- 日記
- 2022年12月26日
オランダ無為徒食日記 第1回
映画プログラマーの清水裕さんによる新連載。2022年9月からオランダ・ロッテルダム国際映画祭で研修中の清水さんが、同映画祭の運営や当地での生活の様子、映画をめぐる環境について記してくれます。初回は渡航後まもない9月の記録をお届けします。
2022年9月編
文・写真=清水 裕
10年ほど前に円山町の映画館でもぎりを始めて、少しずつ上映の企画をするようになり、美術分野でも働かせてもらった。ニッチな映画上映という仕事を運よく続けて来たが頭打ちを感じる。徹底したシネフィルでもなければ専門もなくこのまま続けられる気はしない。1日も休まない年もあったし休まず働かなければならない現実があった。このままでいられないことは明らかだが勉強するお金も時間も無いため、映画祭の手伝いをしながら潜入調査してみることにした。行き先に選んだロッテルダム国際映画祭(IFFR)は1972年創立の世界最大規模の映画祭で、先鋭的な作品やアジア映画を多く紹介して来た場でもある。何年も遠目に見てきたIFFRを1年かけてこの目で見ることになる。報告書にはあがらないことも書き留めるためboid マガジンさんの場をお借りすることにした。社会人になって初めて仕事せずに過ごすこの1年、強いて言えば実践で上映に取り組んできた自分にいま見える景色を所感として記せたらと思う。
オランダ行きの目的はIFFRのプログラミングと組織運営のリサーチで、生活費は文化庁新進芸術家海外研修制度を利用し助成金で賄う。研修期間は約1年、2022年9月半ばに移住・研修を開始し2023年8月末に終了予定。オランダに来ること自体初めてで、ここ何年かは2月開催の恵比寿映像祭に関わっていたこともあり1月末開始のIFFRに来たことはなかった。というかもし時間があったとしても来るお金がないし仕事として送ってもらえる機会もありそうにない。第10回恵比寿映像祭内で、IFFRプログラマーで映画研究者のジュリアン・ロスによるキレキレの攻めたプログラムに触れて以来関心を抱くようになり、2019年から具体的に研修先として想定し始めた。他にも近年は草野なつか『王国(あるいはその家について)』(2019)、牧野貴『Memento Stella』(2019)、小田香『セノーテ』(2019)、遠藤麻衣子『Tokyo Telepath 2020』(2020)など、IFFRで上映を行った後に恵比寿映像祭で見られる作品もいくつかあった。ベン・リヴァース、ミディ・ジー、アナ・ヴァス、ベン・ラッセル、ビー・ガン、シリーン・セノ、ジョン・トレス、アノーチャ・スウィーチャーゴーンポン等も同様、自身の関心の高い作家がいち早くかつ網羅的に紹介されてきた場と受け取っている。セレブリティが訪れるような機会は少なく一般客に支えられ、世界三大映画祭のヴェネツィア国際映画祭より観客動員数が多いと聞く。商業的成立が難しいと思われる作品も含め、それらがどのような経緯で見出され、プロフェッショナルだけではなく一般の観客にどのように受け取られるのか見てみたかった。その「見てみたい」がリアルな感覚で、研究者じゃないので受け取り方や分析のメソッドを持たない。そのためある程度の期間滞在する必要があり文化支援制度を利用するほかなかった。しかし今年4月の組織改編でプログラマーの大半はIFFRを去った。尊敬するプログラマーであり大切な友人のジュリアンも居なくなった。適切な例えかわからないがレストランのシェフが変わるので味が変わるようなことではないかと想像している。IFFRのDNAがどのように塗り替えられるか、中にいる人すら手探りのような感覚で働く改革のタイミングで飛び込むことになった。
