- その他
- 2016年11月28日
未来世紀、ホボブラジル 第6回
映画監督の松林要樹さんが、世界最大の日系人居住地でもあるブラジルでの生活をレポートしてくれる「未来世紀、ホボブラジル」第6回です。前回の連載では、以前ウルグアイのムヒカ元大統領に取材しようとして断念したことが明かされましたが、今回も実現されなかった企画についてのお話。しかも今度はブラジルでつい先日まで進めていた企画で、3年半かけて撮っていたアマゾンの河口の街・ベレンで暮らす福島出身の日本人女性への取材をやめることにしたといいます。その企画がどのように始まって、なぜ取材を中止する決断にいたったのか、その記録をベレンで撮影された写真とともに掲載します。

文・写真=松林要樹
この前に続いて没ネタについて。3年半近くブラジルで撮っていた福島企画が終わった。終わったというのは、撮影者(私)の主観的な判断で、撮影させてもらっていた方たちの人生や予定が終わったのではない。当面、企画を継続していく根気が失せたのである。今後、福島出身のある人物を追う撮影をやめるつもりだ。60年ぶりの一時帰国の過程を撮ろうとしていたが、3年たっても何も動かず、今後も動きが生まれる可能性は低い。結論を一言で書けば、映画の主人公としては優柔不断かつ気難しい。さらに撮影を通じて今後、人の感情の動きが生まれないと感じ、相応しいと思えなくなったのだ。
3年半前に初めてブラジルに行った時、それまで連続して2本の福島関連の映画を作っていた関係上、いろんな縁あってサンパウロの福島県人会を訪ねた。ドキュメンタリー映画作りを通じて知り合った人たちには、ブラジルと縁がある日系人が多かったからだ。
2013年5月、南米で最も治安の悪い都市とされるサンパウロについた。そこで少しだけ治安が悪い地区に接する福島県人会を訪ね、そこから情報をもらって動くつもりだった。だが、たまたま訪ねた県人会の事務員さんが全く働く気のない人で、「人を紹介するには金がかかる」と言われ、あたまにきたのでサンパウロの県人会に協力を要請しなかった。
ブラジルは広いので、日系人の入植している箇所は大きく分けて3つに分かれることを知り、そのまま2013年5月にアマゾン方面に向かった。そして、ベレンというアマゾン川の河口にある町に通い始め、町で安宿を営む同世代の日本人と知り合った。ポルトガル語ができないまま、宿の人の手助けのもとブラジルのベレン支部の福島県人会を訪ね、取材の協力を求めた。会長の宍戸さんという方が手伝ってくれた。
「浜通り地区の出身者で日系一世の方でまだ日本に帰ったことのない人に話を聞きたい」というリクエストのもと、県人会の宍戸会長さんが記憶を頼りに、浜通り出身者の県人リストを作った。宍戸さんも誰が日本に帰ったことがない人か知らない。そのため、一人づつ会うことになった。およそ3週間の滞在のうち、30人近い人と会った。雨季のアマゾンの蒸し暑い中、何もしないでもシャツが蒸れるバスを使って移動し、話を聞きに回った。故郷福島に対する様々な思いを知った。それぞれの日本に対する思いや日本の家族や親戚などと問題を抱えていないか、どのようなことがあり、ブラジルに来たのかといった話を聞くうちに、そもそも移住する前の福島がとても貧しかったという話につながった。原発ができるまでは浜通り地方に産業がなかったことに気が付かされた。
その中で、浜通り出身者で、戦後移住してから日本に一度も帰っていない人、3名と知り合った。そして、一度も福島に帰っていない人が、見た目ではわからない放射能で汚染された土地へ浦島太郎状態で一時帰国する日本を撮りたいと伝えた。
日本に一時帰国したことがない3名の中から、もっとも一時帰国する可能性が高い人を撮ろうと決めていた。ココがそもそもの間違った出発点だったと思う。人物選び(キャスティング)が先に立たずに、企画の意図や狙いが先行したから今回の中断という結論に達したかと思う。

