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  • 2025年5月26日

mud vacation 第10回

猪股東吾さんの連載「mud vacation」は5月の日記です。長らく取り組んだドキュメンタリー映画がようやく完成し、映画の構想が生まれた日の出来事が綴られています。また、沖縄本土復帰から53年となった5月15日に公開された、写真家・石川真生さんの作品にインスパイアされたAWICHさんのパフォーマンス映像についても。
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文・写真=猪股東吾



2021年夏の終わりのある日、沖縄は茹だるような暑さに包まれていた。
いわゆる「本土復帰」からまもなく50年を迎えようとしていた。
私は脳卒中のリハビリを終え、ようやく社会復帰の兆しが見え始めていたが、心だけが取り残されたように適応障害に陥っていた。ネット上での誹謗中傷は現実世界にまで及び、住んでいたアパートの照明が点いているかどうかまでアンチに監視される日々だった。
その日、私は沖縄中部のある街の心療内科を受診する予定だったのだが、バスの時間に遅れてしまい、やむを得ず5000円近くかけて高速道路を使いタクシーで向かった。どうにか時間通りに到着することができたものの、心療内科は休診だった。予約は、実は翌日だったのだ。
私は深く打ちのめされた。すでにほとんど気力を失いかけていたところに、さらに大きな自己嫌悪が襲ってきた。「心療内科の予約すら守れないのか」と、自分を責める気持ちが泥流のように押し寄せ、足取りは重く、前に進む気力を完全に失った。
思考は混濁し、北部へ帰るバスに乗ることもできず、私は沖縄本島の東海岸を、ただひたすら歩き続けた。
沖縄島、東海岸には数多くの米軍基地がある。その理由は、単に夕陽の落ちる観光資源の西海岸を避けたからではない。太平洋側、すなわちアメリカ本国に近い地理的条件が、大きな理由として挙げられる。
沖縄の各地には、米軍による事件や事故の爪痕が今も多く残る。なかでも東側の地域には、そうした痕跡が途切れることなく連なっていると感じられた。
心療内科のある街から北へ向かって歩いていくと、うるま市の宮森小学校にたどり着く。ここでは1959年、米軍のジェット戦闘機が墜落し、11人の児童を含む18人が亡くなり、200人以上が負傷する痛ましい事件が起きた。
うつろな足取りで慰霊碑を探したが見つけることはできず、代わりに校舎に向かって静かに手を合わせた。その周辺には沖縄県警の機動隊官舎があり、高速道路のインターにも近いことから、辺野古や高江、安和、塩川といった基地反対運動の現場へ派遣される機動隊員たちの待機拠点となっている。
さらに北上すると、キャンプ・ハンセンの門前町として知られる金武町に至る。ここでは1995年、3人の米兵による少女暴行事件が発生した。これは現在の普天間基地移設問題の原点とも言える事件であり、約30年前に米軍基地の返還運動が高まる契機となった。
皮肉なことに、普天間基地の返還・閉鎖を求める運動の結果、なぜか普天間よりもさらに北、金武町により近い辺野古への移設という「解決策」が採られることとなった。この不条理を、汗だくになって歩きながら再度、噛みしめた。
この日、私は高江までは歩けなかったが、そこもまた、2016年に私が沖縄に移住する決意を固めた原点の地である。東海岸を歩くことは、地図上の「傷跡」を自らの足でなぞる行為でもあった。
実のところ、自分はこのとき「死んでしまえば楽になるか」とさえ思っていた。思うというより、生きる気力が失われていたに近い。もし、どこかに死ねる場所があるならば、海に身を投げていたかもしれない。しかし、東海岸に点在する悲しみの痕跡を目の当たりにして、私は強く思った。「自分で死を選んではいけない」と。
望まずして命を落とした人々の記憶が、この地には刻まれている。その人々の影を思うとき、自ら命を絶つということが、いかに浅はかで愚かなことか、流れる汗とともに体が理解していくようだった。

かつて、名護で古本屋を営んでいたある老人がこんな話をしてくれた。沖縄県内にも、南部と北部、西海岸と東海岸の間に「格差」──あるいは「差別」と言ってもいいような構造が存在する、と。それは琉球王国成立以前のいわゆる三山時代。沖縄の戦国時代に起源がある。
南北・東西それぞれの格差が重なり合う「北東部」こそが、その最も色濃い場所であり、辺野古や高江はまさにその地にある、とその老人は言った。あの老人はもうこの世にいない。名護の市場の食堂で大盛りの沖縄そばをご馳走してくれた記憶が蘇る。
傷跡を繋ぐように東海岸を歩いた。汗が吹き出て、喉が乾く。10キロ以上歩いたかもしれない。歩き疲れてたどり着いた、あるパーラーで、タコライスを食べていると雨が降ってきた。「こっちで雨宿りしなさい」と声をかけてくれた地元の方に促され、私は自然とその場のゆんたく(井戸端会議)に混ざることとなった。
他愛のない会話が続く中、あるひとことが強く心に残った。
「復帰前は正月や祝日になると、どの家も玄関に日の丸を掲げてたけど、今はもうやらんくなったねえ。今あげてたら、反社と思われるさあ、笑」
それは、私が基地問題に取り組んでいることも、新聞社と裁判をしていることも知らずに、ふと、こぼれた地元の人の率直な言葉だった。
沖縄は翌年「本土復帰」から50年を迎えようとしていた。なぜ、人々は日の丸を掲げなくなったのか。その瞬間、私は「こうした言葉を拾い集めたい」と強く思った。飾らない、他所行きでない、ごく普通の生活の中にある言葉。こういう言葉を残したいと思った。
振り返ってみれば、ドキュメンタリー映画の構想が生まれたのは、この日の経験がきっかけだった。その後、パーラーで出会った人々の好意で、私は西海岸まで車で送ってもらった。「きっと、またどこかで会える気がするね」と送ってくれた方のその一言が、今も心に残っている。
あれから3年以上の月日が流れ、ようやく映画が完成した。今は最終チェックを終え、配給会社との調整に入っている段階だ。映画が完成した今、あの日の東海岸を歩いた記憶が、より一層鮮明に蘇ってくる。
今になって思えば、精神的に病んだ人間が、さらなるタスクを抱えるのはまったくもって良くないことなのだろうし、良い子はマネしてはいけません、という感じなのだが、あの日の自分には、それしかなかったのだ。大きな課題を乗り越えることで、自身のPTSDを小さくしようと動物的に感じていたのかもしれない。
そして今回の映画の中で、重要なテーマになっているのがこのPTSDだ。取材を重ねる中で、示し合わせたようにPTSDという言葉が頻出した。
PTSDを抱えた私と、PTSDを抱えた沖縄の人々、そして社会の出会いは、偶然と呼ぶべきか、必然と呼ぶべきか。結局のところ、私がこの島に住み着いた理由もそこにあるのかもしれないと映画を作りながら考えるようになった。
(この場合の私のPTSDとは近年のものではなく、幼少期からのものだ)
この島々に刻まれたその影に、私は深層心理で、それこそ動物的に共鳴しているのではないか。これは客観的に見れば、メサイヤ症候群とも言えるもので、かなり危ない話でもあるので、まあ、そういう自覚は常に持ち続けなくてはと思う。

