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  • 音楽
  • 2023年4月22日

BOB DYLAN「“ROUGH AND ROWDY WAYS” WORLD WIDE TOUR」日本公演2023

4月6日~20日に、ボブ・ディランの「“ROUGH AND ROWDY WAYS” WORLD WIDE TOUR」日本公演が大阪・東京・名古屋の三都市で開催されました。2020年に発表されたアルバム名を冠したこの公演は、もともと同年4月に開催予定だったもののコロナ禍で中止となり、ディランにとって実に7年ぶりの日本公演でした。これまで4度の日本公演に立ち会ってきたという是安祐さんによる、東京ガーデンシアターで行われたコンサートの詳細なレポートを特別掲載します。

変わり続ける、という“変わらなさ”



文・写真=是安 祐

 
2020年の4月に予定されていた来日公演がコロナ禍で中止となり、ツアーメンバーにも入れ替えがあってからの実に7年ぶりの日本公演。
2001、2010、2014、2016と来日回数にして4回、公演数は述べ8回ほど足を運んで来たが、今回はどのようなサウンドか。
 
開演前のステージ上には2016年には上手に位置していたベビーグランドピアノがほぼ中央に鎮座、向きもこれまでの横向きでなく弾き手が観客の方を真っ直ぐに向くようになっている。ドラムセットが左端の方にあるのは他のアーティストなら珍しいが前回の来日の際も中央よりかなり下手側に位置していた。上手側の一段高い位置にスティールギターがセッティングされているのもほぼ一緒。その他、美術セットらしきものは皆無で(もちろんスクリーンなどはあり得ない)、かなりの高さからドレープを蓄えた緞帳が垂れ下がっているのみ。機材関係も心なしかこれまでの公演よりも少なく見える。
 
今回は撮影・録音が厳禁で、会場入り口で携帯をロックされたポーチに入れられているので開演までの残り時間が分からない。
席も大かた埋まり、「過去二回はアコギからだったか」とか「もっと以前は"COLUMBIA Record’s Artist !"ってアナウンスあったなぁ」などとオープニングの記憶を辿っていると、やおらベートーヴェンの第九 第一楽章が聴こえてきて場内が暗くなる。
歓声が上がると同時に何の飾り気もなくバラバラとメンバーらしき人影が現れるがステージ上は暗いまま。どれがDylanだか判然としないままギターのフレーズが聴こえてくると、ここでようやくスタンドマイクの存在が無いことに気づく。どうやらピアノの位置についたのがDylanらしく、ギターとピアノがブルージーなフレーズを繰り出していく。
まさかずっとあそこの位置のままなのか。
 
それにしても暗い。
過去の来日公演と比べても群を抜いてステージ上が暗い。メンバーのスーツも2016年の時のような生成り系の色でなくブラックなので余計に暗い。ふと頭上を見上げると客電が落ち切っていない。周りの観客の背中も良く見えてしまう程だから余計にステージが目立たない。バックの緞帳を臙脂色に染め上げる控えめな照明のみがあたっている。
スタンダード集のアルバムを出した後の2016年の公演では、フットライトで人物の顔が下から浮かび上がる様なシアトリカルなライティングが施されていたが、あの時も暗い暗いと言われていたが頭上からの照明も若干はあった様に記憶する。今回はそれすらも無い。
 
比較的長いイントロから第一声は若干オフ気味、上手に位置するギターのBob Brittは完全にDylanの方を向いているのでライトが当たっていても半分背姿。下手のギターDoug Lancioが一番はっきりと見えるという不可思議な現象。最古参のベースTony Garnierはいつにも増してDylanの真後ろにぴったりと着き、ピアノから手を伸ばせば届くような距離感。アンサンブルの要スティールギターのDonnie Herron、この日本公演からバンドメンバーとなったドラムのJerry Pentecostも含め、バンド全員がDylanを取り囲むようなコンパクトな配置になっていて、広い筈のステージの半分も使わずにまるで小さなクラブで演っている様だ。
 
