- 日記
- 2023年11月12日
ペテルブルグ印象記 第6回
ロシアのサンクト・ペテルブルグに留学した映画研究者・映画作家、小手川将さんによる「ペテルブルグ印象記」。今回はペテルブルグを拠点に活動する画家ナターリア・マクシモヴァさんとの対話をお届けします。1938年生まれで過去に17回も来日しているというナターリアさんが、その生い立ちや絵筆を取った経緯、ロシアとウクライナの衝突をはじめとする現在の世界情勢などについて語っています。
第6回 ナターリア・マクシモヴァさん
文・写真=小手川 将
私たちは決して誰にも負けない
跪いて生きているのではない
私たちは全世界で唯一の真実、それが私たち
(Мы — никогда никому не сломить
Не живем на коленях
Мы — это правда одна на весь мир, это мы)
Шаман «Мы»(シャーマン「私たち」)
跪いて生きているのではない
私たちは全世界で唯一の真実、それが私たち
(Мы — никогда никому не сломить
Не живем на коленях
Мы — это правда одна на весь мир, это мы)
Шаман «Мы»(シャーマン「私たち」)
誰もが権力に対して他者たりえなくなったとき、では、誰が何に対抗するのか。
「第二世界」の物語はなお、わたしたちに思考を迫りつづけている。
乗松亨平『ロシアあるいは対立の亡霊 「第二世界」のポストモダン』
「第二世界」の物語はなお、わたしたちに思考を迫りつづけている。
乗松亨平『ロシアあるいは対立の亡霊 「第二世界」のポストモダン』
2023年5月17日の夕刻、僕はヴァシリエフスキー島の一角に所在するアパートの最上階に来ていた。そこにアトリエを構える画家のナターリア・マクシモヴァさんに会うためである。1938年生まれ、ペテルブルグを拠点に数多くの展示を行っている。彼女と知り合ったのは4月上旬のこと、ペテルブルグで長年働いているとある日本人女性の仲介で、ロスフォトという写真美術館で催されていた展示「Отец и сын. Евгений и Георгий Максимовы. Фотографии из семейного архива」をともに見て回ったときのことだ。
その展示というのがなかなか不思議な構成で、一方には、1849年にロシア海軍士官とスウェーデン貴族の子息として生まれ、胸甲騎兵連隊やロシア帝国憲兵団に従軍し、日露戦争下の1904年に沙河会戦で最期を迎えた軍人の生涯を公文書や家族写真などを用いて概観する展示。他方には、1904年に生まれ、革命に揺れるロシア・ソ連の町並みを写真に収め、映画スタジオ「レンフィルム」や「ベラルーシフィルム」に属しセルゲイ・ユトケーヴィッチやレフ・アルンシュタムなどのもとで――たとえば『銃を持つ人(Человек с ружьём)』(1938)や『女友だち(Подруги)』(1935)など――撮影監督も務めた写真家の仕事を、主にスチル写真を用いて紹介する展示。
一見まったく共通点のないこの二人がなぜ隣り合うことになるのか。あえて仰々しく問うてみて同じ空間に横並びになる人物間の異質さを強調してみたのだが、この展示の原題を日本語にすれば「父と息子 エフゲニー・マクシモフとゲオルギー・マクシモフ 家族アーカイヴの写真」となる。つまり、親子である。写真家のゲオルギーは次男であり、父のエフゲニーは次男が誕生する数ヶ月前にペテルブルグから海軍軍人として極東に送られて戦死したという。1902年に生まれたゲオルギーの兄がナターリア・マクシモヴァさんの実父であり、彼女が個人でアーカイヴしている資料が今回の展示に使われているというわけだ。
自分の親族にあたる二人の人間の生を証言する貴重なアーカイヴが、ずっと自宅で綺麗に保存され続けてきたというのは奇跡的なことだと思う。しかもレニングラード包囲戦を乗り越えたのだから。展示を見て回りながら事細かに説明してくれるナターリアさんにそんなふうに応答する。大事なのは個人を通じて歴史を描き示すことだ、という彼女の返答。
初対面の若輩者にほんとうに親切に話をしてくれる。聞くと、ナターリアさんは日本好きで、1976年に初めて来日してから今日までに17回も日本の各所を訪れているとのこと。静岡県の下田や戸田村、大分県竹田市などはとくに縁深いようで、日本各所に友人がいるらしい。きっと長い時間をかけて個人的に築いてきた日本との友好関係のおかげもあるのだろう、彼女は気になることは何でも聞いてくれと、日本人である僕の拙いロシア語に耳を傾け、積極的に意図を汲みとってくれて、気づくと展示を見た時間よりも話した時間の方が長くなっていた。
