- 映画
- 2025年6月30日
潜行一千里 ILHA FORMOSA編 第17回
空族の連載「潜行一千里 ILHA FORMOSA編」第17回はトラツキからの報告です。通訳のアランさんと花蓮県の光復郷で待ち合わせ、翌日にタパロン部落に日本語話者の張さんと面会した一行。その後に、海沿いを走り、山を越えて、1930年に霧社事件が起こった南投県へ潜入調査へ。現地ではセデック族のDJラブさんの案内で弓矢の道場主や口琴の師匠、ラブさんのスタジオなどを訪れています。
カーツヤとセデック族DJラブくん モーナ・ルダオ抗日英雄碑前にて
文・写真=空族
トラツキからの報告
2022年8月
隔離期間を終えて我々は今日から合流する通訳のアランを出迎えるためにタパロン部落から最寄りの光復郷駅で彼の到着を待っていた。しかし予定の時間を過ぎても一向にアランはあらわれない。あれ? どうしたものかと困惑しているうちにアランから「いま花蓮駅です。次の電車に乗ります」との一報が入った。花蓮県の中心街である花蓮駅から我々のいる光復郷駅まではけっこう遠いので我々はとりあえず駅前のそこそこ大きい生活用品店で時間をつぶすことにした。思えば隔離期間中に物資の補給(買い物)もできなかったので各人でゴミ袋や洗剤、ビーチサンダルの物色などを行うことにしたのだ。ヤンGはすかさず店の片隅でホコリを被っているCDの物色を始め、MMMは店のオバチャンに頼んで部隊の燃料でもあるポリタBを隠してある棚から出してもらってゲットしている。カーツヤは真剣な眼差しでビーサンを選んでいる。(カーツヤは知る人ぞ知るビーサンマスターなのだ)知らない国や土地に来て地元の生活雑貨、用品店をディグるっていうのは実は最高の楽しみのひとつだよな、と私が感慨にふけってお土産用の誰も買わないキーホルダーを探しているとアランから到着の連絡が届いたので我々は光復郷駅に向かった。
「すいません、遅れてしまって。花蓮駅から光復郷駅までの接続を誤りました」
と低い声でアランが言う。アランとはオンラインミーティングで数回話しているが実際に会うのはこれがはじめてだった。アランはお父さんが日本人でお母さんが台湾人のハーフで、中学生までは八王子辺りに住んでいたそうだ。そのころに流行っていたハイ・スタンダードやモンゴル800などのパンク・ロックに影響を受けて台北でもインディーズのパンクバンドをやったりしながら日本語の通訳やオンラインの日本語の講師などをアルバイトでやっているとのことだった。原宿の老舗のロックンロールブランド「クリームソーダ」が好きだと言っていたので私はお土産に持参していたドクロのバンダナをアランに手渡した。アランはとても喜んでバンダナに印刷されている文字を読みながら
「ありがとうございます!“Too Fast To Live Too Young To Die”いいですねえ!」
と嬉しそうに笑った。
「アランさん、それじゃあコンビニで飲み物でも買ってアジトに帰りましょう」
とリュウが近くのセブンイレブンに入ろうとするとアランが
「いや、セブンは石屋なので私は入れないんです。向こうにあるローソンに行きましょう」
と歩いて行ってしまう。
「え? 石屋? それって‥•」
キョトンとした顔で振り返るリュウに、私はしばし黙考したのちに
「‥•イルミナティってことだね。ま、そういうことです」
とニヤリと笑って返すしかなかった。そういえばオンラインミーティングの時に洪門や三合会などの秘密結社の陰謀話をこちらが聞いてもいないのにアランはやたらと詳しく説明してくれていたことを思い出す。リュウもわかったらしくニヤニヤしながら答える。
「そうですよね‥•まあなんかー、楽しくなりそうですね!」
