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  • 2021年4月23日

カンで感ずる西ドイツ

明石政紀さんによる久しぶりの寄稿は、1960年代末~70年代末に西ドイツ・ケルンを拠点に活動したバンド・カン(CAN)について。2020年10月に「ele-king」別冊として出版された『カン大全――永遠の未来派』(Pヴァイン)に寄稿された原稿の別ヴァージョンを特別掲載します。カンを輩出した当時の西ドイツの音楽の土壌や文化的背景について、当サイトの連載「ファスビンダーの映画世界」の読者にはおなじみの明石さんの“コンサルタント・キャット”ミケが解説してくれています。
文=明石政紀
 
 
昨年2020年はベートーヴェンの生誕250周年。というわけで、わたしのもとにはベートーヴェンに関する原稿依頼がたんまり来るものと妄想、来たら来たでマウリシオ・カーゲルのあのすばらしい異形ベートーヴェン映画『ルートヴィヒ・ファン』(1970)を、わたしにしては珍しくベタ褒めしようと手ぐすね引いて待ちかまえていたところ、そのような依頼はいっさい来ず、待ちかまえた姿勢を保持したまま半年が経過、ようやくカンカン照りの暑い夏が訪れたころ、原稿を書いていただけないかとの依頼が編集者の松山晋也さんからあった。とはいっても、それはベートーヴェンに関するものではなく、カンに関するもの。それも松山さんの監修・編集による別冊ele-king『カン大全――永遠の未来派』(Pヴァイン)なる本への寄稿とのことで、カンに関するとは語呂がいいとばかり、さっそく原稿を書いてみたのだが、その文体がこの本全体の調子と合わないということになり、これはボツ。「ふつう」の文体に書き変えた第二稿が使われた。以下は、ボツ原稿となった第一稿に少々手を加えたものである。この復活掲載を快く許可してくださった松山さんに感謝したい。
 
 
 
缶、勘、感 ― カンで感ずる西ドイツ

 
カンカン照りだ。暑い。こんなときにはキンキンに冷えたビールとばかり、冷蔵庫の奥で凍えていた缶ビールを手にとって開けると、黄色い液体があわてて泡立つ。これをわたしは体内にぐびぐびっと注入、そうしながらもコンピューターに向かい、メールボックスを開けてみると、松山さんから、カンについて書いていただけないかとの問い合わせがあった。
というわけで、さっそくわが国にも馴染み深いウィーンのピアニスト、ハンス・カンについて駄文をしたためてみたところ、いや、それは勘違いである、ウィーンのカンではない、ケルンのカンであるとの返信があり、ケルンを生地とするオペレッタの大作曲家、ジャック・オッフェンバックの名曲《カンカン》に関する似非エッセイを記したところ、いや、それも勘違いである、ケルンのバンド、カンのことであるとの返答があり、クラウトロックについても言及してほしいとのことであった。
そうか、あのカンのことだったのか、ふむふむ、と、書こうとしてみたのだが、カンについてもクラウトロックについても、かつて『ドイツのロック音楽』(1997)という本でそれなりに書きたいことは書いてしまった気がし、また同じことを書いても自分で自分を剽窃しているようで、どうも心の案配がよくない。かといって、ほかにこれといってこれぞという案も思い浮かばず、こんなときの頼みの綱とばかり、わがコンピューターの隣で寝そべっているわが家のコンサルタント・キャット、ミケに助言を請うてみた。

「これミケ、何かアイディアをくれ。カンやクラウトロックについての原稿を頼まれたのだが、かつて本に記したこととは違うことを書こうとしてみたら、何も思い浮かばず、脳内ノー・アイディア状態になってしまったのだ」

「みぁあ、そうじゃなくても、あなたの場合、いつも脳内ノー・アイディアじゃない」

「うーむ、言われてみればそうかもしれない・・・」

「で、松山さんから具体的なテーマの要望はないの? ちょっとそのメール見せてよ。どれどれ、ふむふむ。“カンやクラウトロックを生みだした1960年代のドイツの文化状況”についての原稿をお願いしたいって、ちゃんと書いてあるじゃない」