画家としてのナターリアさんの仕事も気になるが、同時に、今、彼女が日露関係や戦争についてどんなふうに考えているのかも聞いてみたかった。今度、ナターリアさんについてインタビューをさせてくれませんか。そうして僕はナターリアさんの仕事場にお邪魔させてもらうことになった。眺望がきく窓際にはたくさんの鳩が集まっていて、この子たちはみんな友だちです、よく見てください、それぞれ個性があって顔も見分けられるんですよ、とパンプキンシードをふるまっていた。
「芸術家に秘密は一切ない」――そう言ってくれたナターリアさんの心に感動しつつ、紅茶とお菓子を楽しみながら話し込んでいると話題は思いがけない方向に行きつつ戻りつつ、いつのまにか3時間近くも録音をまわしていた。ここに訳出したのは、その一部を抜粋して再構成したものである。アトリエには展示カタログや多くのエスキス、たとえば「長靴をはいた猫」や「アラジン」などのお伽噺を題材にした連作などが飾ってあり、日本のみならずさまざまな異国を旅して東洋と西洋の主題や手法を取り入れる彼女の旅路の回想を聞きながら自作の解説をしてもらったのだが、眼前に実物の絵画がないと言葉足らずで分かりにくいところもあり、心苦しいが大幅にカットした。
今回、インタビューを翻訳し掲載するにあたって、ナターリアさんに確認の連絡をした。ご快諾いただくとともに、自分たちは日本とロシアがふたたび友好的な関係を築く日を見ることは叶わないかもしれないけれど、あなた方の世代はきっと可能だからね、というメッセージを送ってくださった。
そんな未来を構想するために、私たちはやはり歴史を何度でも何度でも知ろうとしなければならないだろう、そして知ろうとする自分(たち)を省み続けなければならないだろう。結局のところ自分が理解しているロシアは「私のロシア」に過ぎないし、同様に、自分という存在もやはり「私の私」に過ぎない。私はロシアによるウクライナ侵攻を支持しないが、それはロシア人に対して友愛の念を抱くことを必ずしも妨げないし、また、異なる政治や文化、イデオロギーを持つ人々のあいだで対話することは常に可能ではある……その自信があるわけではまったくないけれど、ただそれでも不可能ではないと信じていたい。これは、2023年5月17日、ヴァシリエフスキー島のとあるアトリエで交わされた、一つのささやかな親交の記録であり、かつ時代の証言である。
* * *
――ロスフォトで行われた展示はとても興味深かったです。そこでお会いした際にお聞きしたことですが、現在、あなたとパートナーのコンスタンチンさんの人生、さらには自分たちの先祖についての回想と、生まれ育った土地や国家の歴史についての資料を組み合わせた本をつくる、というプロジェクトがあるとのことでした。ごく個人的な、身近な出来事を通じてより大きな、集団的な歴史を探究する、というのは意義深いことだと思います。そこで、まずはナターリアさんについてお聞きしたいのですが、1938年生まれでしたっけ。
そうです。今年84歳になりました。もうほとんど時間が残されていません。だから私たちは今、本の執筆に精を励ましています。他の人たちに伝えたいことがあるのです。私の祖父たちの歴史などについて……私たちは多くの文書や書簡、写真を保存しています。私の祖父〔エフゲニー・マクシモフ〕は、当時、その優れた人柄もふくめて著名な人物でしたが、ソ連時代には完全に忘れ去られてしまっていたのです。今回の展示は、そうしたプロジェクトの一つでした。
――あなたの幼年時代についてお聞きしてもよいでしょうか。あなたにとって幼年時代とはどういうものでしょうか、本の執筆をしながら、自分の幼年時代をどんなふうに思い出していましたか。
まずは夫のコースチャ〔コンスタンチンの愛称〕について話しましょう。彼は私より2歳年上で、私たちはヨットクラブで出会いました。コースチャは、ヴェリキー・ノヴゴロドでの自分の幼年時代についての本を書いています。「セストラ川の境界:子供の目で見た歴史(Граница по Сестре-реке: история глазами ребёнка)」という本です。彼が文章を書くのを私が手伝って、そうして私たちの力ですべて企画して出版したのです。
