- 映画
- 2019年9月23日
映画川 『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ザ・ウェスト』
9月27日(金)からセルジオ・レオーネ監督作『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ザ・ウェスト』(68)のオリジナル版が日本初公開されます。その公開を記念して同作が製作された経緯、レオーネと原案を担ったダリオ・アルジェント、ベルナルド・ベルトルッチが本作で“引用”した数々の映画作品、さらに本作の余波などについて、映画評論家の遠山純生さんが詳しく解説してくれました。
既存西部劇の継ぎはぎから生まれた独創的西部劇
文=遠山純生
●二人の若手映画人
当時ローマの日刊紙パエーゼ・セーラを拠点に映画評論家として活動していたダリオ・アルジェント(イタリアでは数少ないレオーネ映画の積極的擁護者の一人だった)は、『続・夕陽のガンマン/地獄の決斗』(67)撮影入りをおよそ半年後に控えたレオーネを訪ね、取材したことでこの映画作家の知遇を得た。同紙1966年1月20日号に掲載されたレオーネ探訪記で、作家はあと三本しか西部劇を撮る気はないと述べている。一本目は『続・夕陽のガンマン』。ただしこの時点では、主演はクリント・イーストウッド、ジャン・マリア・ヴォロンテ、エンリコ・マリア・サレルノが想定されていた。二本目はカラミティ・ジェインとワイルド・ビル・ヒコックをソフィア・ローレンとスティーヴ・マックイーンに演じさせる企画だが、アメリカ人が作るような甘ったるさのない映画。三本目は、レオーネ自身「大の気に入り」だと語る、実はホークスがかなりの部分を監督したとされる『奇傑パンチョ』(ジャック・コンウェイ、34)の再映画化。ベン・ヘクトの「傑作」脚本を、時代の経過に合わせて改変する以外はほぼそのまま使用して撮るつもりだったようである[※1]。カラミティ・ジェインをフィーチャーした企画はレオーネ西部劇初の女性主人公が登場する『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ザ・ウェスト』にその名残りが感じられるし、『奇傑パンチョ』の主題の一つ(メキシコ革命)はのちに『夕陽のギャングたち』(71)に受け継がれることになるものの、この二本の製作が実現することはなかった。
一方、当時すでに長編映画を二本監督していたベルナルド・ベルトルッチは、『続・夕陽のガンマン』の公開初日にローマの劇場へ駆けつけた際、映写状況を監修するために劇場を訪れていたレオーネと初めて顔を合わせた。「馬の尻をみごとに撮る監督はあなたとジョン・フォードぐらいのものだ」とベルトルッチに言われたレオーネは、どこか驚いたような様子だったそうである[※2]。ベルトルッチにしてみれば、ネオレアリズモ終焉後、イタリア式喜劇の隆盛期にあって、自国の真に偉大な監督はロッセリーニ、アントニオーニ、ヴィスコンティ、デ・シーカの四人のみだった。だが彼は、商業映画の世界で「他人とはどこか違うこと」を孤独に実践していたレオーネにも一目置いていたのである[※3]。
レオーネに気に入られた二人の若者(すでに顔見知り同士だった)は、彼の新作西部劇『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ザ・ウェスト』の原案作りに駆り出される。まずレオーネが物語の冒頭部分のごく大雑把なアイディアを話し、それに基づいて──さらにはレオーネのさまざまなアイディアも採り入れつつ──二人はダイアローグをほぼ欠いた300~400ページほどもある長いトリートメントを(アルジェントの記憶によれば二ヶ月以上かけて)執筆した。アイディアの基礎にあったのは、西部をめぐるお決まりのさまざまな神話(復讐者、ロマンティックな盗賊、裕福な地主、悪徳実業家、売春婦)を素材として利用しつつ、“死のバレエ”を作り上げたいとのレオーネの願望だった。前記五つの「象徴」に基づいて、「国民の創生」を描き出すつもりだったというのである[※4]。執筆に際して、自身シネフィルであるベルトルッチおよびアルジェントは、トリートメントをみずから愛する西部劇からの引用で満たすことに決める──とりわけベルトルッチが崇拝していたゴダール映画を模倣するようにして。ただしこれには、レオーネが執筆の参考用にさまざまなアメリカ製西部劇を観るよう二人の若手を促したことも与っているようだ。