まず、夫Aさんが福島県双葉郡大熊町、妻Bさんが新潟県刈羽崎出身という原発立地地方行政出身のAB夫婦と知り合った。Aさんの職業はプロテスタントの牧師さんである。福島の実家のほうとは宗教も違い、全く連絡を取っていないという。原発に関しても危険だと思うだけで、大した自分の意見はない。私が日本に帰国して、実家のほうと連絡を取ってみたところ、創価学会の会員さんだった。この牧師さんは、福島には帰国しても親の兄弟がいる実家には訪ねる意図はないと公言していたので、その後も挨拶だけで、撮らなかった。
もう一人は、相馬郡小高町出身者。大正13年生まれの90才のCおばあさん。Cおばあさんは少々事情が複雑で、戦後まもなくして、ドタバタのさなかに結婚した。結婚したはいいが、戦地から引き揚げてきたばかりの夫は暴力を毎日ふるう人で、約一年で離婚した。今では考えられないが、離婚した際、夫の姑に自分が産んだばかりの息子をとられた。失意のどん底のなか、隣町の浪江町からCおばあさんへ再婚の話が持ち掛けられた。出戻りであるために、これからブラジルへ移民として向かう一家の一員となって働き手になることが条件だった。
しぶしぶだったが、Cおばあさんにとって遠い親戚にあたる家族とともにブラジル行きを決意し、国を出た。国を出て四半世紀ブラジルで子供を育て、コショウ農場が基盤に乗ったり、病気にやられて生活が振出しに戻ったりした。そのころ、このCおばあさんのところに、日本から一度電話がかかってきた。
息子を名乗る男だった。Cおばあさんは、なぜ私を捨ててブラジルに行ったのかと散々問い詰められた。突然の電話だったが、はっきりといまだに会話の内容を思い出せる。30分程度の会話だった。捨てられただの、捨てていないだの、話が平行線をたどると一方的に電話が切れた。今から30年以上前だが、その時のことをときどき思い出すという。当時の電話代も今とは比べ物にならず、30分ほどしゃべるだけで400ドルくらいかかったのではないかと推測していた。
帰国後、Cおばあさんの家族関係を調べてブラジルに連絡したところ、ブラジルのCさんの息子と娘が取材者の私をいぶかしがった。息子たちは、ブラジル生まれで日本語教育を受けておらず、Cおばあさんの一家は、家の中ではポルトガル語しか使わなかった。なので、とことん日本語がわからない。それで、国際電話で私が帰国をすすめているということを知って、日本に住む息子の一家と連絡を取らせているのではないかと疑いをかけられた。だが、いったん帰国後に調べてみると、日本で産んでいた息子は、すでに他界していた。その情報を手紙に書いて送ったが、家族の検閲を受けたのか、Cおばあさんのもとには届いていなかった。
1年後、2014年の2度目の訪問のときにCおばあさんの家に行ったが、私からの手紙を受け取っていなかったことを知った。それで、聞き得ることができた情報を提供してCおばあさんの元を去ったが、その後、自宅に電話しても、電話すらつなげてもらえなかった。
こんな露骨に嫌がられていることもあるのかと驚いた。もう一度直接家を訪ねて行ったときに、表のカギすら開けてもらえなかった。勘違いだと言いたかったが、その誤解を解かせてもらう余裕も与えられず、結局家族からの誤解で、Cおばあさんのところへ取材に行けなくなった。
地元の日系人の人からの情報でも、Cおばあさんの家の長男はすこし頑固で頭がおかしいという噂がたっていた。県人会の宍戸会長からもなんだかつまらないトラブルに巻き込まれたねと同情を買った。同時に家族の協力がないとこの一時帰国は成立しないということを確信した。