「あ、ほんとだ・・・。ちゃんと読んでなかった・・・」

「まったく間抜けもいいところだわね」

「うーむ、で、どうすればいい・・・?」

「そうねぇ、たとえば、ここで言うドイツとは西ドイツのことで、クラウトロックが西ドイツ特有の現象であることをはっきりさせ、1960年代とはいってもクラウトロックにとって重要だったのは60年代後半から70年代だって指摘しておいてほうがいいんじゃない。東ドイツでもその頃ロックバンドがいろいろ生まれたけど、つまんなかったでしょ。やっぱり国家管理されちゃったロックはだめね」

「うーむ、たしかに・・・」

「で、そのころの西ドイツの全般的状況にもちょっとだけ言っておいたほうががいいかも。たとえば、ヒトラーと第二次大戦とアウシュヴィッツのせいで、ドイツは物理的にも精神的にも倫理的にも巨大な瓦礫と化し、そのうえ東西冷戦によって国はふたつに分裂、それでも西側陣営に属した西ドイツは奇跡の経済復興を成し遂げ、世界でもっとも豊かな国のひとつとなるものの、1960年代も半ばをすぎると、それまでイケイケドンドンだった効率最優先社会が疑問に付されるようになって、男の子の髪は非効率的にどんどん長くなり、女の子のスカートは挑発的にどんどん短くなり、旧態依然とした社会からの脱却を求める若者たちが声を上げ、学生運動が高まり、反権威、反戦が叫ばれ、性や意識の解放が掲げられ、新しい生活形態や社会形態が模索されて、既存の価値観がぐらぐらに揺さぶられた熱い時代だった、とかなんとかね」

「ミケ、そんな長い文章、よくいっぺんに言えるな・・・」

「まあ、こういう若者の動きはほかの国でも起こっていたらしいんだけど、こと西ドイツに関しては、ヒトラーと一緒に走った親の世代に対する若者の反抗という側面もあったということも指摘しておいたほうがいいんじゃないの。なにしろ、復興、復興でしゃかりきに働きつづけ、過去に目をつむりながら突っ走ってきた西ドイツの多くの人々の価値観は、ただ国の体制が変わったというだけで、じつはそんなに変わってなかったんじゃないかしら。日本だってそうでしょ。その意味じゃ、1960年代後半に起こったこの意識改革の動きは、まさに本格的な戦後の始まりだったと言っていいのかもね。当時は、第三帝国崩壊時にまだほんの子供か、まだ生まれていなかった世代、つまりナチ時代を実質的に体験してない戦後世代が大人になって発言をしはじめたころでしょ。で、60年代半ばの西ドイツの首相はナチ疑惑のあったキージンガーだったけど、60年代の末には、反ナチ亡命者だったヴィリー・ブラントが次の首相になった。これって偶然だったのかもしれないけど、なんだか象徴的な出来事に思えるわね」

「うーむ、なるほど・・・」

「で、こうした変革の空気が漂うなか、英米から乱入してきたフレッシュでオープンでラウドで反抗的な音楽がロック・ミュージックだったのよ。ロックはほかの音楽形態みたいにまだ凝り固まってなくて、実験意欲旺盛な西ドイツの若い音楽家たちはこの柔軟で新しいジャンルに表現の場を求めたわけだけど、当たり前だけど本家本元の英米バンドの真似をするだけじゃ意味がないから、自分たちの身心や要求に合うように表現の幅を大きく広げてしまったのね。見かけもカンやファウストのように一応ふつうのロックバンド編成をとったものから、クラフトワークやタンジェリン・ドリームみたいに完全電子化したグループ、あるいはポポル・ヴーのようにほとんど室内楽編成とばらばら、内容的にもてんでばらばら、こうして本場の英米人もあっと驚いて逆に影響を受けちゃうような西ドイツ特産クラウトロックが生まれていくことになるのよ。でも大体のバンドは、自分がドイツ産だってことさら強調することはなかったようし、当時ロックは英語と不可分の音楽と考えられていたから、歌があるときは英語を用いるのがふつうだったみたい。自分たちはドイツからやって来たことを意図的に強調してドイツ語を使い(まあその後、国際市場向けに英語版もつくるけどね)、ドイツのイメージをアイロニカルに掲げて、ドイツ語の四角四面なリズムを音楽的に置換しながら国際的に大成功しちゃったのは、クラフトワークくらいなのものなんじゃないかしらね。ドイツのバンドがこぞってドイツ語を用いるようになるのは、のちの80年代、ノイエ・ドイチェ・ヴェレの時代になってからのことよ」

