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  • 2023年1月18日

ペテルブルグ印象記 第1回

2022年10月からロシアのサンクト・ペテルブルグに留学中の映画研究者・映画作家、小手川将さんによる「ペテルブルグ印象記」。今回は外国人対象の義務的医療検査で再検査を受けるはめになった際のことや、一週間ほどのモスクワ滞在で見聞きしたもの、そして初めてペテルブルグで過ごした大晦日の出来事などが綴られています。


歴史を塗り込む



文・写真=小手川 将


二人の女性が水に濡れたモップを片手に代わる代わる床を掃除している。雪国の慣習なのだろうか、おそらくはどこの病院でもバヒーラ(бахила)という靴の上から履くビニール袋のような保護カバーの着用が義務づけられていると推察するが、それでも雪混じりの泥から院内を守ることは難しいみたいである。とはいえ不潔な感じはないのだが、ほとんど誰もマスクをしていないし、消毒液の独特の臭気はなく、日本の病院で感じさせられるような健康的な無機質さの印象もない。1785年に建てられ、19世紀には救貧院として使用されていたらしく、史跡保護の対象になっている煉瓦造りの建物に所在するペテルブルグ市内のこの古めかしい雰囲気が漂う病院に重い足を運んだのは12月12日のことだった。外国人対象の義務的医療検査で引っかかったからである。「他者に危害を及ぼす感染症および薬物中毒の疑いで、滞在許可または労働許可の発行が取り消しとなる場合あり」――診断結果の通知書に記されていた文言を読んで、連載第一回にして最終回になるかもしれないな……などと現実逃避したことをよく覚えている。どうも血液検査の結果に問題があるらしく、再検査せよとのことで指定された件の病院に行ったのだが、結論としてはまったく異常なし。誠実そうな医者の事務的な説明によれば、食事のせいか、あるいは何らかの物質に反応しての偽陽性ではないかとのこと。臨床疫学にはまったく明るくないのでどれほどの確率で偽陽性が出るのかは知らないが、この一件で、ロシア語で梅毒はсифилис、肝炎は гепатитだと知る。
ところで待機中、僕の三人ほど前に並んでいた女性が診察室を出るなり静かに泣きはじめ、しばらく廊下を右往左往してから何も言わずにふたたび医者のもとに駆けこんで長いこと出てこなかった。彼女のすすり泣きに、退去強制という言葉をふと思った。陽性反応即強制送還なのかどうかは不明だが、少なくとも、ここでは外国人の感染症は社会全体にとっての危険因子として厳しい処分が科されることになる。好んで罹ったわけでもない病が退去事由となりうるわけで、まるで陽性結果は有罪判決のようではないか……でも、もし陽性だとしたらそれだけでショックを受けるだろうし、仮に治療が必要となったら国内で対応してもらえるのだろうか……これは本当に陽性なのかも知らない彼女の涙に対しての僕の深読みである。
結果として、運用体制の不透明なこの制度に対して合計一万ルーブル近くも支払うことになった。再検査の結果待ちでさえ20人近くの行列ができていて、ロシア語でも英語でもないが声色や表情から察するにほとんどの人が陰性だったようで、よもやランダムに陽性結果を出して外国人から金銭を徴収しているのではないかといっとき陰謀論に傾きかける。
ロシア国内にいる外国人の全体を標的とする義務的医療検査の運営は、実際のところかなり乱暴だったように思う。採尿容器が乱雑に並べ置かれたトイレ横のテーブルを、ある友人はカクテルバーに喩えていた。モスクワは複数の受診機関を設けているらしいがペテルブルグには一箇所しかなく、連日のように受付に長蛇の列ができていたと思われる。わたしたち外国人は狭い空間に集められてはいくつかの待合室を移動させられ、いつになるとも知らず診察の時間を待ち続けなければならない。自分の場合は待機順が定められていないすし詰めの部屋に入れられた。長時間座ることもできず押し合いへし合いするなかで、いまの自分は「外国人」という巨大な肉の一塊にすぎないのだと妄想する。レニングラード生まれの歴史家ナタリヤ・レービナの著書『肉詰め列車の乗客たち Пассажиры колбасного поезда』(2019)というタイトルを思い出す。肉詰め=カルバサ(ソーセージ)列車 колбасный поезд とは、物不足の地方に住む人々が食糧などの買い出しのために長距離列車でモスクワに通っていたというソ連時代の一つの日常風景を指している。集権的計画経済の下で生まれた脂っぽい香りが漂っていたであろう当時の混雑した車内と、現代ロシアの医療機関で自分が経験した狭苦しい控え室とのあいだに直接的な関係があるわけではなく、文字面での単なる連想にすぎない。ちなみに、再検査の通知書類を受け取るのには3分もかからなかったが、それだけのために3時間半も待ち、その間に五つの部屋を移動させられた。

