- 映画
- 2025年6月5日
映画音楽急性増悪 第68回
虹釜太郎さんによる「映画音楽急性増悪」の最新回は「機動戦士ガンダム」シリーズの中から、ガンダム作品を知らない人たちに向けて選んだ3作について書かれています。
第68回 強化
文=虹釜太郎
「パイロットはもう必要ないんだ」
「魂が実在して、サイコフレームへ移し変えられるなら、死は終わりではない」
「任務? 任務とは何だ?」
なんて言葉が放たれるのが当たり前のシリーズ。
アニメをかなり観ている人でも、ガンダムは最初に何を観ていいかわからないからガンダム作品は実はひとつも観ていないという人も。
今回は普段ガンダムをまったく観ない人こそ観たらおもしろいかもなガンダム映画についてかなりの初心者目線から。
ガンダムフリークでもアニメ好きでもなんでもないわたしにできることはない。
ガンダムをまったく観ていない人間でもミノフスキー粒子については知っているだろうけれど、ニュータイプ、強化人間、イノベイター、コーディネイター、エルドリッジ・システム、インテンション・オートマチック・システム、マンハンター、宇宙移民法、宇宙世紀…については…でもそんなものは観はじめてしまえば…と言うかよりそんなことにやたらに詳しくなり続けることに意味があるのか…
ガンダムマニアは『閃光のハサウェイ』を30回以上観ていて、その観察力は恐ろしく(マンハンター比べ、公共の場でドリンクを飲めないハサウェイ、音速突破ガンダムの光る描写、ガウォーク形態、メッサーとグスタフ・カールの飛行方法の違い、ハサウェイのサインのぶっ壊れ他…)、それには決してついていけない。
『ガンダムエース』(『GUNDAM A』)がまだ廃刊にならないのも改めてすごい。
数は少ないかもしれないが『機動戦士Gundam GQuuuuuuX -Beginning-』が初ガンダムな人もいるかもしれないし、遠い母が渦巻く『機動戦士ガンダム 水星の魔女』が初ガンダムな人もいるかもしれないし、もしかしたら『ガンダムビルドファイターズ』が初な人もいるかもしれないし、ガンダムマニア以外には精神年齢と絵柄の見えない関係について異様に考えさせ続けるかもなさまざまな幼さが木霊する『機動戦士ガンダムSEED FREEDOM』が初めてな人ももしかしたらいるかもだし、任侠が共有された阿頼耶識システムでの逆境無理駆動劇『機動戦士ガンダム 鉄血のオルフェンス』やすべてのガンダムの遺物が眠る『∀ガンダム』が初な人も…きりがない。
『ラル飯ランバ・ラルの背徳ごはん』を読んでいる人はもはやガンダム初心者ではないだろうけれど。
ガンダムを観ていて、ずうっとガンダムに抱く疑問点はたくさんあるが、わたしにとっての一番の疑問はほとんどのガンダムで前提となっている宇宙への棄民を可能にした大量輸送の経済的な不可能さで、それは核融合炉ロケットと宇宙エレベータ建設で解決したことになるのか…
貧困と自己責任論のルーツについてガンダムが今後どのような答えを出せるのか否か。ガンダム動画でもそのことを問うものにはいまだ出遭っていない。
わたしがもっとも好きなガンダム映画(ガンダム作品でなく)は『劇場版 機動戦士ガンダム00 -A wakening of the Trailblazer-』。
本作はガンダム好きに評価が高くはないかもしれない。
特にこの映画のラスト16分は好きで繰り返し観ているし思い出している。しかし中盤の兵士たちのあまりにもな離脱多数がガンダム作品自体も総じて否定しているようでおもしろい。
刹那・F・セイエイのあまりにもな暗さ。特に本作の最期でのセイエイはもはや暗いどころではすまない存在に。
