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  • 2021年1月17日

映画川 『セザンヌ』

昨年11月から、ジャン=マリー・ストローブとダニエル・ユイレの監督作48作品を5期に分けて上映する「ストローブ=ユイレの軌跡 1962-2020」がアテネ・フランセ文化センターで開催中です。同特集において2月5日(金)に上映される『セザンヌ』に関する論考を、原智広さんが寄稿してくれました。ダニエル・ユイレによるジョアシャン・ガスケ著『セザンヌ』におけるセザンヌの発言の朗読と、セザンヌゆかりの土地や絵画などを映した映像で構成されるドキュメンタリーが私たちに問いかけるものとは。


光が、大地や太陽光線の物語を誰に描けるのか?


 
文=原 智広

 
風景を見ることにとりわけ私は何の情緒も抱かない。それはある意味では真実あり、ある意味は虚偽でもある。すべての無意識と錯乱の最中で渦巻く太陽、ゴッホが「動」ならセザンヌは「静」だ。感じ取ること、すべて、その中に息が、呼応が、私は今もあの時のまま、あなたはまだ眠っているのでしょう。風景に対する優しさは時に狂暴となり、感覚を持つことは、絶対的に不幸である。天上の光、あまねく、決して目覚めることのなかった眠りが描かれ、風景は不動のままで、名もない何者かが、神にいたずらするように、紛れもない痕跡を残す。水のように澄んで音もなく、光の泡と砕け散る波で、朦朧に、そして憂慮に、親しみもなく、ただ冷徹な眼差しでセザンヌは世界そのものと世界の外部を描く。その外部は決して通常は感知出来ないものではあるのだが、彼は自らその風景を召喚し、決して幻想などではなく、極めて現実的な、写実的な、そして、外の、他の世界にセザンヌはいるのだ。
 
「その内にある先入観の声を一切黙らせる必要がある。忘れることだ。忘れなければ。沈黙させ、完璧な反響となるべきだ。そうすれば、その知覚の感光板に、すべての風景が刻印されるだろう」
 
絵画には全部光が当たっている、小さな光のイマージュの助けを借り、セザンヌが現に見ているもの、過去において見ていたものを結合し、想像力と風景と記憶を攪拌させ、セザンヌにしか見えないヴィジョンを、単なるモノグラフィーにならないように、世紀から世紀へと移りゆく景色、そして描き終えたときには観念そのものを消し去るように、そして自分を消し去るように、イマージュそのものを消してしまう。ユイレのこのモノローグは凄く美しい言葉で奏でられるが、あからさまに孤独な存在の存在論への寄与でもあり、またそこにある眼差しと夢想家を一体化するような孤独の印しでもある。あなたがこのフィルムで体感してきたことが、重圧として、その空間と時間に滞在したときに、このフィルムはただの空虚の孤独ではなくなる。光の恩恵によって、巡りゆく太陽の結晶によって、写実的であり、景色ではないこの世界の外にある景色を、存在そのものを揺るがし、照明されているべき上昇、高くのぼるときにしか到達出来ないカタルシス、この光のうちの垂直性を、或いはひとりでに輝くことを欲しているイマージュと結びつきうる。そうだ、これは想像力のけた外れの例外なのだ。眼の光で! ありふれた光の彼方の信ずるように信じる必要がある。セザンヌの中で別格化された、霊感を受け入れ、それは彼にとっての、神でもあり、巫女でもあり、世界全体そのものである。あらゆる粒子を、幾分かの名前も知らない存在を、何もかも知らないと言いたげな、その価値のゆえに愛されている、ある和音の微妙さ、そして、このような光景は実に偉大なものであると同時に、このような光景はそれ自身の持続を持っている。眠りながらも目覚めているセザンヌは霊感に満ち、普段人々が気づかないものたちの容貌を光の度と合わせながら感応していく。ああ、何たることであろうか! 静寂なる観察者であり、ある意味パラノイア的にも思えるセザンヌは、この映画のユイレのモノローグを通して徐々に像が鮮明になっていく。
 
「ああ、神様、神様、神様! 私ったら何てことを!」
「愛しい子、私の天使。お前が大好きよ。ああ、本当に美しいわ!」
 
「芸術家の自由な中枢は感光板、記録装置に徹するべきだ。仕事をする時には。しかし、その感光板は、学識の定着液に浸され、その感度は、事物の鮮明な映像を定着させるまでに至る」
 
「この太陽、聞きたまえ…。光線の巡り合わせ、世界を通過する太陽の運行、浸透、顕現、それはいつか表現されるだろうか、誰がそれを語るだろうか? それは自然学の問題、大地の心理学となるだろう。」
 
