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  • 2020年4月19日

映画川 『阿吽』

今回の「映画川」は、昨年公開された楫野裕監督の初長編映画『阿吽』を取り上げます。「懐古趣味ではなく、最先端の手段として8mmモノクロフィルムを選択して」(公式サイトより)撮影された本作は、勤め先の大手電力会社にかかってきた、ある電話の声をきっかけに神経衰弱に陥った主人公が都市を彷徨い歩く道程を追っていきます。その男が憑りつかれた狂気とははたしてどのようなものなのか、原智広さんが考察されています。

『阿吽』 死者たちと再生と海と静寂と終焉と。



文=原 智広


この映画はある狂気に憑りつかれた一人の男の物語である。背景には3.11の大地震や放射能やフクシマの戦慄があることはたちどころに了承される。8mmフィルムのざらついた質感は、そのフォーマットという意味ではなく、ある特殊な「覗き」とも言える視点で、そのショットの積み重ねがエモーショナルな狂気を感じさせてくれる。なるほど、これは美しい未来でもあるし、過去でもある、歩道橋に横たわる死者たちは、今現在起こっているパンデミックを予知するようで、なかなかに美しいヴィジョンだ。この男は自分を取り巻くバケモノじみた世界と対峙しているのであるが、それを破壊しようとする。大量殺人鬼になることによって。その意味で極めて能動的な映画だ。狂気を乗りこなすことはなかなかに難解で、平均台の上で踊るダンサーのようなもので、乗っかったり、堕ちたりするものだが、彼はそのまま海の中の渦に飛び込むように、狂気に没入していく。ある影と存在たちと無数のスペクトルが織り成す世界へと。私はこの主人公と真逆で受動的な人間で、どんなものでも受け入れてしまう性質なので、あまり心情は理解出来ないのだが、例えばこんな過去の体験談がある。
 
随分と昔のことだからいいでしょう。先月か数年前の話かはどうでもよろしいが、私の記憶は常に上書きされる走馬灯のようなもので、未知なるものが未知なるものに対立し、ある種の化学反応を起こしているのできっとねつ造の化学公式でしょう。どこかの未知の数学者の悪ふざけでしょう。ある事件で、私が留置場にぶち込まれていた頃、殺人者と接触したことがあった。彼は1号室の独房で、私は5号室の雑居で、詐欺師のヤクザとフィリピンから麻薬密輸した男と、大麻で捕まった男と同室で、なかなかこの現実は受け入れ難いものだったが、それが日常となってしまえば、それはそれで慣れてしまうもので、他愛もない下ネタやくだらない話をしながら暇をつぶすのだが、看守(オヤジ)とも普通に冗談を言い合ったりするし、世間話など陽気にするものだが、自分が置かれている現実を愉快に放棄するしかないのだから。その殺人者がぶち込まれた夜、嘔吐や獣のような叫び声を繰り返し、看守(オヤジ)が珍しくぶちぎれていて、憔悴していた。基本的に彼らはただの公務員なので必要以上に面倒くさいことはしないものだ。私もそれが人間のものとは思えないような声だったのでさすがに恐怖を抱いたものだったが、それは同室のものたちも一緒で、あいつはマジでやべえな、イカレてやがんな、シャブでも食ってんじゃねえのかと、噂をし合っていたのだが、その次の日の新聞で消された記事があって、あいつの記事じゃねえかと思って、看守(オヤジ)に聞いてみたら、案の定あいつのことで、普通は事件のことをばらすのはタブーなのだが、きっと看守(オヤジ)も嫌気がさしていて、誰かと意志を共有したかったのだろう、「ああ、両親二人を刺したんだってよ、引きこもりでよ。俺も虫唾が走るぜ」とぼやいたのだった。我々は自分の立場も鑑みずにそいつはさすがにやべえな、人としてどうかしている、とその話題はそれで終わったのだった。だがその日の洗面の時間でその男と私は偶然にも立ち会ってしまい、まだ幼さが残る20代後半の男で、なんというかその男の目は空っぽで真っ白で、道路で死んでいる動物の死骸を見るような寒気がしたものだった或いは高知の平家が眠ると噂される霊山に行った時に同じ感覚を味わったことがある。そして、就寝の点呼の時間がやってきて、ヤクザがあいつはやべえぞ、また発狂するぞと我々は無邪気に笑い合い、1号室の彼はやはり点呼に動物のような悲鳴で答え、ヤクザが「さすがに両親を刺すのはよくねえぜ」と大声で言うと軽い笑いが起こったのであった。次の日の新聞で、また消されている記事があって、ああ、あいつの記事だと我々はすぐに分かり、死んだんだなとつぶやいて終わった。洗面の時間に殺人者の彼とは立ち会わず私は内心ホッとしていると、また就寝の点呼の時間がやってきて、ヤクザがまた発狂するぞと囃し立てて、笑っているから、まあ、私もつられて笑うしかない状況だったので、笑っていたのだが、彼は点呼で呼ばれると普通の声ではいと答えただけだった。その瞬間に彼の取り巻く世界は恐らく死んだのだと思う。