戦闘では勝てない。ではどうするか。対話に特化したガンダムであるダブルオークアンタを駆りELS中枢へ(ELSとはExtraterrestrial Livingmetal Shapeshifter、地球外変異性金属体)その場にいないものと語りあいながら飛び込む。対話のための新システムを発動させて…とか言ってるともういいよ…とすぐ離れる人も多いかもしれないが。また本作のExtraterrestrial Livingmetal Shapeshifterを何度も見ていると映画『エイリアン・コップ』(原題『Peacemaker』/ケヴィン・テニー/1990年)を思い出す。特にエイリアンが女性検死官と対話/格闘そしてまた対話しはじめているところのさまざまな間の抜けた感じとかを。俳優たちが無駄にみなむさ苦しいのとあまりに無駄にガラスが割れ過ぎるのもひどい音楽もみな好きだが、あまりにも間抜けな宇宙生命体… それと先行きの不明なロマンスの無謀な合体。
わたしはガンダム作品のほとんどはかなり間の抜けたところばかりだと感じてしまうのだけど、『劇場版機動戦士ガンダム00 -A wakening of the Trailblazer-』はその間の抜け方がすさまじい。本作はいままでのガンダム作品を全否定するかのようなところも。
これだけガンダムシリーズがかなりの長期間持続していても、それでもなおそもそもガンダムを観ること自体をはなから諦めてしまってる人が実際には世界にはあまりに多いのではないかと。
ガンダムについての動画は無数にある。
けれどガンダムを観ることをはなから諦めてしまってる人にもっともお薦めと思える動画は何だろうと。さまざまなガンダム完璧初心者に向けた動画が存在している。
いろいろ見続けてオススメはいったいどれだと悩んだ。
わたしにとってそれは「本郷奏多の日常」チャンネルの「機動戦士ガンダムUCが観たい人のための予習動画」ではないかと。この29分の動画はガンダム・ユニコーンを観るための予習動画とのことだけれど、宇宙世紀ガンダムを観るためのものとしては貴重な。というのはこの短い動画はあまりにも多くの省略を大胆にしているから。この省略というのは実際はかなり難しいと思う。
本郷奏多は俳優としてもおもしろい存在だけれど、ガンダム紹介者としてすばらしいなと。ガンダムについて語れる評論家はたくさんいるけれど、多くの人には彼のような紹介は無理っぽい。
本動画は宇宙で暮らす普通の人たちの話もしている。
宇宙移民たちとサイドの歴史について詳しい「機動戦士ガンダム~宇宙世紀の歴史完全解説~」や、「アニメで放映されたガンダム作品の歴史」や「ザビ家の歴史」、「機動戦士ガンダムの前日譚ガンダム大地に立つ!!に至るまで一年戦争」、「悲惨な過去と、最悪の結末…ガンダムシリーズ強化人間の歴史と末路を辿ってみた」、「強化人間だけの合コンにありがちなこと」、「富野ガンダムとUCのニュータイプ論は何が違うのか」、「総集編主役ガンダムたちの歴史!宇宙世紀ガンダムの歴史・系譜」(2時間46分)など各自いくらでも好きなだけ見ればいいけれど、ガンダムに詳しくなくて最初の一本なら本郷奏多のが。あと解説動画もあまり見過ぎると萎えてしまうことも。「ゆっくり機動戦士」も「eyes only」も「ゆっくり宇宙世紀」も楽しいけれど。かと言ってファンネル搭載がどうとかサイコミュ搭載がどうとかばかり言ってるとガンダムを初めて観る人はまったくいなくなってしまうだろうと。個人的にはそれらにあまりに詳しくなることに興味はないのだけれど。
今回はガンダム映画の中でわたしが特に記憶に残っているものの中で、普段ガンダムを観ない人にもいいかもしれないものについて。
モビルスーツに対する知識もないわたしはガンダム自体について語ることはできない。ガンダムに興味がない、またアニメ自体にもまったく興味の無い人間でも、この観点からならガンダムを観ることができるかも…ということについて…それは難しい。本郷奏多の省略する力は改めてすごいなと。
どう書こうがマニアからしたら到底納得できないだろうし。それでもかなり悩んだ末に3本のガンダム映画を選んでみた。
『機動戦士ガンダムNT』(英題『MOBILE SUIT GUNDAM NARRATIVE』/吉沢俊一/2018年)
音楽は澤野弘之。
宇宙世紀ガンダムの完全新作劇場映画としては『機動戦士ガンダムF91』以来27年ぶり。
奇蹟の子供たち3人がモビルスーツ同士の闘いの最中で何度も映されるが、音としては3人の子供たちの声優への違和感が強い。だがその違和感がよい。
奇蹟の子供たち3人が主役のようだけれど、真の主役はゾルタン・アッカネンにどうしても思えてしまう。