一曲目からして『Greatest Hits Vol.Ⅱ』所収の "Watching The River Flow" という激渋のスタートだが、思い返せば2021年のストリーミング『Shadow Kingdom』でも新アレンジで演っていた曲だった(先頃6月にCD&アナログが発売されることが発表された)。後に知ったが、この一曲目、すぐに歌い出す日や長めに演奏してからの日などイントロが毎回異なっていたよう。
 
二曲目の "Most Likely You Go Your Way (and I’ll Go Mine)"が始まっても、メンバーは殆ど動かない。全員Dylanの方を凝視してプレイしている。今までの公演でも曲によってはこうした局面はあったが、前回までの比較的スタンドマイクで歌う時間が多かったアンサンブルとかなり異なっている。自由度の高いDylanのピアノについていくのに凝視していないと置いていかれてしまうのか。
良くも悪くも結構動き回っていたCharlie Sextonがいた頃とは大違いだ。
例えるなら、そう、インタープレイが肝のジャズバンドの様である。
メンバー全員が常にリーダーの方を凝視していたといえばすぐに思い浮かぶのがマイルスのバンドか。
それにしても、最初こそ若干オフ気味だったDylanの声がよく出ている。
 
三曲目"I Contain Multitudes"からアルバム『Rough and Rowdy Ways』の曲が続くが、歌の表現の幅がスタジオ版より格段に広い。この曲でも顕著だったが、冒頭ピアノの弾き語りでポエトリー・リーディングの様に入りながら他のメンバーがいつの間にか入ってくるアレンジが多用されている。音数が少ないときに一番新参のJerry Pentecostの繊細なドラミングが冴え渡っている。続く"False Prophet"でようやく今回のギター二人の音に慣れてくる。
過去三回(’16、’14、’10)の公演がいずれもCharlie SextonとStu Kimballという比較的長期に渡るコンビだったので、今回の新たな二人のギタリストによるサウンドは非常に興味深い。前回までのアンサンブルの肝は実はスティールギター(曲によってヴァイオリンやマンドリンも)のDonnie Herronだったと思うが(とくにスタンダード集の時期はそれが顕著)、どうやら今回はひたすらDylanのピアノの周りをどう彩るかということに二人のギタリストのプレイが賭けられている様に感じる。詳しいプロフィールは知らなかったが、Bob BrittもDoug Lancioもナッシュビル拠点のギタリストらしい(ドラムのJerry Pentecostもだ)。今やTony Garnier に次ぐ古参メンバーとなったDonnie Herronは元々ナッシュビルのオルタナカントリーバンドBR549のメンバーだから、今回のディラン・バンドは謂わば “ナッシュビル・コネクション” で構成されていることになるのか。
 
続いての"When I Paint My Masterpiece"ではDonnie Herronがヴァイオリンに、Bob Brittがアコギに持ち替えてのアレンジ。ここでもDylanはピアノの単音ソロをかなり自由に。
巷では今回の公演では「過去の有名曲をやらない」と言われている様だが、この曲などはもちろんTHE BANDの影響などもあってか知名度が高く歓声も一際大きく上がる。
 
一転、空気がガラリと変わり、ホールの音響とは思えぬエレキのふくよかな低音フレーズと共に"Black Rider"が始まる。この曲でのDylanのヴォーカルは素晴らしい。ピアノ、二本のギター、スティールギター、ベース、ドラムと全ての楽器の音がそれぞれ一音一音粒だって聴こえてくる。そう思っているとDylanの声が全ての音を吸収して渾然一体となってゆく。
今回の東京公演の舞台である有明の東京ガーデンシアターは新しいホールながら外見も内部も素っ気ない雰囲気で、始まる前は正直前回のオーチャードホールとかの方が今のDylanには合ってるよなぁなどと思っていたが音響面では中々いい。序盤にPAの調子が良くない日もあったようだが、自分が観た日は大箱とは思えぬバランスの良さで(その分Dylanがヨレたフレーズを弾くと目立つことも……)、とくに二本のギター(Bob Brittが主にコードカッティングやアルペジオのリズム系、Doug Lancioが曲毎にトーンコントロールを微妙に変えてメロディー系のフレーズを散りばめていくことが多い)の音像が鮮やかに聴こえてくる。
 
