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- 2016年10月25日
未来世紀、ホボブラジル 第5回
映画監督の松林要樹さんが、世界最大の日系人居住地でもあるブラジルでの生活をレポートしてくれる「未来世紀、ホボブラジル」第5回です。松林さんがカメラを持って世界各地で取材をするようになって15年。その間には企画を立てたものの実現しなかった作品もたくさんあったそうです。今回はそんな企画のひとつ、ウルグアイのホセ・ムヒカ元大統領に取材すべく手を尽くしたときの体験をつづってくれました。

文=松林要樹
結婚もせずにフラフラしているので、不審がられているのか、取材に伺った先で何年間仕事をして、どんな映画を作ったのかとか、なぜそもそも映像を始めたのかとか、よく聞かれる。かれこれビデオカメラを持って旅に出始めて、15年がたっている。ああ、もうそんなに時間がたったのかという思いと、15年でもっといろんなことができたのにと思うことがある。
製作過程は経験上、必ず壁にぶち当たる。資金をはじめ、取材先の人間関係だったり、取材上の許可や申請、邪魔する連中が現れたり。そもそも対象者とまったく接触できなかったことも。壁に阻まれてお蔵入りした企画が多々ある。
企画がある程度進んでいて、それなりに時間とお金をつぎ込み、7割くらい撮れて、編集も始まっているときに中止になった企画もある。死んだ子の年齢を数えるような感情になる。これまで企画したドキュメンタリーが形になったのか打率で言えば、3割程度か。まだましだ。
それで中止した企画が、別の誰かによって映像化されると、なんか昔の彼女が結婚したような感覚になる。どこかおめでとうございますと素直に言えない。なんというか、自我が邪魔している複雑な状態というのかもしれない。
一つ例を挙げると、今年、日本でも有名になったホセ・ムヒカ。結論から言えば、取材すらできなかった。2013年にはじめてブラジルに行ったときに、サンパウロの安宿のドミトリーでホセ・ムヒカを知った。ウルグアイの大統領であり、元ゲリラで何年も投獄されていたことを知った。ドイツ人の学生の旅行者がyoutubeの映像を見せてくれた。まだ日本人には、ムヒカの名前はなじみが薄かった頃だと思う。ドミトリーでリオでのスピーチ映像を一緒に見て「ああ、オレもこういうことを言いたかったけどなあ」と代弁してもらっているような感覚を覚えた。
その後、2014年にブラジルに再び行った際、偶然、同じ宿でテレビを見ていたら、今度はテレビ局の人気司会者がムヒカの家に行ってインタヴューする企画だった。しかも内容はマリファナを完全合法化したことについてだった。
ブラジルのテレビ局のスタッフは正装していた。しかし、ムヒカは、自宅からジャージとゴム草履で現れた。しかも、ひたすらマテ茶を飲んでいる。軍の施設に試験的にマリファナを育てていることをぶち明け、マリファナはそれ自体が悪じゃなくて、それを取引している人たちに問題があるんだと言った。この瞬間大ファンになった。内容はほとんど分からなかったが、ムヒカの人柄が伝わった。
安宿で見ていたこの番組を作った局は、実は社長秘書が日系ブラジル人で、運がいいことに知り合いだった。ネウザという。ネウザの助けで、テレビ局に行き、報道部からムヒカに通じるコンタクトをもらった。というか、大統領秘書の連絡先と現地のコーディネーターだったが。まあ、運が良ければインタヴューできるかもしれないねと、局員に言われた。感情に任せてブラジルから隣国のウルグアイに入ったのは2014年7月。ブラジルがドイツに1-7でワールドカップの準決勝で敗れた日にバスで向かった。
到着して町を歩くと、ウルグアイのモンテヴィデオはブラジルとは大きく変わって、ヨーロッパのような雰囲気の町だ。しかも、公用語のスペイン語はほとんどわからない。スペイン語がポルトガル語と似ているといっても、ポル語を学校で勉強したわけでもなかったので、到着早々、言葉に苦労した。
到着した翌週からモンテヴィデオでドキュメンタリーの映画祭が行われることを知った。映画祭スタッフのコンタクトを日本のヤマガタの浜さんから聞いていたので、事務所を訪ねた。