 

 
かの友人はさらに、この医療検査の実態からラーゲリ(強制収容所)という言葉を連想していた。さすがに過言ではないかという気はしたが、そもそも僕はラーゲリなどソ連の強制労働システム(グラーグ)についてよく知らず、自分の不見識を恥じて、12月初旬、モスクワに行った際にグラーグ歴史博物館を訪れた。ロシア帝国が生み出したペテルブルグの壮麗な街並みと比べると、モスクワの建築からはソ連の権威と権力が感じられる。グラーグ歴史博物館はマルチメディアを活用して、政治的抑圧と強制労働というソ連時代の負の歴史を多面的に展示していた。収容所の独房の扉やフェンスの木片などの現実の建築物から持ってこられたマテリアルを眼前にすると、それだけでたしかに何か感じるものがある。個人名とともに遺留品を展示するかたわらで、数々のアーカイヴ映像や古写真で無名の囚人たちを見せるという展示の仕方も興味深い。しかし、グラーグとは何なのか、よりいっそうわからなくなったというのが率直な実感だった。企画展で、収容所の壁に当てた白紙の表面を鉛筆で擦ってひび割れなどを転写したという作品が、丁寧にライトアップされたガラスケースに展示されていた。まるで聖骸布みたいな扱いだ。さすればグラーグとはイエス・キリストの遺体だったことになるのだろうか……。
『籠城』をつくる上で旧制一高にまつわる多くの貴重な史料に触れさせてもらい、そのときも歴史の記憶を表現するということの難しさを痛感した。駒場時代の一高の雰囲気を観客それぞれが感覚的に経験し、その歴史的な時空間に対する想像力を膨らませられるように……と制作中に心がけていたのだったが、そんな思惑がはたして成功しているかどうか。みなさんにご判断いただければ恐悦至極です。
 
モスクワ滞在は一週間ほどだったが、早々に体調を崩してしまって半分近くを格安ホステルの、寝返りをうつのも一苦労の二段ベッドの上で過ごした。心細くなって薄ぼんやりと懐かしんだのは、なぜだか住み慣れた東京ではなくペテルブルグの寮や街角のイメージだった。ようやく元気に動けるようになった滞在終了間近の12月9日、ロシア国立文学芸術アーカイヴ(РГАЛИ)に行き、タルコフスキー関連のアーカイヴに触れる。『ローラーとバイオリン』(1960)の監督シナリオに、おそらくタルコフスキー本人の手書きでかなりの箇所に修正が書き加えられていて、その走り書きの文字を目にしてにわかに興奮する。撮影のカット表とともに絵コンテが大量に遺されているのもはじめて知った。一番の目当ては、1958年頃に若きタルコフスキーがコンチャロフスキーとともに構想して、結局は撮影されなかった『南極、遠き国 Антарктида, далекая страна』の文学シナリオを読むことだったのだが、じっくり点検する前にタイムアップ。どうやら冒頭のシークエンスは南極に向かう飛行機の視点から俯瞰で撮影するつもりだったようで、熱気球を飛ばすあの十五世紀を舞台とする傑作のオープニングの場面を連想する。またモスクワに行かなければならない、今度は健康に気をつけて。



