- 日記
- 2023年9月1日
ペテルブルグ印象記 第5回
ロシアのサンクト・ペテルブルグに留学した映画研究者・映画作家、小手川将さんによる「ペテルブルグ印象記」第5回。モスクワで鑑賞したコンサートや展示会、ペテルブルグに戻って観た2本のドキュメンタリー映画、春の訪れを祝う祭り「マスレニツァ」、大学で受け持った日本語会話の授業などについて綴られた2023年2月後半~3月の記録です。
アンコール
文・写真=小手川 将
10時になってもまだ仄暗く、16時を回れば暗雲の彼方でひっそりと陽が落ちるペテルブルグの冬にはついぞ慣れぬまま2月も半ばを過ぎ、砂粒をまぶしたような昼の薄明を倦みながら日々頭の片隅で祈ること、せめて夕暮れだけでも雲に隠されませんように、さもなければ夜の始まりと終わりの境界がぼやけて一日という単位が曖昧に延びていくようでこのまま何もかもが掠れていって書くことも思考することもできなくなってしまうかもしれないと憂鬱に意識を沈めることが習慣となりつつあり、このままではまずいと、どうしようもない悪天候に仰々しく嘆いてみたり皮肉を投げかけてみたりして硬直する心をマッサージする――この時期に書いたメモを読み返すとおおよそこんな思考のパターンに侵されていた当時の自分が思い出されてくる。それにしても言葉は天気に対して無力である。無力であるのにもかかわらず、悪天候は否応なく悪天候についてのどうしようもないおしゃべりを誘う。飽きもせず氷点下の大気は云々とくだを巻きさらに倦怠が悪化する。そんなこんなで非常電源でかろうじて動いているようで、ずっとぼんやりしていた。ペテルブルグで過ごした2月は気分が沈んでいたせいかほとんど記憶にない。
モスクワの夜景(聖ワシリイ大聖堂付近)
とはいえ2月はペテルブルグの外に出ることが多い月でもあった。初旬にはセヴェロドヴィンスクで分身的な帰省体験を楽しみ、束の間の記憶喪失を挟んだ後、2月16日、深夜バスに乗ってモスクワに向かった。12月のモスクワ滞在時、体調を崩して閲覧の叶わなかった資料を読むために……というのが名目ではあるが、この寒い時期にわざわざ遠征する必然性はない。モスクワ在住の知人友人に会うというのも一つの動機だが、別の大きな理由がある。あれは12月23日のこと、大学近くのカフェに居て、先々のワクワクする予定を決めようと思ってネットサーフィンをしていたとき、2月19日にザリャジエホールで行われるコンサートの情報を見つけたのだった。指揮者のテオドール・クルレンツィス率いるmusicAeternaが、ラフマニノフの「晩祷 Op.37 «Всенощное бдение» для смешанного хора, ор. 37」を演奏するとのこと。ペテルブルグでの生活が始まってから習慣的に遊びに行っているドムラジオ(Дом Радио)を拠点とする楽団である。アニチコフ橋から程近くに所在するドムラジオでは、クルレンツィスの主導によってコンサートや映画上映、レクチャーなど充実したプログラムが組まれている。無料で参加できるプログラムも多い。定期的に公式サイトを確認しては少しでも興味が惹かれたものがあれば足繁く通っていて、アジア的な風貌と日本人の名前が珍しいのも手伝ってスタッフと顔馴染みになっていた。しかも、件のコンサートでは、去る10月19日にまさしくこのドムラジオで初めて知って衝撃を受けたアレクセイ・レチンスキーの新作初演もある。であれば行かないわけにはいかない、とそれなりに高価なチケットを衝動買いした。
モスクワ到着は翌朝6時過ぎだった。前回も利用したマヤコフスカヤ駅近くにある早朝から開店しているカフェに移動。暖色の照明と大きなグレーのソファ。二回目だがすでに身体に馴染む。うたた寝しつつメールを出したり原稿を書いたりして、移動。ドルマという東欧・北アフリカ料理の名を冠したレストランに行き昼食。その後、ロシア・イコン博物館に行く。このように今回のモスクワ滞在は12月にとりこぼした各所に出向きたいと思っていた。要するに観光したかった。たとえば某日、ヴォズネセンスキー・センター内にある「雪解け研究センター(Центр исследования Оттепели)」でソ連後期のレコードの展示を見る。ほとんどがシングルジャケットでゲートフォールドは珍しいと初めて知る。