ジュリアンというメンターをなくした自分からのIFFRへのリクエストは作品選考会議にオブザーバー参加させてもらうこと、今回と過去の全応募作品情報の掲載されたデータベースにアクセスさせてもらうこと、スタッフにインタビューさせてもらうこと、あとは掃除でも客入れでも何でもやりますと伝えた。結果的に希望の全てを叶えてもらい毎日事務所に出勤してリサーチャーというていで在籍させていただいている。アカデミック分野ではない独自のリサーチということでポジションの説明がしづらいが無給のインターンのような感じ。あとはDinamoという実験映像やビデオアートの配給会社による国際的コレクティブの短編集のコーディネーションを担当している。IFFRのプログラマーたちが提案するテーマ(今回はBluesとDisplacement)に応じ各配給会社が12分以内の作品を提案する。その中から作品を選び80分程度のプログラムとして成立させる。ジュリアンやニューヨーク映画祭のアイリー(愛理)・ナッシュが手掛けるような実験映像の短編集プログラミングに関心があったこともあり、実践があるのはありがたい。また過去に遠隔でやり取りをした配給会社の人たちもいるのでここで初めて対面で会うのも楽しみだ。
IFFR各部署のヘッドは女性が多く男性は1人だけ、スタッフの7−8割は女性で、平均年齢は予想で35くらい。大所帯のため当然組織は階層化されているが部署間の優先順位はあまりない様子で、部署内も限りなくフラット。各スタッフの分担が明確でいずれも重要な役割として尊重されておりあからさまな序列がない。インターンであろうが言い分が適切であれば採用される。合流初日にスタッフが若くて女性が多い印象をある部署ヘッドの30代前半の女性に伝えると「おじさんたちと働くのは難しいから」とのひとことに(待ってました)という気持ちに。オフィス内の小さなキッチンには様々な種類のお茶やジュース、ちゃんと美味しいコーヒーマシン、お酒やインスタントのスープ、果物等軽食がありこれらが無料、しかも繁忙期前は隔週木曜にランチが提供されると聞いたときは笑みがおさまらなかった。これだけで経済的にも助かるし、お茶や食事がコミュニケーションにとっても有効と捉えられている。合流2日目には人事と30分程の打ち合わせがあり、嫌なことや理不尽な思いをした時などとにかく気になることがあれば、外部と内部に一人ずつカウンセラーがいるのでいつでもどれだけでも連絡をして良いと説明を受ける。チーム合流間もなくしかも私も含めてたった2人に向けてこの機会が設けられたことに職場への信頼が高まる。まとめて月1回とかではなくスタッフが増えるたびこの手間をかけているため小さくはない労力であろうが必須と認識されている。何より良い職場環境が良い仕事を生むということをスタッフが身をもって知っている。
私の心のオアシスことキッチン。ランチは基本的にみな持参でキッチン前のテーブルで輪になって食べる。他部署の人ともここで会って話すきっかけになるし、単純だがモチベーションが全然違ってくる
家主でありルームメイトのスーザンは50代後半のトルコ出身のムスリムの女性で、30年近く前に伴侶の仕事の都合でオランダへ。それ以降もアメリカやドイツなど様々な土地で暮らし、それを経てオランダを定住の地に選んだ。伴侶と死別し、空いた部屋を貸し出している。コロナ禍以前からオランダは深刻な住宅不足で、ましてや外国人にとっては物件を見つけることは非常に困難な状況。しかし滞在許可申請の手続きの都合上オランダへ到着する前から住居を決める必要性があり、有料の不動産サイトで1つだけ予算内でヒットした物件がここだった。一度は「コロナ禍のため貸し出しを考えていない」と断られるが、他に見つからず二度目の連絡をして交渉し受け入れてもらった。スーザンはこの2年間一人暮らしであったが以前日本人のゲストを受け入れた経験があり、そのかたの人間性と生活態度が素晴らしかったため私も同じ国籍ということで今回特別に許可が降りたという経緯がある。思うところはあるが丁重にお礼は伝える。