この写真を見てください。小さな川が写った写真がありますね、このセストラ川が戦争〔大祖国戦争〕中にロシア領とフィンランド領を分断していました。この川の近くにセストロレツクという町があります。コースチャが幼少期を過ごした場所です。戦時中、彼はレニングラードで生まれたのですが、すぐにセストロレツクに転居して、まもなく戦争が始まったのです。まずフィンランド戦争が始まったのですが、それは彼には何の影響もありませんでした。そして包囲戦が始まり、彼は1941年にレニングラードに移動して、封鎖されたこの町で暮らしていました。セストロレツクの住民はみんな疎開を余儀なくされ、ロシアの軍部隊だけが町にいたのですが、1942年に彼の家族は再びセストロレツクに戻りました。彼はセストロレツクで起きた出来事の一部始終を目撃したただ一人の子供だったのです。だからこそ彼は本を書いたんです。
――まさに戦時中に、セストロレツクで起きた悲劇を子供時代に目の当たりにしていたのですか。
周囲が大人ばかりだった環境の中にいて、コースチャは子供の目で悲惨な現実を見ていたのです。彼は非常に記憶力が良くて、1歳の頃のことでも覚えているんですよ。この本には彼が10歳になるまでの出来事が書かれています。この写真にある家に住んでいましたが、持ち家ではなく、別に管理者がいました。フィンランド湾の岸辺の、とても美しい場所に建つ家です。この写真、彼の隣にいるのは従姉妹ですが、包囲戦の時にレニングラードで餓死しています。これは彼の友人ですが、同じく包囲戦の病院で死にました。何も食べるものがなかったんです。彼の父はセストロレツクにあった発電所で働いていました。彼の母は戦争を生き延びましたが、すでに亡くなっています。そうした歴史が本に書いてあるんですよ。
――これはコンスタンチンさんが一年生の頃の写真ですね。
ええ、戦争で多くの人が亡くなったので、7歳から11歳の子供たちが同じクラスにいたのです。コースチャは包囲戦を経て、食糧不足ですっかり痩せこけていました。骨と皮だけになって……戦争が終わって食糧が流通しても、多くの人が死んでいきました。コースチャは栄養失調者のための施設に入って、そこで食事を与えられて徐々に回復していきました。
私は戦時中、もっと平和な子供時代を過ごしていました。戦争が始まったのは私が三歳のときです。私の父がレニングラードから出るための最後の列車に乗せてくれました。そのすぐ後に封鎖が始まりました。最後のチャンスだったのです。辛い思い出です。町を出るのは非常に困難でしたが、それでもなんとか私たちは町を離れ、キーロフスコエ地方の村に移り、1944年まで暮らしました。その後、ふたたび母とレニングラードに戻ったのです。父はレニングラードの前線で戦っていました。父には食料の配給があったので、それを携えて私たちの住むアパートの一室に来てくれていました。それでも母は飢餓で死んでしまったのです。私の子供時代はそんな感じで……そのあたりの草を食べたりもしましたが、コースチャほど飢えていたわけではありません。
それから戦争が終わって、父は鉱山大学で助教授として働きはじめました。郊外にパルコバヤという鉱業研究所があり、その近くに鉱業研究所の労働者の子供たちが預けられる幼稚園もありました。親たちは日曜日が休みで、毎週末だけ子供を訪ねて一緒に遊びました。私もそこに預けられました。6歳くらいだったかな、その時にはすでに私は芸術家だと周りから思われていました。つまり、この頃から絵を描くことに対する情熱があったのです。
――幼稚園の頃から絵を描き始めたんですか。
そうです、絵を描くのがとても好きな子供でした。その頃からきっとセンスもあったんでしょうね。そういえば幼稚園にはアメリカの絵が飾ってあったんですが、私は好きではありませんでした。すでに6年間、古典的なロシア文化の中で育っていたからだと思います。7歳のときにレニングラードの学校に転校したのですが、そこでも芸術家だと思われていました。40人のクラスで一番上手に絵を描けたからです。その頃から私は芸術家になることを夢見ていました。だから、たとえば空想の中で物語を考えたり、詩を書いたりもしていました。そういうことをするのが一番楽しかったんです。かつてはピオネール宮殿という施設があって、子供たちのための音楽、美術、バレエのスタジオもありました。私は絵を描くほかにバレエ学校と美術の授業を受けていました。そして11歳のときに芸術アカデミー付属美術学校に入学しました。この学校を卒業してから、ムヒナ記念レニングラード高等産業芸術学院(現スティーグリッツ・アカデミー)の記念碑および装飾絵画学部に入学しました。
