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  • 2022年5月9日

映画川 『アネット』

是安祐さんによる、現在公開中の映画『アネット』(レオス・カラックス監督)のレビューを掲載します。ミュージカル映画でありながら殆どダンスシーンがない本作において、是安さんが最も”スペクタクル”を感じたのはどの場面だったのか。そのシーンの演出やショットの構成を詳細に分析しながら、その”スペクタクル”の在り方ついて考察されています。
 

アネットはいつアネットになった?



文=是安 祐

 
「あ、踊らないのか」
というのが『アネット』日本公開初日(まさに舞台挨拶の回)、本編が始まり、例のオープニングから数シーンが経った頃に最初に思った感想である。
 
よく考えてみれば、これも先頃観た『ウエスト・サイド・ストーリー』や、昨今流行りの『ラ・ラ・ランド』『イン・ザ・ハイツ』など“現在”のハリウッド・ミュージカルとは一線を画すつくりであることは、前作『ホーリー・モーターズ』のカイリー・ミノーグがやおらシンクロで歌い出すミュージカルシークエンスを思い起こせば当然といえば当然であったのだろうが。
 
少人数のメインキャストであろうが、モブシーンであろうが、多少は歌い踊るシーンがあるのであろうと勝手にこちらが思っていた分、そうかアメリカ映画的なミュージカルではないのだな、それにしてもヘンリーの舞台の撮り方はあっさりしているし(スモークの中からの登場カットを除けば、カメラはほぼ客席側に移動レールを敷いて寄り引きを押さえる基本ワンカット構成、コーラス隊によるときだけステージ上にカメラが上がったか、あれもクレーンを突き出しただけだったか。途中で俯瞰が入るのと、客席側がリアクションで映されるのを除けば極めてシンプルな割りといえる)、アンのオペラが実際の森の中に足を踏み入れた時は「おっ」となったものの、レオスが拘ったという歌のシンクロ録りがどうしても音像に対する “スペクタクル” 感を減じているように思え、いや、今回はそういう “スペクタクル” をやりたい訳じゃないんだよ、という監督の呟きが聞こえて来そうになったが。
 
レオス自身が度々言及するジャック・ドゥミ作品の中でも、煌びやかで著名な『シェルブールの雨傘』『ロシュフォールの恋人たち』よりも、全編薄曇りの下での陰鬱な労働者ストを描いた『都会のひと部屋』の趣き。記憶が曖昧だが、あの作品でもドミニク・サンダは歌いはすれど、殆ど踊っていなかったのでは。
 
監督の意図とは裏腹にこちらが勝手に「もう少しスペクタクルに踊るか何かするもん」だと思っていたのは、『ポーラX』でのワンシーン、ピエールとイザベルたちが謎のテロリスト集団のアジトのような場所に辿り着いたくだりで、スコット・ウォーカーによるインダストリアルな轟音が鳴り響いた後に、シャルナス・バルタス率いるノイバウテンのようなグループが何の儀式かセミナーかまったく説明ないままクレーンアップで現れ、その脇をピエールたちがこれまた謎のどこに続いてるのかさっぱり分からない蛇のように絡まった階段を登っていくという “スペクタクル” 極まりないショットが脳裏にこびりついていたからで。

とは言うものの、『アネット』にもいわゆる振付が全くない訳ではなく、序盤のオペラ会場の外でのマスコミたち、中盤の海難の後の尋問シーンでの警官たちなど、あるにはあるがあくまで主人公たち周辺のちょっとしたシーンであり、ヘンリーの二度目の舞台シーンでは観客たちのブーイングとの掛け合いがより多くはなったものの、ここでも笑いを取れないヘンリーが一度舞台裏に戻ってから、例の “シンクロ” 録りを第一に考えた構想なのだろうか、ステディカムでひたすらヘンリーを追いまくる結果、過剰な “スペクタクル“ 感は鳴りを潜めていた。
 