 
そのほか、12月4日にはモスクワ在住の日本人の友達に会って、ぶらぶらとあてなく散歩するなど。どこだかの大型のショッピングモールに立ち寄り、ユニクロが閉店しているとかはあれど相当数のアパレルがきらびやかに営業しているのを横目に、この2022年が五十年後になってどのように振り返られるのか、そういう視点から現在を考えてみるのも有意義かもしれないね、とかなんとか雑談する。実際に五十年後という未来を想定するというのではない。五十年も経ってしまえば、大小さまざま無数の出来事が起きたはずの2022年も大局的なスケールで回顧的に捉えられることでものすごく圧縮されてしまうだろう、という話である。いま、たとえば日本の1972年という一年について一日単位で想起してみようとするのは、その試み自体が至難であると思う。あさま山荘事件、沖縄返還……などの出来事が直ちに思い浮かぶが、そうした大事も一日単位で経過をつぶさに知ろうとするのは簡単なことではないし、いくらかの暴力的な事後検閲は免れがたいだろう。この記事を書くために、一ヶ月という時間スケールで身の回りの瑣事を振り返っているときの自分の感覚と相似的な問題だと思う。いや、これは物忘れの激しい自らに対する戒めでもある。自分の忘れっぽさを恐れて都度メモを取るようにはしていたが、ずいぶん多くのことを取りこぼしてしまった。散歩の終わり、夜ご飯を食べようと適当な店へと入ってみるとチェブレクというクリミア・タタール系の料理を主とするファストフード店だった。塩っぽい羊肉がジューシーで美味しい。店内に古めかしいジュークボックスが置いてあり、25ルーブルでキノーの«Звезда по имени Солнце»が談笑するのに支障が出るほどの大音量で流れた。



 
12月の映画経験では大当たりだと感じた作品はなかったが、記憶に残ったものをいくつか。12月23日、イーゴリ・パプラウヒン『君は白光のみを望むНа тебе сошёлся клином белый свет』(2022)という作品を観た。1991年に24歳で夭逝したヤンカ・ヂャーギレヴァという実在のロックシンガーの生涯を題材としている。当時のソ連アンダーグラウンドでカルト的な人気があったらしく、彼女の死について謎が多いこともあり、ある種の伝説的な人物といえる。映画は、そんな謎に包まれた彼女の短い生を解明しようとする気はさらさらない様子。逆に、言葉数少なく、極めて断片的で、執拗にクロースアップを多用した超近視眼的な伝記映画という印象で、彼女のイメージをさらなる曖昧さで彩ろうという心算なのかもしれない。作品タイトルは彼女のある楽曲の一節から採られている。帰寮中にYouTubeで検索して、ヤンカという歌手の声に聞き惚れる。
12月14日、これまたソ連末期のペレストロイカに花開いたレイヴ・カルチャーを追ったヴィクトル・ブーダ『ダンスパーティーの時代 Эпоха танцев』(2017)というドキュメンタリーを観た。テクノ、電子音楽、クラブで踊り狂う人々のユーフォリックな憂いなき空気感。自分たちは新しいもの、新しいシステム、新しい文化をつくる人間なのだという屈託のない感覚。いま真に新しいものというのはどのようにありうるだろうか。編集としてダニール・ジンチェンコの名前がクレジットされているのが見えた。風変わりな作品を撮っている監督として頭に刻まれていたのだが、調べてみると編集者や俳優としても活動しているらしい。
狙ったわけではなかったのだが、滞在中のモスクワでたまたま«Зимний»という映画祭が行われていた。12月8日夜のこと、ミュージックビデオの撮影スタジオを主な舞台とした素っ頓狂な展開のコメディ映画の上映回にて隣席に座った二人の女性客が頻繁にスマートフォンを取り出していて、たぶんInstagramのストーリーズを撮っていたのに気づいたときには面喰らってしまった。二人ともなんだかとても楽しそうだったので不快感はなかったが、彼女らほど大胆でなくともロシアの映画館では似たような盗撮行為を見かけることがよくある。

 