紙を節約するためだろうか。また某日、ГЭС-2という名の文化複合施設に行く。元は発電所だった建物を改築して2021年12月にオープンしたばかり。ビンゲンのヒルデガルトやワーグナーやショスタコーヴィッチなど時代バラバラ七人の音楽作品が、ミハイル・ヴルーベリや杉本博司やフランシス・ベーコンといった同じく時代も地域も違う人々の作品と組み合わされて、それぞれに割り当てられた小空間で鑑賞できるという展示《Настройки-3》を見る。よく分からないところもあったがずいぶんと実験的で、こういう試みができて客入りもある環境には素直に敬意を抱く。その他、かつてアンドレイ・ルブリョフの『聖三位一体』が収められていたトロイツェ・セルギエフ大修道院を訪れたり、モスクワを拠点に活動する木下順介さんと日本食をつまみながら映画談義を楽しんだり、全ロシア博覧センターのスケートリンクで滑ったり、等々。
コンサート終演直後、ザリャジエホールにて
この旅の目的であるコンサートも圧巻だった。レチンスキーも良かったけれど(とくにクライマックスの女声独唱、あの肉体の限界を超えるような静かな叫び!)、ラフマニノフに軍配が上がる。声を張り上げたり控えめにしたりと抑揚のついたドラマチックな構成で、1月6日に教会で聴いたときとはずいぶん印象が違う。もちろんレチンスキーの試みも面白かった。彼の新作はラフマニノフ「晩祷」をいわば再構築するものだった、と言えるだろう。パンフレットにはこう書いてある――「当初、わたしは混声合唱のためのアカペラを書くつもりだった。しかしすぐに、ラフマニノフの作品を支える四つの基礎――オーケストラ、ピアノ、合唱、ロマンス(芸術歌曲)――と対話する必要があることが明確になった」。そうしてファゴットやコントラバス、フルート、エレキギターまで楽譜に書き加えられたそうだ。ところで、ロシア正教のクリスマスにあえて晩祷に参加したのは、このコンサートでラフマニノフの「晩祷」を聴くのだから、どうせならさまざまな「晩祷」を聴き比べようと決めたからだ。「晩祷」を留学生活のためのひとつの主題歌にしてみようか……要するに異国での生に物語的に小さな芯を通したいという欲望である。ちなみに、3月31日にはサンクトペテルブルク・フィルハーモニアでウラジーミル・ベグレツォフ指揮の「晩祷」を聴いたが特段良くなかった。2023年はラフマニノフ生誕150年で多くのコンサートが開かれていた。
大いにモスクワを楽しんだが、他方、大学院生としての面構えを保つには研究活動をしなければならず、これまた12月にとりこぼした資料を読むべく再びロシア国立文学芸術アーカイヴ(РГАЛИ)に赴いたのだが、あなたが以前に出庫処理した資料に関しては4月9日まで出せませんとのこと。事前に発注依頼したサイト上では利用可と表示されていたしメールでのやり取りも残っていたので多少ごねてみたものの閲覧叶わず、前回発注していなかったわずかな資料のみを精読する。今回のモスクワ滞在は遊んでばかりだ。それでも良いではないかと開き直ってみるが自己嫌悪は拭えない。また来なくてはならない、今度はもう次がないのだから入念に準備して。
3月3日、ゲルツェン大学で突然話しかけられた学生に似顔絵を描いてもらった
ペテルブルグに戻ったのは2月23日。ちょうどロシア国立映画写真記録文書館(РГАКФД)に所蔵されている作品群からプログラムが組まれるЭХОという映画祭が開催中だという情報をキャッチして、二作品観る。ひとつは『スヴェン・ヘディンと東の道を行く(Со Свеном Гедином по Восточному пути)』(1928)。1927年にドイツとスウェーデンの合作でつくられた(ドイツ人の撮影技師パウル・リーベレンツがスウェーデン人の探検家スヴェン・ヘディンを追うというかたちの)ドキュメンタリーで、北京からウルムチまでの、つまり中国とモンゴルの国境線沿いにわたる旅路を2500キロメートル以上移動する道程を映している。ラクダの群れ、子山羊のうごめき、強風にあおられるテントなどが目に迫ってくる。特殊ではないが印象的な構図。箸をうまく使えずに諦めて手で飯を掴むヘディンがハイライトか。
