- 映画
- 2020年6月28日
映画川 特別編: 映画のエジソン的原理へ
大寺眞輔さんによる特別寄稿「映画のエジソン的原理へ」をお届けします。この数ヶ月間、新型コロナウイルスのパンデミックに伴う映画館の休業や映画作品の公開延期、その事態を受けてのクラウドファンディングや署名活動などの救済運動、さらに映画会社アップリンクのパワハラ訴訟などから、映画館や配給会社の経営や労働体系をめぐる諸問題が浮き彫りになってきています。これは映画を見せる側と見る側の双方が、この先いかに映画と関わっていくのかを見つめ直すべき時でもあるのではないでしょうか。ここでは大寺さんが、エジソンのキネトスコープを出発点に新たな映画の可能性を提言されています。
映画のエジソン的原理へ
文=大寺眞輔
1895年12月28日。これはリュミエール兄弟がパリのグラン・カフェでその新たな発明品シネマトグラフを初めて一般公開した日だ。日本では、この日を映画の誕生日とみなす映画ファンも多い。だが多少でも映画史を学んだことがあれば、エジソンのキネトスコープがこの数年前に既に発明され一般公開されていたことを知っているに違いない。では何故、シネマトグラフを最初の映画とみなすのか。
まず事実として、エジソンの母国であるアメリカでさえシネマトグラフはあっと言う間に娯楽産業を席巻した経緯がある。一人の観客につき一台の装置が必要となるキネトスコープに対し、一度の上映で多数の観客が同時に鑑賞可能であるシネマトグラフが圧倒的にコスパ面で優れていたからだ。シネマトグラフの特許を買い取ったシャルル・パテが機材の販売からコンテンツ商売へと重心を移し、マーケティング的に成功した意味合いも大きい。さらに社会学的見地から言うと、近代における大衆文化の勃興期にあたり多くの匿名的消費者である彼らに対し同じ商品を安価で同時に大量に提供可能であるシネマトグラフの特性が、まさに時代の要請に見合うものだったことも指摘すべきだろう。
観客の側に視点を移せば、大スクリーンで映画を鑑賞するスペクタクルや、多くの他人と同時にスクリーンを見つめる体験の共有もまた、映画館が誇るその特殊な魅力としてしばしば顕揚される。近年ではさらに、ルイ・リュミエールによる初期シネマトグラフ作品において、既に現在の映画的感性を先導する何らかの萌芽が見られるという言説まで見られるだろう。だが、こうした議論には注意すべきだと私は思う。何故なら、私たちは現在の自分たちの視点からその起源を捏造しがちだからだ。過去はしばしば現在の都合によって作り替えられ、私たちが正当化したいと願う何らかの価値を下支えするため、現在の後で生み出される。だが過去はたった一つしかない現在のためではなく、もう一つの現在、あるいは未来のためにこそ振り返られるべきではないだろうか。
ここで一言断っておきたいが、120年以上にも及ぶ映画史の長い歩みを、この小文でまるごと振り返ろうなどという無謀な野心を私は持ち合わせていない。にもかかわらず、キネトスコープとシネマトグラフという映画創生期における神話的な二つの固有名詞を冒頭に置いたのは、結局の所、私たちが正面から見据えるべき現在の課題から私たちの目を背けさせる最大の心理的障壁がそこにあるからだ。
例えば私たちは、誰かが作った新作映画のプレビューをVimeoリンクで見たとして、その後劇場公開された同じ作品を映画館で見直し、ああやっぱり大きなスクリーンで見ないとこの良さは分からなかったと口にする。こうした感性を否定するつもりはない。確かに映画館で映画を見る体験には、ネット動画を見る時とは違った価値が含まれるだろう。さらに言えば、そこには確かに「映画の原理的体験」と呼びたくなる何かがあるかもしれない。ただし、であったにせよ、それは正確には「リュミエール的映画」の原理的体験なのだ。
そこには、大勢の観客が同時に大きなスクリーンを見つめるというシネマトグラフの形式によって醸成された美的感性がある。ジョン・フォードのモニュメントバレー、ロー・アングルから撮られた小津安二郎の失われた家族、真っ暗な観客席から息をひそめて覗き見られるヒッチコックの隠微な犯罪現場。こうした風景に胸ときめかせた私たちは、それらネット動画では体験できない原風景が私たちの記憶の奥底に刻印され、したがって映画を作る者は映画館の大スクリーンを目指すのが唯一の正解であるとしばしば考えるようにもなる。