ステディカムで追う、といえば、歌いながらプールで背泳ぎを披露した後、バスルームでタオルのみを身体に巻き、ボブカットに伸びた髪を拭う描写から始まるアンを追ったショット、一度リビングに移動し、ランプのスイッチを入れ、背の低い棚(下着入れだと分からせるインサートの寄りが一瞬入る)からタバコを取り出し、再びバスルームに戻って、便器に腰掛けて用を足しながら一服するくだり、最後にリビングに戻って仕切り戸を閉めるまで、確かここまでワンカットだったと思うがこれは見事だった。 “シンクロ録り” と言いつつオペラ歌唱のくだりではどうしても吹替に頼らざるを得ないマリオン・コティヤールのミュージカルシーンでは白眉のシーンであったと思う。
 
いや、バイクの疾走シーンやそれに被さるアンのオペラのイメージ、指揮者の360℃×4回転カット、ヨット甲板上の嵐のシーンなど、レオス印の “スペクタクル“ シーンは沢山あるじゃないかと怒り出す向きがあるのは当然理解できる。ただ、その辺りのシーンにそれなりに感銘を受けつつも、こちらの興味は既にこの “シンクロ録り” の窮屈さ(=歌っているシーンはほぼステディカムのワンカットを基調に構成される)と、アネット人形の変遷に移り、むしろ繰り返し出てくる下(シモ)から上(カミ)へプールの水面を舐めるようにフォローするショットには妙に引っかかりつつ、そうこうしている内に映画の進み行きは終盤に差し掛かった。


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ラストシーンの内容に触れる前に(※もう未見の人を気にする時期ではなかろうし、そもそもネタバレ云々の作品ではないが、この後に初見の驚きを記すことはお断りしておく)、ずっと書いてきた “スペクタクル” 感とは何か、に関連する事柄として、観賞直後にTwitterに書き連ねたことを。
 
『レインメーカー』から10年が経ち、『マトリックス』やキャメロンが席巻するメインストリームから遥かに置いていかれたコッポラが、ルーマニアの地で慎ましく撮影したエリアーデ原作の『コッポラの胡蝶の夢』。ティム・ロスとブルーノ・ガンツ以外は撮影地ルーマニアやドイツの俳優を使い、カメラはこの後にハリウッドで大成するがこの時点では全く無名のミハイ・マライメア・Jr。
いまや殆ど語られることもなくなったこの作品のラスト近くで、独り時空を超えて旅をしてきたティム・ロスが、1969年の現在時、老いた旧友たちに囲まれるシーンが大好きだ。ロスだけが若い姿のまま、周りを囲む老人たちと一頻り旧交を温めたのちに、不意に、本当に不意に立ち上がった瞬間にロスも老けメイクになる。青山さんも『映画長話』の中で言及していたように、文字通り完璧なアクション繋ぎによるもの。
エリアーデの原作は未読なので、この描写が原作にどう書いてるのか、はたまたシナリオにどう表記されていたかは分からない。
いずれにせよ、物語の重要な変節点である主人公=ロスが稲妻に打たれるシーンなどよりも、この不意の一瞬、呆気ない一瞬に、SFめいた荒唐無稽な物語が全て「本当に起こった」ことのように流れ込んできたことは紛れもない事実である。
この “呆気のなさ”、原作にある程度忠実ながらも、ただ一つのショットで文字通り “呆気のなさ” にこそ呆気にとられること。これこそが映画における“嘘”が“現実”になることであり、筋書きや物語の結構などを超えて、フィクションが人生に侵食してくる瞬間に他ならない。
おそらくは、往年の大監督の新作としては見る影もない慎ましやかな公開状況であったろうが、初見の折に、この『Youth Without Youth』(『コッポラの胡蝶の夢』の原題)、若さなき若さ、を製作したコッポラの業の深さと意地に深い溜息をつくと共に、「Bigger Than Life …」という呟きが漏れたことを記憶している。
 
コッポラといえば、『テトロ』でパウエル&プレスバーガーの『赤い靴』『ホフマン物語』を召喚したことが思い出されるが、先述した『アネット』嵐の甲板上のワルツの半分振り付けのようなくだり、パペットのアイディア等で、何ごとかの繋がりを感じてしまった。
 