――記念碑および装飾絵画……なぜその学部を選んだんですか。
寺院のような壁に絵を描くのが夢だったんです。何か大きな構図の絵画を描きたくて……美術学校のクラスメイトはほとんど全員、美術アカデミーに進学して、グラフィックに進んだり、建築に進んだりとそれぞれの目標を目指していきました。
――高等芸術学院のその学部に入学したのはいつ頃のことでしょうか。
18歳のときです。私は美術アカデミーを卒業したら絶対にこの学校に入学するんだと思っていました。というのも、美術アカデミーには絵画学科がなくて、だからもっと大きな学校で絵画を学びたかったんです。でも、アカデミーの卒業年次には新入生を受け入れていませんでした。それで1年間、科目等履修生として通わせてもらって、成績などは気にせずに自由に描くことができました。その期間を経て入学試験に臨んだのですが、とてもシビアな試験でした。最初に大人数で受ける試験があり、それを通過したのはたったの7人、そこからさらに5人に絞られました。
――とても少ないですね。どんな学生生活を送ったんですか。
難関ですがすばらしい学校でした。私はそこでモザイク画やフレスコ画、リトグラフ、エッチングなどを学びました。彫刻もやりましたね。そこで6年間勉強して、その後、卒業するときに奨学金をもらいました。奨学金といえば、私の通った学校は入学してすぐに学生全員に奨学金をくれたんですよ。厳しい時代だったからでしょうね、親が裕福でも貧乏でも子供の才能には影響のないように、という考えがあったんです。私たちは学費を払う必要がなく、在学しているあいだお金をもらうことができました。だから、私たちは高価なドイツ製の絵の具を買うことができました。特に、水彩画の具材と筆はとても高価なものでした。筆も絵の具も良いものでなければなりません。私の成績は5とか4とかで、総じて成績は良かったので、卒業後も奨学金を得ることができました。卒業したら派遣先で3年間働かなければならないという規則がありました。まあ、若い人は学校を卒業したらどこで働けるのかとか、ずっと勉強してきたことをどこで活かせるのか分からないものですからね、とても良い制度だったと思います。
レニングラードに残るという選択肢もありました。建築局のようなところで働くことになるのですが、私は興味が湧きませんでした。もう一つの選択肢は、タジキスタンのパミール地方に行くことでした。これは面白そうだと思いました。旅、それは新しい人生を始めることです。
私がタジキスタンに到着したとき、ちょうど新しい町の建設が始まったばかりで住民はテントで暮らしていました。なぜ町の建設をする必要があったと思いますか。ヴァフシュ川が山の中を流れているのですが、そのあたりでダムの工事が行われていたんです。300メートルくらいの高さのダムですよ、想像できますか。10年以上かけて建設するという計画でした。湖ができて、タービンが回り、タジキスタン全土に電力が供給されていく。今ではそこにはたくさんの綿花が栽培されています。ともかく、そういう計画が発表されたときで、ロシア人、ベラルーシ人、カザフ人など連邦全土から若者たちが集められていました。全員ロシア語が上手でした。皆が義務教育を受けていたんですね。25,000人もの人々が集められてやってきたので、若者たちはこの地で訓練を受け、働くようになり、家族もできて、子供も生まれたりもしました。つまり、居住するための町が必要になったのです。町をつくるとは何でしょうか。定住するというだけではありません。幼稚園、学校、文化施設、映画館、病院、役所などの建物を建てることです。そこに私を含む25人のグループが到着したのですが、芸術家は私一人でした。それで町全体を装飾してほしいという依頼を受けたのです。最初の3年半、休日もレニングラードに帰らず、住み込みでその仕事に従事していました。そこで、200平方メートルの大きな石を使って初めてのモザイク画をつくりました。それは映画館に飾りました。それから学校のために壁画をつくったり、役所のためにモザイク画をつくったりしました。私の通った学校で学んだことのある先生が指揮を執っていました。3年半が経った後、私はレニングラードに戻って、芸術家のグループを組織して再びヴァフシュ川に向かいました。そこからは政府との契約となり、規定の報酬を得るようになりました。
――さまざまな手法を学んで、実践してきたのですね。(アトリエに置いてある作品を見ながら)フレスコ画のエスキスでしょうか、宗教的な題材も描くんですね。
