- 映画
- 2020年11月18日
映画川 『VIDEOPHOBIA』
海老根剛さんによる、現在公開中の『VIDEOPHOBIA』(宮崎大祐監督)の映画評をお届けします。名前も知らない男性との一夜限りの情事を撮影したと思われる動画がネット上に流出していることに気づいた女性を主人公とする本作において、その舞台となる街や主人公の顔がどのようにとらえられているのか。さらに、この作品がどのような可能性に賭けているのかが考察されていきます。
名前のない街、顔のない女
文=海老根 剛
『VIDEOPHOBIA』はまったき表面である。この映画ではすべてのことが表面で生じる。恐怖も不安も。喜びも安らぎも。苦痛も快楽も。天国も地獄も。そして絶望も救済も。すべては表面にあり、そこで生起する。あらゆるものを表面に還元すること。それがこの映画を駆動する欲望であるように思える。
たとえばこの映画のモノクロームの色彩は、なによりもまず、世界の全体を表面に還元する過激な力として作用している。デジタルに固有のシャープで硬質なコントラストとフィルムを思わせる粒子状のテクスチャーを併せ持つ独特のモノクローム映像は、あるときは画面をやや白飛びした平面に変え、あるときは黒さと白さからなる二つのフラットな領域へと分割する。そのとき、まったき表面となった街のイメージは散乱し、もはやひとつの像(それは「大阪」と呼ばれる)に収斂することがない。この映画のモノクロームは、街から名前を奪い去り、それを決して整合することのない無数の表面の集積へと変換する。
じっさい、『VIDEOPHOBIA』における街の描写は決してディープではない。むしろ徹底的にシャローだと言うべきだろう。たとえば、この映画のロケーションの選択はかなりベタである。通天閣、戎橋、鶴橋、十三、ひらかたパークといった(少なくとも関西人には)よく知られた場所が映されるだけでなく、西成、生野コリアンタウン、芦原橋といった大阪のエスノグラフィーには欠かせない定番の地名が登場する。さらに映画の終盤で主人公が船に乗って進む水辺の光景ですら、梅田哲也のナイトクルーズに参加したことのある観客や「御舟かもめ」という名前にピンとくる観客にとっては、まったくの未知の風景というわけではない。ふだん人目に触れることのない大阪の深部が開示されるわけではないのである。
ロケーションの選択だけでなく、その扱いもまた表面的である。戎橋の観光客や西成のグラフィティを映したショット、町内のお祭りの様子や在日朝鮮人女性のインタビューが、物語との明瞭な結びつきを欠いたまま、一見無造作に挿入される。それら断片的な映像は、物語の流れを妨げこそすれ、主題的に深められることはない。この映画は街に沈潜するのではなく、その表面をなぞり、断片的な映像を積み重ねていく。この点で『VIDEOPHOBIA』は、釜ケ崎の地に深く根を下ろし、土地の歴史と人々の生き様を人情喜劇に落とし込んだ『月夜釜合戦』のような作品の対極にあると言えるだろう。しかしだからといって、『VIDEOPHOBIA』が『月夜釜合戦』よりも皮相的であるということにはならない。この作品で試みられているモノクローム映像による都市空間のラディカルな表面化は、知覚の鋭敏化を伴っており、容易に整合しない都市の表面を収集し集積することで、かえってこの街の錯綜したありようを鮮明に浮かび上がらせているからである。
この映画の主人公、青山愛という女性もまた、ひとつの表面として存在している。彼女はいちおう在日の家系に生まれたという設定になってはいるものの、物語のなかでそのことが特に掘り下げられることはない。むしろ彼女は『TOURISM』の主人公たちにも少し似て、確固たる意思や目的を持たずにふわふわと都会の人間たちのあいだを漂っているようにみえる。主役を演じた廣田朋菜が水上賢治によるインタビューで語っている通り、主人公には確固たる自己が欠けているのである(クラブで知り合った男は暗闇の中から「君は・・・だれ?」と問いかける)。それゆえ彼女には、自己の思考や感情を他者に伝達する「表現」としての「表情」が欠けている。あるいは「表情」という意味での「顔」がないと言ってもいいだろう。しかし、それは彼女の顔に何も変化が生じないということを意味してはいない。むしろ内面と外面、自己と表現の区別が失われることで、すべてが顔という表面で生起することになる。主人公の顔は、そこで自分と他人の欲望が直接にせめぎ合い、快楽と暴力が交錯し、情動に震える表面となる。『VIDEOPHOBIA』のドラマは、なによりもまず、制御不能な力に曝される無防備な表面としての顔において展開するのだ。ちなみに、この作品で主人公の顔は、他の二つの顔と対置されている。主人公が試しに参加するトラウマ克服ワークショップを主催する女性の顔とバイトでその中に入るウサギの着ぐるみの顔である。ワークショップの主催者が私たちに異様な印象を与えるのは、彼女が完璧にみずからの顔をコントロールしているからであり、着ぐるみのウサギが両手をだらりと垂らして歩き出すときの不気味さは、見る者に内面を想像させる身振りの支えを失うことで、着ぐるみ本来の無表情があらわになるからである。
