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  • 2025年5月29日

妄想映画日記 第199回

樋口泰人の「妄想映画日記」第199回です。休養しながら、配信で『陪審員2番』『真夜中のサバナ』(共にクリント・イーストウッド監督)、『愛と激しさをもって』(クレール・ドゥニ監督)、『ビートルジュース ビートルジュース』(ティム・バートン監督)、『ヒットマン』『アポロ10号 1/2: 宇宙時代のアドベンチャー』(共にリチャード・リンクレイター監督)を鑑賞した5月前半の日記です。
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文・写真=樋口泰人



5月1日(木)
起き上がると少し耳が楽になっている。相変わらず耳鳴りは止まないが耳に蓋をされて体のバランスが取れなくなる感じは少し治まった。気のせいかもしれないが気のせいで気分が楽になるなら今は気のせいでもいい。昨日からの各所への振り込み作業がようやく終わりそれらの整理をする。源泉徴収分を税務署に納付しないとならないのでその手続き、消費税などの支払い金額を確定させるために支払った仕事がいつ完了したのかいつの請求なのかなどを3月決算分とそれ以降の分に細かく分けて税理士に伝えねばならない。来年はもうこういうことをしなくて済むような自分勝手な仕事だけをしていたいと心から願う。
夜は急に映画を観る気分になりお試しということでではいったい何を観たらいいのかまったく見当もつかなかったのだがそういえばイーストウッドを観ていなかったと『陪審員2番』にしたもののあまりに変な映画で呆れた。何しろファーストショットが黒い布で目隠しされた妻を夫が案内してもうすぐ生まれてくる子供の部屋に連れて行きそこで目隠しをとるというもので、目隠しされた妻の背中を夫が押しながら廊下を子供部屋に向かって歩く姿をまずは妻の顔のアップからそれからカメラがだんだん引いてふたりの半身が見えるくらいになったところでふたりは部屋に入ることになるのだがこの後退するカメラが映し出す廊下をこちらに向かって歩く人物の姿は『白い肌の異常な夜』の中に似たようなショットがなかったか。あの閉鎖空間の異様な空気はこれから子供が生まれようとする幸せに包まれたふたりを紹介するのにまったく似つかわしくないのだがそれ以上に一瞬だけ示される目隠しを外された妻の見た目のショットらしきものが3つあって特にその2番目のショットに映る影の不吉さはこれはどこからかブルース・サーティースの亡霊がやってきてイーストウッドにささやきかけたその息吹の、イーストウッドの耳から目へと吹き抜けた影なのではないかと思えるような人間の手の届かぬ何かの一瞬の気まぐれと言うしかない主体性を欠いたショットであった。いったいこれは何なのか。イーストウッドの映画には時々こんなショットが現れる。この違和感は最後までこの映画に付きまとい物語の本筋の正義と真実の行方を果てしなく曖昧なものにさせていくわけだからこちらはどうしたって『真夜中のサバナ』の狂った空間を思い出すわけでいずれにしてももはやそれは人間の出来事として目の前で起こってはいるものの人間の手におえることではないことはあらかじめ承知の上でイーストウッドは何を映し出そうとして何とかかわろうとしているのだろうか。とにかくいくつもの映画を観ざるを得なくなった。

 
 
 
5月2日(金)
雨降りということもあって終日ボーっとしていた。『真夜中のサバナ』を観たのだが冒頭からいったいどうしてカメラがこんな動きをするのかまったくわからない俯瞰の移動ショットだった。たとえばそれは『ダーティハリー』シリーズやいくつものアクション映画の冒頭のように事件の起こる町の全体を示す見晴らしの良いショットのように見えて全然違う。それは明らかに何らかの人格を持った視線の移動のようにも見えまたその人格がふと我を忘れてふらふらと世界をさまよっているそんな無意識のショットのようにも見える。つまりこれからわれわれはいったい何を見せられるのかという不安と戸惑いの中にわれわれを誘い込むような移動ショットであった。一番近いのが『エクソシスト2』のイナゴの大移動の主観ショットではないかと思える。しかしもちろんその後そんなショットは一切なかったかと思う。明白で明晰なショットが閉じられた町で長い時間をかけて育まれてきたというしかないよそ者には簡単には馴染めない時間と空間を映し出す。この時間と空間がそのまま『陪審員2番』にもつながっているように思えるのは思い過ごしだろうか。いずれにしてもイーストウッドはなぜ『陪審員2番』の舞台を『真夜中のサバナ』と同じジョージア州のサバンナ(サバナ)にしたのだろうか。劇場公開されていないとこういったときの資料探しが厄介である。
夕方は地響きを立てて雷が鳴っていた。