音楽も音響もゾルタン周りのシーンがもっとも熱い。
映像でもっとも見るべきシーンもゾルタンの"手揉み"シーンと幼少期のゾルタン。マシーンでマシーンを操ってるだけだーと言うゾルタン。
また本作はリタ・ベルナルの話でもある。
原作は小説『不死鳥狩り』。
NTとは「ニュータイプ」と「ナラティブ」。
ニュータイプについての再定義は、ガンダムを観た人が、ガンダムから離れていろいろ勝手に考えることが多いと思う(ガンダムマニア以外は)。
そのガンダムから離れてニュータイプについて勝手に考える、ということが、ガンダムを観ない人間がガンダムを観てもいいんだということに繋がるところだと思う。
わたし自身もガンダムのことをすっかり忘れてニュータイプと強化人間という2つのことについて、ついついぼんやり考えてしまっていることがたくさんある。特に強化人間については、ガンダム好きもあまり関心はないかもしれないが、わたしにとってはかなり切実な。
というのは強化人間は、労働ということ、そして予期せぬ発病ということらについてかなり強く考えさせる設定だから。さらには洗脳について、教育環境、特にそのひどさらについても。
フォウ・ムラサメ以外のマリーダ・クルス、カロッゾ・ロナ、ギュネイ・ガス、ファラ・グリフォン、カテジナ・ルース、マシュマー・ゼロらの強化人間だけのストーリーがアニメでなくても再度まとめられてほしい。けれどギュネイ・ガス、カテジナ・ルースなどは決して主役級でまとめられることは無さそうである。でも気になる、他の強化人間たちが。ファラ・グリフォンだけの話なども観たい。
スーパーサイコ研究所のみが舞台のアニメ作品などが作られたらいいのだけれど。
強化人間をメインでとりあげたガンダム作品も今後何度も創られると思いたい。
どうしたら世界から戦争をなくせるかについてはそれに対しての仮初の答えとしての機体もガンダムは一時的にだが生み出してきたが、人間としてニュータイプと強化人間、そしてその両者とどう接するかについて。
その中で強化人間にのみフォーカスしたガンダム作品は無いが、『機動戦士ガンダムユニコーンRE:0096』では、マリーダ・クルスとフル・フロンタルという2人の強化人間の描き方の違いがおもしろい。「死闘、二機のユニコーン」編における強化人間マリーダ、「奪還!ネェル・アーガマ」編における強化人間フル・フロンタル。しかしそのラストは…
マリーダの柔らかさと硬さ、フル・フロンタルの緩さが強化人間のイメージをいくつか変えた。
『機動戦士ガンダムNT』では、人は変わらない、これからも…と叫ぶゾルタンのセリフたちはすべて熱苦しいが、闘いの爆破音にからむ音楽も歌もどれもこれも熱苦しい。けれどそれらの熱苦しさを自動で冷やすかのように何度も挟まれる奇蹟の子供たちのシーンとその時の声たちが印象的。
『機動戦士ガンダム 閃光のハサウェイ』(村瀬修功/2021年)
ガンダムを観ない人にもっとも薦めやすい一本だろうか。いや…
本作ではモビルスーツ同士の闘いは描かれてはいるけれど、本作ではモビルスーツは徹底して蚊帳の外なのだ。
全体像が見えない某怪獣映画のように、本作ではモビルスーツから逃げる、逃げ続けるハサウェイ・ノアとギギが描かれる。そしてそのハサウェイ・ノアの描き方もまた徹底して疎かというか。なのに映像は歴代ガンダム作品の中でももっとも緻密な。
原作は富野由悠季による小説。そしてハサウェイ・ノアはブライト・ノアの息子。
映画の音の魅力はモビルスーツの戦闘音ではなく逃げ回る際の爆破音、破砕音。
反地球連邦組織秘密結社マフティーのリーダーであるマフティー・ナビーユ・エリンにしては映像での彼の声はあまりにか細いが。
また映像ではなぜハサウェイがギギに魅力を感じ続けるのかがわからない。
最初の飛行機内でのギギの描き方は、歴代ガンダム作品内でもガンダムユニコーンのミネバのように高貴なようではなく、カーディアス・バウンデンウッデンの愛人らしさも感じさせながらもかなり不安定なところと一気に無関心になる冷酷さがある。