しかしそれは、本当に唯一の正解なのだろうか。例えば、先に上げた3つの典型例の中でさえ、ヒッチコック的窃視者の欲望は現在の私たちが日々携帯する小さなモニターの中において十分実現可能なものであるように見える。そこに必要なのは、ちょっとした視点の切り替えと価値転換だ。例えば、キットラーはドットの集積であるモニターの技術的祖先が影絵ではなくレーダーであると指摘する。モニターを見つめる私たちの視線は、夢や欲望の投影ではなく索敵とフォッグ・オブ・ウォーによってドライブされているのかも知れない。そこには、21世紀の新たなヒッチコック像、デヴィッド・リンチ像を夢想させるに十分なヒントが存在していないだろうか。
観客の側に視点を移せば、大スクリーンで映画を鑑賞するスペクタクルや、多くの他人と同時にスクリーンを見つめる体験の共有もまた、映画館が誇るその特殊な魅力としてしばしば顕揚される。近年ではさらに、ルイ・リュミエールによる初期シネマトグラフ作品において、既に現在の映画的感性を先導する何らかの萌芽が見られるという言説まで見られるだろう。だが、こうした議論には注意すべきだと私は思う。何故なら、私たちは現在の自分たちの視点からその起源を捏造しがちだからだ。過去はしばしば現在の都合によって作り替えられ、私たちが正当化したいと願う何らかの価値を下支えするため、現在の後で生み出される。だが過去はたった一つしかない現在のためではなく、もう一つの現在、あるいは未来のためにこそ振り返られるべきではないだろうか。
ここで一言断っておきたいが、120年以上にも及ぶ映画史の長い歩みを、この小文でまるごと振り返ろうなどという無謀な野心を私は持ち合わせていない。にもかかわらず、キネトスコープとシネマトグラフという映画創生期における神話的な二つの固有名詞を冒頭に置いたのは、結局の所、私たちが正面から見据えるべき現在の課題から私たちの目を背けさせる最大の心理的障壁がそこにあるからだ。
例えば私たちは、誰かが作った新作映画のプレビューをVimeoリンクで見たとして、その後劇場公開された同じ作品を映画館で見直し、ああやっぱり大きなスクリーンで見ないとこの良さは分からなかったと口にする。こうした感性を否定するつもりはない。確かに映画館で映画を見る体験には、ネット動画を見る時とは違った価値が含まれるだろう。さらに言えば、そこには確かに「映画の原理的体験」と呼びたくなる何かがあるかもしれない。ただし、であったにせよ、それは正確には「リュミエール的映画」の原理的体験なのだ。
そこには、大勢の観客が同時に大きなスクリーンを見つめるというシネマトグラフの形式によって醸成された美的感性がある。ジョン・フォードのモニュメントバレー、ロー・アングルから撮られた小津安二郎の失われた家族、真っ暗な観客席から息をひそめて覗き見られるヒッチコックの隠微な犯罪現場。こうした風景に胸ときめかせた私たちは、それらネット動画では体験できない原風景が私たちの記憶の奥底に刻印され、したがって映画を作る者は映画館の大スクリーンを目指すのが唯一の正解であるとしばしば考えるようにもなる。
しかしそれは、本当に唯一の正解なのだろうか。例えば、先に上げた3つの典型例の中でさえ、ヒッチコック的窃視者の欲望は現在の私たちが日々携帯する小さなモニターの中において十分実現可能なものであるように見える。そこに必要なのは、ちょっとした視点の切り替えと価値転換だ。例えば、キットラーはドットの集積であるモニターの技術的祖先が影絵ではなくレーダーであると指摘する。モニターを見つめる私たちの視線は、夢や欲望の投影ではなく索敵とフォッグ・オブ・ウォーによってドライブされているのかも知れない。そこには、21世紀の新たなヒッチコック像、デヴィッド・リンチ像を夢想させるに十分なヒントが存在していないだろうか。