●引用
レオーネ自身、ベルトルッチ、アルジェントの証言に加え、レオーネ研究者クリストファー・フレイリングの指摘も踏まえつつ、以下にその「引用」の一端を書き記してみよう。
物語の土台には、批評家時代のゴダールやトリュフォーらが絶賛したレイ『大砂塵』(54)を明らかに下敷きにした部分がある(そしてこの映画からの直接的・間接的引用が本作には随所に認められる)。カイエ・デュ・シネマ誌の愛読者にしてゴダール信奉者だったベルトルッチを思えば『大砂塵』を下敷きにするのも自然なことだと思えるが、実は当時ローマで同作はたまたま再公開中で、アルジェントによれば二人は六~七回映画館に足を運んだとのことだ。
『大砂塵』において鉄道開通とそれによる街の繁栄を見越す酒場経営者ヴィエナ(ジョーン・クロフォード)の野心は、そのまま本作のフランク・ウルフ演じるブレット・マクベイン──主に犯罪小説を得意とした二人のアメリカ人作家ブレット・ハリデイとエド・マクベインを結合した名──のそれに引き継がれているかに見えるだろう。おまけにマクベインは、『大砂塵』でクロフォードが演じたヴィエナよろしく、鉄道敷設後の街の予想図を模型化している。マクベインが荒野のど真ん中に入念に作り上げたランチハウスは、『大砂塵』の酒場あるいはフォード『捜索者』(56)の一軒家を思わせるし、彼は『捜索者』のアーロン・エドワーズのように周囲の異変(生物のふるまい等)に襲撃の予兆を嗅ぎ取る。このカトリック教徒のアイルランド移民(移民二世のジョン・フォードを思わせる)が建造しようとしている街「スウィートウォーター」は、カーティス『コマンチェロ』(61)の主要舞台の一つと同じ名称。同作では「エド・マクベイン」という名の銃砲火薬密輸業者がスウィートウォーターを目指す。またフォード『荒野の決闘』(46)にもワイアット・アープがクラントン親爺に「スウィートウォーター」の場所を尋ねる場面がある。なお、チミノ『天国の門』(80)の主要舞台となる街も、本作を意識してか否か同じ名を与えられている(意識していたとしたら、本作の最後に建設され始めた街の完成形ということになろう)。鉄道敷設作業の描写自体はフォード『アイアン・ホース』(24)のそれを明らかに参照しているし、冒頭の鉄道駅を通過する列車を地面から仰ぎ見るショットも同作を嚆矢として何本もの西部劇で反復された画だ。それにもちろん、フォード作品の画面を何度も彩ったモニュメント・ヴァレーも登場する。マクベインの娘の名はフォード映画の常連女優を思わせる「モーリーン」だし、次男坊はスティーヴンス『シェーン』(53)で鹿を撃つ真似をしたジョーイ少年のようにヤマウズラを撃つふりをするだろう。
主題の一つとなる「復讐」はイタリア製西部劇で繰り返し採用されてきたものだし、レオーネも『夕陽のガンマン』(65)で殺害された肉親をめぐる復讐譚を語っていたが、もちろん復讐に憑りつかれた人物は「マカロニ」だけのお家芸ではない。ここでレオーネらが明らかに参照した源流をいくつか挙げれば、たとえばアンソニー・マン西部劇でジェイムズ・ステュアートが繰り返しそうした人物を演じていたし、あるいはバッド・ベティカー──クリント・イーストウッドによれば、レオーネはこの作家の一風変わった西部劇を好んでいたとのこと──のいわゆる“ラナウン・サイクル”ものでもランドルフ・スコットが妻の死の原因となった復讐相手を追う話が度々語られていたし、さらにはラング『無頼の谷』(52)においてもレイプのうえ殺害された婚約者の仇を討つべく犯人を追い詰める男が主人公となっていた。