翌日、我々はアランと共にタパロン部落の学校の前にある雑貨屋さんのお婆さんが日本語を喋れるというので話を聞きにお邪魔することとなった。お婆さんの名前は張さんといい、日本統治時代に日本語教育を受けて八歳の時に太平洋戦争がはじまったのだと言う。張さんはとても上手な日本語で
「わたしは台湾の人(本省人)。あの頃は近所が広東語を喋る人たちだったら広東語を喋って、福建語を喋る人たちだったら福建語を喋っていたよ。今は子供たちとは北京語で話す」
「わたしも二・二八事件(第12回参照)の家だよ。夫が外省人と仲が悪くて。殺された人たくさんいる。夫は捕まって5年間牢屋にいれられていたよ」
「そんなに! どうしてまた?」
「政治だよ。夫は台湾の人だから政治を大陸の人にさせたくなかったの」
張さんは少し前に転倒してしまって、ここ最近はずっとベッドの上で過ごしているらしい。日本人の我々にぜひ見せたいものがあると、傍らにある戸棚の引き出しを開けてくれと言うので開けてみるとそこには日章旗や菊の紋章が入った『終戦の詔』『海軍精神』など、かつて大日本帝国時代に台湾で配布されていたであろう古ぼけた冊子のコピーが入っていた。張さんは16歳になった時に終戦を迎えたそうなのだが当時の日本の教育に対しては厳しかったけど感謝していると言った。不撓不屈、忠勇無双などの勇ましい文言で埋め尽くされたそれらの冊子は我々にとっては遠い日本の軍国主義時代の遺物にしか見えなくとも、おそらくそれは張さんの青春であり人生の美しい思い出そのものなのだ。なんとも複雑な気持ちでいる我々に張さんは
「そうだ。安倍元総理の事件、とてもお悔やみ申し上げます。ちょうどあの日にわたし転んだんだよ! それからずっとベッド。足はなんともないんだけど腰がね。まだ立ち上がれないんだよ」
そう、我々が台湾に第二次先遣隊に向かう直前の7月8日、岸信介の孫である安倍晋三元総理が奈良で暗殺された事件が起こったのだった。
翌日、我々は待ちに待ったロング・レンジ・パトロールに出発する気概に燃えていた。セデック族であるヨグ・ワリスとの交渉は止まってしまっているが今回の旅においてセデック族の住んでいる南投へは是非とも行かなければならなかったからだ。これまでも幾度か紹介していて隔離期間中にも観た映画『セデック・バレ』で描かれた大規模な抗日反乱闘争である“霧社事件”が起こった土地、それが南投だからだ。そして現在我々が居る花蓮から南投までは、台湾の中央にそびえる3000メートル級の山々を越えて行かなければならない。最短の道は花蓮の有名な観光地でもあるタロコ渓谷(2024年の地震で大きな損害を受け、現在復旧作業が続いている)を越えるルートなのだが、通行時間帯が規制されており途中のゲートが閉まっている場合もあるという。ネットで調べてみてもイマイチわからないし我々は得意の“当たって砕けろ”作戦でとりあえずタロコ渓谷越えのルートを選択することにした。観光地然とした渓谷入り口を抜けるとほどなくして雄大な渓谷が我々の前に姿を見せる。タロコの岩盤はなんと大理石で出来ているので真っ白な、まるで中国の水墨画の中を走っているような気持ちになる。その後、ひたすら山道を登って数時間経ったころに対向車やバイクがすれ違う我々の車になにやらハンドサインを送ってくるので車を停めて聞いてみるとどうやらその先の南投まで向かう道のゲートが閉まっているとのことだった。愕然とした我々にアランが
「大丈夫です。こうなったらいったん山を降りて海沿いのルートを廻って南投まで行くしかないですね」
とロートーンの声で言う。いつものことではあるがこの作戦は近道を行こうとすると結局遠回りになる。決して勧められたものではないが、タロコの美しい大理石の渓谷を観れただけでも良しとするしかない。アランが
「そうです。素晴らしい場所じゃないですか。花蓮に来たらとりあえずタロコ渓谷には行ったほうが良いんです。ここからは私がナビします」
「そうだよね。ありがとうアランさん!」