下降するフレーズが不穏な美しさを醸し出す"My Own Version Of You"と、スローでダウナーな雰囲気の曲を続けてやってしまうのもDylanのセットリストならではか。
曲の中盤ではピアノがこれでもかと単音でマイナーキーをアタックする。
今回のピアノは今までのようにコードの連打や単音のソロ以外に、ある意味本当に弾き語りのミュージシャンのように自らの歌に伴奏としてつけていく。但し、歌の方の自由度と比例するように鍵盤さばきも独特の揺らぎがあるので、テクニック的には決して上手いとは言えない中にハッとするような瞬間が幾つも出てくる。これは今までのどの時期のライブでも無かったスタイルなのでは。
 
アルバム『John Wesley Harding』からの"I’ll Be Your Baby Tonight"では、前半のパートは正にピアノの弾き語りで、歌詞を歌いきった後に後半からいきなりR&Rになって行く大胆なアレンジが施されていた。
 
"Crossing The Rubicon"で再び2020年に戻ったかと思うと、『Nashville Skyline』からの"To Be Alone With You"がまたもやピアノ中心のアレンジで歌われる。Donnie Herronのヴァイオリンがピアノとユニゾンで印象的なフレーズを繰り返す。この辺りの最新アルバムの曲を’60年代後半の曲で挟んでいく曲順に何の違和感も感じさせないところが良く考えると凄まじい。菅野ヘッケル氏によると この"To Be Alone〜"などはスタジオバージョンとだいぶ歌詞が書き換えて歌われていたらしい。
 
次の"Key West (Philosopher Pirate)"は間違いなく今回の公演の白眉だ。アルバムでも極上の短編小説か一本の映画のように濃密な世界観を漂わせていたが、ライブではDylanの歌に絡む各楽器のケミストリーが極上だ。まず最初に波間から舳先の向かう方向を探るようなDylanのピアノに導かれてJerry Pentecostがマレットを密やかに刻んでゆく。程なくして抑制されながらもニュアンスに富んだギターが絡んできて最初の歌詞が始まる。スタンダード集を続けて出してからのDylanのヴォーカリゼーションはいわゆる悪声などという評価からは程遠い表現力に満ちたものになっており、声自体が一つのインストゥルメンタルとして充分に機能している。中盤でのピアノソロでは専任のピアニストが弾いていると見紛うほどの美フレーズを繰り出し、他のメンバーも瞬時に絡んでゆく。長尺の演奏がいつまでも続いて欲しいと思わせる名演だった。
 
"Gotta Serve Somebody"は12日の演奏が凄まじかった。
イントロこそ再びピアノの弾き語りとブルージーに絡むギターで始まるが、ヴァースが終わるとBob BrittとDoug Lancio、二人のギタリストが一転ガレージパンクのような強いリフを奏で、『Slow Train Coming』所収時のマッスルショールズR&B調とは似ても似つかぬテンポの速いバージョンでグイグイ歌っていく。中盤のリフの決めどころでは、ギターがどんどん走るところをTony GarnierのベースとJerry Pentecostのドラムがギリギリでリズムを戻すところなどスリル満点だ。この曲のアレンジ一つとっても「過去曲は地味なものしかやらない」という短絡的な評が的外れなことが分かる。
 
"I’ve Made Up My Mind to Give Myself to You"は、Adeleがカヴァーしてヒットした"Make You Feel My Love"のように耳に残る美しいメロディーが繰り返される名曲だが、スタジオバージョンの端正な歌い方に比し、フレーズ最後の単語を自在に伸ばし、時には歌い上げるように情熱的に言葉を紡いでゆく。シンプルなメロディーが続く曲想としては単調なつくりの筈だが、Tony Garnierのアップライトベース、Donnie Herronのマンドリンのニュアンスが全く飽きさせない。
 