主人公が抱える精神的外傷が、映画の進行につれて断続的に提示される複数の短いフラッシュバック(子ども時代の記憶)を総合することでその輪郭を明らかにするスタイルは、“ノワール西部劇”の一本であるウォルシュ『追跡』(47)がすでに試みていたやり方(同作の冒頭近くで、ミッチャム演じる主人公自身がみずから「断片的な記憶を総合してぼんやりした過去に輪郭を与える」とはっきり口にする)だ。
冒頭のキャトル・コーナー駅におけるフランクの手の者三人の時間潰しは、もちろんジンネマン『真昼の決闘』(52)の冒頭を極端に様式化・肥大化させたもの。三悪党のうち一人は──オルドリッチ『テキサスの四人』(63)の冒頭ですでにブロンソンに射殺されている──ジャック・イーラム。もう一人はフォード映画の常連俳優であり、本作ではTV『拳銃無宿』(58~61)でスティーヴ・マックイーン演じる賞金稼ぎが携行する銃身を短く切り落としたウィンチェスター・ライフル──『駅馬車』(39)以降ジョン・ウェインが愛用したような輪の大きなループレヴァーがついている──を手にしているウディ・ストロード。三人組が身に着けているダスター・コートは、ベルトルッチによればフォード『リバティ・バランスを射った男』(62)におけるリー・マーヴィン演じるバランスとその部下二人のそれに由来するものであるが、『荒野の決闘』におけるクラントン一家のいでたちをも連想させ、フォード映画においてこのコートが悪のイメージと結びついているのがわかる。

名無しの混血児風来坊を演じるチャールズ・ブロンソンは数々の西部劇で先住民や悪役を演じ、スタージェス『荒野の七人』(60)ではメキシコ人とアイルランド人の混血ガンマンを演じた。ハーモニカを常に携行し吹き鳴らすブロンソンは、同じく楽器(ギター)を手放さずみずからの「主題曲」を奏でる『大砂塵』のスターリング・ヘイドンを思わせるし、あるいはブロンソンも先住民役で出演したフラー『赤い矢』(57)の話す代わりにハーモニカを吹く聾唖の先住民少年や、オルドリッチ『ヴェラクルス』(54)でこれまたブロンソンが演じたハーモニカ好きの悪党をも想起させよう。

名無しの混血児風来坊を演じるチャールズ・ブロンソンは数々の西部劇で先住民や悪役を演じ、スタージェス『荒野の七人』(60)ではメキシコ人とアイルランド人の混血ガンマンを演じた。ハーモニカを常に携行し吹き鳴らすブロンソンは、同じく楽器(ギター)を手放さずみずからの「主題曲」を奏でる『大砂塵』のスターリング・ヘイドンを思わせるし、あるいはブロンソンも先住民役で出演したフラー『赤い矢』(57)の話す代わりにハーモニカを吹く聾唖の先住民少年や、オルドリッチ『ヴェラクルス』(54)でこれまたブロンソンが演じたハーモニカ好きの悪党をも想起させよう。
それまでの「穏やかな正義の人」のイメージをかなぐり捨て、冷酷無比なフランク役を演じたヘンリー・フォンダには、この名優がそれまでに出演してきた多数の西部劇における役柄が(反面教師的に)投影されていることは間違いない。もっともレオーネは、本作のフランクが『アパッチ砦』(48)でフォンダが演じた新任連隊指揮官サーズデイ中佐の嫡出子である、と述べている。つまり、この俳優がほぼ例外的に演じた無能で傲岸で自己中心的な人物である。また、「吊るされる男」の主題は──もちろん『続・夕陽のガンマン』におけるイーライ・ウォラックの反復でありつつ──フォンダが主演したウェルマン『牛泥棒』(43)における「冤罪で絞首刑に処せられた三人の男」からの反響と見ることもできなくもない(本作においてはフォンダが「吊るす」側に回るのだが)。フランクが身体障碍を抱える専制的な実業家モートン──とりわけキング・ヴィダー『白昼の決闘』(46)でライオネル・バリモアが演じた政治家に由来する人物設定──の松葉杖を蹴飛ばし、「どうして自分の脚で立つことすらできないんだ?」