- 日記
- 2023年4月4日
ペテルブルグ印象記 第3回
ロシアのサンクト・ペテルブルグに留学中の映画研究者・映画作家、小手川将さんによる「ペテルブルグ印象記」。今回は、帰省する友人に同行して、白海に面した都市・セヴェロドヴィンスクを訪れた2月の記録です。
故郷(セヴェロドヴィンスク1)
文・写真=小手川 将
近いうちにセヴェロドヴィンスクに帰省する、と彼は言った。
1月下旬のある夜、『トレインスポッティング』(1996)でベグビーが喧嘩騒ぎを起こした酒場に似た造りのレストランで安いロシアンビールをちびちび飲んでいたときのことだった。映画を観たり酒を飲んだりスケートをしたり、折あるごとに近況を伝え合いながらとりとめのない会話で一緒に時間を浪費することのできる友人のひとりで、日本語もけっこうできる。その彼の生まれ育った町の名前がセヴェロドヴィンスクというらしい。初めて耳にする地名だった。聞くと、白海に面した小規模の港都で、ペテルブルグからは北東の方向、飛行機で一時間半ほどの距離にあるとのことだった。
僕もついていっていいかな、と咄嗟の思いつきが口端から漏れた。「本気?」と返されたので、今度はごく畏まったトーンで、もし邪魔にならなければと慇懃に前置きしつつ帰省への同行を願い出た。親に訊いてみるからちょっと待っててという返答でその日は話が終わり、数日後、快諾の言葉代わりに彼の母から食べたい料理を教えてほしいとメッセージがあったという連絡を受けとった。実のところ本当に行けるとは思っていなかったのだが、あれよあれよという間にスケジュールが決まり、2月2日に出発することになった。
セヴェロドヴィンスクという町に行くためにはまず、この市が属するアルハンゲリスク州都の空港に降り立つ必要がある。出発の数日前に故郷の話を聞いてみたところ、ロシア語で「大天使」を意味するアルハンゲルに由来する名を冠するこの軍港都市の歴史はピョートル1世の時代に遡り、長い年月をかけて軍事機密を抱え込んで一時期は閉鎖都市になっていたこともあるらしく、セヴェロドヴィンスク市の沿岸部の大半を占める大きな造船工場では軍艦も造られていて警備も厳しいから外国人のショーは近づかないでね、スパイだと思われて逮捕されるかもよ、と笑いながら念押しされた。ロシア郊外の未知の空間に行くことに対する緊張と不安はあったが、そこはしかし彼の地元である。地元のあれこれを紹介したいと旅の段取りを手際よくつけてくれた。大切な帰郷についていこうとするわがままに付き合ってくれる親切への深い感謝とともに、僕の世界を垣間見せてあげよう、という彼の心そのものが胸に沁みた。
アルハンゲリスク・タラギ空港
アエロフロートの飛行機に乗って2月2日の夜にタラギ空港に着く。なぜ日本人のあなたがアルハンゲリスクに来たのかと訝しまれるかもしれないという心配は取り越し苦労だった。空港には彼の義父が迎えに来てくれていた。がっちりとしたがたいで、短く刈り込まれた青みを帯びた黒髪、低い声色、口数は多くないが堂々と明瞭に喋る姿には「父」という表現がよく似合うと思った。後で聞いたことだがどうやら軍関係の仕事をしているらしかった。曖昧な書き方をしているのは何かを怖れているからというのではなく、彼の義息であるところの僕の友人も詳しくは知らないと言っていたからである。
乗っているのは白のマツダ車。最高のクオリティだと絶賛していた。いまでも非公式的にはロシア国内で日本車の製造は行われているのではないか、と言う。日本の自動車企業はロシアでの生産事業は終了しているとニュースで見たが、そうなのだろうか。スターバックスがスターズコーヒーへと居抜きのように変身したように、自動車産業でも同様のことが起こっていてもおかしくはない。ところでこの国にいるとしばしば「非公式」という言葉を耳にする。公的な舞台に外接する奇妙な空間がある。非公式芸術、地下出版。もっと身近な生活圏にも非公式な何かがあるのだと思う。たんなる表裏とも言えないような複雑な複数性がここにはあるように感じる。
車内のラジオから流行りの西側のポップミュージックが聞こえている。ほとんど暗黒に近い夜道をかなりの速度で走っていく。前にスピードの遅い車があればすばやく反対車線に移り追い越していく、ロシア語のマート(罵り言葉)を軽快なリズムで呟きながら。
食卓を囲む