ちょうど1年前、この連載の第1回ではこの原稿を書くために場所を探すところから苦悩していた自分がいたが、最近は沖縄島から橋で繋がったある離島のキャンプ場にあるコワーキングスペースで仕事をしている。1日千円で驚くほどに誰も来ないし、休憩は目の前の海に入り、無人島まで泳ぎ、シャワーを浴びて、また仕事に戻る。
しかし、このキャンプ場のビーチに地元の人は入りたがらない。理由は明らかだった。
橋で繋がった隣の小さな島が、この辺りの墓場の島だからだ。
この辺りの老人は死ぬことを「オウ」に行くというらしい。この墓場の島も「オウ」という名前がついている。思えば「オウ」と名の付く島は沖縄各地にある。
どうりでこのキャンプ場には、蝶がたくさんいる。沖縄では死んだ人は蝶になって帰ってくるという。
煙草を吸いながら、墓場の島を見つめ、数えきれない蝶に囲まれている時、私はこの世とあの世の境界にいるような不思議な感覚になる。私自体がゴーストなのかもしれない感覚。ゴーストにはゴーストの音が聞こえる。私には少しだけ聞こえる気がする。この島とあの墓場の島を繋ぐ橋は、この世とあの世を繋ぐ橋なのか。そんな場所で今日も原稿を書いている。
あまり知られていないが沖縄のキャンプ場はこうした「忌み地」にあることが多い。私が20年前に伊江島のあるキャンプ場で体験した霊体験の話は、今日も書くのをやめておく。ただ、「忌み地」というと恐ろしいが、それを理解して、むしろその声にチューニングを合わせようとする自分のようなものにとっては、守られているような居心地が良い場所である。


沖縄は梅雨に入った。梅雨といっても内地のそれとは大きく違う。やたら晴れ渡り、靄のように湿気に包まれたかと思ったら大雨が降る、その繰り返し。梅雨というより「雨季」の方が適切だろう。
本当は昨年末に終わるはずだった編集は半年近く伸びた。この間にも、米兵のレイプ事件が2件明るみになったり、沖縄の米軍基地内で毎年100件を越える性暴力があることも米国務省のデータで明らかになった。このあたりも滑り込みで映画に入れ込んだ。
私の目の前のキャンプ場では今日も米兵がはしゃいでいる。この場所から車で15分ほどの場所、今帰仁村に先日、米軍ヘリから18キロの落下物があり、まだ発見されていない。
楽園と植民地の交差する場所で、私は暮らしている。

5月15日、「本土」復帰から53年。沖縄戦で日本兵は沖縄の住民を殺していないなどとする政治家たちの歴史修正発言が問題になり、それにアンサーするかのように、AWICHがスポークンワード映像をアップした。

Awich × KUNIKO Inspired by Mao Ishikawa “アカバナ”
at KYOTOGRAPHIE & KYOTOPHONIE 2025 Opening Ceremony

これはまさに日本兵に赤子を殺された母の詩であり、慰安婦と呼ばれた女性の詩だった。石川真生さんの写真からインスパイアされたとのことだ。
AWICHはどこまで背負い込んで行くのだろう。
楽園と植民地、そして、この世とあの世を繋ぐような強烈なメッセージだった。
沖縄には、戦後にも慰安婦がいた。日本兵向けの慰安所で働かされた女性たちは、敗戦後、男たちの手によって今度は米兵の相手を強いられた。煙草一箱と引き換えに、体を差し出すことを強いられた女性たちもいた。それは、選択肢のなさという構造を見れば、レイプと同義ではないのか。
この詩から、そんな様々な歴史を想起した。
石川真生さんは体調不良で、京都に来れなかったそうだが、このふたりは出会うことができるのだろうか。たとえ出会えなくても、もうすでに作品が共鳴しあっている。
ふたりとも、時々一人称が「俺」になる、タフな沖縄の女たちだ。「私たち女やくざ」と微笑んだ真生さんの横顔を懐かしく思い出す。強くなる以外に生きる方法の無かった沖縄の女たち。
私にはそれを褒め称えることも、批評することさえもおこがましく感じられる。
ただ、美しい海を遠くから眺めるように、そっと見つめていたいと思った。

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