 
 
 
5月3日(土)
松本からの帰り以来2週間ぶりに電車に乗った。メニエールのめまいがようやく治まってきたということで1年ぶりに妹一家に会いに三鷹まで行ったのだった。姫たちも子供を連れてやってきた。典型的なGWの家族の休日であった。終日眠かった。
 
 
 
5月4日(日)
久々に電車に乗ったり大勢の人に会ったりしたためか珍しくぐっすり寝た。目覚めたのが11時過ぎでこうなると1日は早い。夕方は代々木八幡のポルトガル料理。30数年前のポルトガルを思い起こしながらの食事はなかなか感慨深い。多分もう2度とポルトガルには行けない。味覚や触感とともに今ここではない場所の時間と空間を感じ自分のものなのか他人のものなのかもはやわからなくなった記憶が目の前に広がるその広がりに身をゆだねる。うっかりしていて多くの料理の写真を撮り損ねたのだがとにかくタコご飯はめちゃくちゃうまかった。そしてビーツはロシア料理のイメージが強くポルトガル料理では異質な気がしたのだが帰宅して調べたら地中海原産であった。
 



5月5日(月)
さすがに2日連続で大勢と会って話をしたら疲れた。ぼーっとしていた。ぼーっとしたままクリーニング屋に行き預けた洗濯物を受け取ろうとしたのだがひとつだけ足りない。それだけはちょっと時間がかかる洗濯物ということで4月の半ばに預けていて5月1日に出来上がると言われていたものなのだがなぜかその伝票がない。どうやら前回ほかの洗濯物を受け取りに行ったときに処理されてしまったらしい。とにかくこちらは受け取ってはいないので調べてもらうのだが、なんと、4月半ばに洗濯物を預けた記録が残っていないとのこと。ポスレジで会員カードを使っての伝票管理はちゃんとされているはずだから伝票の現物がなくなってしまってもデータがないというのはあり得ない。しかしないのである。こうなると押し問答になるしかないのだがそういえば支払いはバーコード決済だった。ということでアプリの記録を調べ4月半ばに支払った記録を見せてとにかくこちらの記憶違いではなく店舗でのデータの扱いのミスである(その日は混みあっていたためにわたしのカードと前の人のカードを間違えて入力してしまったらしい)ということだけははっきりしてのちに洗濯物も見つかることになるのだが、例えばもしこのときが現金支払いだったら、わたしは洗濯物を預けたという何の証拠もないまま騒ぎ立てる単なるクレームじじいになっていたところだった。あらゆることがシステマティックに処理されて世の中がスムーズになればなるほど思わぬ落とし穴が現れるわけだがこちらもそれに逆らってばかりいてはいくら正当なことを行ったとしても誰にも相手にしてもらえない。
夜は昨日教えてもらったクレール・ドゥニの『愛と激しさをもって』。今のところの彼女の最新作で今回は配信のみでの公開になったとのこと。いったいこのタイトルは何なのかと思って観始めたのだが病気で貧乏でやがて訪れる死をどのように受け入れていくかを考えるしかない弱った初期高齢者にとってはあまりに生きる立場が違いすぎて登場人物たちの行動には驚かされるばかりであったのだがその違いと圧倒的な距離感をひたすら見つめるという意味で最後まで面白く観た。物語の内容からは主人公はジュリエット・ビノシュ演じるラジオ・パーソナリティなのだが最後は彼女のパートナーで最後には結局彼女から離れていく男とその前妻との間にできた息子との印象的な父子ショットが続く。登場人物を見つめるこの視線の転換と移動は何なのかと思いつついや最初からこの男が主人公だったのではないかと思い直すとひとつの道筋が見えてくるのはわたしがあくまでも男の視点からこの映画を観ていたからなのかもしれないし何よりもまず道は一筋ではないことばかりがここでは示され続けていたように思う。パリの街がそうなのか彼らの生きる世界がそうなのかとにかく彼らを映す画面の奥で彼らとは関係ない人々が怒鳴り合いパトカーのサイレンが鳴り響く。「愛と激しさ」の中でうろたえ戸惑い途方に暮れているのは彼らだけではなくそれらの傷みや悲しみや怒りや喜びがどこかで彼らにこだまして彼らの視界も変化するその変化の中で彼らの言動も変わって行く。その不確定な関係の変容が彼ら自身でもコントロール不能であることの残酷さがこの映画では鮮明に描かれていたように思う。シナリオはあらかじめきっちりと書き込まれていたものなのだろうかそれともシナリオを元にして現場で演技する中で俳優たちがさらに手を加えていったものだろかそしてその変容と混乱の上であくまでも冷静に時間が切り分けられ物語は整理されて行ったようにも思えもする。ああこれもまた資料がほしい、クレール・ドゥニはこの映画についていったいどんなことを語っているのだろうか。