12日はこの後でサプライズが待ち変えていた。
正直、Dylanが歌い始めてあのテンポの速いヴァースに辿り着いても、二番に差し掛かっても曲名が分からなかった。先ほどの"Gotta Serve Somebody"のように原曲からガラッと変えたアレンジなのか? それにしても周りの反応が熱い! 確実に聴いたことのある曲にも思えるがもしやカヴァーか。間違いなく大阪と東京の1日目では演ってなかった筈の曲だ。バンドのタイトな演奏はしっかりリハをしたような印象だがこれは一体……
ゴキゲンなR&Rに反応する身体と混乱する頭に引き裂かれていることなどお構いなしにバンドはどんどんノリノリになっていく。Tony Garnierも往年のように笑みを浮かべながらボトムを揺らしている。そうこうしているうちにあっという間に曲は終わり大歓声。心なしか周りの外国人客の反応が大きかったので「これは何かのカヴァーだな」と確信した(終演後に何とGrateful Deadの"Truckin’"世界初演に立ち会ったことを知り驚愕したことは言うまでもない)。
 
日にちは飛ぶが16日に演ったレギュラーセットの"That Old Black Magic"も素晴らしかった。アルバムの軽快なバージョンも勿論悪くはないが、ステージでは始まりからテンポが上がり、ギターの決めリフとドラムのアタックが曲が進むうちにどんどん速くなっていく。ロカビリーのバンドでも、ブライアン・セッツァーやロバート・ゴードンなどライブではガレージバンドのようにかなり狂暴な演奏をするアーティストは多く存在したが、このアレンジもそんな雰囲気を彷彿とさせるものだった。
 
再び2020年の最新アルバムの曲へ。ほぼDylan自身のピアノ弾き語りに、Tony Garnier がウッドベースの弓弾きで寄り添い、抑えた繊細なトーンに音数の少ないギターと浮遊するスティールギターが包んでゆく"Mother of Muses"。ここでのDylanは本当に何年もピアノだけを弾きながら歌って来たミュージシャンのようである。スポンテニアスなピアノソロに即興で完璧に絡んでゆくギターが素晴らしい。
 
すでにノンストップで90分は越したのでは。
休憩、MCどころか水も飲んでいないのではと余計な心配もしたくなるこちらを余所にメンバー紹介を始める。他の日程ではあっさりした紹介だったらしいが(16日には何故か全体の中盤で紹介コーナーがあってメンバーが?な反応をしていた)、この日は全体は聞き取れなかったものの各人にコメントを加えていた。Donnie Herronの時に妙に長く喋り「グランド・オール・オプリで長らく活躍した〜」(全米で超有名なナッシュビルの長寿カントリーミュージックラジオ番組)と言っていたように記憶する。最後に今年でDylanとの共演歴が実に34年目になるバンマスのTony Garnierを紹介したところで場内大歓声。Dylan自身も歓声の大きさにちょっと驚いたのか「Yeah」と嬉しそうに反応していた。自分にとっても2001年に初めて観た時(ギターはLarry CampbellとCharlie Sexton、ドラムはDavid Kemper)からずっと不動のメンバーだ。
 
いやが応にも終わりが近づいて来てしまったことが気持ちを逸らせるが、アルバム『Rough and Rowdy Ways』からの最後の曲"Goodbye Jimmy Reed"でも声の調子は落ちない。むしろ終盤にかけて喉が温まって来たかのようなスタミナである。それにしても前評判通り本当に最新アルバムから17分という長尺の"Murder Most Foul"を除いて全ての曲を演奏、実にセットリストの半分を占める。過去曲は短いものが多いので演奏時間にしてみれば半分以上かもしれない。Dylanにしてみれば「だってツアータイトルにもしてるだろ」ってなものかもしれないが。
 