 
小米雪が降りしきる日々が続いた12月を思い返してみると、不思議と音楽にまつわる記憶が次々と浮かびあがってくる。12月22日、ロシア人と飲みながら好きな音楽について話していた。Spotifyはロシアでブロックされてるんだけどウクライナの友人が助けてくれて使えるようにしてもらったんだよね。へええ、それは良いね。その場ではさらっと流してしまったがなんと温かい友情の話だろう。曰く、AK-47の«Чё ты паришься?»を聞き込めば立派なゴプニク――ロシアのいわゆるヤンキーのような人々――になれるらしい。
日本の軍歌に関心があるというロシア人学生に一高寮歌の話を振ってみたら思いのほか食いついてくれて、年の暮れに「嗚呼玉杯」のロシア語訳をいっしょにつくっていた。「芙蓉」が富士山の別称だと知っている彼の問いかけに応答しながら翻訳を考えるのは寸時も気が抜けず、刺激的なひとときである。ひととおり訳出できたが、歌唱のリズムも勘案して完成度をより高めようと約束する。

 

 
12月29日、エドゥアルド・アルテミエフの訃報を知り、激しく動揺する。実のところ、今回のモスクワ行きを決めたのはロシアに着いて間もない10月中旬、生誕八十五周年を記念して、彼の作曲した映画音楽を演奏するコンサートがモスクワの国立クレムリン宮殿にて12月3日に開催されると知ったからだった。『夢に向かって Мечте навстречу』(1963)のためにANSシンセサイザーを用いてソ連映画に初めて電子音楽をもたらし、これまでに数多くの映画音楽を生み出した大作曲家を祝福する祭典のような雰囲気のなか、ときたまステージ上にアルテミエフ本人も姿を見せては真白の大きなピアノの前に座って演奏に耳を傾けていた。彼が公の場に出たのはあれが最後だと思われる。報道によれば12月9日にコロナウィルスで入院してそのまま亡くなったというのだから、もしも祝意に満ち満ちたあの会場に来ていなければ、あるいは……そんな反実仮想で感傷に浸るほどの強い思い入れがあったわけではない。ただ、僕の記憶のなかで、バルコニー席から見たアルテミエフの小さな形姿と、『惑星ソラリス』(1972)のためにシンセアレンジされたバッハのコラール・プレリュード«BWV639»と、凍てつく雪風が舞うクレムリン前のクリスマスマーケットとが、喪失の感覚とともにゆるやかに融け合ってしまったというだけである。

 
 

空は亜鉛板のように重い。ごくたまに太陽がちらっと姿を現すときでさえ暖かさは感じられない。大晦日の夜は、とあるバルに友人たちと出向いた。しこたま酒をあおって酔いが心地よくまわったあたりで年明けの時刻となる。壁にかけられたテレビが、政府管理下に置かれているロシアのマスメディアのなかでも特にプロパガンダの舞台として悪名高い第1チャンネルに合わせられた。年越しのロシアでは大統領による国民への挨拶が恒例行事となっている。目を向けるとそこにはエリツィンの姿が映し出されていた。こんなブラックユーモアを放送するようになるとは恐るべきことだと一瞬ちょっぴり感心してしまったが、これは店主による皮肉を込めたジョークで、実際には例年どおり現在の大統領が演説を行なっていた。流されているのは、1999年末に放送されたエリツィンが辞意を表明したテレビ演説の録画映像である。「本日をもって職を辞します……わたくしはみなさんのお赦しを請いたい……」。横並びで画面を見ていた友人の一人が、他の誰かがこんなふうに言ってくれたらね、とこぼす。その誰かは実際の演説で、西側の嘘を糾弾し、祖国防衛という神聖な責務を強調していたことを後で知る。果たして現ロシア政権のトップが退陣しさえすればすべてが良くなるのだろうか。録画された過去の映像を流すことは残酷な現在を柔らかく覆ってくれる虚飾となっていないだろうか。年の瀬の宴席で、そんなお粗末な議論を吹っかけようという気にはならない。そもそも酒精にやられた頭は曖昧模糊としていて、こうした批判をロシア語で言ってみようなどと考えられなかったはずで、だからこれは回想のなかで肉付けされた加工済みの記憶である。誰もかれもが親切に接してくれた代えがたい年末を過ごした。