この映画の主人公、青山愛という女性もまた、ひとつの表面として存在している。彼女はいちおう在日の家系に生まれたという設定になってはいるものの、物語のなかでそのことが特に掘り下げられることはない。むしろ彼女は『TOURISM』の主人公たちにも少し似て、確固たる意思や目的を持たずにふわふわと都会の人間たちのあいだを漂っているようにみえる。主役を演じた廣田朋菜が水上賢治によるインタビューで語っている通り、主人公には確固たる自己が欠けているのである(クラブで知り合った男は暗闇の中から「君は・・・だれ?」と問いかける)。それゆえ彼女には、自己の思考や感情を他者に伝達する「表現」としての「表情」が欠けている。あるいは「表情」という意味での「顔」がないと言ってもいいだろう。しかし、それは彼女の顔に何も変化が生じないということを意味してはいない。むしろ内面と外面、自己と表現の区別が失われることで、すべてが顔という表面で生起することになる。主人公の顔は、そこで自分と他人の欲望が直接にせめぎ合い、快楽と暴力が交錯し、情動に震える表面となる。『VIDEOPHOBIA』のドラマは、なによりもまず、制御不能な力に曝される無防備な表面としての顔において展開するのだ。ちなみに、この作品で主人公の顔は、他の二つの顔と対置されている。主人公が試しに参加するトラウマ克服ワークショップを主催する女性の顔とバイトでその中に入るウサギの着ぐるみの顔である。ワークショップの主催者が私たちに異様な印象を与えるのは、彼女が完璧にみずからの顔をコントロールしているからであり、着ぐるみのウサギが両手をだらりと垂らして歩き出すときの不気味さは、見る者に内面を想像させる身振りの支えを失うことで、着ぐるみ本来の無表情があらわになるからである。
「名前はまだない」――『VIDEOPHOBIA』に登場する最も謎めいた人物は、クラブで愛に名を訊かれて、そう答える。この返答がとても気に入ったらしい彼女は、そのあとこの男の部屋に行き、一夜をともにするのだが、数日後、自分の性行為の動画がポルノサイトにアップされていることを発見する。愛は男のもとを訪ねて問い詰めようとするが、男にはまったく悪びれるそぶりがない。少なくともこの時点ではまだ、観客もこの男が隠しカメラで撮影したのだろうと考えている。しかし次に別の動画がアップされているのを愛が見つけるとき、私たちの確信は揺らぎはじめる。というのも、その映像は手持ちのカメラで撮影されており、二人の姿を間近から映しだしているからである。これは誰が撮影したのか? 結局、男は名前を名乗らぬままに姿を消し、不気味な声だけが彼女のもとに残される。
遅くとも手持ちカメラで撮影された2つ目の動画の出現とともに、私たちは、暴力の源泉がこの男にではなく、映像そのもののうちにあることに気づきはじめる。その映像はそれを見る者の欲望によって駆動されており、あの男はその欲望のエージェントに過ぎなかったのだ。それと同時に主人公も観客である私たちも、すでにその映像の暴力の共犯者であったことも明らかになる。たとえ主人公のバイト先のシーンで挿入される、暗闇を背景にした真白なフクロウのショットが、『狩人の夜』におけるリリアン・ギッシュの台詞(It’s a hard world for little things.)を思い起こさせるとしても、主人公は純真無垢な犠牲者ではありえない。なぜなら、ポルノサイトのユーザーであったからこそ、彼女はあの動画を発見できたのだから。そして、私たちがこの映画で最初に見るのは、モニターの表面にみずからを映し出し、男の声に指示されるままに自慰行為をする彼女の姿であった。私たち観客はすでに最初から、欲望に駆動された映像を見る者の位置に置かれていたのだ。この映画が描く世界には外部など存在しないように感じられる。