山越えのルートを断念して台湾島を海沿いの道を半周して反対の西側より南投に入る。我々の乗った車、ヒュンダイのスタレックスはひたすらに走り続けた。花蓮を早朝に出発したにもかかわらず南投までの最後の難関である山越え(これまた3000メートル級の山!)に入ったころには辺りは真っ暗になっていた。アランがグーグルマップを見ながら
「大丈夫です。あと3時間で着くでしょう」
と言ってから、かれこれ4時間以上走っている。
「あ! 間違えました。さっきの交差点を左でした」
「あ! すいません、左じゃなくて真っ直ぐで正解でした」
とアランがルートを修正して指示を出してくれるのだがどうにもさっきから同じような道を行ったり来たりしているような気がする。私もアランが台湾に住んでいるとはいえさすがにこんな山奥の道は初めてだからしょうがないよね、でもグーグルマップでナビしていてアンテナも立ってるんだけどな? と思っているとMMMが困った顔をして
「虎さん。俺、なんかおかしいと思ってアランさんのスマートフォンのグーグルマップ覗いてみたんですけど‥•オフラインになってるかもしれません」
「え!?」
まさかと思ってアランに
「アランさん、まさかグーグルマップがオフラインになってない? それじゃタダの地図で自分たちが居る場所がわからないと思うんだけど‥•」
と聞いてみると、アランは確信に満ちた顔で
「そうなんです。グーグルに我々は見張られているので私は常にオフラインにしています。気付かなかったんですか? 山道に入る前に2台ほど政府の車が我々の車を尾行していたんです。大丈夫です。彼らも諦めたようですね」
とロートーンの声で答えた。
おおいにズッコケた我々は、以後MMMが助手席に座りオンラインのグーグルマップを駆使して最後の難関である山を越えたのだった。そして我々が一番驚いたのは3000メートルの標高に車が通れる道が存在し、その道をスクーターに乗った若いカップルがどんどん登ってくることだった。山頂がデートスポットなのはわかるが平地との気温差は20℃以上。まるで富士山をスクーターで登っているようなものだ。薄手のジャケットとビーチサンダル姿で笑っているカップルたちを見ながらセデック族はかつて我々がラオスで出会ったモン族と同様にまさに“山の民”なのだと私は確信した。そしてこの山深い土地で霧社事件は起こったのだった。
霧社事件は昭和5年(1930)に起こったセデック族による大規模な抗日反乱事件である。日本が統治していた台湾総督府はそれまで原住民が狩猟や焼畑農業を行っていた山林を地主がいない土地として国有化することを強行した。自分たちの狩り場を奪われたセデック族に対して総督府は「威嚇して後撫すべし」という“理蕃制度”を導入し、山々をとりあげたあげくその森林資源の伐採の労働力としてセデック族を苛酷な労働に従事させたのである。さらには“理蕃警察”と呼ばれる原住民への生殺与奪の権限を持つ武装警察を各所に配置して監視し管理する政策をとったのだった。それでもセデック族は我慢して聖なる山より切り出された丸太を安い賃金で運んでいた。伐採事故で命を落とす者も数多くいたがその補償もほとんど支払われなかったという。そんなおり、マヘボ社の頭目であるモーナ・ルダオの長男であるタダオ・モーナが理蕃警察の警察官を酒宴の席に誘ったところ警察官がそれを拒否、酒を持ったタダオの手を「汚らわしい!」と言ってステッキで叩くというトラブルが起こる。酒を勧めることは原住民にとっては最大の敬意であり、それをこのような形で断られるということは最大の侮辱を意味した。怒ったタダオは警察官を殴打しケガを負わせる事件に発展してしまう。この事件を機にそれまで我慢に我慢を重ねていた頭目のモーナ・ルダオは武装蜂起を決意するのである。(以後、戦闘の詳しい経緯は映画『セデック・バレ』で描かれているのでぜひ観ていただきたい)