最後の曲は1981年『Shot Of Love』から"Every Grain Of Sand"。スタジオ盤ではバックコーラスも含めゴスペル感が強い曲だが、この曲でもピアノの単音を中心に、所々でスティールギターを前面に押し出しながらハッとするギターのフレーズが出て来たりもする自由度。一つの確固たる雰囲気を纏いながらも、曲の中で音像の色彩の豊かさが滲み出てくる極上のカントリーバラードとなっている。16日には終盤でハープも聴けた。
 
曲が終わると、初めてDylanがピアノの前に出てくる。
終了した時にやっと照明が若干当たる場所に出て来たことになる。他のメンバーも楽器を置いて整列。とくに手を上げるでもなく笑顔を見せるでもなく仁王立ちで会場を見渡すのはここ何年かのスタイルだ。アンコールがないことを知ってる殆どの観客たちは総立ちで歓声を送る。
 
駆け足で記憶を追ったが、まだ今回のDylanを咀嚼しきれていない。
「有名曲をやらない」「ピアノのみをずっと弾く」「最新アルバムから多い」「Grateful Deadのカヴァー」という断片としての情報は確かに残っているが、今回はなんと言ってもスタンダード集とコロナ禍を経た後のアンサンブルの変遷が興味深い。
基本的にはCharlie Sextonのような強い個性がいなくなり、ギターのBob Britt、Doug Lancio、ドラムのJerry Pentecostというナッシュビルの新しいメンバーたち(Bob Brittはアルバム『Time Out Of Mind』に少し参加してはいるが)はDylanのピアノに寄り添う形でのプレイが多い。Charlie Sextonがいた時期も、特にスタンダード集を続けて出していた2014、'16の来日ではサウンドの要はDonnie Herronだったように思うが(ついでに言及するならば、それ以前はLarry Campbell、さらに前はBucky BaxterとNever Ending Tour以降はスティールギターを操るマルチプレイヤーがその時々のキーマンだった)、今回は完全にDylanのピアノが全ての曲の中心になっていた。過去に色々なアレンジでキーボードやピアノに向かっていた時もあったが、ここまでのことは新たな試みなのではないか。そのことにより、各曲のアレンジがより余白を持ったものとなり、時には腕利きのジャズバンドが歌伴を務める時のように自然発生的に、あたかもその場その場でアレンジが施されていくようなスリリングな展開が頻出する。個人的にはこの日本公演から参加の一番新参であるドラムのJerry Pentecostの引き出しの多さと懐の深さに感銘を受けた。
また、多くの人が言及しているが、Dylanの声が過去の来日公演に比して劣らないどころか、所々「今回が一番良いのでは?」という瞬間もあり、これは2010年代後半にスタンダード集でじっくり歌と向き合ったのと、ここからは推測でしかないがロックダウン時に過去曲を新解釈でストリーミングした『Shadow Kingdom』の試みが大きかったのではと感ずる。
 
「アレンジ変わり過ぎて原曲が分からない」「サビが来るまで分からなかった」などとネタ的に言われることも人口に膾炙してきたが、思い返せば、すでに第17集を数える今年の年初に出た最新のBootleg Series『Fragments : Time Out of Mind Sessions (1996-1997)』でも充分に窺い知れるように、その時々のアウトテイクや発表されたバージョンの原形を聴いていくと、スタジオ版はあくまでもその時点での結果に過ぎないことが分かる。今回のセットリストでも2020年の曲の間に1967年や1971年の曲が違和感なく同じ世界観で挟まっている。Dylanにしてみれば「50年前の曲を同じ状態で誰が聴きたい?」と思っているのかもしれない。ついでに言うと、『Rough and Rowdy Ways』からの曲ではアレンジこそ異なっているが、それぞれの曲が分からない程は変わっていなかったように思う。
 