ごく普通の反応をするような相手とは付き合う気はしないというようなハサウェイの空気がモビルスーツからの疎遠という虚しい全体を作りあげるかのようで、それは歴代ガンダム映画でも貴重な。しかし『閃光のハサウェイ2』以降はわからないけれど。
ケネス・スレッグの冷酷さとあまりに現実的なところとモビルスーツ好きが一作めではしきりに浮いている。ケネスとハサウェイが同席するのもギギがいるからという。
ケネスはハサウェイの正体を見抜くが、ハサウェイがマフティーさえも利用しているかどうかまではいかない。
街中を抜けて海へと歩くハサウェイの空気感が虚しい。しかしそのシーンでの音楽の入り方は観直すと不思議だ。長くそしてかなり暗く悲しい。その暗い音楽はケネスとの別れのシーンから既にはじまっている。長い。空港でのマフティの回線ジャック映像のシーンでだけその音楽は止まるが。その長い暗い音楽はなぜハサウェイがテロリストになったかを考えさせるか。またはハサウェイはマフティーを利用しているだけなのか。テロリストのおかしさについて。
ハサウェイとケネスの人間同士の微細な緊張感の長さは他のガンダム作品ではなかなか見られない。モビルスーツ同士の闘いが短いゆえに(メッサーとグスタフ・カールの飛行方法の違いなど見るべきところはマニアには無数にあるだろうけれど)これらの緊張感はより詳しく。目の中に瞳が無いように見えるというのもあるだろうか。
モビルスーツらの攻撃とかではないところの魅力。言葉で人を殺してしまうことができることについて。
『劇場版 機動戦士ガンダム00 -A wakening of the Trailblazer-』(水島精二/2010年)
刹那・F・セイエイの暗さは極限に達する。でもそれは性格が暗いとか陰キャとか言う決まり文句ではどうにもならないもの。
歴代ガンダムでもっとも魅力的なキャラはシャアだというようなものとは違って、わたしには刹那・F・セイエイこそもっともそうだ。
戦闘では決して敵には勝てないならどうするかについて。
対話。
対話に特化したガンダムという機体をセットするエンジニアの描き方と、孤独に思える刹那・F・セイエイがひたすら語りあいながら進む最終盤の進行。この語りあいが表現自体はさまざまに稚拙なところばかりでも不思議にスムーズに感じてしまうのは音楽が激しいだけではなく、セイエイの冷たさがどうとかが関係なくなるからだろうか。この語りあいのリズムがいい。
ダブルオークアンタという機体の魅力。
Extraterrestrial Livingmetal Shapeshifter、地球外変異性金属体の登場はあまりに別アニメを思い出させるけれど、ELSが出なければダブルオークアンタの活動もなかった。でもその機体は本作で描かれているように簡単では決してないだろうと。
本作の終わり方と『機動戦士ガンダムユニコーンRE:0096』の終わり方、わたしは本作の終わり方の方がしっくり来るけれど。ユニコーンはラプラスの箱の説明とサイコミュとサイコフレーム問題もインテンション・オートマチック・システムも選民思想(選民思想ではない言葉でもう一度考え直す必要が…、ほとんど話題にはならないがリディの存在が最後まで描かれたのも選民思想への抵抗? としても)も置いておいたとしても、改めて観直してみてもやはりフル・フロンタルの最終話での描き方もどうしてもすっきりしない。ユニコーンという機体についてはずうっとマニアたちがいまも議論している。
「ガンダム最強4選を戦わせたら太陽系がダメになった|ELSクアンタvs ユニコーンvs フェネクスvs ターンエー最強は|ガンダムUC|∀ガンダム|ガンダム00|」という動画を見ても何が最強かわからないけれど。
対話モード特化シーン。これは歴代アニメの中でも特に強く記憶に残るもの。寛容という感性を取り戻すことがかなり困難になっている日本人にもアニメかどうかは関係なく観直してほしく。何度観直しても冒頭の劇画調には脱力してしまうけれど、頭から映画自体についての違和感がセリフとして。
脚本は黒田洋介。
黒田洋介の脚本力に改めて注目した人は
1994年の『天地無用! 魎皇鬼』の第2期から2025年の『ヴィジランテ −僕のヒーローアカデミアILLEGALS−』を通して観ている人もいるかもしれない。