霧社事件の結末は凄惨なものとなった。各地の警察番所を襲撃したモーナ・ルダオ率いるセデック族は、蕃賊制圧に派遣された日本軍、台湾総督軍に対してゲリラ戦を展開するも大砲や航空爆撃機、毒ガスなどの近代兵器を駆使した正規の軍隊に対してなす術もなかった。タダオ・モーナは戦闘に敗れ自死し、モーナ・ルダオもいったんは逃げ延びるが深い山中で自死した。さらには同じセデック族の中でも日本軍に味方した部族もいてセデック族同士がお互いの首を狩り合うといった悲劇(第二次霧社事件)も起こったのである。このことは現在まで後を引く抗日派vs新日派といったセデック族の各部族に断絶の遺恨を残すことになったと言われている。
深夜に南投のゲストハウスに到着した我々はボロ雑巾のように眠りについた。次の日、リュウが台湾に潜入していた時の友達のツテでひとりのセデック族の若者が待ち合わせの台湾料理店にあらわれた。彼の名はラブくんといってトランスのDJをやっているらしい。外見はスキンヘッドで身体にはタトゥーが入っているイカツい風貌なのだが物腰はとても柔らかく、我々をセデック族の知り合いのおじさんが弓矢の道場をやっているというので案内してくれることになった。かつてセデック族の男子はジャングルの中で狩りをして獲物を取ってくること、そして敵の首級をあげる“出草”を経てはじめて一人前の男、戦士として認められたという。道場を運営している蔡さんはニコニコしながら映画『セデック・バレ』の撮影時にはスーパーバイザーとして参加して実技指導もしたんだよと話す。弓を引いてみろと言うので我々も弓矢に挑戦したがこれがなかなか難しい。力任せに弦を引いても腕が震えて照準が定まらない。蔡さんは笑いながら横にいた友人に
「おい、手本を見せてみろ。彼はね、去年の弓矢の大会で優勝してるんだ」
と弓矢を渡す。友人はうなずいて流れるような所作で弓矢を構えると一発で的のど真ん中を撃ち抜く。我々が歓声をあげると
「今でもときどき狩りに行くよ。イノシシなんかは一発で仕留めないと危ないからな」
と笑う。テーブルに並べてくれたセデック族の山刀を見ながらカーツヤが質問する。
「昔の話で恐縮ですが、この山刀で“出草”(首狩り)をしていたんですか?」
「そうだね。首を斬るときは一太刀、一太刀で落とした。ただ昔の山刀はもっと長かったけどね」
と蔡さんは太刀を振り下ろすしぐさをして誇らしげに笑う。そこにはなにか清々しい空気が流れていた。戦前の日本では台湾原住民のことを野蛮な首狩り族として見せ物的に宣伝していた時代もあったという。霧社事件が起こったのちに、この反乱事件を重く受け止めた日本政府はそれまでの「生蕃」という差別的名称はよろしくないとの秩父宮親王の要請によって原住民の呼び名を「高砂族」という名称に変えたのである。もちろんヨーロッパ人や漢人たちも原住民を化外(けがい)の地に生きる野蛮な部族として見下していた歴史がある。首狩り族と言って原住民をバカにしていた日本人たちは自分たちも太平洋戦争まで首を斬ったり自分の腹を斬ったりしていたことを完全に忘れたつもりなのか? 私の頭の中で三島由起夫がこう付け加える。
「では野蛮とはいったい何か? 一人前の戦士になるために首を狩ること、恥辱を注ぐために自ら腹を斬ることが野蛮なのか? そうではない。野蛮とは科学の発展と称して原爆を造り落としたり、絶滅収容所で化学の粋をつくしたガス室を造ったり、お偉いさんがシステマティックに作戦を立案し未来ある若者を特攻攻撃させたり、食料を断ち飢えに苦しむガザの人々を爆撃して追い出すことを指すのだ」
