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  • 2020年9月28日

映画川 『TOKYO TELEPATH 2020』

10月10日からシアター・イメージフォーラムで公開される『TOKYO TELEPATH 2020』は、沖縄で撮影された『KUICHISAN』(2011)、アイスランドとインドで撮影された『TECHNOLOGY』(2016)に続く遠藤麻衣子監督の最新作。遠藤監督が自身が生まれ育った東京という都市を初めて記録した本作は、2人の少女による東京の“結界”を正す歩み、あるいは、テレパシーでのコンタクトを軸に展開されていきます。本作および遠藤監督の作品世界について、原智広さんが独自の言語で余すところなく表現してくれています。

テレパシー解析 磁場と錯乱 遠藤麻衣子論 TOKYO 2020



文=原 智広


遠藤麻衣子という異質な存在は一体何なのであろうか。日本語と英語、音響、ノイズが錯乱し彼女の映画世界に困惑させられる。一種のぶつ切りの痙攣的な発作、感受性という偶然の場に任せてこの映画は展開される。私は言葉を失った。神経回路全体が舌の先からイメージの濁流が吐き出しそうで今にも吐きそうになり、そして私は覚醒した。掌握に浸食されることなく自由に語ることのできる可能性、観客たちは、彼女の世界の掌握に浸食され、ある種の特異性を発見するだろう。周波数分割多元接続で一つの伝送路で複数チャンネルの同時通信が可能、ひとつの次元でなく、映画という形式を無論のこととび越えた「何か」。テレパシーは変化に富む地底を蛇行する管の中を、身を捩らせて進み反対の極から複数という概念が産まれ、何故だろう? やがて三次元的漂流物体として接近してくるものを暗示してはいたものの、たしかにそれを言い尽くしたわけではないのだが、2020の意味が氾濫し、異世界を彷徨する。テレパシー回折図形は、結晶の回折図形のようにカバラ関数的な回折スポットの集合であるにも関わらず、2回、3回回転対称性に加え、結晶には存在しない5回回転対称性を示しこの映画の被験者に対して過剰な記憶を相乗し超越化した認識を垣間見させる、夢? 違う。無意識? 違う。
 
そこにただある見えるものを抽象的イメージに従って理解する。それは、われわれが目にするような光でも、太陽は火のような光でもない。そうではなくて、われわれにとって複雑に織り成すイマージュの旋律だ。構造は重原子同型置換法、異常分散を利用した方法あるいは分子置換法によって決定される。すべて在るものは数的に一であるから、普遍的事象は数的に一であるか(もしそうでなかったら)そもそも存在しないか、のいずれかとなる。この体験は一体何なのだろうか。ある意味で有機的ともいえるし、無機的ともいえる、凄まじい映画だ。異常分散を利用した方法あるいは分子置換法によって決定され、普遍に激を飛ばし閃光を放ちながら炸裂的実体性と闘い続ける目がみえなくなってもいいそれは宙づりの場所にある。
 
その映像と音響のうねりに乗り、光とモーションと多言語的世界のうねりを行く人影が作り出す奇妙さの中へ。いくつものイメージを抜け、夜の層を通り抜け、霞んだ記憶、時折顔がなくなり、フォーマットの上で身体の動きだけがみとめられ、見知らぬ人たちの輪郭を照らす、私はそのひとたちを知っていたかもしれないし、知らなかったかもしれない。私は完全な放心状態になりかけた。ある時点で目覚めたような気もするが。それは数分前だったかもしれないし、数時間前だったかもしれない。数日前だったかもしれないし、数年前だったかもしれない。こんな感覚に襲われたことはかつてなかった。これは戦慄だ。恐怖だ。


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誘う。
誘う。
誘うように。
 
語りかけた幽霊たちは言葉を失う。言葉を捨てる。それは言語ではないのだから。私たちが見ているもの聞いているものそれは本来のものではない。遠藤麻衣子という視点を通り過ぎるとすべては湾曲し、蚊の目玉のように乱反射して見える。この特異な体験は恐らくこれからないだろう。自動機械のように喋るエフェクトをかけたロボットたち、世界を壊したまえ。彼女の視点は義眼のようなものだ。私たちが通り過ぎたあとの残骸を再構築し、そこで世界は展開される。瞬き、時が止まること、耳鳴り、エネルギッシュな語り口、洞窟の中にいるような。言霊を奪還せよ。個体と液体の有機的処方、構造的改革、螺旋状の海、消えかけた私はもう一人の私を探し、それは観客としての私だったが、放心状態だった。問いかけた。これは映画なのでしょうか?
 