これはフェラポントフ修道院でフレスコ画を模写したものです。歴史の長いすばらしい修道院でした。特別に模写をする許可をいただいたんです。私たちはそうやって描くことを学びました。
また、ノヴゴロドでは壁画を学びました。壁画というのは平面性をより際立たせるもので、そこがイーゼル画とは異なります。なぜか分かりますか、空間があるからです。すでに遠近法が与えられているので、壁画の場合は壁の平面性を保持しなければならないのです。建築家は平面も考慮してつくるから、壁画に奥行きがあるとうまくいかないんですよ。
――いつ日本に関心を持つことになったのでしょうか。何かきっかけがあったのですか。
実のところ、私はずっとエジプトに行きたかったんです。そのためにビザ発行とか、複雑な事務手続きをやっていました。半年間以上もかかって、とても大変な作業でした。その当時は健康診断や特別な出国許可も必要でした。そういう時代だったんですね。そんなことで苦労していると、突然、六日間戦争(第三次中東戦争)が起こったんです。どうすればいいのか分かりませんでしたが、エジプトに行く予定だったのは私を含めて3人いて、結局、渡航がキャンセルになり、それでしばらく経った後、偶然、日本に行くことになったんです。そこからすべてが始まったんです。どんなことにでも「メダル」があるんですね。私たちは「どんなメダルにも表と裏の2つの面がある(У каждой медали есть две стороны - лицевая и оборотная)」と言います。片面が悪い、片面が良い、片面が悪い、片面が良いと、何に重なるかによって見える面が違うんです。だから、エジプトで戦争が起きたことはとても残念だったけれど、私にとっては良いことでもあったんです。そうして日本を見て、真剣に取り組まなければならないと思いました。とても印象的でした。
日本にはたくさんの友人がいます。岡山大学名誉教授の保田孝一さんという方がいました。歴史家であり、ロシア研究者であり、ロシア語をよく理解して、日露関係史についての本も書いています。彼はペテルブルグにも来ていたし、モスクワのロシア国立公文書館にも何度も来て調査をしていました。坪井芳明さんという方もいました……でも、みんな亡くなってしまいましたね。それで、保田さんは、日本の自宅に私を招いてくれて、共に時間を過ごしました。それから芸術家として日本を題材に絵を描くために多くの人を紹介してくれました。そうしてさまざまな日本の都市に行くことができたのです。ところで彼はまだ十代のときに神風特攻隊として訓練を受けていたそうです。もう終戦間近の頃で、だから若者でさえ徴兵されたんですね……それで終戦となり、運良く生き残ったわけです。その後、ロシアに来て、親密な関係を築いていきました。
――その当時、ロシアで保田さんと出会ったのですか。
そうです。保田さんと集まるグループは専門家ばかりで、私はそうではなかったけれど独学で日本語を少し学んだのです。そのグループでは、ロシア人と日本人は文化的に密接に協力すべきだと考えられていました。それが両国民のためになると。
――現在の日露関係はあまり良好ではなく、これはとても残念なことではありますが、たいへん厳しい時代になってしまいました。今の日露関係について、何か思うところはあるでしょうか。
さて、何から話し始めましょうか……私個人が思っていることというよりも、むしろ私の世代、日本にいる私の友人について――あなたの祖父母の世代ですね――考えてみましょう。今の日本の若者がどう思っているのかは知りませんが、少なくとも子供時代で戦争に巻き込まれた私と同世代の友人たちはみな反米です。戦争が終わった当初からね。
――1945年に終わった戦争のことですね。あなたの世代では、ロシア人も日本人もそう考えているということですか。
私の友人の日本人たちは日本国内で米軍基地に反対するさまざまな演説会を組織していました。日本文化にとってアメリカの影響は異質で、破壊的で、悪しき干渉だと考えていたからです。アメリカは日本を利用することを目論んでいると考えています。それは今、ロシアに対してウクライナを利用していることと同じです。ウクライナとの紛争は私たちの内政問題ですが、それが今やロシアとアメリカ率いる西側諸国との戦争に発展しています。アメリカは世界の主導権を握りたがっています。ウクライナに憐れみを抱いているから支援しているのではありません。もしも中国との戦争に発展すれば、ウクライナとまったく同じように日本を利用するでしょう。