弓道場をあとにした我々は、ラブくんが最近教えをこうている口琴の先生の所にお邪魔することとなった。セデック族は深い山々でお互いにコミュニケーションを取るために口琴を鳴らしたという。先生は我々の前で見事な口琴の演奏を見せてくれる。ビヨンビヨヨンと空間を揺らしながら響くそれらの音はまるで宇宙と交信するために編み出された技術のようにも聴こえてくる。日本においてはアイヌ民族に口琴の文化がありアイヌの山刀もまたセデック族のものと瓜二つである。やはり繋がっているのだ。ラブくんも口琴をビヨヨンと鳴らしながら
「僕はまだまだ口琴をちゃんと鳴らせないんだ。それぞれの音と旋律に意味があってセデックは口琴を使って、こっちに獲物が居るとかその先は危ないとか会話が出来たんだよね。僕はこれからセデックの文化をいろいろ学んで自分の音楽に生かそうと思ってるんだ。そうすれば僕もきっと虹の橋を渡ることができる」
セデック族では男子は敵の首を狩り狩猟で獲物を得ること、女子は機織りの技術を習得することが一人前の人間になることであり、顔に刺青を入れることが許された。そして刺青の入った大人としてこの世で善行を積んだ者は山々にかかる虹の橋を渡って先祖たちの祖霊が待っている天の国へ行くことができるのだ。
ラブくんと口琴の先生のアトリエで昼食を済ませた我々は、いよいよ連絡の途絶えてしまったヨグ・ワリスの村落へと車を走らせた。彼女に会えなくとも南投まで来たのだから彼女の生まれ育った村を一目見てみたいと思ったからだ。ラブくんにヨグ・ワリスのことを知っているかと聞くと
「会ったことは無いけどもちろん彼女のことは知っているよ。いい音楽だよね。ただ彼女の村は霧社事件の時の抗日派だったからどうなんだろう? もしかしたらまだ日本人に対して良い印象を持っていない人も居るかもしれない」
「ラブくんの所は?」
「調べてみたら僕の部落は新日派だったみたい。今は時代も進んでそこまでじゃないと思うけど昔はお互いの部落同士で仲が悪くて口も聞かないぐらいだったそうだよ」
その話を聞いて本当に申し訳ない気持ちになってしまった我々の眼の前に雄大な茶畑があらわれた。高地である南投も台湾屈指のお茶の名産地なのだ。見下ろす山々の斜面に緑色に彩る茶葉の海が広がっている。規模は違えど我々にとっても茶畑の風景は懐かしいものだ。ヨグ・ワリスの村はそんな茶畑の中にあった。村に入ると中央に小学校があって校庭では数人の子供たちがバスケットボールをして遊んでいる。この日は休日だったので他の生徒たちの姿は見えない。校庭の壁には虹の橋やセデック族の紋様が描かれている。部外者でありしかも日本人である我々はなるべく失礼の無いように通り過ぎる村の人たちに会釈をして歩いているとラブくんが
「そうだ! 誰かにヨグ・ワリスの家がどこにあるかを聞いてみよう」
と言うので
「いやいや、俺たちはここまで来ればもう充分だよ。まさか実家にまで押しかけるわけにはいかないよ。ヨグさんにもいろいろ事情があって(連絡が途絶えた)のことだと思うし‥•」
「大丈夫だよ、聞いてみよう!」
とラブくんは村の人にヨグ・ワリスの消息を聞きに行ってしまった。すいませんヨグさん、あなたの村まで来てしまって我々は決してストーカーじゃないんです、と心に言い聞かせているとラブくんが戻ってきた。結果としてヨグ・ワリスは既に台北に戻っていて村には居ないとのことだった。ああ良かった、じゃなくてスミマセン、いやそれも違う、などと心の中で謎の葛藤を起こしている我々に山仕事を終えた村のオバチャンたちが話しかけてくれた。
「あんたたち、何やってるの? へえ、日本から来たのかえ。それはそれはこんな所まで」
「それビデオカメラなの? なら奇麗に撮ってくれる?」
「何言ってるんだい。こんな私らみたいなババア撮ったってしょうがないよ、あははは」
