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  • 2020年11月3日

映画川 『天使/L'ANGE』

今回の映画川で取り上げるのは、11月7日(土)からシアター・イメージフォーラムで公開される『天使/L'ANGE』。パトリック・ボカノウスキー監督が、セット作りから撮影、特殊効果、編集までを自ら手掛け5年の歳月を費やして1982年に発表した処女長編で、日本では28年ぶりの劇場公開となります。7つのシークエンスからなる幻想的な映像と弦楽四重奏を中心とした鮮烈な音で構成され、初公開時には新たなアヴァンギャルド映画として絶賛され異例のロングラン公開となったという本作について、原智広さんが考察してくれます。

Dormez dans l'éternité avec les anges.


 
文=原智広

 
本作のタイトルである「天使/L'ANGE」と「悪魔/Le Démon」、その二元論的世界にわれわれがもう辟易しているというのは言うまでもないが、かつて異端派として確かに存在していた「カタリ派」に、一時期、アウグスティヌスがご執心だったマニ教といえども、新プラトン主義(実はイデアなどない)、ヘルメス文書がヨーロッパで流行、「ナグ・ハマディ」写本の発見、所謂、研究的成果は「物質」と「存在」を確かに誰も認めない(というか事実上掴めない)以上、これは常に不確かなものでしかなく、何も参照するに値しない。高次の霊たるもの(記憶する限り、このような文献を読むことを最近、私は全くしていない)でもあったソフィア(智慧)の失墜により、この落下とある種の世界の救済の可能性は、天使たちの実在によって明瞭となったが、当然神々の弾圧は避けられず、デミウルゴス(偽の神、低次元の神だった。それは当然悪魔へと変貌を遂げるのだ)らによって偽の世界が作られたという。そこにわれわれはいるのだ。
 
ひとつだけ間違いなく確かなのは、 L'ANGEは複数いて(ソフィアはその一人だ)、Le Démonはおぞましいまでの数がうよいよいる。したがって、単数で表すことは間違っている。
 
本物の世界は当然のこと「プレローマ」であるにはあるが、したがって、われわれはどこにも存在していないし、何も手にとったり、見てとることも許されていない。光学を勉強したという、パトリック・ボカノウスキー監督は当然のことそれはグノーシス(知性)として知っていたであろうし、光学とは同時に、教会(スコラ学)とは切り離せない関係にあった。この命題に立ち向かおうとしたものたちは(トマス・アクィナスが有名だろう)自分が今まで書いたものはすべて藁くずにすぎないと悟り?を開くことになる。したがって、グノーシス主義は「学問」でもあるし「宗教」でもあるので、それほど今はご執心というわけではない(アルトーの最期のノートの読解のために資料として精々少し参照するだけだ)。それに、デカルトの屈折光学までいくとあまり面白くはない。私も読んでいない。唾棄すべき机上の空論である「科学」へと直結するからだ(人間が想像しうるいかなる最高度の科学を構成(捏造?)しようとも、真理を射貫くことも、発見出来ないことは、当然の前提認識として)。ニュートンも知らない。特に関心はないのだが、いや、しかし、ニュートリノにはロマンがあるのでよしとしよう。
 
だが、光学が乗り越えようとする壁は果てしなく(私もこの論考からは撤退した。2012年のことだ)人間には感知できない領域にある以上、とっくに自殺したわれわれ(ジャック・ヴァシェを筆頭に)を含め、この世界で腐敗したものたちは、「自分自身」を殺すか、一個の「世界」を殺すかの何れかの選択肢をとることになる。
 
このフィルムは悪魔ども(或いは人間どもと言い換えても?)と天使たちの闘争のように私には見える。天使たちはかつてのソフィアの例のように地上との媒介者となることはごく稀にありえるので、その声を聞いたものたちは、血の刻印を、血の文字を、血のフィルムを撮る運命にある。或いは高次の霊たちを見上げ、絶対に届かないであろう、天空に思いを馳せる。(正気か?狂ってるのはわれわれか?)
 
