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- 2016年12月30日
未来世紀、ホボブラジル 第7回
映画監督の松林要樹さんが、世界最大の日系人居住地でもあるブラジルでの生活をレポートしてくれる「未来世紀、ホボブラジル」第7回です。前回(第6回)の連載では、松林さんが約3年間継続してきた取材の中止を決断したことが記されました。そのように志半ばで止まってしまった企画がある一方で、新しい企画が生まれていました。今回はブラジルでの出会いや縁によって作り始められたばかりの、その新作についてのお話です。
文・写真=松林要樹
南米で企画を立ち上げては、それがうまく行かなかったことは前回、二回に分けて書いた。これまでアジアを中心に取材をしてきて、南米は全く足を運んだこともなかった。言語のハンディがあり、不慣れなポルトガル語を学び、駆使し時間をかけたにもかかわらず、うまく行かなかった。そんな不遇にあってもいい出会いがある。縁を頼りに新作を作り始めた。
今もサンパウロには、日刊の日本語新聞が2紙もある。その日本語新聞の編集長と何度も街で間違えられる経験をする。あまりにも何度も見知らぬ人に間違えられるという奇妙な縁があり、頻繁にニッケイ新聞に通い始めた。自分ではそう思わなかったが、まわりが「似ている」と思うのだ。例をあげればきりがないが、いろんな人から勘違いされて声をかけられた。中でも取材中にサンパウロの日本領事館の総領事から勘違いされ、まわりから「影武者」と呼ばれ始めた。その編集長から直々に関心が無いかと持ちかけられたのが、サントスの強制立ち退きに関することだ。
「ニッケイ新聞」の編集長と
1943年7月にブラジル・サントスで枢軸国側の住民に対し強制立ち退きが行われた。日系移民約6000名がその対象となった。北米での日系人に対する戦時中の弾圧は有名だが、ブラジルでも行われていた。その証言が映像メディアや書籍でほとんど残っていないことを知った。通常、日系人は様々な記録を残すことに長けているのだが、なぜか、日系人が経験した弾圧のことは広く語られなかった。
強制立ち退きの口実はサントス沖でドイツの潜水艦によって米とブラジルの貨物船4隻が沈没させられた。その内通者がいるということで、日系人やドイツ系の移民に対して強制的に街から24時間以内に退去が命じられた(イタリア系は含まれていない)。
なぜ、全く語られなかったのか? ブラジルにおける日系人の戦争中の記憶は、戦後に起きた「勝ち負け騒動」などによって、タブー視されてきた節があった。その「勝ち負け騒動」のきっかけになったのも、情報不足が一つの大きな原因である。戦前には、日本語の使用を禁じられ、日本語新聞も発禁になった。日本語教育も禁止された。移民に寛容なブラジルで弾圧があったということはほとんど知られていない。
そんな誰も手を付けなかった強制立ち退きに関して新しい資料、585家族分の住所が記載された名簿が見つかったのだ。名簿を見つけたことによって、この企画が動き始めた。
資料から分かったのは、その強制立ち退きに遭遇した約6割が沖縄系の移民だったということだ。戦前の沖縄系の移民は、経済的な貧困のため沖縄からブラジルに出稼ぎに出た。みな5年ほどしたら帰国するつもりだったが、奥地の農園ではなかなか金もたまらない。奥地にいるより故郷のことを思い浮かべるにも、海のにおいがする港町のサントスがいいということで、港湾施設で船の荷降ろしなどをして現金収入を得ていたという。
1943年の強制立ち退きを経験した方たちに聞き取りのインタヴューを開始した。戦前の日本人の多くは、一時的な出稼ぎでブラジルに来ていたつもりなので、日本国籍を取らせ子息に日本語教育を施すところも多かった。戦後でも両親が日本からの移民一世ならば、家庭内で使用する言語は日本語になり、日系二世はうまく日本語を話せる人がいるが、戦争のせいで全く日本語教育が受けられなかったことを知る。また沖縄系の移民は、家庭では方言の「うちなーぐち」を使っていたため、日本語を学ぶためにはハードルが高い。人によっては、全く日本語ができない人もいたので、取材を進める上で自分もポルトガル語を真面目に学び始めた。
結局取材を通じて10名以上の人に会ったが、ほとんどの人は80代以上。つまり、73年以上前のできごとなので、正確に記憶をしている人たちは、子どものころに経験したことなのだ。成人していた方でも21歳の時に経験したという人がいるくらいで、狙っていなくても必然的に子どもが経験した強制立ち退きの記憶になってきた。
証言をまとめているうちに、ある兄弟の中でも同じ出来事についての記憶にずれがあることに気がついた。記憶がいかに曖昧なものか、しかも記憶自体がフィクション性を帯びているということに気がついた。いまそのことをまとめようと動き始めている。人の記憶というのは極めてあいまいである、証言映画を作るものとしては逆行するような話だが、それに挑戦しようとしている。
強制退去を命じられた日系人の名簿
松林要樹
映画監督、ジャーナリスト。日本映画学校(現・日本映画大学)卒業後、アジア各地での映像取材に従事。09年、戦後もタイ・ビルマ国境付近に残った未帰還兵を追った『花と兵隊』を監督。12年には福島第一原発の20㎞県内にある南相馬市を取材した『相馬看花 第一部 奪われた土地の記憶』を、13年には一頭の馬を通して被災地の姿を映し出した『祭の馬』を発表した。また著書に『ぼくと「未帰還兵」との2年8カ月』(同時代社)、『馬喰』(河出書房新社)などがある。現在はブラジルと日本を行き来し、次回作の取材を行っている。