闘いでなく対話に特化したガンダム。
闘いをやめさせるための機体。
本作のExtraterrestrial Livingmetal Shapeshifterは無機物と生命の間のミッシングリンクについて考える際にはあまりに単純過ぎる気がするので、本作の続編にも期待したいがそれは創られることはないだろうと。
闘いをやめさせるための機体、と口でひとことで言うのはあまりに簡単でも、それだけを考えていくには商売としてのガンダムはあまりに続かない。そんな無理に真正面から突っ込んだ本作は忘れられない。この機体の開発に成功したという喜びにあふれる冒頭には観直す度に驚いてしまうが(そんな簡単に開発など到底できないとどうしても)。けれどこの世界にいないものたちの力を借りて異星に突入する後半はあまりに無謀過ぎ、そしていままでのモビルスーツ同士の闘いたちすべてを無効化し嘲笑うかのようにも感じさせてしまう兵士たちのあまりにもな離脱続きは何度観てもいろんな突っ込みができておもしろい。本作での歌の使われる箇所も膨大な諦めが何度もよぎっている。多くの命が時間稼ぎに使われていることもたくさん描かれているのが本作だ。本作は歴代ガンダム作品の中でももっとも闘いの高揚感どもからはるかに後退している作品で、それは今後のガンダム作品でも真正面から向き合うことはなさそうに現時点では思えてしまう。
本作を観て思い出す映画は3つある。かなりひどい作品もある。けれどそのひどさは無視できない。一生観ない人も多そうな作品たち。
『囚われた国家』(原題『Captive State』/ルパート・ワイアット/2019年)
『エイリアン・コップ』(原題『Peacemaker』/ケヴィン・テニー/1990年)
『スカイライン−征服−』(原題『Skyline』/グレッグ・ストラウス、コリン・ストラウス/2010年)
『囚われた国家』は、エイリアンが地球を侵略した後の世界が舞台。ELSがその意思がなくても地球を侵略した世界はこうはならないが。無数の金属状の棘を持った異星生命体が冒頭に現れる。けれどエイリアンはほとんど登場しない。シカゴ市警マリガンばかりが映される。また冒頭では日本語を含む各国の音声が流れるが、効果音班はがんばっている。
エイリアン統治下の地球。そこでのレジスタンスの活動が描かれるのだけれど、そもそものエイリアンが見た目は怖くとも恐怖統治があまり描かれず(音楽だけが恐怖統治下世界を現しているような無理が)、新聞に印をつけているような描写や使われている音楽からも、この世界の混乱にはなかなか入り込めず。それでも地球全体が捕虜になってしまう世界を想像する設定はいろいろ考えさせる。監視カメラ映像やアラーム音のような音響や監視ドローンの怖さを現す効果音があるのだが、音はがんばっていても映像としてのエイリアンのぬるさがどうしても気になる。エイリアンというよりシカゴ市警マリガンが映され過ぎるという。ただネットが自由に使えず伝書鳩を使ったり、効果音主体で圧倒的ヒーローがいない荒廃世界の描写は印象的。けれどあまりに荒廃しきっていないのはエイリアンとうまくやっている層が確実にいるからか。本作はSFの皮を被ったあまりに地味なレジスタンス作品だがガンダムの皮を被った作品たちもさらにもっと増えてほしい。
『スカイライン−征服−』は、シネフィルは完全に観ない作品だけれど本作のアホさはすさまじく。宇宙生命体のプラモ感も3部作にわたってすごい。多くの人が途中で観るのを離脱したシリーズかもしれない。でも本作のアホさはガンダムマニアではまったくないわたしにはガンダムSEEDシリーズを思い出させたり。遺伝子調整がされた人類(コーディネイター)を描く絵のおかしさとプラモまんまの映像。デスティニープランのあまりの雑さと絵柄、宇宙生命体の造形の雑さの予想を大きく超える持続。『機動戦士ガンダムSEED FREEDOM』での「こいつの闇は濃過ぎる」というシーンの絵の雑さも忘れられないが。