 
 
 
5月6日(火)
昨年の日記を整理していたらこの時期は寒い寒いとしきりに書いていてそんなに寒かったかと不思議に思っていたのだが寒い日は寒いのだとあらためて思い知る1日だった。全身の脂肪が落ちてしまっているとちょっと冷え込むだけでなかなかきつい。じわじわと寒くなって気が付いた時には手遅れである。体も気持ちも強張り何もできないだけではなく、何もできず気持ちも体も動かないことを微かに呪いその呪いがすべて自分の体と気持ちに降りかかってくる。そんな呪いの中で『ビートルジュース ビートルジュース』はあまり笑えなかった。そして久々に聴いたエスター・フィリップスの76年リリースの7作目『CAPRICORN PRINCESS』の大胆に空間を広げた音のバランスとその広がりとそれぞれの音の強さと鮮明さにすっかり心を撃たれた。リリース当時10代のわたしにはこれをまともに聴くことのできる耳も経験もなかった。一方『ビートルジュース ビートルジュース』ではすでに50代であろうウィノナ・ライダー扮するリディアがまだまるで10代の子供のような姿勢で周囲にも子供にも対応している姿は可愛らしくもありまったく物足りなくもあった。もちろんその娘役のアストリッドがどこか50代のような生き方をするという母と子の対比がこの映画を作り上げては行くのだがしかしもちろんエスター・フィリップスの足元にも及ばない。ただそれゆえに最後にはこの母と子に幸あれと思ったのだった。しかしクレール・ドゥニの『愛と激しさをもって』の最後が父と子の和解のショットだったことを思うと世代的には孫を持つ年齢になった監督たちが老人の視線で親子の物語を語るというこの現実のリアルタイムに流れる時間も含めて重なり合ういくつもの時間をあくまでもフィクションとして作られている自身の映画に取り入れる余裕がそれぞれの監督の中に生まれ始めているその新たな自身の在り方を実感する喜びとともにある映画と言うことはできないだろうか。そういえば『愛と激しさをもって』では絶妙に身勝手で言いたいことははっきりと口にする麗しい祖母が登場するのだが、なんとビュル・オジェだった。

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5月7日(水)
3週間も事務所に行っていなかったことになるのだがずいぶん留守にしたという時間の幅をまったく感じないのはメニエールのせいなのか。休んでいるうちに自分の中の時間の流れが以前とははっきり変わってしまったということなのか。後者ならなかなか頼もしい気もして次への展望が開けるのだがもちろんこちらの思惑通りには進まない。とにかく3月決算である。頭がまだまだボーっとしている。いくつもの振込間違いをしていることに気づいたのは昨日のことだったがその検証をするのにぼんやりした頭ではさらに混乱が増すばかりである。疲れた。
事務所に届いていた『映画芸術』の宮田くんの追悼特集を読んだ。自分の追悼文だけめちゃくちゃでショックを受けた。追悼文はまったくうまく書けない。葬式事がまったく苦手で学習できないししようともしていないので今後あらゆる葬式事を拒否し続けようかと思うがそれもまたむちゃくちゃの続きのようで本当に居場所も立場もない。人並みなことがしたい。
夜はリチャード・リンクレイターの『ヒットマン』。舞台はニューオーリンズ。殺人を未然に防ぐ捜査のために殺人依頼人をだまして逮捕に導く殺し屋(ヒットマン)に扮する男が主人公。依頼人に合わせて殺し屋のキャラを毎回変えるというか捏造してまるで自身がもともとそうであったかのように演じることのできてしまう男の物語である。本職は大学の講師で野鳥観察が趣味というのはご愛嬌だがとにかくまったくの別人格に心底なり切ることが自然にできてしまうそんな自身の歴史を欠いた現在だけを生きることができる男という設定である。だからこの映画ではリンクレイター独特の合唱シーンは観られない。『スクール・オブ・ロック』の「移民の歌」や『バーナデット ママは行方不明』での「タイム・アフター・タイム」などそれぞれがそれぞれの記憶と思いを込めて時間と場所を共有する合唱はとにかく共有する時間も記憶ももたない人間にとってはまったく無縁のものだからだ。気が付くと架空の人格として知り合い結果的に人生の同伴者となる彼女もまた過去を持たないことが見えてくる。そしてそんなふたりが最後には共有する時間と空間を持つようになるという結末である。たとえばそれは『陪審員2番』とどこか似た結末ではないか? あちらは歴史を欠くどころか自身の記憶に深く刻まれ続けるしかない罪とともに生き続けるしかないわけだがそれゆえに過去を断ち切り表面的には歴史を欠いた人間として家族とともに新たな時間の共有を始めようとする。しかしそれそのものが新たな呪いとなってジョージア州サバンナ(サバナ)という土地そのものと溶け合ってそこで暮らす人々の生を蝕んでいくはずの時間が始まると言いたくなるような呪いの循環が示される。こちらは流れ者たちが作り上げた彼らにとってのもはや戻れない幻想の故郷とも言うべきニューオーリンズという街のハリケーン災害ですべてを失ったことなど嘘のように賑やかな日々を暮らす人々の身軽さを支える故郷を失ったよそ者たちのよそ者としての距離とともにある根拠と目的を欠いた運動が作り出す時間の空回りが始まる。もちろんその空回りの向こうには戻ることのできない故郷の幻影が浮かび上がるわけなのだが。いずれにしても「アメリカ」という呪いは果てしなく続くわけだ。

