに対して態度を決めあぐねているのは(はっきりさせたのはラストの円陣から去る順番=大人編で死ぬ順番)、この完成版ではカットされているスタンによる「大人の無関心」について告発する長いシーンからも明らかである。優しさと編集は矛盾する。しかしこうした矛盾に魅力を感じないなら、どうして映画を観る必要があるだろう。

2017年版『イット』では大人の無関心への告発は見事に音楽でかき消されたが、『サーミの血』(アマンダ・ケンネル/2016年)においては音楽とネグレクトということが面白いねじれを起こしている。世界中の音楽が大大大好きなんです!という嘘つきやポジティブ過ぎて困る人はあなたの周りにいるだろう。世界中の音楽が大大大好きなんですという輩は、音楽をコレクション可能でいろいろ交換可能な抽象量みたいなものととらえているかもしれないが、話せばなんでも通じあえることを他者に強制しがちな傲慢なバカなだけかもしれない。そんな輩は『サーミの血』を繰り返し観れば世界中の音楽が大大大好きなんてことは間違っても言えなくなるはずだが、一瞬ひるんでもわたしの気持ちはどうなるのよ…あの国の音楽をどうしようもなく好きなわたしの気持ちはわたしの…と気持ち悪い。彼らは重度の対人恐怖ゆえに世界中の音楽を先に愛し尽くしてしまおうとしているのだろうか。

『サーミの血』は、音楽が執拗にネグレクトにこびりついている貴重な映画だ。

「母さんの生まれ故郷の音楽」が無視しているものとは…

あらゆる映画において常に救済の象徴として存在してきたヘリコプター音が、本作において無視しているものとは…

エレマリャが受ける音楽の授業の音楽が無視しているもの(18分および53分での音楽の授業)とは…

ヨイクを(「興味深い」ものとして)聞く者がが無視しているものとは…

無視と無聴とかい離。無視という概念に対して「無視」という言葉なままの状況。無視という行為がほとんどかい離である場合も。無視できても無聴できない苦しみ。恐怖の源泉としての無聴。聴きたくないのに聴いてしまうことはまだまださまざまに反復され多くの者を苦しめていく。映画は嬉々としてその残虐を拡大する。疲労していると自然と無視することができても聴かないことは難しい。疲労の果てで消え失せかけていると、聴くということすらなくなりそうになるが、依然聴いてはいる。聴いているかいないかの境目の映画たちとは…

とんかつ大学のオヤジは不死であり、そこでそのオヤジの休みない攻撃にさらされ、かつ仲間もいない者にできることは、そのオヤジがついやってしまう間違いをみつけ、さまざまなその間違いともいえない間違い未満たちを比較し、オヤジの行為を構成する土台を把握すること。映画を論じるのではなくて、映画の内部から個々の映画のおかしさを露にするということ。同じ言語で書かれていても違うそれら。

『イット』の逆の場合としては、どんな映画があるだろうか。皆の力でイットを退散または撃退(討伐はできない)ではなく、皆の力でそれを召還または捕獲またはそれに自由にこの世界で猛威をふるってもらうような。例えば『イット』の逆としての『小さな悪の華』。ジョエル・セリアは『小さな悪の華』(1970年)を撮ったことで、子供時代からの恨みをはらした。だからこそ少女たちに教会で牧師が素っ裸になっておまえらみんな地獄の炎に焼かれるぞーとの幻覚を嬉々として観させて。そのことを『イット』と比較するとどうなるか。少女たちは悪を怖がらずにいたが、結果的にF(下記参照)の立場では悪そのものをなした。

『小さな悪の華』の23:54の少女たちの「ずっとここにいたい」。『小さな悪の華』たちは悪の召喚という名目で、『イット』では悪の撃退という名目で。悪に対して真逆の態度をとる名目の映画。1990年版『イット』大人編のマイクは、かつての輝かしい充実感を無意識に希求し、その「ずっとここにいたい」が悪の召喚の準備を整える。「ずっとここにいたい」の悪魔性とは違い、「ずっとここにいろ」と命令された者は悪魔性を免れるか。前者は無数の映画で描かれ、後者は例えば『オルランド』(サリー・ポッター/1992年)がそうかもだが、『小さな悪の華』の少女たちが「ずっとここにいろ」と命令される段階になった時に、そこではどういう音楽が流れているか。「ずっとここにいろ」を意識して実現させた者たちは共犯者を増やしたいのか、孤独でいたいのか、限定された者たちの楽園を作りたいのか。共犯者を増やしたい場合はホラー映画に? 孤独でいたい場合は? 限定された者たちの楽園を作りたい場合は何を巡る映画になるのか。「ずっとここにいろ」が悪のひとつであることを、より説得力あるかたちで描いた映画がどれだけの人が観たいかはわからないが、それは今後もさまざまに描かれることになるのは間違いない。そこで悪について自分なりの定義をいままでしてこなかった者は、自分なりの悪の定義をどんなに稚拙なものであれ、それをいったんする必要がある。そうでなければコレクターになるだけで、それで何も問題がないならそれは幸せだ。

以下、悪がなぜ引き起こされるかについての馬鹿馬鹿しいメモ

  • 極めて穏やかで控えめな動機とかすかな不安によって引き起こされる
  • 匿名性から引き起こされる
  • あらゆる既得権益から引き起こされる
  • ノンビーイング(無)になることはどんな者にも許されない(創造者にさえ)ために生じる恨みつらみによって引き起こされる

