だが活劇の魂はなにも銃撃のような派手なアクションにのみ宿るわけではない。俳優がごく穏やかに言葉を発するという、ただそれだけのことも、十分にスリリングな活劇となりうる。変化していくフレーミングのなかで俳優が言葉を発するとき、その姿勢、発話、眼差し、表情が周囲の空間と共鳴しつつ、無意識の厚み(潜勢力)を含み込んだかたちで可視化されるなら、活劇が生まれる。すなわち、それはもはや演劇上演の記録映像ではなく、まぎれもない映画となる。プロの俳優を招いてチェーホフの『かもめ』の上演を撮影したシリーズ第2作『かもめ The Shots』が探求するのは、そうした言葉を発することの活劇性である。たとえば、映画の中盤でトリゴーリン(髙橋洋)がマーシャ(鶴巻紬)、ニーナ(川添野愛)、アルカージナ(とよた真帆)と順番に言葉を交わす場面では、舞台装置が最小限に切り詰められているがゆえに、かえって俳優の力と発話の活劇性が生々しく前景化することになる。ここにはなんとも贅沢な映画的快楽が存在する。
仮に『FUGAKU』シリーズを構成する3つの作品に通底する隠された主題があるとするなら、それは「仕事をすること」をめぐる問いではないだろうか。『犬小屋のゾンビ』はすでに述べた通りだが、『かもめ The Shots』でも作家の仕事(書くこと)や女優の仕事(演じること)が話題になるだけでなく、生活のための「雇われ仕事」と家族の世話に心身をすり減らす教師が登場し、原作の戯曲では与えられていなかった重みを付与されている。他方、『さらば愛しの eien』の白黒パートで描かれるのは、プロとして仕事を遂行する殺し屋たちの生きざまであり、カラーパートで私たちが目にすることになるのは、映画を教える大学教員として学生たちと接する青山自身の姿である。シリーズ全体を通して「仕事をするとはどういうことか」という問いが、さまざまな仕方で扱われていると言えないことはない。
『犬小屋のゾンビ』では社会に背を向け湖のほとりに引きこもり、周囲からまったく理解されないピカピカ教授を、『かもめ The Shots』では女優から「過去の遺物」扱いされる老人シャムラーエフを演じた青山は、『さらば愛しの eien』では、幽霊や死のマテリアリズムといったきわどい話題を持ち出して学生たちを戸惑わせる一方で、いつしか酩酊から眠りへと滑り落ちていく大学教授として登場する。このカラーパートのカメラは、白黒パートの活劇的場面とは対照的に、まったく腰が据わらない。どこまでも緩いフレーミングで捉えられ続ける大学教授=監督はついに眠り込んでしまう。それでも学生たちは歌の制作を続け、映画の撮影も止まらない。ここで教師=監督である青山は、からだを張ってコントロールを放棄し、学生たちにバトンを渡そうとしているようにみえる。まるでそうする以外には、教師と学生という制度的現実から、またそこに浸透する資本主義社会の論理から、逃れるすべなど存在しないとでもいうように。それが成功したのかどうか定かではない。そうした抗いなしに本当の仕事を成し遂げることなどできないのだという青山のメッセージは、学生たちに届いただろうか。いずれにしても、スタジオセッションの喜びと幸福感に満ちた時間が、この一点を通過することではじめて可能になったものであることは確かだ。最後に別れの銃弾が撃ち込まれるその前に、まずはその時間を楽しもうではないか。