幾何学的な迷路の中で、呟く彼女たち。不在の空虚の象徴というわけではない。人々は外部にいる。介在するもののすべてよ、滅びたまえ、この映画に注視し、意欲を注ぎたまえ。
 
モノローグを重視している映画だと、マルグリット・デュラスの映画、ゴダールの「ジガ・ヴェルトフ集団」、映画『スペクタクルの社会』、レトリストの映画などがあるが、それらとも全く違う言語感覚を駆使している。
 
この崇高さと祈りとある種のバグはノイズの中で爆竹のように飛び散り、一切観客に答えを求めない。それでいい。彼女が観たものを魅せることが彼女の役割だ。泡沫の結晶のようにすべては消え去り残響音だけが鳴り響く。もう終わりにしようというその合図で世界は一変する。魂よほえろ。夜明けを待て。オカルト、オリンピック、残照、周波数を交信させる。この凄まじさと爆裂。映画という沸点を超えるもの。点から点へ構造物から構造物へ、破局化された魔術、我々は救われることを求めない。意味があるし意味がないもの。暗極。さらば東京。さらば都市、さらばオリンピック。少女たちは呪文を唱え、それぞれの居場所を発掘する。少女たちのテリトリー。つかずそして離れるものたちよ。


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ええ はい 正直に言うと私はこの映画に混乱しています。言語化することが非常に難しいのです。もちろん目は確かです。向こう側が見えるのかもしれませんがそれは罠かもしれませんしね。言うまでもなくこの手法は言いたくないですが自動記述に似ていると断言せざるを得ません。それだけ不気味で視覚を遮っていた結晶体が壊され、見える気がするのです。本当かどうかは分かりかねます。調法とリズムと音響に攪乱されて、『フィネガンズ・ウェイク』のような世界に誘われる。私はこの書物をあまり理解出来ないように遠藤麻衣子監督の映画も凄まじいまでの魅力に満ちているが、それは私が知っている手法を現実にこなしているバケモノだからだ。私はただこの映画に憑依された。語るまでもなく、私は白痴なのではないかと思った。その感覚を植えつけられて、私はプラモデルの植物を育てた。
 
闇の中に沈もう。光を見つけよう。
そして、新たな視点を発見するのだ。
 
パラリンピック、オリンピック、そして東京という言わば廃墟のような場所。隔離、無実体は、我々の目前まできている。それは何なのか?
電信信号、while queue not empty
        v=dequeue(完全な体感として刻まれるような血管の彫刻を
 
(or (zerop (- (car ls) x))
             (spam (cdr 不純物が混じった状態で出来た映画
 
return x in list個人と他者との地理的距離を破滅させた非人称的な記憶
 
存在しない。存在しない。存在しない。何もかも。すべて無くなれ
崩壊した都市を直視せよ!
 
私が問いかけたテレパシーには複数のチャンネルが確かにあった。
そこから飛躍するもの。
何も語りかけないように静かに見守る有機線。
 
遥かなる大地は都市に飲み込まれる、我々はそれを拒否出来ない。夕闇で魔女の指を見た少女のように。都市がまだ構成されていないから。あるいは人間が世界に対してまだちっぽけな観念しか持っていないから。都市の観念を停止させた。正直な話、この映画の可能性についても私はそれが何だかよく分からなかった。一石を投じる遊牧民のように少女は、都市と対抗する。その美しさ。内部の無の声。無であり、無思考であり、何か置き換えるべきものが存在するという可能性を私は体感した。都市の湾曲がねじれるのを私は聞く、そして問いかける、意味不明な呪文を解体する。神経回路全体は振動と響きによって奏でられる。ある種の遊離感。そうです、誘うのです、この新しい異様な光輝く顕現を、映画を通してひっくり返すために。
 
かつていたと思った私はそこにはもういなかったし、残像のようにこの映画の黒幕の一人として存在しているのかもしれない。ブラー。無実体。有機的化合物。これは毒物だ。
 
「白矮星は進化の最終段階に達した星である」
 
この映画はそれを沸点として徐々に崩壊する惑星のように、鏤められる。
 
爆発。
 
この映画を体感したときに、あなたたちは共通言語を持たなくなるだろう。



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TOKYO TELEPATH 2020
2020年 / 日本 / 49分 / 配給:A FOOL / 製作・監督・脚本・編集:遠藤麻衣子 / 出演:夏子、琉花ほか
2020年10月10日(土)~30日(金)シアター・イメージフォーラムにて限定上映
(過去作『KUICHISAN』『TECHNOLOGY』も上映)
公式サイト