「なるほど、そうか・・・」

「それから音楽史的にみれば、カンやクラフトワークを筆頭とするドイツ産クラウトロックが重要だったのは、これが国際的な大きな影響を及ぼした初のドイツ産ポピュラー音楽だったってことね。バッハ、ベートーヴェン、モーツァルトといったドイツ音楽、いやドイツ音楽って言っちゃうと、オーストリアの人に怒られちゃうわね、訂正、ドイツ・オーストリア音楽は、19世紀のヨーロッパの世界覇権を背景に地球初のグローバル・ミュージックとなった世界的古典音楽、いわゆるクラシック音楽の中核だったでしょ。でも20世紀のアメリカの世界覇権を背景に、米英中心となったいわゆるポピュラー音楽の分野では、ドイツ語圏の音楽の貢献はほとんどなくって、バッハやベートーヴェンやモーツァルトよりは小規模だったけど、グローバルな影響をここまで発揮したのはこの西ドイツ産クラウトロックがはじめてだったのよ」

「うーむ、なるほど…」

「で、クラウトロックを特殊でおもしろいものにしていたのは、とくにカンに関して言えば、現代音楽との関わり合いだったかもしれないわね。1920年代ヴァイマル時代のベルリンじゃ、シェーンベルク、ヒンデミット、アイスラー、ヴァイルといった当時の前衛作曲家がそれぞれのやり方で、マーラーあたりでどん詰まりになっちゃったドイツ語圏&ヨーロッパ音楽の可能性を模索してたんだけど、そうこうするうちにヒトラー政権ができちゃって、みんな亡命、ナチ時代のめぼしい音楽的成果といえば、カール・オルフの《カルミナ・ブラーナ》くらいのものだったでしょ。とはいっても、万人受けするこの世俗カンタータは、20世紀ドイツ音楽最大のヒットのひとつとなっちゃうんだけどね。
戦後西ドイツでは、ヒトラーのおかげで分断されてしまった前衛音楽文化、とくにシェーンベルクの新ウィーン楽派あたりに接続して遅れを取り戻そうと、積極的に現代音楽に力が入れられ、その有名な例がダルムシュタットの現代音楽講習会やケルン西部ドイツ放送の電子スタジオなんかでしょ。で、このケルンでは、シュトックハウゼン、B・A・ツィンマーマン、それにアルゼンチン出身のマウリシオ・カーゲルという戦後西ドイツを代表する作曲家たちが活動していたのよ。すごいわね、この頃のケルンって。ヨーロッパ現代音楽の一大中心地だったのね。
で、カンもケルンのバンドでしょ。メンバーのシュミットさんやシュカイさんは(誤植じゃないわよ。長母音のシューカイじゃなくて短母音のシュカイが正しい発音よ。ご本人がそう発音していたんだから間違いないわ[*1])、シュトックハウゼンに学んだ音楽家だったでしょ。創立メンバーだったけど、すぐ脱退しちゃったデイヴィッド・ジョンソンさんも現代音楽の人で、1970年には大阪万博ドイツ館で師のシュトックハウゼンの助手をつとめたし、カンはその後美術のほうに進んだ異色の現代音楽作曲家ミヒャエル・フォン・ビールとも共演したことがあって、けっこう影響を受けたらしいわよ[*2]。で、ドラマーのリーベツァイトさんは、いわばジャズの現代音楽版であるフリージャズの奏者をやっていた。この人たちが自分たちの分野の禁じ手に束縛を感じてロックという新しい音楽形態を試してみたのがカンだったのね。つまり、シュミットさんとシュカイさんのいたクラシック/現代音楽世界では譜面を使わないのは禁じ手、リーベツァイトさんのいたフリージャズの世界では同じビートを反復するのは禁じ手。で、カンは禁じ手解禁バンドとして発足、同じビートを緻密に強力に反復するドラムスを基盤に、譜面を使わず即興を重ねて曲をつくり、やっている本人たちがロックの門外漢だったためロックが換骨奪還され、傍目にはロックしているんだけど、中身はロック・ミュージックしてなくって、うまくいったときには、みんなばらばらに音を出しているようで周密度の高い異様なグルーヴが生じるという、無類の音楽がつくりだされていったのよ。