「おお! 天上の光よ! 人間たちはそれを私に教えてくれなかった。もうずっと昔、我が渇望する心が絶対の生を見出すことができなかった頃、私は汝に顔を向け、植物のように汝に引き寄せられながら、敬虔な喜びの中、長い間、汝を盲信していた。…その時、私は叫んだ。汝は生きている。まさに平然と汝は生み出す。死すべき人間の周りを」
 
仮にそこにすべてがあったとしても何もないような、空中を掴むように、ヴァールブルク派の遺産の継承者? 芸術のある種の真理にふれようとするからこそ、聖書が本来そうであるようなかたちで? 宗教的アナロジーに依拠することになると? 福音記者たち、マルコ、マタイ、ルカ、ヨハネのことを私は回想する。道徳はない、規則はない、世界はない、そして本質的には見たままの風景というものはない、「風景」と「実在性」と「美」の内在性を、セザンヌは極めて独自の眩い視点で主観的に実現し、この意味は「イデア」たる領域とされるものを見捨てければならない。超越的認識で世界を体感せよ、絵画は絵画の中に無論閉じこもっているだけではない、偶発現象、さも緩やかに精妙な感性を磨くこと、あらゆる感覚の長期にわたる、広大な、理論に基づいた錯乱(ランボー)、わが魂を知り、ただちにそれを清め、神性の光に満たされ、セザンヌはこの世界をつくるものとなる、神そのものであるかのようにみえ、神の持てる特性をもつ、光に絵画が照らされながら、貫かれながら、もう一方の光とは異なっているように、知性としての光、芸術としての光、宗教家としての光…微睡の中で純粋性以外のいかなる被造物の侵入を許すことはもはやあるまい。
 
そして、私はこの「彼方」のことも覚えているし、かつていた私と私自身に似ている「ゴルゴダ」のことも覚えている(無論のことセザンヌを媒介として)。 
 
「至る所で、光は闇の扉を叩く。至る所で線が輪郭を描き、色を閉じ込める。私はそれを解放したい。私たちの生活環境の繊細さは、私たちの精神の繊細さに繋がる」
 
ユイレは異化効果をもたらすような現実を超越したものをモノローグと映像で前に据えなければならなかった。なんたる不幸! フィルムの中にものそれ自体を写し、ユイレという発話者は別個の異なる物質として存在する言語、影のような形としての場所、音、時間、この声として読まれるユイレのテキストの絶対的強度は揺ぎなきものと重なることとなる。
 
「ふるいの目がひとつでも甘ければ、その穴から、感情も、光も、真実もこぼれ落ちてしまう」(セザンヌ)
 
「画布に定着させるには、外在化するには、それに続く技巧が介入する。とはいえその技巧には敬意が込められ、それ自体も、ただ忠実に、無意識のうちに表現するためだけに用いられる。自らの言語に通じている限り、それが読み解くテキストを。二つの照応するテキスト。目に見える自然、感じとれる自然。この二つは、渾然一体となるべきだ…。風景は自らを反映し、自らを人間向きに変え、自らを思考する。私の内部で。私はそれを客体化し、投影し、画布に定着する」
 
受信装置であろうと、知覚の感光版であろうとするセザンヌが語ること。ある風景、一本の線、ひとつの空、あとは無だ。彼方には声だけがある。一切がそこですべて消えてなくなる。分かるでしょう? 色彩は勝手に喋らない、色彩は労働しない、色彩は意欲というものを持たない。もし色彩が前述のようなことをするのだとしたら、セザンヌの絵は全世界のものすべての色を失わせるだろう、そして、ゴッホの絵は全世界のものを焼き殺すだろう。目覚ましいまでの様々な技法、波間の泡からの奏で、無限へと順応する眼のための静寂、彼方へと沈んでいく無限の広がりはどこに? 誰が一体それを掴めるのだろうか? 浮かびただよう実在たち、まだ名前も呼ばれたことのないもの、光と風の複合から生まれる、眼のためのむなしい約束ではないひとつの形態、アンビヴァランスな大気性、葉緑素的生命、哲学の創始、いかなる時、いかなる現在、いかなる考察や裁きを鑑みても、セザンヌの絵画たる静寂と世界全体そのものの呪いとの永遠に巡る対立は今もせめぎ合っているのだ。我々は傍観者としてただその場に立ち尽くすしかない。色彩の気配がしきりにつきまとい、太陽を指している線は我々を光の世界へと駆り立てる。
 
抽象と具体とのあの結合、決して落胆せず神と人間という永遠の思想を射程に捉え、偽イデア認識論、革命によせる色彩の波、あなたは悲しむことはない、悲しむとしたら風景全体が泣いているのだから…死後も有限の意識を保させたままで無限なるものへと舵をきる。たとえば、ゴーギャン、オーリエ、ベルナール、ドニ、セリュジュ、ジェフロワ、ルコント、モリス…セザンヌは血の雨を降り注いだのだから。あの遠近法の消失点、何もかもが青ざめて、芸術虚構の中で、父にレクイエムを捧げ、稀に見る蜃気楼、休息はなく、そこにある静物画書、救済の象徴、そう、あの「パリスの審判」、ああ、時よ、どうか止まってくれないだろうか、プロペルティウスの悲歌、狂恋夢、抑圧された欲求の無意識の象徴、私はこれを愛します。私はこれを愛したはず。私はこれを愛していた。青の潔癖さ、純粋形象、愛も何も対象物すべてがセザンヌの眼差しに溶けていく。
 