たとえば、以前、領事館にとてもフレンドリーな方がいて、仲良くしていました。もう引退してしまったけれど……領事になる前は官僚だった人でした。コロナウィルスのせいで日本に行くのが難しくなった前年に、彼と東京でお会いしました。ロシアやロシア人のことをよく理解していて、すばらしい関係を今でも続けていて……彼は弓道をやっているんです。今も頻繁に連絡は取り合っていますよ。お互いの国を訪問し合って、連絡をとりあい、親密な関係を保つのは素敵なことです。そう、彼が学生だったころ、毎週金曜日に国会議事堂の近くで行われている米軍基地反対デモに参加していたんだそうです。あなたには伝えておきたいのです、上の世代の人たちがどれほどデモを組織していたかということを……影響を及ぼすことはできなかったとはいえ、大規模なものから小規模なものまでデモが行われていたのです。
他にも、私よりもさらに年配ですが気骨のある友人がいて、アメリカに渡って、米軍基地に反対するデモを行い、ポスターを配ったことがあるそうです。日本から出て行け、ってね。もちろん徒労ではありました。ただ、上の世代がどういうことをしていたかを伝えたいだけです。あれはアメリカがベトナム戦争を始めた時代のことでした。アメリカが他国を使って戦争することを好むのは相変わらずですね。アメリカがベトナムに戦車を送り込もうとしたときに、彼とそのグループは戦車が通る予定の道路をとても長い距離にわたって封鎖したそうです。昼夜交代でテントを張って、戦車が入れないようにしていたのだと。それくらい上の世代は積極的に戦ったんです。
――私たちもさまざまな仕方で抵抗する必要がありますね、望むべくは暴力なしで……また、たしかにアメリカ抜きで近代の戦争を語ることは難しいと思います。
第二次世界大戦のときの話をしましょう。第二次世界大戦中、彼らが2発の原爆を日本に落としました。最初の原爆は広島に落ちました。しかし、当初は京都に原爆を投下する予定だったのです。
セルゲイ・エリセーエフというロシア人がいました。彼は革命後にロシアから移住し、フランスに移住したのちアメリカに渡りました。日本学者で、日本語の専門家でしたが、アメリカではドイツ語の研究所を組織し、アメリカに多大な貢献をしました。アメリカが日本と戦争を始めたときには時々政府から相談を受けていて、原爆投下が準備されていることを知っていましたが、エリセーエフは何も関与できなかったようです。しかしまず京都に原爆を落とすつもりであると知ると、彼はアメリカ軍の組織にこう提言したのです――「もし京都に原爆を落としたら、つまり京都にある文化や歴史を破壊したならば、何世紀経っても決して世界から許されないだろう」と。そうしてアメリカは広島や長崎のような文化的に重要ではないと見なした都市を選んだのです。日本文化に対するアメリカの態度を理解できますか。ロシア人は概して日本の文化や伝統を高く評価していますし、影響を受けています。日本にもロシアの文化がありますね、たとえば文学や音楽などに大きな影響を与えています。
――原爆投下とエリセーエフの話は初耳でした。たしかに両国間で、日露戦争など対立があったとはいえ、日露関係、とくに文化的な関係はずっと続いていましたね。現在のような情勢であっても文化的な相互関係が続くことは好ましく、重要なことだと思います。ところで、アメリカの日本に対する文化的影響はより強いと思います。政治的影響については言うまでもないですね。
文化はあくまで文化であって、政治とは異なります。だから、日本との文化的な関係と政治的な関係をはっきり区別しなければなりません。まったく別物なのだから。岸田氏が率いる日本政府は完全にアメリカ的な路線をとりましたね。これは日本にとって間違った選択です。というのも、ロシア人の私たちの考えでは、今、アメリカは中国との対立において日本を必要としているからです。ウクライナに干渉して、武器を与えたりしているのと同じ構図です。分かりますか、現在、西側諸国は組織だって、オオカミのように私たちに襲いかかろうとしているのです……。アメリカと中国のあいだで何らかの衝突が起きたとき――それはアメリカが世界を完全に支配しようとするときでしょうね――まさしく今、ウクライナを利用しているのと同じようにアメリカは日本を利用するでしょう。武器を提供し、軍隊の指揮権を執り、そうして日本人は戦場で命を落としていくでしょう。アメリカは日本の文化を本当の意味で評価していないからです。