と問うくだりは、レオーネ気に入りの一本だというドミトリク『ワーロック』(59)の終盤でやはりフォンダ演じるガンマン(珍しくある種の「悪役」)がみずからに批判的な脚の悪い判事に苛立ち、彼の松葉杖を蹴飛ばす場面のより悪意に満ちた反復かもしれない。加えてモートンは(自社の蒸気機関車が作った)水たまりに這っていき、顔を水に浸して死んでゆくが、これはラング『西部魂』(41)の冒頭近くでディーン・ジャガー演ずるウェスタン・ユニオンの測量技師エドワード・クレイトン(足首を負傷している)が馬から落ちて水たまりへ這いつくばり、顔を水に浸す(そして水を飲む)行為からの反響に見える。
それまでのレオーネ作品を支配していたのは男性登場人物であり、女性はあくまで背景にしかすぎなかった。ところが本作ではクラウディア・カルディナーレ演じる元売春婦ジルが主要登場人物の一人に配されている(カルディナーレが選ばれたのは、フランス保護領時代のチュニジア出身で当初フランス語を母語としていた彼女なら、ニューオーリンズのフランス人売春婦だと称しても通用するとレオーネが考えたからだった)[※5]。アルジェントによれば、映画のあり方が変わりつつあることを認識していた当時のレオーネは、みずから女性登場人物を映画の中心に据えたがっていたし、『大砂塵』を観るよう自分たちに薦めたのも彼だった、とのこと[※6]。ベルトルッチも、女性をもっと前面に出すよう強くレオーネに促した。ともあれ、フラグホーン駅に到着したジルが夫となるはずのマクベインを空しく待つくだりには、『荒野の決闘』で恋人ドクを訪ねてトゥームストーンを訪れるクレメンタイン嬢が反映されている。他方でジルは、『大砂塵』のヴィエナや『無頼の谷』でディートリッヒが演じたオルターのように独立心に富む気丈な女だ。
マクベイン家の農場の裏庭で名無しの風来坊とフランクが決闘し、その間ジルが家のなかでその結果を待つ最後近くのシークエンスは、オルドリッチ『ガン・ファイター』(61)のクライマックスを手本にしている。後者では、家畜飼育場脇でカーク・ダグラスとロック・ハドソンが決闘し、その間ドロシー・マローンがやきもきする(同作における対決者同士を何度も切り返しつつ銃撃の瞬間を引き延ばす奇妙なやり方も、レオーネは自作で変奏している)。もともとレオーネはオルドリッチがイタリアで撮影した『ソドムとゴモラ』(62)の第二班監督を務めていたし、のちにベルトルッチは自作『暗殺のオペラ』(70)に『ガン・ファイター』のポスターを登場させることになるだろう。さらに、撃たれたフランクが風来坊に向かって「お前は誰だ?」と問うくだりは、キング『無頼の群』(58)で妻の仇である四人組の一人ザッカリー(スティーヴン・ボイド)を追い詰めた男ジム(グレゴリー・ペック)が、前者を殺す場面に呼応する。このときザッカリーは、本作のクライマックスに近似したかたちで、「お前は誰だ?」とジムに問うた後、至近距離で撃ち合って死んでゆく。しかも『無頼の群』のジムは、殺された妻子の写真入りの懐中時計を──『夕陽のガンマン』のリー・ヴァン・クリーフよろしく──持ち歩いており、妻を暴行し殺した悪漢たち(そのうちの一人はほかならぬリー・ヴァン・クリーフである!)の息の根を止める前にその写真を相手に見せ、凶行の記憶を呼び覚まそうとする。もっとも最後に、ジムは復讐の相手を間違えていたことに気づいて唖然とするのだが。

●神話のリサイクル

●神話のリサイクル