Ahum_capture02.jpg 108.81 KB



彼の見ている世界は自分の部屋と両親だけという小さいものではあるけれど、この映画の男の見ている世界は、世界全体のシステムの破綻と背後に放射能と大地震という見えない戦慄だが、構造的には一緒だとは思う。この映画の主人公と彼は破壊するという選択肢を選ぶのだが、それは途轍もなく苦しいもので、やるせない気持ちになった。この世に受け入れられない或いはふさわしくない「彼」の運命は悲劇しかない。私もさして情況的に世界に受け入れられない或いはふさわしくないので、あまり変わりがないので、この現実を冷静に見つめてみると発狂してしまう。自分自身に暴力が向けられるか、他者に向けられるか、その違いでしかないのだから。私は書くことでなにかを生み出すことで辛うじて生の中にとどまりつづけているが、そういった選択肢がなかった場合、映画の中の「彼」のようにとんでもないことをしでかしてしまうのではないかと、私は常に狂気に怯えている。コントロール不能になる瞬間があるからだ。ある種の喧噪と血痕、存在たちと死者たち、そのモンタージュが、私自身にも投影されて、絶望の彼方に置かれていった。何が正しいか、何が間違っているか何も判断が出来ない状況の中で(今のコロナの騒動にも同じことが言えると思うが)どのような手段であっても生き抜くことが重要だと思う。それ以外考えなければ、破滅することはない。だがこの美しい旋律と戦慄の映画と対峙していると、自分もあの主人公の特殊造形の仮面のような気がしてきて、寒気がとまらない、これはホラー映画ではないけれど、私にとっては心の底から怖いと言えるホラーだった。なんせ逃げ道がどこにも見つからないのだから。人は過ちを犯さないために、何かに狂ってなければ生きていけない、それは仕事だったり、恋人だったり、家族だったり、子供だったり、酒だったり、ドラックだったりするのではあるけれど、まだ知る由もない「殺人」という選択肢を選ぶ時に一体何を感じるのであるかはこの映画を観れば自ずと分かるであろう。あのトンネルの中にある、等身大ではない自分自身であり、他者でもある影自体に襲われるかもしれない。そういった現実を気づかせてくれた、監督の楫野裕氏に感謝を申し上げたい。危うくその選択肢を取りそうになってしまう潜在的犯罪者の方々はこの映画をすぐさま観たほうがいい。その現実に戦慄し、その選択肢は放棄してしまうであろうから、そうすれば、イスラム過激派の自爆テロのような洗脳に恐れることもないでしょう。自分を救うのは結局のところ「自分」でしかあり得ない。その「自分」は他者でもある自分でもあるのだが或いは他者の中に自分を見つけることで救われることもあるのだから。立ち止まり、凝縮し、海の中の藻屑へと消えていく、そしてこの映画の女子高生はそんな世界に介入することなく、「〇〇君と付き合うのやっぱりやめた」と呑気なことを言うが、これは結構同じベクトルのような問題な気もしてくる。そうやって単純に考えれば、100円ショップで出刃包丁なんかを買ってくる未来の自分も封じ込めることが出来るでしょう。魂は虚ろで、白黒のフィルムの都会のビル群が空虚の中に侵入してくる、愚かな現象? あり得ぬこと? 私には分からない。実際に自分が感じているものよりも多くの客観的でもあり主観的でもある衛星がある、それを介して、未知なるものが怖いのかというハムレットのように、何も知られていない何かを知り、また今日から明日へと、愛しい存在を愛そうと未来に約束し、巨大な影が渦巻く壁に接吻をしながら、あり得ぬほど現実な、確かな、知り得ぬ歩道橋の死者たちに、事物の神秘が潜み、ゆっくりとひっくり返す、死が壁に湿気をもたらし、そっと静かに立ち去り、もう永遠に還らぬ昨日へ思いを馳せ、運命がすべてのものを乗せた電線と電信柱にアイコンタクトをし、醒めながら、死を前にして。さあ、この映画を観た後に、狂気と別れを告げようではないか。失敗しない人間なんぞいない、すべては無意味なものであった、おそらく、そういった残響と感覚だけを遺して。映画を現実にねつ造しよう、私の留置場体験がねつ造であるように、フィクションであったと言えるように。動き始めると骨を揺さぶり、神経を震わせるから、なるべくこういったものに接触しないほうがいいのはいいのであるが、時に現実のヴィジョンの現前に立ち向かう勇気も必要だ。窓際を離れて椅子に座り、スクリーンを観る。そして内部に異物を抱えたまま、ベッドで夢の中であったかのように眠る。そして、明日には違う現実が待っていて、別の自分に問いかけて、自分の中の「阿吽」が始まり、静かに歩行する。
阿吽
2018年 / 日本 / 74分 / 製作・配給:第七詩社 / 監督・脚本:楫野裕 / 出演:渡邊邦彦、堀井綾香、佐伯美波、篠原寛作、宮内杏子、松竹史桜、上埜すみれ、板倉武志ほか