それで3人目が今回、撮影していた方だ。仮にD子さんとする。1945年、満州国で移民の子供として上海近郊で生まれそうになっていたが、終戦間近に母親が「日本は負ける」と判断して、夫を中国に置いたままどさくさに紛れて帰国した。D子さんは郷里の福島県双葉郡浪江町で戦後14日たって生まれた。D子は12才でブラジルに移住して以来、約60年間日本の土を踏んでいない。生まれた土地(赤宇木)は、放射能汚染によって今後100年は人が住めなくなった。D子さんは私が訪ねていく前までは、事故後故郷で何が起きたかはっきりと知らなかった。赤宇木は海岸線から離れているため安心していたのだ。原発に関しても少ない知識を集めて「これ以上原子力を使い続けたら、日本は滅びますよ」とはっきりと自分の言葉で語っていた。自分の言葉があることで、D子さんという人物の裏側や背負っている歴史に関心が行った。しかも、前回の経験で家族の協力がないと、一時帰国はとれないと判断したが、ここの息子は弁護士をやっていて金銭的に余裕があり「おかあさん、一度は日本へ旅行に行ってみたら?」とすすめているということを知った。息子と協力して一時帰国するのを手伝うことに腹を決めた。
その後のメールのやり取りでも「松林さんが訪ねてきてくれたおかげで、忘れていた福島の記憶がよみがえり、母はいま日本に関心が向き始めた」と送られてきた。このメールを境に、他の人物で映像作品を作る可能性を捨て、このD子さんを中心に一時帰国をとるつもりになった。しかも親の時代に日本の親戚と頻繁に連絡を取っていた関係上、D子さんの一時帰国を親戚からも後押ししたい意思が感じられた。
2014年5月の2度目の訪問で、息子に母親の帰国についてどう思うのか、もし日本に行くならどこがいいのか、どういうところを案内するといいのか訊ね、いろいろ話を詰めた。しかし、パスポートがまだないので、それを作らないといけないとなった。D子さんは、到着以来、日本のパスポートもない。福島の親戚と協力して戸籍謄本をとることになった。日本のパスポートを持っていると、ブラジルのそれよりも使い勝手がいいためブラジル側の家族も協力的だった。
戸籍謄本は発効後、半年間は有効だが、それを過ぎると使えなくなる。日本から戸籍謄本を送っていただけだったので、D子さんにはその書類を早めに申請するほうがいいと伝えていたが、「忙しすぎる」ということで一度目の取得は見送った。はっきり言って、仕事を引退した70代の女性である。習い事に忙しいだけで、暇は作られるはずだ。
だが、その時はこの「忙しい」の意味を深く考えなかった。その後も「忙しい」というのを理由にして何度もドタキャンを食らったのだが、この人には一時帰国の意思がないと判断する材料が少なかったため、まだ可能性があるとずるずると引き延ばして撮影していた。
3度目の滞在で信じられないドタキャンを何度も食らった。2016年3月の雨季の真っ最中に行った。滞在していた期間としては最長の2か月半をベレン(アマゾン)で費やした。始めは一時帰国に協力的だった息子に、突然「福島のニュースをネットで調べたら、放射能で人が立ち入られる場所ではない。親戚もバラバラになっているなら、あまり連れて帰る必要はないのではないか」と言われた。事実、福島が危ないという誤解を払しょくする材料もない。同時に高齢者が一時的に立ち入る程度で後々、大病を患う可能性も低いのではないかと伝えたが、効果は無かった。D子さんから子や孫のために日本のパスポートを取得するのを手伝ってほしいと頼まれたことを律儀に守って、再び書類を発行する手続きを手伝った。