それにしても、同世代の多くのミュージシャンが鬼籍に入る中で、コロナ禍のロックダウンを経ても極東の地まで足を運び、最新アルバムの曲と掘り起こしたような過去曲のセットリストで、新たなアレンジでライブをし続けるというのは一体どのようなモチベーションとバイタリティなのか。年齢のこと以上に、「何故そこまでして変わり続けるのか」という謎が立ち上がって来る。
その謎に思いを馳せていると、今のDylanの音楽を何と形容すれば良いのか? という別の問題にもぶち当たって来た。曲毎にはつい「○○ぽい」と別の具体名を出したくなる時もあるが、当然のことながら大抵のミュージシャンよりDylanの方が圧倒的にキャリアが長い。途中にも書いたが、スタジオ盤ではある一つのカラーが統一感を出しているようにも思えるが、ステージでは曲ごとの変化が凄まじく、それでいて全体は確固たる雰囲気を纏っているのだから不思議だ。ジャンルという無理筋な分け方をするのであればセットリスト17〜18曲中、優に7〜8くらいの音楽ジャンルが含まれているのではなかろうか。
 
ふと、2015年の『Shadows in The Night』から『Fallen Angels』『Triplicate』と続いたスタンダード集を聴いた時に、’90年代初頭の発売当時も今も殆ど注目されていない二枚のアルバム『Good as I Been to You』と『World Gone Wrong』が気になったことを思い出した。’97年の『Time Out of Mind』で復活する以前、『30~トリビュート・コンサート』や『MTV Unplugged』はあれど7年間以上新録をしていなかった時期に唐突に出されたトラディショナル・フォーク集の二枚である。その時も「もうDylanは半分引退状態になっていくのか」と言われたが本人としてはどのような心境であれらの時代に全くそぐわないような古いフォークソング集を二枚続けて出したのか。
「時代にそぐわない」と捉えてしまうのは聴衆側の勝手な思い込みなのかもしれないが、それらのトラディショナル・フォーク集の後に、「コンサートに再び若い観客たちが来ていることを指摘され、そうした若い人たちに向けて新しい曲を書こうと再び思った」と述懐している『Time Out of Mind』を作ったように、更に約四半世紀でスタンダード集を続けて出した後に新たな代表作と言ってもいい程の充実した力作『Rough and Rowdy Ways』を出した歩みは、「世間に背を向けて我が道をいく」「天の邪鬼的に予想がつかない」などと語られる世評とは別に、本人の中ではその時々で強い必然があったのではなかろうかとこれまた勝手に推測してしまう。
今回のライブにも至る全てのジャンルを内包するような豊穣さは、2006年から数年続いたラジオ番組『Theme Time Radio Hour』の成果も大きかったのではなかろうか。最初に聴いた時は「こんなにDylanが喋り倒すとは!」と驚愕したが、"New York"や"Whiskey"、"Summer"など毎回異なる“テーマ”ごとに選曲し、その曲にまつわる思い出や、時には脱線した小噺なども交えた軽妙な喋りとともに古今東西の多ジャンルの曲を紹介したこの番組は、2000年代以降の快進撃を裏で支える拠り所のような位置付けにも思える(その後、本邦でも大瀧詠一の『アメリカン・ポップス伝』というDylanの番組に比肩する内容のプログラムがあった)。
 
Dylanの“変わり続けることの謎”、今現在のスタイルをどう形容するか、ということへの答えは結局のところ見つからないままだ。
「むしろどうして変わらないでいられるんだ?」と禅問答的に返してみるのもDylanらしいかもしれないが、“スタンダード”とか“トラディショナル”とかいう用語自体が、Dylanにとっては一般に流通している意味とズラして捉えられているのかもしれない。1967年の曲も2020年の曲も「いま歌う必要があるから歌う」、その「必要」のモチベーションは常に自分自身の内から湧き出て来る。
『Rough and Rowdy Ways』が出る直前、2020年の6月に近年のDylanにしては珍しく長めのインタビューがThe New York Timesに載った。ジョージ・フロイド事件やパンデミックに触れた非常に興味深いインタビューだが、その中でライブで唯一演奏していない17分の大作"Murder Most Foul"について次のように話している(歌の中でケネディ暗殺を主要なモチーフに、ビートルズや著名ジャズメンなど多くの固有名が出てくる)。
 