家に着く。ペンキの剥げ落ちたおんぼろの階段を登って中に入ると、広くて綺麗な暖色系の照明が柔らかい玄関と彼の母が出迎えてくれた。ブロンドのミディアムヘア、青灰色の瞳は力強いが柔らかなニュアンスを湛えている。年齢は聞いていないがずいぶん若いように見えた。いやはやお招きいただきありがとうございます云々と堅苦しく挨拶すると「自分の家だと思ってくつろいでちょうだい!」と笑顔で心地よく受け入れてくれる。
食卓にはすでに豪勢な料理が並べられていた。じゃがいものチーズ焼きはシンプルで実に旨い。鱒のベーコン巻きは何か甘酸っぱい油が絡んで複雑な味つけがされているが、ふわりと柔らかく融けるような舌触りでさっぱりと食べやすい。事前にリクエストしていたビーフストロガノフは薄切り肉を想像していたのだが、牛肉の細切れがじっくり煮込まれており、濃厚で、何とも玄妙な味だ。ロシア料理の妙味をもっとも感じられるのは煮込みやスープの類だと思う。イカの細切れとレタスとコーンをマヨネーズで和えたサラダが箸休めにちょうど良い。料理の手練にうならされる。なぜロシアに来たのか、ペテルブルグでの生活はどうだ、何を勉強しているのか、息子とはどんなふうに遊んでいるんだ、等々の質問に答えながら、家族団欒の席に割り入ってどのように会話に参加すれば良いのだろうという不安も旨い手料理とともに胃の腑に落ちて消えていく。義父はいっさいアルコールを飲まないそうだがリビングの隅には貰い物だという箱入りの酒が所狭しと並べられていて、ブランデーと赤ワインを振る舞ってもらった。次から次に運ばれてくる料理を手前の皿に盛りつける。セントラルヒーティングのおかげでとても暖かい室内にくつろいで、どこかのチャンネルで放送されているミュージックビデオが映されたテレビの大画面を漫然と眺め、黒パンにスモークサーモンを重ねて、強い酒といっしょに肉厚のカツレツを咀嚼していると心が弛んで外界で起きているあらゆる問題がどうでも良くなってくる。会話に政治の話題は上ってこないし芸術や歴史に関わるような小難しい話もしない。腹のうちを探り合うような慎重な言葉の駆け引きもない。美味しい手料理を口に放り込むたびに自然と食卓は活気づいて、他愛もない近況報告のような雑談に混ぜてもらいながら僕は漠然とした幸福を感じていた。美味しいものは美味しい。温かいものは温かい。それで良いじゃないかと素直に思えてくる。すくなくとも国家対国家の関係に思いをめぐらせて世を儚むなどといった不景気な感情とは無関係でいられる。
自家製チェリータルト
食後にチェリータルトを出してくれた。息子の好物らしい。ちょうど良い甘酸っぱさ。日本語スピーチコンテストで一位を獲ったこともある優秀な友人がまだ日本語をまったく知らなかったであろう幼少期の頃から食べていたに違いない料理の数々を楽しみ、温かい家庭の雰囲気に包まれて、僕は自分のものではないノスタルジーを味わっていた。
本当に美味しかった、幸せです。そう伝えると、当然のことをしただけだというようなそぶりで、気に入ってくれてよかった、と返ってくる。畏まった態度はむしろ失礼にあたるかもしれないと思って、横にいる友人といっしょに足を崩してソファベッドに転がった。
セヴェロドヴィンスクの中心部(ロモノーソフ広場)
翌くる日、遅めの朝食に牛乳で煮た米のカーシャ(粥)とソーセージを食べる。朝早く仕事に出かけた母親が作ってくれていた。今日は仕事休みだという義父がマツダ車で町をまわってくれる。これがセヴェロドヴィンスクで一番大きな道路、このショッピングセンターは最近できたばかり、そんな話を聞きながら車窓から眺める風景には高層マンションを建設中の工事現場もあり、他方で、もし台風でも来たら吹き飛ばされてしまいそうな木造の住居がいくつか視界を横切る。山奥に捨て置かれたロッジみたいな外観だ。
現代的な建物を新しく建てるような都市開発をしているのにこういう古い住居が壊されないのはどうしてですか。運転する義父に助手席から質問すると、国から退去要請はあるけど住民が頑なに動こうとしないのだと思う、とのこと。相続手続や解体費用の問題で取り壊されないまま廃墟化したのではないかと僕は想像していたので、人が住んでいるとは驚きだった。思えば、土地相続で揉めるというのは極東の小島に生まれた人間の世界観なのかもしれない。ちなみにアルハンゲリスク州の総面積はおよそ60万平方キロメートル。日本の国土の約1.5倍である。途方もない大きさの国だと思う。