戸籍謄本の書類は半年しか有効期限がないことは、前回で経験済みなのに、今回もD子さんは全く動く気配がない。本人の中でパスポート取得と一時帰国は何かにつける言い訳で、本当はどうでもいいのかもしれないということに気が付いていなかった。領事館に確認に行く前から、写真のサイズが違うだの、戸籍謄本の名前が旧姓だのなんだのと、言い訳を繰り返すうちに10月末になった。それでも子や孫の後押しで、パスポート取得を期限直前に申請したと知る。それで、本当に一時帰国の意思があるのか、今後の方向を決めるために確かめに向かった。ただ、そのD子さんの意思を確認するためだけに。
4度目の滞在は、2016年11月に行った。D子さん家族が、ブラジルの友人らと2泊3日の小旅行をやる機会があり、一緒に旅をした。旅行中に、踊りや小川で孫たちと水浴びして遊ぶ機会があったが、D子さんはずっと一段高い位置からやり取りを見ているだけで、旅行中になにも参加することがなかった。よその家の孫らに水浴びしないかと誘われても、聞いたこともない病気の名前を挙げて、「●●はするなと医者から言われている」と繰り返すばかりだ。
結論に達した。D子さんはブラジルで何も起きない平穏な生活が幸せなのだ。老後の日常生活に満足し、信仰している宗教が日本にはない。祖国日本には生活に根付く宗教がなく、精神世界の遅れた国であって帰るには値しない。そう思っている印象を持った。D子さんの生き方もがむしゃらに何かに向かう表現者とかそういうのではない。いつも石橋をたたいて渡らない。時々、慎重になりすぎて石橋をたたきすぎて壊す。そういうタイプだ。用心に用心を重ね、結局自分の足を自分で止める。映画がどう転んでも、主人公が映画をけん引したり、引っ掻き回さない。自動車教習所の講義映像みたいに、安全な方向へ向かい、きわめて啓蒙的な映画になってしまう。そもそも私の信じるドキュメンタリー映画の基本は人間に迫ることだったことを振り返った。D子さんは強欲な人間を否定して精神世界に閉じこもっている状態なのだ。引っ張り出そうと、粘ったがこれは性格の問題なのだ。このまま一時帰国までの過程を撮っても、ほとんど目に見える感情が動かない。どこまでも感情を隠すだろう。これから先に時間とお金をかけても、何も動かないまま映画が終わるとイメージした。しかも全面的な家族の協力が欠けたまま、今の日本への一時帰国を撮り切れる自信がなくなっていた。これまで「忙しい」や家族の体調不良を言い訳に、突然いろんな予定をひっくり返されたからだ。その瞬間、3年半かけた時間がボロボロと音をかけて崩れ、そしてこの企画を終わらせることを決意した。
普通の人ならすぐに気が付くようなところを、3年もかけて理解した。中洲のキャバ嬢に3年分の給料をほとんどつぎ込んで通っていた、高校時代の友人の話を思い出した。「結婚の約束をしたって言っても、おまえ騙されているんだよ。キャバ嬢が一枚上手だよ」などと私がからかうほど、友人は「実はまじめで純粋な人なんだ」と女性をかばった。大金をつぎ込んで結婚の約束をした相手が、自分を騙していたということを認めたがらない心理を知っていた。
私も周りのスタッフなどから冷静に制作を中止することを薦められていた時期もあったが、何度も点滅していた中止へのシグナルを無視していたことを思い出した。
今後きっと外に出ることのない取材の経緯、この3年半を一つ書き留めておきたかったために、この記事を書いた。だが、福島の移民関係で映像作品を一本作ることはまだあきらめていない。

松林要樹
映画監督、ジャーナリスト。日本映画学校(現・日本映画大学)卒業後、アジア各地での映像取材に従事。09年、戦後もタイ・ビルマ国境付近に残った未帰還兵を追った『花と兵隊』を監督。12年には福島第一原発の20㎞県内にある南相馬市を取材した『相馬看花 第一部 奪われた土地の記憶』を、13年には一頭の馬を通して被災地の姿を映し出した『祭の馬』を発表した。また著書に『ぼくと「未帰還兵」との2年8カ月』(同時代社)、『馬喰』(河出書房新社)などがある。現在はブラジルと日本を行き来し、次回作の取材を行っている。