脱線が過ぎたが、『アネット』のラストシーンに感じたことは、ほぼ上記の『胡蝶の夢』の印象に近い。
 
“スペクタクル”感といえば、普通はショットのゴージャス感(『汚れた血』のボウイ疾走、『ポンヌフの恋人』ではセーヌの花火水上スキー、小品である『ホーリー・モーターズ』でも黒沢さんがDOMMUNEで言及したカイリー・ミノーグがサマリテーヌの屋上から地上を見下ろすショットなど)を想起する。『アネット』でいえば、オープニングがそれに当たるだろうか。
 
最終盤までずっと、レオスらしい“スペクタクル”感が鳴りを潜めたまま、法廷での照明が落ちた後の歌唱シーンでは、むしろアメリカ映画もかくやと言わんばかりのオーソドックスなショット構成で、「おぉ、何か非常に“きちんとしている”ぞ」と感じる。
ただ、やはりこれでは終わらなかった。
 
人形 “アネット” が、生身の “アネット” に変わる瞬間。
その前後のヘンリーの芝居を捉えたショットの構成。
 
これもまた、いや、「ほら、これこそが “スペクタクル” だろ」、とレオスに突きつけられたような慄きにも似た感情に襲われる。
 
まず初めに、鉄格子ごしに鍵を開ける看守の腰まわりに、猿のぬいぐるみと共に抱きかかえられたアネット(人形)の足元が。人形の顔は映っていなかったように思う。
続いて、アメリカの典型的な囚人服である濃いオレンジの足元が神経質に揺れる短いショット。
暗い廊下の奥へ向かう縦構図で、看守のバックショットと肩口から顔を覗かせるアネット(人形)。そして、その切り返し縦構図、奥で鉄格子が閉まる。
囚人服に身を包んだヘンリーの後ろ姿、椅子に腰掛けているのを左後ろから回り込んで右の横顔に。ここで初めてヘンリーの変化(髪型、髭、右頬の痣の拡がり)が分かる。カメラの移動の中途でヘンリーは立ち上がり、そこにドアの隙間窓に顔をつけたアネット(人形)のショットが挟まる。
元のヘンリーのショットに戻り、椅子に腰掛けると、オフでドアが開く音、アネットが部屋に入ってきた音が聞こえる。この足音は人形の固い音だったような気がするがどうだっただろう。
ここでのヘンリーは、アネットのオフの動きに合わせて目線を動かしている。
次がアネット(人形)のショット。5歳程度に成長した設定だから、それまでのシーンと髪の毛や顔のパーツの造作が違う。ベイビーアネットより少女っぽくなり、猿のぬいぐるみをテーブルの上に置いて椅子に腰掛ける仕草もパペット感を減らしてスムーズな動きに見える。ある意味「リアル」っぽくなった少女アネット(人形)の顔をもう少し見ていたいが、すぐに猿のぬいぐるみの上に突っ伏してしまう。その仕草はぬいぐるみの鼓動を聞いているかのようにも見える。
ヘンリーに切り返すと、「アネット」「アネット」と数度呼びかける。おそらくアネット(人形)がぬいぐるみの上に突っ伏したままだからだろうか。そのままヘンリーが「ずいぶん変わったね」と言う。
アネット(人形)が「そう」と短く答える。
再びヘンリーのショット。
ここで観ている側は、ほんのコンマ何秒か、違和感を感じないだろうか。ヘンリーがテーブルで対峙していた筈のアネットから視線を逸らし、正面奥を見つめているように見える。かつ、眼が充血して涙ぐんだようにも一瞬見える。
 
次の瞬間、壁際に佇む少女が、「変わったのよ」と応える。
観ているこちらは動揺すると同時に当惑する。
先のカット、ヘンリーの視線が奥に移ったのは、このアネットの移動を見ていたのか。ヘンリーの表情が急に変わったのは、生身のアネットに対してのことなのか。
人形が生身の少女に変わるというコンセプトがあったとして、映画の中でそれまでヘンリーやアン、その他の登場人物たちも人形アネットを「人形だとは一切意識しない」で進んできたのではなかったのか。
ショックと混乱の中、ヘンリーとのカットバックの直後に事態は更に混沌へ進む。
手前のテーブルに“乗せられた”人形アネットの元へ、壁際にいた生身のアネットが近づいてくるのだ。あまつさえ、人形の頭をそっと撫でさえもする。
アネット(人形)がアネット(生身)になる? そうであれば同一のショットの中にアネットが二人いるのはおかしいのではないか?
こちらの当惑をよそに、カットバックは進み、次にアネット側が映される時には、何事もなかったかのようにデヴィン・マクダウェル演じるアネットが椅子に座ってヘンリーに話しかける。この瞬間も数秒前には人形の脇に立っていた筈なのだからカットバックとしては「繋がっていない」。
程なくして劇伴が被さり、最後のシンクロ歌唱が始まる。
ここでのデヴィン・マクダウェルの奇跡的な存在感はすでに多くの人が語っているだろう。
呆然としたまま、気がつくとクレジットの大団円の行進が始まっている。