    そして悪についての以下のEとFを、映画を観ている者は普段どうとらえているか。

  • できる限りのひどい経験を積ませること
  • できる限りのひどい経験を積ませないあらゆることをする

Eを悪だと考える者は多いが、Eは死なせるという行為からもっとも遠い立場である。Fを善だと無意識に考えてしまう者は多いが、なにかをすぐに殺すというのは、EからでなくFから来るのである。

Fこそが悪だとする立場もはっきりとある。Fこそが悪とする立場なら、Fをきっちり描くことは、それはホラー映画らしくはなくてもまぎれもなくホラーそのものになる。Fを悪だとする立場は死刑廃止論者にもなるが、それは人道的見地からのものではまったくない。Fを悪だと考えない、というか想像できない「善意」の人たち。

ずっとここにいろという存在は悪であるという立場がある。ずっとここにいろという存在は悪の話にも愛の話にもなる。

『イット』においては、出来が悪いイットおよび仲間を増やしたいイットはともに悪であるか。大人になったスタンはイットが再び現れたと聞いた直後に自殺した。自殺はなぜ悪なのかは、Fの立場ではみもふたもなく、それはよりひどい体験ができなくなってしまうからに他ならない。人道的な問題から自殺が悪だどうだは、Fの立場では関係がない。あなたはいつかいきなりすれ違いざまに、あんたはFの方が楽なんだろと捨て台詞を吐かれるかもしれない。映画を観てきたは人たちは既に何度もそれを吐かれているはずだが。

出来のいいイットと出来の悪いイットとは何か。出来の悪いイットはすぐに殺してしまうイットである。出来のいいイットはすぐに殺さず、子供たちをあらゆるつらいめにあわせつつ、ぎりぎり殺すのを遅延させる。ではまだ出現していないかなり出来のいいイットが登場するとしたら、それは結果的に皆が悪と考えるものからかなり離れていってしまうように見えるのではないだろうか。2043年版『イット』では完全に悪から離れたかのようなイットが出現するか。2019年9月公開予定の『イット』大人編では、そもそもラッキー7の闘い如何に関わらず、イットは悪から離れていっているのではないのかということは描かれないだろうが(描いてほしいが)、イットは友達を増やしたがっているのではという問題、イットは冬眠ごとに能力が微妙に変わってしまうのではないかという問題、加害者倫理の問題、そしてムスキエティ監督がいまのところもっとも優柔不断な態度をとっているスタンの死をどう描くか、また2017年版でもっとも手抜きされたように映るマイクをどう描くか、そもそもダビングにおいて軸がブレやすい監督がどうそれをたてなおすかが楽しみである。そして『イット』最大の問題点、他人の歯の痛みがわからないのに、なぜ他人の個々の恐怖の実体化を共有できるのかの「副作用」が、1990年版とは違ってどう描かれるのか。その副作用が勇気を持って描かれないならみんなまた冬眠明けまで待つことに。できればスピンオフではラッキー7が大人子供混成チームになるのや加害者被害者が混じったチームになるのをいつか観たいものだが、キングは許可しないだろう。

悪がなぜ引き起こされるかについては人によって当然考えは異なる。がそれについてはあまりにも日常的に話され無さすぎではないだろうか。そのことのあまりの貧困はこれからの映画の貧しさに直結してしまう。

『小さな悪の華』と『イット』。キング原作の映画は今後も延々と作られるだろうが、『小さな悪の華』の系列は途絶えそうで心配になる。ポーリーンとジュリエットの話は今後何回も作られるべきだし、ヴィンスパックの原作はもっと映画化されるべきだ。

イット出現の仕組みについては原作からも映画からも離れてもっともっとくだらないゴミそのものの仮説が延々と話されるべきだ。イットが出現しやすくなる習慣や他人の悪夢がリアルにわかるとはどういうことかについてのヤンキーそのものなだべりがもっと蔓延しないと、イットよりもっとひどいものが住みやすい世の中になる。悪の観光気分はもうやめてほしいのだ。

多くの映画にとんかつ大学多元主義と呼ぶべきようなものが入りこんでしまっている。それは、とんかつ大学のオヤジの○○でしょっ!!違うっ!?やっぱ○○でしょっ!でしょでしょでしょでしょ…という案内の元での作品の多様性があるという残念な事態である。とんかつ大学のオヤジに加えて、オヤジほどではないがよく出てくるのがもっとやれオジサンである。このもっとやれオジサンはだいたいにおいて火事場において便乗する。ホラー映画やゾンヒ映画にもよく出てくるオジサン。しかしこのオジサンについてはまた別の機会に。

2019年9月公開予定の『イット』大人編では、ビルの吃りが「戻る」ことがどう大切に描かれるかもとても気になる。イットに近づくことで戻る吃り。大人になったビルが吃りを再度獲得すること。吃りと切り裂きが切り刻む世界を前作からも原作からも離れ、それらによる世界のひきちぎりが予想もできないかたちで結ばれる時、ホラーは新たな実験場となり、空疎で退屈でよりダメなものを求める度しがたい人間どもの癖はその実験場ではたとえわずかでもどう変わるだろう。