ヴィム・ヴェンダースはかつて、「映画においては任意の映像をただ配列するだけで、ただちに物語が起動してしまう」という趣旨のことを苦々しく述べたことがあった。映画では、まったく無関係な2つのショットが編集によって並べられるだけで、じつに容易に現実にはありもしなかった脈略が作り出されてしまう。観客はそれらがどんなにかけ離れたものであろうとも、2つのショットのあいだに積極的に関係を作り出し、物語を読み取ってしまう。そこに成立するのは、一人一人の観客が脳裏に作り出すもうひとつの映画だ。『VIDEOPHOBIA』は、映画のそうした根源的事実に立ち返る。この作品は、映画が本来無関係なバラバラなショットの集積であることを隠そうとしない。むしろそのバラバラな映像が観客の脳裏に作り出す「もうひとつの映画」の可能性に賭けている。それがこの映画の最後の10分間に試みられている事柄である。無関係な2人の女のあいだに関係を作り出すのは観客であり、それが成就するときにのみ、出口のない地獄のように思えた世界のうちに救済の可能性が開かれる。『顔のない眼』と『獣の血』を結びつける屠殺施設内の手術室のシーンを経て、私たちは見知らぬ女の姿を見ることになる。彼女は、愛がしていたのと同じように、夜、外気に当たりながらタバコを吸う。すると、あのマンションの部屋でも起こったように、男が暗闇から女に声をかける。それから2人は食事をして、コンビニでアイスを買い、あのマンションでも男女がそうしていたように、唇を重ね、身体を絡ませる。朝、女は起き上がり、鏡を見つめる。まず鏡に映った女のイメージが示され、つぎに鏡を見つめる女の顔に切り返される。観客がかすかな不安を読み取るその瞬間、男の手が現れ、女の肩に優しく触れる。女は振り返り、フレーム外に視線を投げる。観客の脳裏に生み出されるもうひとつの映画では、主人公は救済されるのかもしれないし、されないのかもしれない。ひとつだけ確かなのは、もし救済がありうるとすれば、それは外科手術の奇跡のうちにではなく、別々の身体に属する肩と手が触れ合うことのうちに、すなわち2つの表面の出会いの奇跡のうちに見いだされるということである。
VIDEOPHOBIA
ヴィム・ヴェンダースはかつて、「映画においては任意の映像をただ配列するだけで、ただちに物語が起動してしまう」という趣旨のことを苦々しく述べたことがあった。映画では、まったく無関係な2つのショットが編集によって並べられるだけで、じつに容易に現実にはありもしなかった脈略が作り出されてしまう。観客はそれらがどんなにかけ離れたものであろうとも、2つのショットのあいだに積極的に関係を作り出し、物語を読み取ってしまう。そこに成立するのは、一人一人の観客が脳裏に作り出すもうひとつの映画だ。『VIDEOPHOBIA』は、映画のそうした根源的事実に立ち返る。この作品は、映画が本来無関係なバラバラなショットの集積であることを隠そうとしない。むしろそのバラバラな映像が観客の脳裏に作り出す「もうひとつの映画」の可能性に賭けている。それがこの映画の最後の10分間に試みられている事柄である。無関係な2人の女のあいだに関係を作り出すのは観客であり、それが成就するときにのみ、出口のない地獄のように思えた世界のうちに救済の可能性が開かれる。『顔のない眼』と『獣の血』を結びつける屠殺施設内の手術室のシーンを経て、私たちは見知らぬ女の姿を見ることになる。彼女は、愛がしていたのと同じように、夜、外気に当たりながらタバコを吸う。すると、あのマンションの部屋でも起こったように、男が暗闇から女に声をかける。それから2人は食事をして、コンビニでアイスを買い、あのマンションでも男女がそうしていたように、唇を重ね、身体を絡ませる。朝、女は起き上がり、鏡を見つめる。まず鏡に映った女のイメージが示され、つぎに鏡を見つめる女の顔に切り返される。観客がかすかな不安を読み取るその瞬間、男の手が現れ、女の肩に優しく触れる。女は振り返り、フレーム外に視線を投げる。観客の脳裏に生み出されるもうひとつの映画では、主人公は救済されるのかもしれないし、されないのかもしれない。ひとつだけ確かなのは、もし救済がありうるとすれば、それは外科手術の奇跡のうちにではなく、別々の身体に属する肩と手が触れ合うことのうちに、すなわち2つの表面の出会いの奇跡のうちに見いだされるということである。
VIDEOPHOBIA
2019年 / 日本 / 88分 / 監督・脚本:宮崎大祐 / 出演:廣田朋菜、忍成修吾、芦那すみれ、梅田誠弘、サヘル・ローズほか
10月24日(土)よりK’s cinema、11月7日(土)より池袋シネマ・ロサ、第七藝術劇場、他全国順次公開