あるいは、再び映画創生期について考えてみよう。サイレント時代。その神話的な映画創造者たち。そこには例えば、キートンやハロルド・ロイド、チャップリンたちがいた。彼らのアクロバティックな活動屋魂があった。それらはまさに映画の原風景を形作っていると私たちは考える。だが、例えばビルの外壁をよじ登るロイドの身体を張った奇跡的スタントは、今日私たちがYouTubeで楽しむネット動画の面白さと意外な類似性を感じさせはしないだろうか。キートンの『スケアクロウ』で男性同士の同居生活を彩る珍妙な発明品たちは、今日ネットショップで誰もが購入できる新製品の魅力や新たな使い方を紹介するネット動画の定番的な楽しさと一体どれほど原理的違いがあるだろう。
結局の所、私たちは一方の端に映画館の大スクリーン体験を、そしてもう一方にリュミエール兄弟のシネマトグラフを置き、その間にキートンやフォード、ヒッチコックといった神話的固有名詞を並べることで、映画の可能性をその間に閉じ込めてきてしまったのかも知れない。もしここで、私たちが一方の端にネット動画、そしてもう一方の端にエジソンのキネトスコープを置いたとすればどうだろう。そこにはまた違った映画史の相貌、そして私たちがこれから切り開いて行くべき未開拓の文化的/芸術的/映画的フロンティアが拡がりはしないだろうか。

改めて説明するまでもないが、キネトスコープとは小さな箱に穿たれた覗き穴から見ることで、その中で繰り返し展開される短い動画を観客が楽しむことの出来る発明品だ。エジソンはキネトスコープを複数台並べ、観客がコインを投じることで動画を楽しむことの出来る場所、キネトスコープ・パーラーを営業することでこれを商業化した。一人の観客につき一台の装置を必要とするこのシステムは、シネマトグラフに対してコスパが悪く、一度は経済効率的に淘汰された。だが、120年を越える年月はこの関係性を逆転させた。理想的には大都市の一等地に広い敷地を必要とし、多数の観客から少しずつ安価な入場料金を取って成立する映画館というシステムは、現在ではその経済的合理性を大いに損ない、一方で誰もがスマホやタブレット、パソコンを持つこの時代において、一人の観客につき一台の装置を必要とするキネトスコープのシステムは些かもデメリットとならないのだ。
そう、ここで考慮されているのは主に経済的問題である。だが、かつてキネトスコープに対してシネマトグラフが勝利した最大の要因がそこにあったのだとすれば、今日全く逆の出来事が起きたとしても不思議ではない。いや、その形勢逆転は既に歴史的事実となりつつあるかも知れない。さらに言えば、現在の世界的関心事である新型コロナウィルスの感染拡大を抑制しながら営まれるべき「新たな生活様式」もまた、こうした方向性を大いに促進させるものだと言えるだろう。多くの場合、密閉された屋内空間を前提とする映画館に対して、キネトスコープ的な覗き穴システムは幾らでもリモート化することが可能だからだ。異世界への覗き穴は既に世界中に穿たれている。
もちろん映画館が存続する限り、そこで上映される映画も作られ続けるだろう。リュミエール的映画本来の魅力を湛えた作品が作られ続けることは単純に素晴らしいことである。だが一方、私たちが日々携帯するスマホ画面の中で120年以上前に生まれたキネトスコープの原理的魅惑がアップデートされ、新たな映画の可能性が開拓されていく姿を想像してみることもまた、私たちにもう一つ別な映画の未来を感じさせはしないだろうか。
私たちはかつて、キネトスコープに対するシネマトグラフの特殊性を顕揚しつつ、その周囲に拡がる映画の原風景なるものを夢想し共有してきた。だが今や、事態は逆であるべきだ。リュミエール的な映画原理をうっすら共有しながら長く同じ形態で維持されてきたこのレガシー化された映画の世界の内側で、エジソン的可能性について改めて思考することを通じ、私たちは本当の意味で映画の21世紀を切り開くべきなのではないか。もちろん、そこにはまだまだ多くの課題がある。しかし、私たちが現在直面している映画の世界の極めてウンザリさせられる数々の醜聞へと目を移せば、思考のフェーズをエジソン的原理へと移行させようと試みる筆者の意図も理解していただけるのではないか。こうした問題については、必要があれば稿を改めまた詳しく述べたいと思う。