すると「もう、あなた以外で、私が知っているだけでも5人の監督が撮っています。そのうちの一人は、有名なエミール・クストリッツァですね。彼はもう、4年ほどずっと追いかけています」。それを聞いて、動揺した。マラドーナのドキュメンタリーも面白かったからだ。エミールはすでに4年も撮っている、どう競合しても、どんな視点を持っても太刀打ちできない、そう感じたので、ムヒカの映像作品を半分撮ることをあきらめた。
だが、せっかくモンテヴィデオに足を運んでいるため、もらっていたコンタクトを頼りに連絡したが、選挙を控えているため、今の時点でインタヴューが難しいという判断を知るまで3週間待たされた。企画書をスペイン語に訳す以外、待っている間に何もやることがなかったので、鏡など反射する物質に映る社会を取り始めた。これは、私が初めて作った『Reflection』(2015) という実験映画につながったが。
およそひと月滞在している間、それでもやっぱりできることならば、ひとつインタヴューをしたいと思い、映画祭で知り合ったソフィアに協力してもらった。ソフィアのお爺さんが、実はTupamarosという組織で一緒に活動していた。ソフィアのお爺さんを通じて、休日の午前中に自宅を訪ねたが、留守だった。私が訪ねた当時、その3カ月前にインド系のアメリカ人ジャーナリストが取材のために自宅でマリファナを吸って以来、アポなし飛び込みの取材を門番が締めていた。門番と言っても一国の大統領が住む家の門には一人の中年の男がいただけだった。
どことなく、運が回ってこない。縁がないということであきらめかけていた。囲い込みの記者会見があると知って、月曜日に大統領府に行ったが、秘書に囲まれて、遠くから見かけることができたが、近寄ることができなかった。話しかけたり、写真を撮ってもらうことはできなかった。ちょうどそのころ、時間切れになりブラジルに帰らなければならなくなり、ムヒカのインタヴュー要請を中止した。
そして、およそ2年後の2016年の4月、まだ舛添が都知事だったころに、ムヒカ元大統領が来日した。すごい勢いでムヒカの業績がニュースで出ていた。その時の気分と言ったら、冒頭の昔の彼女が結婚したような感覚になった。あのまま追いかけていたら何かしらの形になったのかもしれないという思いが交錯する。ああ。
今年の7月、再びウルグアイのモンテヴィデオのドキュメンタリー映画祭に足を運んだ。2年前交流を持ったソフィアをはじめとするウルグアイの3人のドキュメンタリストたちに会うために。ムヒカのことは気になっていたが、もう追いかけることはなかった。その代わりに、ドキュメンタリストの間で日本食がブームになっており、ほとんど日本の調味料が売られていないモンテヴィデオでお好み焼きを作った。ソフィアたちは今日本とウルグアイのミュージシャンの映画『Dos Orientales』という作品を作っているために来日していたため、彼らの期待に応えた。
2年前、どうにかインタヴューをしようと駆けずり回っていた時を知るソフィアの夫のクリストバルから「もう、追わなくていいの? なんか人が変わったみたいだね」とストレートに言われた。「ふられた人をいつまでも追いかけているような気分になるからね」と返すと納得したのか、それ以上は何も聞かれなかった。そして、ムヒカを撮っていた数人のうち、少なくとも二人の作品は外に出たことを確認した。これでよかったのだ。
モンテヴィデオで作ったお好み焼き
松林要樹
映画監督、ジャーナリスト。日本映画学校(現・日本映画大学)卒業後、アジア各地での映像取材に従事。09年、戦後もタイ・ビルマ国境付近に残った未帰還兵を追った『花と兵隊』を監督。12年には福島第一原発の20㎞県内にある南相馬市を取材した『相馬看花 第一部 奪われた土地の記憶』を、13年には一頭の馬を通して被災地の姿を映し出した『祭の馬』を発表した。また著書に『ぼくと「未帰還兵」との2年8カ月』(同時代社)、『馬喰』(河出書房新社)などがある。現在はブラジルと日本を行き来し、次回作の取材を行っている。