もうひとつは『南洋のバウンティハンターたち(Охотники за головами Южных морей)』(1922)。アメリカ映画。ソ連では『食人族の地で(В стране людоедов)』というタイトルで公開されたらしい。マーティン・ジョンソンとその夫人が南太平洋諸国やカリブ海を旅する。といっても、そのあたりの地域区分は映像の中ではあまり説明されていなかったので厳密にはよく分からない。最初はカメラを怖がっていた「劣った」民族が次第に撮影技術に興味を持ち、好んで映りたがるようになるという構成。おどろおどろしい音楽とともに「西欧人の白い肌を好奇心丸出しで見つめる先住民たち」などというインタータイトルがつけられる始末で、あまりに単純明快な植民地主義と帝国主義の発露に呆れてしまった。
マスレニツァ、バブシュキン公園にて
ロシアでは2月末に春の訪れを祝う異教文化のマスレニツァが行われる。そういえば近ごろ晴れ間が見える時間が増えたなとふと気づく。比例して元気になるかと思えばそうでもない。今年は2月20日から26日までの期間がマスレニツァである。ウクライナ侵攻から一年が経ち、無論どこ吹く風とはいかないが何事も嘆いてばかりでは生きていけないのは周知の通りで、それは日本もロシアも同じ。戦禍のウクライナに二度も渡った知人のカメラマンが言うにはウクライナも同じ。個人の生よりも長い快楽のためにささやかでも祝祭が必要である、と思い立って祝祭週間の最終日、学生寮からタクシーで20分くらいの公園に出向くと縁日のように屋台が並んでおり、メドヴーハ медовуха という蜂蜜ベースのアルコール飲料が売られていて、酒と知らずに飲んで、はちみつ生姜湯みたいだなと思ってごくごく胃に入れながら藁の案山子が燃やされるのを見た。燃え盛る案山子を囲む群衆の中から、150ルーブルで買える小型の案山子を投げ入れる。まっすぐに炎に刺さり周囲からワッと歓声が上がる。それにしても寒い。積もる雪はまだ厚く足先の感覚が無くなった。
まだまだ冬ではないのかと思うのだけれど会うロシア人全員がもう春だねと言う。その内の一人に「この太陽の匂いに気づかないの?」と笑われた。なるほどペテルブルグでは春の始まりを嗅覚で感じるのか。氷点下とはいえ、太陽が出ていれば鼻の奥を刺すような冷気は感じられない、かもしれない。北国育ちではない日本生まれの人間として春と雪が同居する季節にはどうにも納得しがたい。これは慣れの問題だろう。ところでこの友人はチェルノブイリ原発近くの町出身で、放射線には味があるんだよ、ヨード液みたいな感じ、と話していた。七歳のとき自分の上半身と同じサイズの人参が畑で採れたのだと、禍々しい巨大人参を胸に抱える写真を見せてくれた。
ゲオルギー・ダネリヤ『秋のマラソン』(1979)の主人公の勤め先として画面に映されることでも知られるペテルブルグ大学文学部棟の廊下
ロシアで春は新生活の時期でもないのだが、身に染みついた年次のリズムゆえに新しいことを始めたくなる。そんなふうに密かに願えば何かが舞い込んでくるもので、縁あってサンクトペテルブルグ大学言語学部にて日本語会話の授業を受け持つことになった。最初に話が持ちかけられたのは2月14日のこと、それから急いで授業計画を立てて提出し、面倒な事務手続きを済ませて3月13日から授業が始まるはずだったのだが、大学事務側の手続きが遅れたとか何とかとふわっとした理由による急な授業スケジュール変更を二度も経て、3月27日が初回授業日となった。公的機関における理不尽に振り回されるのはロシア生活の常である、と頭では理解していても当然ストレスは溜まるが、せっかくの機会だと丁寧に準備を進めていく。
履修人数は八名。ふだん仲良くしている友人も学部生が多いので公私は区別すべきだと気を引き締める。学生のレベルが正確に分からず困ったのだが、初回のテーマは「感情表現」で、基本的な動詞を解説し、例文をいくつか音読させて、最後には中原中也「冷たい夜」を読ませる、というレジュメをつくった。悲しみの詩的な表現を教えつつ、長い冬の夜にペテルブルグで暮らす学生はどんな気持ちになるか聞いてみようか……とごく個人的な興味を抑えられずにそんなふうに目論んでいたのだが、段取り通りにはいかないものである。あれもこれもと欲張ろうとすると授業の九十分は思いのほか短い。先生が一方的に説明するばかりでは中弛みするが、しかしこちらには学生に均等に話を振る技術がない。授業準備も大変だ。母語を言語学的に正しく外国人に教えるというのは想像以上に難しい。以後、毎週の授業の出来に一喜一憂する中で、さらに次から次に新しい出来事が卒然と生じるようになり、絶えず何かに追われるように前へ前へとつんのめるように駆けていく日々が始まった。