「自分にとってはノスタルジックなものではないんだ。過去を賛美したり、失われた時代を送別するような考えはその曲にはない。(曲の方が)その瞬間、その時に私の方へ語りかけて来るんだよ。いつだってそうだ、とりわけ歌詞を書いている時は」
 
Dylanが“変わり続ける”ことは、それ自体がある意味“変わらない”ことなのかもしれない。
言葉遊びや反語としてではなく、60年にも及ぶキャリアの中で、その時々で血肉と化した音を自分の内なる声に忠実に出していく。敢えて言うならば、全時代的な"POPS"、時代時代で聴衆が夢中になって来た(=popularであること)あらゆるジャンルを入れ込み、撹拌して抽出する。
’40年代のスタンダード曲も、’60年代のフォークも、’70年代のカントリーも新たな息吹が吹き込まれれば“現在のPOPS”に成る。同時に2020年の曲も、時の流れに乗ればスタンダードにもトラディショナルにも成り得るだろう。
Dylanの今回の来日公演は、そんな“変わり続ける、変わらなさ”という驚異を目の当たりにした稀有な体験だったように思える。
 
 
 
――ここからは今回の公演レポートから離れて極々個人的な回想。
 
2020年の7月だったかと記憶しているが、アルバム『Rough and Rowdy Way』が日本でも出た直後、一本の電話が掛かってきた。
少し前からニューアルバム発表の報は届いていたし、公式YouTubeでも新曲の音源が上がっており、それなりに興奮して待っていたとは思うが、何かと合わせて買おうと思っていたのか、その時点ではまだ聴けていなかった。
 
その電話の主からの連絡自体が久方ぶりで、それまでもそれ程頻繁に連絡を取り合うことはなかったし、コロナ禍の前には仕事上のすれ違いもあり、SNS以外では疎遠になっていた。
 
開口一番「いやいや、どうも。お久しぶりです。ときに君、ディランの新譜は聴いた?」
 
直接会えばどちらかというとぞんざいな扱いというか、素っ気ない当たりをしてくる人だったが、電話では大抵何か恥ずかしそうに、杓子定規でいて迂回するような妙な喋り方をして来た。
その時も、本題は別にあるのに話の枕としてディランを持ち出して来たのかと思ったが、
 
「いや、まだ聴けてないんですよね」
「あら、そうなの、いやさ、いま聴いてるんだけどさ、これちょっと凄いよ!」
「あ、いいんですか、やっぱり」
「ドラムがね、凄いんだよ! ドコンドコン言ってさ!」
「あー、なんか良さそうですよね、今度の」
「あれ、誰だろうね? 前にライブ行った時のドラムかね?」
「あ、あの時はGeorge Receliですよね。今回たぶん変わってますよ、中止になっちゃった来日公演もその新しい人(Matt Chamberlain)だった筈ですけど」
「あ、そう。とにかくね、早く聴きなさいよ、君も! 凄いから、ドラム!」
「はぁ」
 
と、会話は続くのだが、(あれ? もしや仕事の電話かと思ったが、ホントにこれが本題?)と訝ってると、「んじゃ、まぁ、そのうち!」
と、あっさり電話は切れしまった。
 
つまり「ディランの新譜がめちゃ良かったから誰かに喋りたい」というだけだったらしい。
前に一緒に行ったライブとは2014年のZepp Diver Cityの時のこと。
「なんのこっちゃ」と何だか肩透かしを食らったようでいて、電話越しとはいえ直接話したのが先述の仕事上のすれ違い以来だったので、何だかホッとしたような心持ちになった。
 
おそらく程なくしてアルバムは届いて、すぐに聴いたのだと思う。
 
その時は、まさかそれがその人との最後の会話になるとは思いもよらなかった。
 
 
その電話の主は、青山真治氏である。