「私はどういうわけか喋り続けている。実際、絵を描くときは何も喋らない。私はただ色を見る。私は苦心し、喜びを感じる。それらの色は見たままに画布の上に置き換えることに。色は自分が望むままに運任せに配置させる。もちろん、色彩の論理がある。画家はそれに従うべきだ。決して中枢の論理にしたがってはならない」
 
「子孫の高貴な種のように、死んだ殻の中で、誕生の時がくるまで。だが霊気は常に愛を込めて、眠るものたちの周囲で息づき、その目は鷲たちと共に朝日の光を呑みほすが、その祝福を夢見るものたちに与えることはない」
 
神話と性、感覚的に捉える対象と知的と捉える対象との大まかな違いに懺悔せよ! 眼は自然のヴィジョンのためにあり、知覚の現実性と一致させる必要はないのだから。ユイレのモノローグは世界に直線という特性を与え、規範と神聖なる外部の声と共にセザンヌ像を映しださせる。ああ、夕べ、僕が言ったことを覚えているかい? 世界は本来は白で、何も無かったのだから、色を作り出したものは掘り変えられた具象であると。風景はまた実は人間の営為によって、常に単純化されている。そこに物語は介在せず、美的なものへと高め、そうあのオイディプスの頭を擡げるように、我らは永遠性に思いを馳せるのだ。セザンヌは「天使」から「眠っている風景」まで、揺ぎなき本質的な強度を持ち、絶対的に不変的なものをユイレは我々に問いかけるのだ。
 
「私の方法は分かるだろうか、これしかない。空想的なものの嫌悪に尽きる。私の方法、模範は、写実主義だ。ごく僅かなマチュールの中の広大さ、世界の奔流。不可能だと思うかね? 鮮やかな色の永続。世界の日は暮れる。それですべておしまいってわけさ」
 
生きているもの死んでいるもの、風景、それを取り巻くすべては実はユイレの声のように外部にあるのではなかろうか? 宇宙創成的な光の材質そのものは、世界のおのおのの事象と重なるように、タブローへと、凝縮された光として反映し、そこには何の疑念も描かれない。未知の生が劇を持たない時、貝殻の中から聞こえるようなわずかな音と放射光と反射光が、一面に広がる光を見よ! 沈黙も沈静も静寂もそこにあることを確かめ、もう誰も入ってこないだろうという予感を、おのれの激動を迸らせる。光のしあわせが染み入るのだ。心理学的夢想? 夢や悪夢の混沌? 2重の存在の個性? 違う、全く違う。歩くものはただ一人、映っているものは外部にあるものすべて、何も感知しないものは大勢おり、この光景を見落としかねない。連なっていく、砂漠を横断する人々、その手のひらにある小さな光は、夜の間には見えない、セザンヌ自身のコスモスが監視している、感受している空間にある。そこには誰も立ち入ってはならないし、誰の便りも来ないだろう。素白の守り固し、荒涼たる輝き、生の本能でも死の本能でもなく、無の、外部の、風景の、本能だ。ざわめきも静けさも同時に悲しく、我らは立ち尽くし、その美しき光の垂直性に溺れるだろう。後ろを振り返っても誰もいない。あなたはきっと何もない世界のことを考える。そして夢を見ることは二度とない。今ここにあるのは極めて明瞭なリアリズムだからだ。
 
この太陽だけが、この光だけが、あなたの未来の保証なのでしょうか?
 
重々しい塊をなす「死者たち」、ざわめく「現在」、そして「光」へ。
 
追従者は誰もいらない、家族も恋人もいらない、人間は誰もいらない。
かつてあった光は消えようとする運命にあるが、ごく稀に強い光に照射されるものたちがいる、そこにしか救いは何もない。
諸原的光源を求めて、私は時に渇きを、時に水を、時に裁きを与え、躊躇なく突き進むだろう。  
 

 
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セザンヌ Cézanne
1989年 / フランス / 50分 / 監督:ジャン=マリー・ストローブ、ダニエル・ユイレ / 撮影:アンリ・アルカン
特集上映「ストローブ=ユイレの軌跡 1962-2020」において上映(次回上映は2月5日16時から)
同特集の第3期は2021年1月19~23日、第4期は2月2~6日、第5期は3月9~13日に開催、詳細はアテネ・フランセ文化センターのホームページ