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スパークスの二人による原案ストーリーには最後の面会室のくだりはなかった、という。
レオスが付け足したそのくだりでは、生身の少女アネットを出すことは必然だったとして、当然肝は「如何にして人形アネットから切り替わるか」になる。
ヘンリーの体で隠して、あるセリフのタイミングでカメラの動きで見せる?
中盤に使ったような360℃回転で途中でチェンジする?
いや、驚きを追求するならセリフを喋っている間に人形のバックショットから振り向きざまに変わっているとかどうだろう?
レオスはそんなことを考えたのだろうか。勝手な想像だが上記の様な案は露ほども上がらなかった気もする。
 
見終えたショックの中で、あの謂わば「繋がっていない」ショットの連鎖、二人のアネットが同一カット内で共存してしまう侵犯のような瞬間が何度も何度もリフレインする。
ヘンリーはあの瞬間、人形と生身とどちらを見ていたのだろうか。
セオリーからすると何ら劇的な効果を持たらさないような “呆気ない” 顕現。
 
この “呆気なさ” は殆ど恐怖すら覚える感動である。なんとシンプルかつ遠大な跳躍であろうか。 こんなことが許されるなら何だってOKに思えてくる。 が、それでも今レオス以外に、このようなカット割りやアングル、サイズで生身のアネットを登場させる勇気のある監督はいるだろうか。
 
序盤から違和感の元となっていた “シンクロ歌唱” という手法も、最後の少女アネットとの歌唱からの逆算で全てがそうなったかと勘繰りたくなるほどだ(アダムとマリオンには悪いが)。
 
但し、『汚れた血』からの最古参であり今や最大の理解者かもしれない編集のネリー・ケティエには訊いてみたい気がする。ラストの面会室シーンにおいて、レオスが現場で実際に撮ったショットで全く使わなかったものはあるのか。出来上がった編集の形になるまでにどんな試行錯誤と議論があったのか。
 
どれほど考えても、やはり説明不能である。
レオスの “感覚”とか“閃き” でしょ、などという馬鹿げたコメントには付き合いたくない。
あれらの「Bigger Than Life」な表出は、厳密に構成したものだと信ずる。
今回の“スペクタクル”は、これだよ、と。
 
すでに冗語が過ぎた気もするが、妄想ついでにエンドクレジットの行進についての雑感も。
 
あれって“セカンドライン”だよね、と思った。
ジャズやR&Bファンにはお馴染みの、ニューオリンズのブラスバンドを伴った葬列のこと。
家族や親族など先頭に立つ者たちをファーストラインと呼ぶのに対して、多くは明るいノリのいい音楽を奏でるブラスバンドの列の呼称は、翻ってニューオリンズ独特のリズム形態を指す言葉ともなった。
『アネット』のエンドクレジットの行進自体は演奏ではなく歌唱だが、レオスがこれまで描いてきた多くの喪失の物語と同様、ある意味シンプルな絶望の物語を経た登場人物たちと観客たちに、悲壮感を排したセカンドラインをささやかに贈る。その列の中にレオスと娘のナスティアも含まれているのだから、贈るというよりも、観客にも共に歩くことを誘うような。

 

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アネット  Annette
2021年 / フランス・ドイツ・ベルギー・日本・メキシコ / 140分 / 配給:ユーロスペース / 監督:レオス・カラックス / 原案・音楽:スパークス / 歌詞:ロン・メイル、ラッセル・メイル & LC / キャスト:アダム・ドライバー、マリオン・コティヤール、サイモン・ヘルバーグほか
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