巨大未確認飛行物体が突然地球にやってきて地上の人間を次々に吸い上げていく世界。かなりやっすい音楽でロサンジェルス上空から。ロスはいったい何度破壊されるのかと。『劇場版機動戦士ガンダム00 -A wakening of the Trailblazer-』と違って人類には反撃するチャンスはある。でも本作に出てくる人類たちはみなあまりにアホに見える。
やっすい音楽過ぎるのと、あまりに青白い光まみれの冒頭により、アホな安心感が超充満。音楽はマシュー・マージソン。
巨獣型エイリアンによる捕食具合がひどいが、ガンダムと違ってその捕食と捕獲の具合は海月型、巨獣型、蛸型とタイプにより異なり、その詳細が本作ならではなのだけれど、映る人類たちがみなあまりにアホくさくてぐったりさせられるようだが、そんな時もないままに次々と捕食される。
まともな人間ばかりではない地球についてじっくり考えさせてくれる。みんな喰われてしまえばいいのにという観客もたくさんいそうな。
パーティばっかでオー! イエーイッばっかの人類たち。宇宙人に襲われて正気に戻ってからのそもそも正気などなかった感。そんな絶望とは別のあまりに絶望的な音楽の安さとそれだけではなくさらに絶望的なスローモーション。さらにしつこく加えて早回しシーンもあまりにアホくさい。
捕食する側にすこしだけ共感してしまうような作品。しかし捕食側もアホ。
宇宙人に襲われた直後の人間の顔の急変と視界の変貌をもっと見たかった。
宇宙人の地球への襲撃のあまりのバカらしさではずば抜けている。宇宙船襲撃シーンの人類側戦闘機の動きと音楽も相当にバカらしい。抵抗不可アホ対侵入アホ。
人類も宇宙生命体のどちらもアホで、観ている側はどうすればいいのかだが、アホ世界にどっぷりとひたりながら、アホってどういうことなのか、賢いっていうのは実際にはどうありえることなのかについてじっくりと考えるいい機会。室内に飾ってある絵がどれもひどい。この絵たちがまたあまりにしつこく映りアホさをさらに急加速。大丈夫か人類、いや大丈夫じゃない。音楽が双方のダメさをさらに加速させる。ガンダム作品では描かれない人類のダメさ…だけでなく宇宙生命体のダメさ。このアホさのあまりの加速はかなりひどい。烏賊型宇宙生命体が空を飛行する世界のアホらしさは夕焼けを見ているといまだにアホ臭く思い出してしまう。
根気強いアホの堂々めぐり。
この『スカイライン−征服−』は、『スカイライン−奪還−』(リアム・オドネル/2017年)、『スカイライン−逆襲−』(リアム・オドネル/2020年)と続編があるのも恐ろしい。だが二作目、三作めともに一作めほどの壮絶なアホ度は鳴りを潜め、『スカイライン−奪還−』はエンディングクレジット時の映像や人類と共闘する宇宙生命体のうなづき方も含めてひたすらに哀しいバカさが渦巻いているが、人間どもが吸い込まれるシーンは何度見てもバカらしい。人間がいったん捕獲されてからどうなるかだけで映画は終われず。人間が宇宙生命体に捕獲されてから実際にどうなるかは『劇場版 機動戦士ガンダム00 -A wakening of the Trailblazer-』で見たかったことだったけれど。
三作目の『スカイライン−逆襲−』は、ラオスの反政府組織リーダーが両手もがれたのに元気なのに驚いたが、エイリアン侵略後の人類の生き方をたっぷり見れるかと思ったら、実際には狭い密室でプラモデルたちが暴れている感じで、ガンダム作品でも見れなかったエイリアン侵略後の人類の生活はまたしてもわからなかった。アホ度は一作めにはかなわない。けれど欠損部位の復活に関しては見かけは別として人類は進化した…こんな不気味な進化がたくさんありえるかと思うと恐ろしい。世界にはさまざまなアホが溢れているということを改めて突きつけるシリーズ。関係ないが本作を観ている際の入眠具合がすさまじく、その不可解な分岐にやたら困ったので、何度か観直した。ガンダム作品では『水星の魔女』が観ているとすぐに寝てしまう。
『機動戦士ガンダムNT』(英題『MOBILE SUIT GUNDAM NARRATIVE』/2018年)
『機動戦士ガンダム 閃光のハサウェイ』(2021年)
『劇場版 機動戦士ガンダム00 -A wakening of the Trailblazer-』(2010年)