今日の車中には地方局のラジオが流れている。お、この声、あいつだ、いま喋っているDJ、おれたちの友人だよ。どうやら家族ぐるみの付き合いらしい。町並みを案内してくれる道中で母親が働いているという銀行に立ち寄った。支店長らしい。いちばん奥の部屋、立派な机に座っていて、部下の女性と出迎えてくれた。慣れないはずの町のネットワークに急速に溶けこんでいく。ロールプレイングゲームの世界に転送されてチュートリアルを受けているみたいだ。
白海、写真左側が凍っているところ
案内の最終目的地は海だった。ここで義父とはいったんお別れ。あとは二人で好きなように散策すればよい。
白海。しかし海とはいえすっかり氷結していて、どこにも海面は見えない。水平線の向こうまで氷雪がある。冬季のセヴェロドヴィンスクの海辺では打ちなびく波の音が聞こえてこない。しんと凍った大気がゆっくりと動く音がかすかに聞こえるだけだった。波の音のない海は初めての経験だった。
民部卿経信が詠んでいる――「沖つ風吹きにけらしなすみよしの松のしづえをあらふ白波」(『後拾遺和歌集』一〇六三)。
沖で強い風が吹けば遠くから大波が押し寄せて、海岸を白い泡で洗いながら浜辺に生えている松の木を揺らす。日本の海辺の表象はいつでも風と波が喚起する動きがあって、そこには音の風景も伴うように思う。そこには常に自然音の美しさがある。翻って、冬の白海は不動の氷に覆われて、寄せては返すような波はなく、重くどんよりとした曇り空と相まって永遠に時が止まっているように錯覚する。
夏にはリゾートビーチとして多くの人が海水浴を楽しむらしいが目の前の景色からはまったく想像できない。潮の香りもしない、人影もまばらな冬の白海の空間は、がらんどうなのに重苦しい何かが詰め込まれているようだった。
海に浮かぶ小島だった場所から白海に向かって雪玉を投げる友人
凍った海面の上では穴釣りをしている人がちらほら見える。たまたま近くにいた一人の男性に話しかけてみる。六十四歳の年金生活者。こんにちは、釣果はどうですか、何を釣っているんですか。コマイを釣っているらしい。簡単な自己紹介をすると、この国や人々は気に入ったか、気に入っただろう、と言われたので、うん、素敵なところだと思う、と答える。すると、それなのにじゃあなんで西側はわれわれに敵対するんだ、と言う。宗教的な対立ではないがこれはいわゆる「冒涜 кощунство」だ、ヨーロッパは「маразм」に陥っている――この時は意味がわからなかったが、後で調べてみたところ、おそらくアルツハイマーのようになっていると言いたかったのだと思う――激しい敵対のせいでロシアはいま非常に困難な状況にある、だのにどうして誰も助けてくれないんだ……返す言葉がうまく見つからない。それから、ブレジネフの時代からわれわれの国の政治は無益なことに巻き込まれてばかりいると嘆いたり、ソ連時代に神が去ったわれわれにとっては民衆と「魂 душа」の関係が大事だと西側の宗教観と対比したりと、次々に話題が変わるのでいまいち文脈がつかめないまま何とか話についていこうとしていると、突然、「私は妙なる瞬間を憶えている/君が目の前に現れた時のこと/束の間の幻影のように/清らかな美の化身のように」……とプーシキンの詩を暗唱しはじめる。このあたりで、少し離れたところで電話していた友人が助け舟を出してくれて、代わりに話し相手になってもらい、僕はその会話を聞いていた。ロシアの若者がゴーゴリとかトルストイとかの文学作品をほとんど読んでいないこと、政治に対して無関心であることを批判していたようだったが、足元の寒さに凍えて頭が鈍ってきていて具体的に何を言っているのかほとんど分かっていなかった。
帰りは徒歩、家に着いた時に心の中でただいまと言った。ロシアにはただいまに相当するような言葉をやりとりする習慣はない。
釣り人に話しかけて年季の入った手を見せてもらっている僕(友人撮影)
小手川 将
主に映画を研究・制作。2022年に監督作品『籠城』が完成。大学院での専門は映画論、表象文化論。現在の研究対象はロシア・ソヴィエト映画、とりわけアンドレイ・タルコフスキーについて。論文に「観察、リズム、映画の生──アンドレイ・タルコフスキー『映像のポエジア』の映画論における両義性」(『超域文化科学紀要』26号、2021年)。