オバチャンたちはお互いに冗談を言い合って笑いながら、我々のために今から歌を歌うからそれを撮れと言う。ひとりが手拍子を始めるとすぐさまひとりが調子を合わせて歌い始める。オーイヤーホー、と歌は山々に向かって放たれてこだまとなって帰ってくる。最後には山仕事で使っていたのであろう三角コーンを持ち上げてラッパのように山に向けてオバチャンたちの歌は大団円を迎えた。少なからず緊張していた私の心はこの歌によって洗われたような気持ちになった。カメラを覗いていたMMMとマロも満面の笑顔でうなずき、録音をしていたヤンGも良い音が撮れたとグッドサインを送る。カーツヤもリュウも素晴らしい歌を披露してくれたオバチャンたちに心から拍手喝采を送ったのだった。
夜になって我々はラブくんが曲を作ったりDJをしたりできるスタジオにお邪魔した。スタジオにはたくさんの観葉植物が置かれオーガニックな雰囲気に満ちている。
「これですよ! 前にTik Tokで観たラブくんのスタジオ。ラブくんはDJしながら草木に水をあげてました。そんなDJ見たトキないっすよ」
リュウが嬉しそうに笑うとラブくんがターンテーブルに手をかける。トランスDJであるラブくんの手には孫悟空の刺青と漢字が彫ってある。私は彼のDJプレイを聴きながら昼間に我々のインタビューに答えてくれたラブくんの言葉を思い起こす。
「僕の音楽は現代のシャーマン、陰陽師のようなもので皆を愛と平和の周波数に調整するためのものです」
ラブくんが草木に音楽を聴かせながら水をあげはじめる。その目は真剣そのもので何種類ものジョウロや霧吹きを使いながら丁寧にそれぞれのプラントに水をかけていく。ラブくんのふくらはぎには“宇宙無敵”と彫られている。緑に包まれたスタジオでラブくんは毎日こうやって草木とともに宇宙と繋がり、音楽で交信しているに違いない。ひとしきりDJプレイを堪能したあとにお腹がすいたので街中にあるラブくんの漢人の友達がやっているというハンバーガーショップに行った。店の看板には「埔隆宮」と書かれておりアメリカンなハンバーガーショップの感じと中華のデザインが融合されたイケてる店で、地元の若者がテイクアウトのハンバーガーを買いに訪れている。若い陽気な店長さんが我々を歓迎してくれる。北京語が多少話せるマロが店長に
「この埔隆宮って店の名前には何か意味はあるんですか?」
と聞くと店長はよくぞ聞いてくれたと笑いながら
「埔隆宮って有名な寺院があるんだけど、そこは昔から不良やロクデナシが集まって祈りを捧げることで新たな道が開けるっていう言い伝えが有名な寺院なんだ。だから拝借した。俺たちにピッタリだろ?」
とウインクする。おお〜! と我々もハンバーガーを頬張りながら感心しているとヤンGが持参してきていたワンメコン新聞(OMKが発行しているアジア音楽&文化のZINE)を取り出して店長にプレゼントする。ヤンGが英語でタイやラオス、カンボジア、インドネシア、フィリピン、韓国、そして台湾など自分たちが現代のリアルなアジアのディスコミュージックを掘り、追っていることを伝えると
「やべえ! 超クールじゃん!」
と店長は食い入るように新聞を見つめている。ラブくんも友達と一緒に楽しそうに笑っている。やっぱりコレだな。我々は南投でも辿り着くべき所に辿り着いた。ヨグ・ワリスには会うことが出来なかったがかつてこの地で大きな過ちを犯した日本人の末裔である我々に、南投の人々は大いなる優しさを持って迎え入れてくれたのであった。
オーヴァー。
空族
“作りたい映画を勝手に作り、勝手に上映する”をモットーに活動を始めた映像制作集団。毎回、常識にとらわれない長期間に及ぶ独特の映画制作スタイルをとり、作品ごとに合わせた配給、宣伝も自ら行なう。2017年にタイ・ラオスでオールロケを敢行した『バンコクナイツ』(監督・脚本:富田克也、共同脚本:相澤虎之助)が公開。他の近作に『サウダーヂ』(富田監督)、『バビロン2 ‐THE OZAWA‐』(相澤監督)、『チェンライの娘』(富田監督)など、著書に『バンコクナイツ 潜行一千里』(河出書房新社)がある。