 
 
 
5月8日(木)
リンクレイターがネット用に作ったアニメ『アポロ10号 1/2: 宇宙時代のアドベンチャー』を観た。例によってロトスコープを使ったアニメなのでどこか本物(実景)を見ているような親密さを感じる。その親密さはこの映画の語る時間ともつながり『ヒットマン』とはまったく逆のその時代を生きた世界中の多くの人々が共有する時間と空間の物語を作り上げる。逆にこの時代をまったく知らない若い人にとってこの「共有」感はどんなふうに見えるのだろうと心配にはなるのだがリンクレイターはそんなことはお構いなしであの時代のあのエピソードこのエピソードを公私すべてを巻き込んで次々に語る。あの歌この曲も次々に流れ思わず一緒に歌いだしたくなる。もちろんそれらの時間と空間はもはやここにはないのもであるということは前提の上で、つまり例えば『ヒットマン』に倣えばニューオーリンズという故郷を失ったものたちの作り上げた幻影の故郷がハリケーンで壊滅的な打撃を受けたその廃墟に新たな幻影の故郷を作り上げようという試みではないかと夢想したくなるような、あるいは何もない砂漠に映画の都を築き上げかなわなかった夢の物語を生み出し続ける映画人たちの悲しみと痛みの物語ではないかと思わせる、そんなアメリカの60年代後半がそこには描かれていた。わたしならこの映画のサブタイトルは「宇宙時代のアドベンチャー」ではなく「輝く星座」とつけるな。これもまた「わかるひとにはわかる」という「共有」を要求するタイトルなので本作を観た音楽好きならわかってもらえるとは思うものの結局は世界を狭めてしまうサブタイトルでもあるので採用はされないだろうけど。いやそうやって各自がそれぞれのサブタイトルをつけたくなるような映画であるわけだから勝手にサブタイトルをつけて面白がればいい。そのいくつもの狭い世界の連なりがリンクレイターの映画を作っているのだと思う。

 
 
 
5月9日(金)
調子に乗りすぎた。朝、コーヒーを淹れようとしたらいきなりクラっと来てそれきり。あとはめまい止めを飲んで寝ていた。
 
 
 
5月10日(土)
昨日ほどではないがやはり朝からめまい、結局は寝ていた。
 
 
 
5月11日(日)
雨も上がり春の日差し。何とかなるかと思ったがやはりめまいはとれず寝込んでいた。というかこの3日間、夕方くらいからは少し復活していてしかし復活したらしたで3月決算の最後の資料作りが待ち構えており100万円超の細かい領収書(いったい何枚あったのか数えたくもない)の整理をしていて本当に疲れた。自分のことだけしていたいといつまで願い続ければいいのかと世界を呪ってしまったのがいけなかったか。
 
 
 