この3本がガンダムをまったく観ない人間にお薦めできそうにわたしには思えてしまうガンダム映画。ガンダムマニアは納得いかないだろうし、人によってお薦めはかなり異なるだろうけれど、ガンダムマニアはモビルスーツの細か過ぎる比較とか大好きで、わたしはそれらにはまったく興味を持てないし。永久にすれ違ったまま。でもモビルスーツ好きでなくとも一部のガンダム作品は観ることができる。
最後に2023年8月にアップされたガンダム対談について。
それは富野由悠季×高橋杉雄による終戦の日対談で、そのタイトルは「ゼレンスキーはニュータイプの芽」。その中で富野由悠季がプーチンについて述べている箇所。
ニュータイプになる"ハウツー"を提供できなかった反省に悩んでいるという富野由悠季。
単著『アニメを作ることを舐めてはいけない』では「異質なものを同居させる」ということについて、これが映画的手法としていろいろな面で利用できるという原則的な考え方について。
『機動戦士ガンダム ウェアヴォルフ』では人狼ゲームとミステリー…
強化人間を作るいくつもの方法について考えるなら、コロニア・ディグニダ(Colonia Dignidad)についてのアニメなどいくつものガンダム以外の作品が思い浮かんだりする。
今後の宇宙世紀以外のガンダム作品の実験の継続はさまざまなものがあるだろうけれど、宇宙世紀ガンダムについての語り方は今後どう変われるのか。
選ばれる言葉使いの詳細について。
労働について、棄民について、戦争終結のいくつもの方法について。◯◯に特化した機体たちについて。『無敵鋼人ダイターン3』でコロスという役を創った時以降のセクシャリティの自覚の再更新について。強化人間について(強化人種はガンダムを扱うための消費パーツだから…というセリフが出てくるけれどもそこのところをさらに…)。極度の絶対民主主義について。AIへのあまりの過信について。不運の感情について。感情の減衰について。
もっとも好きなガンダムキャラは何かという問いには当然世界中でいろんな答えがあると思うが、わたしにとってのそれはメタル化した刹那・F・セイエイとジャーナリストになったカイ・シデン。ジャーナリストのカイ・シデンが主役のモビルスーツたちがほとんど描かれない地味過ぎガンダム映画を観たいが。そして刹那・F・セイエイ。2291年生まれ。戦争根絶を体現する者として活動していた彼が最終的にたどりついた先。ぼーっと一人でいる時、旅している時などにふと刹那・F・セイエイを思い出すことがかなりよくある。それはガンダムの歴史などとは関係なく。彼は両親を殺害した人間であった。そんな彼がELSとイノベイターの両者の特性をあわせ持つ存在となった。ハイブリッド・イノベイターと言うのは簡単だが、その後どう刹那・F・セイエイが生きていったかは、『ある島の可能性』の人間でない存在たちがどう生きていったかと重ねてよくぼんやりと想像している。ハイブリッド・イノベイターの心理状態、欲望について、作品はすぐに終わっても、それから膨大な長い時間さまざまに思ってしまう。ゆるやかだけど戦争のない世界に向かっていたはずの本作と現実はあまりに違うけれど、そこで思い出すのは刹那・F・セイエイとスティーヴン・ウィリアム・ホーキング博士の考えていたこと。時間順序保護仮説はアニメたちとはあまりに相性は悪いけれど。純粋種イノベイターであるデカルト・シャーマンの描き方についてやELSの人間への襲い方たちについてのさまざまな変態もぼんやりしている時には思い出したりしている。「悪い宇宙人」とは…についても。そもそも意思があるのか…という。
わたしにとって一部のガンダム作品を観ることは、ガンダムの膨大な歴史を延々とやたら細かに整理し続けることなどよりも、ぼんやりしている時に思い出すそれらのことで。
ガンダムを完全無視するのはすごく簡単だけれど、ずうっと続いていくガンダムは百年後にいったいどんな姿になっているんだろう。遠い未来にはガンダム作品にはなかった幸福に対する嫌悪は生まれているだろうかと。
これから百年たってもまだ刹那・F・セイエイは生まれてさえいない。