そういった絶舌、音響と切り刻まれたヴィジョン、羅針盤、磁力の方向さながら、カットアップ、この世に捕らえられたわれわれを、より一層明瞭に認識するために『天使/L'ANGE』はつくられた作品なのだろう。
 
この無謀にも思える一連の映画というフォーマットで挑んだ彼の実験は、「無意識という名の意識」を翻す可能性を秘めてはいるが(私はかつてこの世に1作品もシュルレアリスム映画などはないと書いた記憶がある)、やはり、ここにも一個の世界(映画)が存在する以上、なんと遠いものか!とため息をつきながら、鳥たちは憔悴し、私はこのような愚鈍な挑戦を観る度にあまりの人間の無力さに落胆するのだ。
 
なんというむなしさ。すべてはむなしい。美しさも同時に、汚さも同時に、この世界で生きている以上は避けねばなるまい、きれいはきたないきたないはきれい(他所のことだけを感知し、時折天使からの伝言を受け取るとしよう)。
 
この映画は「実験映画」というものがあると仮にするならば(なんてつまらない言葉、アヴァンギャルド映画といえばいいのか? もっとくだらない)、確かな「映画」としてひとつの地位を確立しているように私には思えた。それだけは断言しておこう。
 
実験映画? 別にどうだっていいけれど。『アンダルシアの犬』、『貝殻と僧侶』(これはアントナン・アルトーの作品ではない。誰も言うものがいないので。アルトーは着想を与えはしたが、脚本は書き換えられ、現場に行くことすら拒否されたのだ)、寺山修司、マン・レイ、ウォーホル、ケネス・アンガー、マヤ・デレン、ガイ・マディン、 デレク・ジャーマン(折角の機会なので、同時に『エンジェリック・カンヴァセーション』にも射貫かれてみようか)、デヴィット・ヴォイナロヴィッチ(彼は写真家で作家でもあるが、凄くいい映像作品を何本も撮っている。去年ベルリン国際映画祭でヴォイナロヴィッチの作品の特集が組まれたはずだが。海外文学の翻訳も、海外映画の配給も、日本は類まれなる後進国家だと私は思う。誰も作品を見る目がないから。どこかの国の目利きが評価して、国際的に作品の価値が確立されてから、日本のうすのろどもは動き出す。そういうわけで、最低でも10年、長いと30年は遅れることになる)、長谷川億名(実験映像ばかりだな。『イリュミナシオン』だけは推薦しようか。私とは絶縁している)、その他(レトリスト? シチュアシオニスト? そんなのもいたっけ)、どうでもいい有象無象が連なってはいるが、名前を敢えて挙げたいとすれば、私が知る限りこれくらいだ。仮にそのような実験映画の一連の影響を受けている監督がいるとするならば、フィリップ・グランドリューや遠藤麻衣子は物凄くいい「磁場を感知した」作品を撮っているが、これらの作品は「実験映画」ではない。
 
P.S. 誰かグランドリューの作品を配給しないものか?(『Sombre』か『La Vie nouvelle』を求む)
 
デュラスやカラックス、ヘルツォークなど(もっと言いたい名前もあるが堪えておこう)は上記のものたちとはまた、別次元なのは言うまでもないだろう。それに私は映画をそんなに知らないし、観ていない、暇じゃないんだ。私は私で「死者たち」と会話することで忙しい。
 
その「映画」と「実験映画」との差異を私は考える。語り手は所詮語り手にすぎず、道徳の守護者たちに唾を吐き、最も強力なフィルムの不滅性の共犯者たちは上記に挙げたものたちであるが、広がりと構成と繰り返し、スキャンダラスな残酷さと同時に明瞭に浮かぶと共に彼ら、彼女らに敬意を持つ(最もこの範疇で語るならば、サド以上に尊敬するものはいないということにはなるが)。その差異を考えるならば、ひとつはありふれていることだが「物語」、もうひとつは唾棄すべきものである「構成」、最も重要なのは「磁場」、「地軸」、「風景」、「他者性」、「死者たち」、そして「感知する資質」だ。