で、40kmほどライン河を北上したところには、ケルンのライバル都市デュッセルドルフがあって、そこはクラフトワークやノイ!の街。そしてケルンが現代音楽のメッカだったとすると、こちらは現代美術の一大中心地、なにしろデュッセルドルフの芸術アカデミーは、ヨーゼフ・ボイスやゲアハルト・リヒターの活動拠点だったのよ。クラフトワークのフローリアン・シュナイダーさんとラルフ・ヒュッターさんが、こうしたアートの世界とどの程度まで関わっていたのかは知らないけど、シュナイダーさんのお父さんは、高名な戦後西ドイツ・モダニズム建築家でデザイナーのパウル・シュナイダー=エスレーベンだったし[*3]、クラフトワークのヴィジュアル担当だったエーミール・シュルトさんはヨーゼフ・ボイスやゲアハルト・リヒターに学んだ人だったでしょ[*4]。完全電子化したあとのクラフトワークは、単なる音楽グループを超え、ヴィジュアルを含むコンセプト・グループと化したのは、やっぱり現代アートの街デュッセルドルフの空気が影響している部分もあったのかもね。
とにかく、クラウトロックのなかでも最大の影響力を持っているカンとクラフトワークが、それぞれ現代音楽と現代アートの一大中心地のバンドだったってことは、じつに興味深いわね。それが単なる偶然だったとしても、じつに興味深いわ。
それだけじゃないわよ。近くのエッセンやヴッパータールではコンテンポラリー・ダンスの大家ピーナ・バウシュが活動していたし、やはり近くのボーフムの劇場は戦後ドイツの代表的演出家のひとり、ペーター・ツァーデクによって興隆を迎えていた。
そしてここに挙げた街はみな、西ドイツ最西部のライン=ルール大都市圏内のご近所同士。クラウトロックにしろ、現代音楽にしろ、現代アートにしろ、コンテンポラリー・ダンスにしろ、この都市圏でこんなに重要な各種現代文化が集中的に乱れ咲いたのは、たぶんこの時代だけかもしれない。あたかも1920年代に乱れ咲いたベルリン文化が、50年後にライン河畔の街々に乗り移ってきたようなものね。かたや当のベルリンは戦後、冷戦のとばっちりを受けて街が東西に分裂、壁で包囲された西ベルリンはドイツ最大の人口を有する大都市でありながら飛び地として辺境化しちゃうという、世界に例をみない異様で異常な状況に陥ってしまったのよ。
この辺境都市西ベルリンでは、スイス出身の現代音楽作曲家トーマス・ケスラーが市の委嘱で〈エレクトロニック・ビート・スタジオ〉っていうのを運営していて、タンジェリン・ドリームやアジテーション・フリーなんかの指南役をつとめながら、彼らをテープ操作や電子音楽の世界に導いたそうよ[*5]。今でもそうだけどドイツは音楽施設や文化施設がほんとに充実しているわね。やっぱりこういう環境だと出てくるものも違うのかも。ちなみに西ベルリンがドイツ・サブカルチャー音楽の一中心地となるのは、壁の崩壊を間近に控えた1980年代のポストパンク/ノイエ・ドイチェ・ヴェレの時代になってからのことよ」

「うーむ、なるほど・・・」

「それに、クラウトロックとほぼ並行して西ドイツで異様に盛り上がった分野があるわ。映画よ。ニュー・ジャーマン・シネマ(新ドイツ映画)って呼ばれているものよ。ファスビンダー、クルーゲ、シュレーター、ヘルツォーク、ヴェンダース、シュレーンドルフといった人々が登場し、ドイツ映画が芸術として盛況を極めて、こんなに国際的に高く評価されたのは、ルビッチュ、ムルナウ、パープスト、ラングといった監督さんたちが映画史の古典となる作品を生み出したヴァイマル時代の映画以来のことじゃないかしら。とにかくニュー・ジャーマン・シネマの担い手たちは、クラウトロックの音楽家たちと大体は同じ世代で、同じように各自のスタイルはばらばら、やっぱりお決まりの図式もやり方も排し、自分の身心と要求に適った表現を求めた人たちだったわね。それしても、録音と録画という典型的な20世紀技術に基づく典型的な20世紀マスカルチャーの音楽と映画が、西ドイツでこんなかたちで同時期に興隆を迎えたっていうのは、興味深い事実だわ。これについてはちゃんと考えてみる必要がありそうね。とにかく、すごくおもしろい時代だったのはたしかみたい」