入居初日、スーザンからロシア軍によるウクライナ侵攻以降、オランダにもエネルギー危機が訪れ物価の高騰が深刻であること、食費や日用品が倍以上の価格になっていること、節電のため政府がキャンドルの購入を呼びかけていることなどが話される。さすがにキャンドルは大袈裟であろうと感じつつも部屋は暖房を使っていないため肌寒く、天井の電気は取り外され、シャワーの使用は10分以内、使用しない電化製品のコンセントを抜くことを徹底していることなどからも、この家では気を遣った生活が必要であることを理解する。2022年秋に日本の文化事業で欧州へ来て暮らすとはこういうことかと実感。早々に気づくがスーザンは良い人だがあまり他人の話は聞かない。「エネルギー危機」「100%オーガニック」「ビタミンたっぷり」この3ワードは毎日10回ずつくらい言う。議論は受け付けず「◯◯人は好きだが◯◯人は嫌い」「だからプーチンが嫌い」とリビングで叫ぶエクストリームな人だ。部屋の条件が異なったり細かいルールが多いと感じながらもオランダで物件は完全に売り手市場であり立場は平等でない。市の中心地からもオフィスからも徒歩圏内で家賃は光熱費込み。本人曰く1日20件入居の問い合わせがあるとのことで、ある程度いろいろと飲み込むことにする。
市内に友達もまだいないし、部屋が寒くて暗く外に出るとお金がかかるため週末は日の当たる時間はベランダでNetflixを見て過ごす。ワインは5€以内で買える。オランダの低所得者の生活はもしかしたらこういうものなのかもしれない
オランダでは小学校を卒業する時点でほぼ蘭英バイリンガルだそうで、例えば買い物に行って日用品の種類や違いが読めなくても店員に聞けば良い。ここで重要なのは親切な人が多いこと。担当外や想定外のことに嫌な顔をされる経験がまるでないし道に迷っているだけで声をかけてくれる。お給料が良いのか、大麻・同性婚・安楽死・性産業が合法化され尊厳が守られていることからも心の余裕があるのだろうか。またアジアやアフリカで多くの地域を占領下にしていた反省からも、移民や外国人に対し理解があるのではという意見も聞いた。この点は滞在中よく考えるべきだがとにかく今のところ円安とスーザンの機嫌が悪い時以外に困ることは特に無い。
同僚からCinevilleというシステムを教えてもらう。映画館のサブスクで、月額21€(30歳未満は17.5€)でオランダ全土40館以上で見放題。新作はもちろん一部の映画祭でも使用可能、おかげで私も週7日映画館通いができている。10年前オランダでもアートハウス存続の危機が訪れ、特に若年層観客獲得のため導入され効果的であったと聞いている。会員費の9割はアートハウス支援に回され、少し古い情報だが2018年時点で5万人の会員がいた。IFFR会期が終わり次第、興行システムを踏まえ導入経緯や仕組みを調べることにする。
毎年ロッテルダムで行われる日本映画祭カメラジャパン・フェスティバルで三宅唱『ケイコ 目を澄ませて』を観れて感無量。東京とロッテルダムのそれぞれの町の第二次大戦後の時間の流れ方を比べながらの楽しみも。ポスターが無いのでサイネージ
こちらに到着して5日目に知らない連絡先からメールを受信、その直後に知らない番号から通話の着信が。オランダの電話を取得したのはこの2日前で番号を知らせたのは身内4名と前日に連絡した研修事務局のみ。電話に出てみると在オランダ日本大使館。外務省経由で私がIFFRで研修をしていることを知った、どこかで会いに行きます、これからよろしくお願いします、というご挨拶をいただく。非常に丁寧でありがたいがウォッチされている空気をビシビシ感じる。
清水 裕
映画上映者。オーディトリウム渋谷、ユーロスペース勤務を経て、第10~12回恵比寿映像祭映画担当。あいちトリエンナーレ2019映像プログラム・アシスタントキュレーター、Sheffield Doc/Fest(2020、2021)プログラムコンサルタント、第14回恵比寿映像祭ゲストプログラマーなど、国内外の上映企画に携わる。2022年9月より文化庁新進芸術家海外研修制度を利用してオランダのロッテルダム国際映画祭で研修中。