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パトリック・ボカノウスキーの存在を私は知ってしまったので(実はこのような存在を私はもう知りたくないのだ)、これを批評すること自体が非常に馬鹿馬鹿しく、私も仕方がないので、ごちゃごちゃと喋るが、メタモルフィーズの悪夢と幻覚の中に不安な意志の狂気と夢の狭間に、この狂気を支配する手段として、この選択をパトリック・ボカノウスキーが採用した以上は、これ以上のものを創ることは表現者(ああ、この言葉、くだらねえな。「そのうち、街中を歩くものがどいつもこいつも表現者となるだろう、そしてその中で自分を見出すのは凄く難儀なことだろう」(クラヴァン)。スペクタクルの社会め、くたばっちまえ、残念ながら私もその劇の一人として加担してしまっているようだ)なら誰もが知っている以上、虚無であり死なのだから。振り子のように揺れ動く、不安と錯乱、この世の中で誰もとろうとしない禁断の果実(EVA?)。誰よりも視界を広げて大きく見開いて生きつづけ、すべてが無意味だと知る瞬間に、海の藻屑と共に消え去ろう、この金縛りの剣は、ギロチンと共に、実はおのれの首を切る運命にあるのだが、この夢は実現されるのか、そうならば、夢を遂行しつつ、それを滅す手段を、表現者(ああ、また、言った誰が? 私じゃない。他者だ。一個の)ならつくりつづければならない。死のうと生きようと、自分自身が死んでいることは当の昔に気づいては当然いるわけだが、死んだままの状態で、生存とその環境とある種の懺悔(コーランを読め!)、肉体的道徳的苦悩、ルールに縛られたぼろきれに似た「自分」という何か。
 
白日への挑戦、視野を占拠するように、光命を辱めるように、撤退、これがポエジー? これが詩句? くだらないねえ、映画的豹変と憑依、懐疑を、時として信仰を、断想という物語性を廃棄したいくつものイマージュ、これは「天使」ではない、彼の考えは極めて「邪悪」であり続ける。
 
不幸も闇もヘブライの神に存在し、祈りとは紛い物の行為とも見てとれる、昨今、美学を、断罪することを口実に、なあ、あんた、どんなに天使に接近したか、見せびらかすつもりか? これは遊病的な、夜の世界に属する類の代物だ(光の世界に属するといって欲しかった? 見くびらないで頂きたい。あんたはまるっきり闇だ)。
 
荒廃、知性の黄熱病或いはねばねばするもの、わずか一瞬でもいいから、同類だと感じた己を恥じて、中断されることのない悪魔どもとの戦いの連続(あんたのもとに天使はいやしないぜ、知ってるだろ?)、黙示録的舞踏、傲慢さの暗礁、あまりにもおろかに、あまりにおろかに愛しすぎた故にその情熱と共謀(どいつの企み? 神でもない。キリストでもない。天使たちでもない。だって永遠に降りてはこないから)、有罪とされるすべてのものを、切り裂こうと? ああ、ばかばかしい。あんたにはうんざりだ。辟易している。このフィルムに嘔吐する。
 
したがって、パトリック・ボカノウスキーの作品を肯定も否定もしない立場に私はあるわけだが(当たり前のこと、誰にだって他者に干渉は出来ない。呪われてしまうから。ああ、なんて嫌な映画だ)願わくば、物音も暗闇も偏執もない静かな儀式とも言えるようなこの『天使/L'ANGE』を観て、悪魔どもと天使たちの狭間にいる、われわれを生命の唯一の実体として、明晰さの最高の極みの中で、まったく読解不可能な言語の書物を読むように(実際にこの映画には大量の書物が出てくる)祈ることだけをしてみようじゃないか(当然、あんたは地獄行き、その運命を選んだからだ)。
 
終末はもう語るまでもなく見え透いている。非現実な言葉。或いは法定証書にて、届くことが。
 
「身元証明なしで.......死亡」(ロートレアモン)
 
伝言は何もないが、もしあるとするならば、パトリック・ボカノウスキー宛にて。
「あんたのせいだ。墓はいらない」



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天使/L'ANGE
1982年 / フランス / 64分 / 配給:ミストラルジャパン / 監督:パトリック・ボカノウスキー / 音楽:ミシェール・ボカノウスキー / 出演:モーリス・バケ、ジャン=マリー・ボン、マルティーヌ・クチュール、リタ・ルノワールほか
2020年11月7日(土)よりシアター・イメージフォーラムでロードショー
公式サイト