もちろんすべてのアメリカ人がそうだとは思いません。良い人たちもいますよ。私が言っているのはアメリカの政治についてです。世界の全面支配を目論んでいて、中国とロシアがその妨げになるから排除したいのでしょう。その結果、私たちはどうなっているでしょうか。
――まるで今でも冷戦が続いているかのような……戦争は常に悲劇的なことです、だから……それでもやはりロシアとウクライナの衝突は避けられなかったのでしょうか。
どうして戦争が始まってしまったのか……あなたが何をお聞きになったかは分かりませんが、実際、これはロシアにとって止むを得ない対抗措置でした。すでにお話したように、ウクライナではかなり以前からアメリカによってロシアに敵対する準備が進められていたからです。
私たちサンクト・ペテルブルグの近くにはバルト三国(エストニア、ラトビア、リトアニア)があり、対岸にはフィンランドやスウェーデン、ノルウェーがありますね。私たちはそれらのどこへも自由に航海していました。すでにお伝えしたように、私もコンスタンチンもヨットセーリングの選手で、コンスタンチンは船長の資格、国際級のセーリングスポーツのマスターの資格を持っていますし、私も船長の資格を持っています。近頃は、私は彼の下で副船長、つまりチーフメートとしてヨットに乗っていました。私たちはフィンランドにもスウェーデンにも、エストニアなどのバルト三国にも、あちらこちらに何十回も航行したものです。レースに参加することもありましたし、ただ綺麗な景色や島々を見るために、いかなる妨げもなく自由に航行していました。しかし現在、NATO(北大西洋条約機構)がそうした国々を傘下に置くために加入させていて、そうして私たちペテルブルグにも迫ろうとしているのです。モスクワに続いて、ロシアの重要な都市であるペテルブルグも狙っている。バルト三国は非常に近く、まさしく隣国であり、フィンランドまではヨットで18〜20時間くらいで行ける距離です。だから、NATOにとってこれは必要な措置なのでしょう。
ロシアもウクライナも文化を共にしており、良好な関係でした。私にもウクライナ人の友達がいましたし、何度かウクライナに行ったこともあります。しかし、ウクライナの政権が代わった2014 年、このことはご存知かもしれませんが、ロシア人のことをモスカリー〔「モスクワの人々」の意〕という別称で呼ぶようになり、「ファシズムの道」を歩み始めました。そうしてロシア的なものが破壊されているのです。ウクライナ人と一緒にナチス・ドイツと戦った大母国戦争の記念碑ばかりでなく、ロシア文化、ロシア語さえも根こそぎにしようとしています。ウクライナ北部はほとんどの住民がロシア系なのですが、彼らは自分の姓名をウクライナ風に直さなければならなくなりました。
――なるほど……複雑で遠大な歴史について、私にはすぐに返事ができませんし、十分に理解しているわけでもないのですが……たしかに戦争中の二つの国のそれぞれに独自の主張があるというのは理解できます。重要なのは、この戦争に至るまでの歴史をあらためて知ることだと私は思います。そしてどうすれば平和な状態にすることができるのか、ウクライナがふたたび戦地にならないために、侵略されないために、私たちは何ができるのか……そういうことを考えるべきだと個人的には思います。私たちの歴史を見ると、いつもずっと戦争という手段をとってきましたね。今日お話を聞いていて、そのことをあらためて考えました。とても恐ろしいことですが、私たちは歴史に何を学ぶことができるのでしょうか。
この出来事もいつか終わるでしょう。でもいつ終わるのでしょうか。何人の死者を出し、どんな代償を払うことになるのでしょうか。第二次世界大戦でロシアは多くを失いましたが、最終的には勝利しましたね。ナポレオン〔祖国戦争〕のときはどうだったでしょうか。代償は大きかったですが、犠牲者が最後には勝ったのです。私たちはそういう国民であり、まあこれが性格的な特徴とも言えるのかもしれません。なぜこんなことが起きてしまうのか。歴史は私たちに何も教えてくれないからかもしれませんね……まあたしかに何かしら教えてくれているのですが、それでも長い時間が過ぎれば、やはりこうなってしまうのです。
小手川 将
主に映画を研究・制作。2022年に監督作品『籠城』が完成。大学院での専門は映画論、表象文化論。現在の研究対象はロシア・ソヴィエト映画、とりわけアンドレイ・タルコフスキーについて。論文に「観察、リズム、映画の生──アンドレイ・タルコフスキー『映像のポエジア』の映画論における両義性」(『超域文化科学紀要』26号、2021年)。