5月12日(月)
ようやく漢方医の検診再開で多少のめまいならとにかく日本橋まで行かねばならない。電車に乗るまでになんだかいろんなことがあって大変だった気がするのだがすでに記憶の彼方。忘れるくらいでちょうどいいとは思うものの何かもったいないことをしたという気持ちを引きずるのは貧乏性というよりも放っておけば忘れてしまう誰の目にも止まらない小さなことがいつもどこにでもあるのだという事実とそれゆえに記憶に残り目にも止まる対象もあるという現実との残酷な対比にいつまでたっても慣れないということなのだろう。だがそれでも忘れるものは忘れてしまうのだ。
 
 
 
5月13日(火)
まさか誕生日にもメニエールを引きずっているとは思いもしなかったのだが、昼食後にクラっと来て吐く。夜も寝たと思ったら具合が悪くなりめまい止めを飲むという身動き取れない1日となった。左耳の辺りに溜まり続けている過剰なリンパ液が耳鳴りと圧迫感閉塞感として実感されるがゆえに終日めまいへの不安が付きまといその不安がさらにリンパ液を過剰に溜まらせるという悪循環。これだけどうしようもないと黒沢さんが言うように「これはメニエールじゃない、自分はメニエールは治った」という強い意志で断ち切るしかないのかもしれないとも思えてくる。ただ生きている、ということもままならず。
 
 
 
5月14日(水)
昼過ぎの歯医者の予約時間までには起き上がって治療を受けねばと思ってとにかく全身のだるさと眠れない眠気に逆らい起き上り準備をして出かけようとして診察券をふと見たら、予約時間が12時15分と書いてある。なんと12時40分だと勘違いしたまますでに12時30分過ぎである。慌てては医者に電話するもののすでに昼休みに入ってしまっていた。これまでなら笑い話にできたしょうもない勘違いなのだがここまでいろんなことがひどいとなかなか笑えない。仕方がないのであきらめて夕方まで寝た。昼寝をしていてもずっと「散歩に行かねば」という気持ちが眠りに張り付いていて眠った気がしない。まだまだ「何もしないことをする」というプーさんの境地には至らず。夕方猫たちに食事を出してから散歩に出た。
 
 
 
5月15日(木)
朝からぼんやりしていて本当はもう1日休んでいた方がよかったのだが午後からは湯浅さんのインタビューとboidラジオの収録。湯浅さんのインタビューは7月の湯浅湾のライヴに向けてのものでそのライヴでの販売も含め告知もかねて「boidペーパー」を作るその特集のためのものである。boidペーパーはもう20年くらい前にチラシと冊子の間くらいの感覚でboidのさまざまなイヴェントの告知もかねて無料配布していた。さすがに無料だと限界がありそのイヴェント自体が相当な黒字にならないと続けていけないということで何号か作ってそれきりになっていたのだが例えばそれを有料にしてみたらどうだろうかというのが今回の復刊のきっかけである。世間でこれだけ小冊子(zineと呼ばれているみたいなのだがなかなかこの呼び名に馴染めず)が刊行されていて賑やかな感じにも見えるのでなんとなくそれに便乗するのもいいかと思ったこともその理由のひとつである。ウェブ上のboidマガジンは1年間有料でやってみたのだがあまりに負担が大きすぎる。ウェブは個人でやらないとダメだ。まとまりとして見せようとすればするほどあらゆる力を吸い取られる。ということをほぼ完全に力を吸い取られた挙句実感した。わたしが勝手に日記を書いたりラジオをやったりするくらいでちょうどいい。
メニエールで苦しんだ挙句そんな結論に達したわけだが苦し紛れの結論なので更に間違った道へと足を踏み入れているかもしれない。もはやそれでもいいだろう。ということでもうちょっと先延ばしにしてもよかったのだがとにかく予定通りインタビューもラジオも収録したのであった。湯浅さんは腰が回復したせいかいつもよりエネルギッシュでいくら話しても話したりないくらいの勢いだった。湯浅湾も3か月に1度ライヴをするということでもあり何か覚悟を決めたということになるのだろう。次のライヴも10月に決まっている。その中でニューアルバムが浮かび上がってきてくれたらという目論見でもある。わたしもいろいろと覚悟を決めなければ。とはいえ久々に大勢の友人たちと会って話すとこれまでのように言葉が出てこないのと周囲のノリについていくので精一杯であることが判明した。確実に鬱症状が出ている。ただ病院に行って治そうとするよりもこの鬱状態をそのままにしつつもう一歩で完全な鬱の手前のいわば鬱のほとりで生きていく生き方を学び歩んで行けないか、省エネでもなく低空飛行でもなく何もしない何もできないぬかるみを漂うような生き方を……。

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