今思えば、この時節はちょうど転換期であった。ロシアに来てから初めて見知った数多くの出来事の意味を確かめるように、それまでの経験を意識的に振り返っていた。ペテルブルグで出会った友人の故郷を訪れる。ロシア到着早々に好きになった作曲家の新作を聴きに行く。もう一度モスクワに向かう。あるいはもっと瑣末なこと。同じスーパーやカフェを利用して店員と顔馴染みになる。友人たちと定期的に集まって酒を飲む。ティッシュペーパーなどの日用品を買うのはあそこだけど、生鮮食品ならあそこかな。出会い、旅、そこから生じる珍事や好事の数々が、やがて日常と溶けこんで我が血肉となる。と同時に、何度でも極寒のせいにしたくなるのだが、あるいはひとつの限界が見えたとでも言えばいいのか、どうしようもない倦怠に襲われていた。ペテルブルグで生活を始めること自体がもたらした衝撃のエコーが日々の積み重ねの中で遠くなっていくように感じられて、どこか満足できなくて、それを晴らそうとしてもう一度「始まり」の鐘を鳴らしたかったのかもしれない。
3月29日、ペテルブルグの町の一風景
もう一つ、あるショッキングな事故があり、それも転機ではあった。3月中旬某夜、ペテルブルグの夜道を歩いていたとき、凍結路に足を滑らせて背中を強かに打ちつけたのである。息も絶え絶え、周りにいた三人くらいの方々が近寄って手を差し伸べてくれても体感三分ほど立ち上がれないほどだった。後日、病院に行く。電話で予約はしていたものの大混雑で、患者の並び順があまりにも雑。どこが先頭なのかよく分からずにうろたえていると、たまたま隣に座った女性が、ロシアには「ちょっと聞きたいことがあるのですが… Я только спросить...」というジョークがあると教えてくれる。そう言って順番を無視して行列に割り込み、平然と診察室に入って長話をする。ロシアの病院ではそういう光景がよく見られるのだそうだ。そこまでの太々しさは持ち合わせていないのでのんびり待つ。レントゲンを撮ってもらって、骨折やヒビなどは見られないようで一安心。レントゲン技師は全身にタトゥーを入れていて、左手の小指から人差し指にかけてHATEという文字が彫られているのが目に入り、つい吹き出してしまった。日本人と話すのは初めてらしく、あなたは初めての日本人でいきなり体の内側まで見たんですよ、と軽口を叩くと仕事そっちのけで立ち話を仕掛けてきた。トヨタのクルマはマジで良い、どんな運転しても全然壊れないんだと興奮気味に話すので運転の荒さとレントゲン技師としての腕前に相関があるのか若干不安になる。医者に勧められた薬を近くの薬局で買う(ロシアでは一部の医薬品を除き、基本的には処方箋は出されない)。
その後一週間くらい鎮痛剤が手放せなかったが、すぐに問題なく日々を過ごせる程度の痛みに治まり、間もなくなぜだか3月に入っても続いていた精神的失調が和らぎ元気になっていった。重体を覚悟して、翻って生きることのありがたみを実感したのかもしれない……などとベタなドラマに回収できないような危険な事故だったし、それまで以上に雪道を歩く際に恐怖を覚えるようになったのだが、とまれすぐに痛みが引いて良かったとは思う。まあこんな呑気に構えていられるのも今のうち、やがてすぐに健康は害するし転けやすくなるし小さな衝撃で骨はポキッと折れるようになるだろう。そんなふうに憂うのは自嘲を達観と取りちがえる若輩者の世迷い言の一種だろうか。老いることと年齢を重ねることは異なるように思う。自分の過ごした時間との付き合い方についてもう一度考えようとしている。
ペテルブルグ州立パブロフ医科大学附属病院のレントゲン室
小手川 将
主に映画を研究・制作。2022年に監督作品『籠城』が完成。大学院での専門は映画論、表象文化論。現在の研究対象はロシア・ソヴィエト映画、とりわけアンドレイ・タルコフスキーについて。論文に「観察、リズム、映画の生──アンドレイ・タルコフスキー『映像のポエジア』の映画論における両義性」(『超域文化科学紀要』26号、2021年)。