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  • 2024年1月17日

時のポート 第0回

boidマガジンではこれから新たな連載が続き、形態も変わります。まずは甫木元空さんによる「時のポート」第0回、予告編です。製作が発表された『BAUS 映画から船出した映画館』の制作ノートとなる連載です。本作品は2014年に閉館した吉祥寺バウスシアターの歴史と共に歩んだ家族を描いたもので、青山真治さんの脚本を引き継ぎ甫木元さんが監督します。連載は映画制作の再出発ともなる樋口泰人のテキストからはじまります。

文・写真=甫木元空



AM 3:21
ポート=港に漂流する、時。入り乱れる潮流と海流によって日付がかき混ぜられた港。止まることのない時間と呼応するように今日も港に着港する一隻の船。

「老サーファーと死んだ猫」 樋口泰人
 
2021年初頭。とある人物から呼び出され、映画を作りたいのだと告げられた。何年も前からその話は聞いていて、ただまああまりに壮大な物語になりそうなので「予算がいくらあっても足りませんよ」ということでなんとなくそのままになっていた。だが「いよいよ自分もいい年齢だから、本気なんだ」との話。もしかするとこの人はもうすぐ死ぬのではないか、迫り来る自分の死を確認しながら生きて行く、その残された時間の迫力と言ったらいいのか、奇妙に力強いその言葉を断ることはできなかった。もちろんある程度の資金はある。だがそれだとまともな形では作れない。そのことだけはわかってほしいと伝え、その場を後にした。すべてを任されてしまったわけなのだが、しかしいったい誰にまず連絡をしたらいいものか。何人かの顔が浮かぶ。状況を考えるとこの人間という第1候補も思い浮かんだ。
しかし焦っても仕方がない。見逃していたジャ・ジャンクー監督の『帰れない二人』を下高井戸シネマでやっていたので観に行った。フランス人のカメラマン、エリック・ゴーティエの捉えた山西省・大同や三峡ダムの風景の大きさと繊細さに圧倒され、登場人物たちの顔に浮かび上がる荒野、そして彼らが生きている街に刻みつけられた時間の傷跡に動揺しっぱなしだった。ああこんな風景や街や人々を撮ることのできる監督が日本にいたら。この時間と風景の広がりをひとりの人間の身体と顔に重ね合わせそこから滲み出てくる人生の痕跡をスクリーンに映し出すことのできる、そんな監督……。
いや、青山真治がいる。そんなことはもう20年前に『ユリイカ』でやっているではないか。北九州三部作と呼ばれる『Helpless』でも『サッドヴァケイション』でも見事にそれは実践されているし、『月の砂漠』以降の映画では人々の顔の「荒野」が柔らかく解れ出しもはや「愛」と言うしかない希望の芽の膨らみがそこから生まれ出る、そんな表情が画面を覆う。結果的に遺作となってしまった『空に住む』の最後、マンションの高層階の部屋の窓辺でゆっくりと伸びをする多部未華子の穏やかな表情とそれを照らす柔らかな日差しのショットは、まさにそんな青山真治の『月の砂漠』以降の「愛」の集大成というべきショットではなかったか。
いったい何をぐずぐずしている、急いでこの人に映画を撮ってもらわねばと、すぐに青山真治に電話をかけた。状況を説明し、資料を送るとしばらくして「やるよ」というメールが来た。そこからバタバタと準備が始まったのだが、プロデューサー・チームと監督とそして出資者である依頼人が初めて集まったのが昨年の4月1日であった。「どうしてこういう大事な日をエイプリルフールに設定するかね」と青山には笑われた。確かに何も考えていなかった。キリが良くていいかな、くらいな意味でしかなかったのだが今となってはこの冗談のようなスケジュール設定を悔いるばかりなのだが、しかし一方で冗談のようにして始まり冗談のように消えていく、そんな軽々しくあっけない時間の流れにうっすらと張り付いた途方もない痛みと悲しみとそれゆえの深い愛こそが青山真治の映画だったのではないかとも思う。『空に住む』のマンションの部屋の中に、そしてそこから見渡す東京の空の上に、『東京公園』の公園の落ち葉とともに、『共食い』の海辺の水飛沫とともにそれらはあって、濃密だが重力の欠落した騒がしくもあり物憂げでもある世界の空気を作り出す。その奇妙な肌触りをなんと呼んだらいいのか。

死の数日前、プロデューサー・チームに向けて「これは年寄りの作る映画であるべきです」というメッセージが届いた。年寄りの作るべき映画? それが何を意味するのか、本人に直接確認する時間はなかった。作り手の年齢の問題ではないだろう。いや、年齢の問題かもしれない。ある年齢に辿り着かないと身につけることのできない仕草や態度や立ち居振る舞いが作り出す映画。しかし果たしてそれだけのことだろうか。
われわれに残された宿題は果てしなく大きいのだが、ぼんやりとした手応えがないわけではない。たとえば『こおろぎ』における山崎努の奇妙な行動。『エリ・エリ・レマ・サバクタニ』での自身が抱える悲しみと痛みを不意に空へと解き放つような岡田茉莉子のサングラスをかけての外出や筒井康隆の草原での不恰好な疾走……。何かから解き放たれたものたちが示す無意識の振る舞いと言ったらいいのか。彼らであり彼らではない何者かとして不意に身体が動き、それゆえに型に嵌まったポーズを取ることもある。
青山作品に登場するそんな老人たちはもはやこの世の人なのかあの世の人なのか誰にも判別がつかないままそこにいたわけだが、『空に住む』ではもはや完全にあの世の人としてそこには姿を見せない。果たして老人と言える年齢なのかどうか。主人公の亡くなった両親はしかし常に主人公の周りにいて、特別何をするわけではないのだが彼らが見えざるものとしてそこにいるということがどこかで主人公の行動と重なりあう。あるいは主人公が実家から連れてきた猫。常に主人公の周りをうろつき寄り添い物語の最後にはみるみる弱って死んでしまうそんな猫のような老人たち。
たとえばそんな猫の視線で見つめられた世界の姿を映し出せるかどうか? そしてそれは生きている猫とは限らない。『空に住む』の最後の窓辺のショットの柔らかな光はまさに死んだ猫の視線で捉えられた世界の光と言えないだろうか。映画のカメラには不意にそんな「猫」が宿ることがある。そのことを信じられるかどうか。あるいはその偶然なのかめぐり合いなのかをじっと待てるかどうか。それは奇跡のビッグウェーブを待つ年老いたサーファーたちの夢見る視線に近いものかもしれない。ジョン・カーペンターの『エスケープ・フロム・LA』で、崩壊したLAの海辺でサーフボード片手にじっと佇み波を待つピーター・フォンダの視線の先にある波のような映画を作れたら。いやそんなロマンティックなものではないかもしれない。あの映画の中でもやってきたのはわれわれの想定をはるかに超えた凶暴な大波ではなかったか。だがそれさえもご機嫌に乗り切る老サーファーとしての映画作りが、そこでは夢見られているはずだ。日々の営みは続く。誰かが波の向こうに消えたら、違う誰かが引き継ぐだけのことだ。いずれにしても波はまたやってくる。
 
「新潮」2022年5月号より

つづく