「うーむ・・・」

「とはいっても、そのころの西ドイツ全体がクラウトロックやニュー・ジャーマン・シネマに染まっていたわけじゃなさそうね。こういうのはあくまで一部のはなしで、巷の小父さんやお兄さんたちは、“ニュー・ジャーマン・シネマ”とは縁もゆかりもない大ヒット・エロ映画シリーズ『女子学生㊙レポート』で鼻の下をのばしていたようだし、市井のお姉さんや小母さんがたは、クラウトロックとは縁もゆかりもないロイ・ブラックやウド・ユルゲンスの大ヒット・ラヴソングにぞっこんになっていたみたいよ。まあでも、いつでもどこでもそういうものだろうけど・・・」

「うーむ、なるほど」

「あら、やだ!  気がついてみたら、この原稿、ほとんど全部わたしが話したことそのままじゃない。あなたが発言は最初のどうしようもない数行と、合間のどうでもいい相槌だけ。これじゃ、わたしのひとり働きじゃない! だから原稿料は全部わたしにちょうだい!!   わかった?」
 

 
註:
*1 1982年、初来日したさいにご本人に正しい発音をおききした。ただし本人以外のドイツ人は「チュカイ」と発音することが多く、一緒に日本を訪れたコニー・プランクもそう言っていたし、発音案内サイトforvoでも「チュカイ」と発音されている。よく知られるようにシュカイの戸籍上の姓はシューリングSchüringだが、これは本人の祖父が、ナチ時代、本来の名字であるスラヴ語系のシュカイをシューリングに変えて「ゲルマン化」した結果である(Rob Young & Irmin Schmidt: Can. All Gates Open. London: Faber & Faber 2018, p.19)。当時、シュカイの生地であるダンツィヒ(現ポーランド、グダニスク)では、ポーランド語の姓を持つドイツ人の改名が流行となり、ギュンター・グラスのダンツィヒ小説《『猫と鼠 Katz und Maus》』にも、神父のグゼフスキがグーゼヴィングと名を変え、肉屋のオルチェフスキはオールヴァインとなった、とのくだりが出てくる(Günter Grass: Katz und Maus. München: dtv 2006, S.114)。なおシュカイCzukayはポーランド語で「探索、検索」を意味するSzukajの変形で、ポーランド語のグーグルで「検索」をするときには「Szukaj」の表示ボタンをクリックすることになる。
 
*2 カンと現代音楽の関係については、音楽学者ローベルト・フォン・ツァーンがカンのシュミット、シュカイ、リーベツァイトの三人にインタヴューしたKunststiftung NRW (Hg.): von Zahn/Czukay, Liebezeit, Schmidt: Can. Köln: Dumont 2006 に詳しい。この本にはデイヴィッド・ジョンソンやミヒャエル・フォン・ビールのインタヴューも収められているし、各人の現代音楽歴もわかる。
 
*3 フローリアン・シュナイダーのお父さん、パウル・シュナイダー=エスレーベンの作品や履歴などについてはPaul Schneider-Esleben | Paul Schneider-Esleben (schneider-esleben.de)に詳しい。
 
 
*5  Christoph Wagner: Der Klang der Revolte. Die magischen Jahre des westdeutschen Musik-Underground. Mainz: Schott 2013, S.72 ff. 音楽ジャーナリスト、クリストフ・ヴァーグナーのこの本は、西ドイツのロック黎明期について子細に記述されたもので、いわゆる“クラウトロック”の文脈では補足しきれないバンドやアーティスト、あるいはイベントなどを幅広く網羅している。逆にクラフトワークやカンなど触れられることが多いグループについての言及は少ない。