ここに挙げてみたのは、文字通り引用の織物のように絡み合いつつ本作を構成する参照元のほんの一部にすぎない。ざっと再確認しただけでも、たとえばホークスやラウズやチャールズ・ヴィダーといった作家の西部劇に言及し得ていないことがわかる。ただしベルトルッチは、出典を一々レオーネに教えることは控えたという。レオーネがそれと自覚しないままに、過去の西部劇を「引用」してしまうよう謀ったからである。もちろんこれまた西部劇狂であったレオーネ──それまでに作った西部劇のなかで、すでにアメリカ製西部劇からの引用あるいは模倣を度々おこなっていた──のことゆえ、それら引用に気づかなかったはずはないのだが、膨大な量におよぶ参照項を余すところなく意識するのは不可能だっただろう(それに、みずから意識的・無意識的に「引用」してもいたことだろう)。
翻って、ベルトルッチ自身はレオーネの映画作りから学び取ったものがあるかどうかを問うてみれば、『1900年』(76)や『ラストエンペラー』(87)といった“大作”──彼は、『暗殺の森』(70)ではフェリーニ『甘い生活』(60)やレオーネ映画規模の集客を見込めないことを自覚していた[※7]──において雄大な風景や群衆を(ドリーやクレーン等を活用しつつ)ワイドスクリーン上にダイナミックにとらえるやり方にはレオーネ西部劇からの反響を感じ取ることができるような気がする。それにもちろん、ハメットの『血の収穫』を映画化しようと目論んでいた点でも、この「遅れてきたヌーヴェルヴァーグ作家」は『荒野の用心棒』(64)を反復しつつあったのである。
そもそもイタリア製西部劇自体が意識的にせよ無意識的にせよアメリカ製“正統派”西部劇(西部劇史自体「西部開拓神話」の上塗りの歴史でもあった)から、たとえば主題面・叙述面・視聴覚面等様々な要素を借用しアレンジしてきたのだし、イタリア人はアメリカ人以上に往時の西部を「西部劇」を通じてイメージしがちなのだから、それを極限まで突き詰めた本作が「映画を手本にした映画」、もしくはベルトルッチの言うように「ポストモダン的映画」となるのは必然的ななりゆきだった。のみならず当然そこには、ワイルダー『地獄の英雄』(51)のようなアメリカの非西部劇映画や、『羅生門』(50)および『ビルマの竪琴』(56)のような──レオーネがその「沈黙」の活用ぶりに感じ入っていた[※8]──日本映画から借用した諸要素も紛れ込んでいる。
とはいえ本作は、二人の若手協働者と違って自意識的な「ヌーヴェルヴァーグ」映画をあまり好んでいなかったレオーネならではの引用や参照への処し方──彼はこれを「引用のための引用」ではないとはっきり述べている──で作り上げられている。つまり、引用や参照はその痕跡を留めないまでに虚構のなかに溶かし込まれ、音(楽)がせりふや登場人物の性格を代弁するオペラ的方法を援用した、レオーネならではの独創的な様式美と悠揚迫らぬリズム──それはアメリカ製西部劇への「初恋の興奮をいくらか取り戻そうとする」(レオーネ)思いに包まれている──が全編を圧しているのである。その意味でレオーネは、みずからとほぼ同世代の「ヌーヴェルヴァーグ」作家よりも、一回り年長のジャン゠ピエール・メルヴィルに近い作家だったといえる。メルヴィルもまた、幼少時のアメリカ映画体験を終生だいじに抱え込んで慈しみつつ──「オマージュ」とも「批評」とも無縁の姿勢で──血肉化した独自の、どこか子どもの遊戯を洗練させたような「欧州製アメリカ映画」を撮り続けた作家だからである。
ともあれ、アメリカ映画を霊感源として独自のスタイルを築き上げたレオーネの作品は、その後数々のアメリカ人映画作家──クリント・イーストウッドは当然として、サム・ペキンパー、スタンリー・キューブリック、ジョン・カーペンター、ジョージ・ルーカス、ジョン・ミリアス、ジョー・ダンテ、マーティン・スコセッシ、クエンティン・タランティーノなど──の手本の一つとなった。かつて黒澤明がアメリカのハードボイルド探偵小説と西部劇を霊感源として時代劇『用心棒』(61)を作り上げ、レオーネがそれを『荒野の用心棒』で借用しつつ西部劇の世界へと返したように、今度はレオーネの「スパゲティ・ウェスタン」を後続の(多くはポストモダニスト的な)映画作家たちが、西部劇のみならずSFや戦争ものや歴史劇なども含めたアメリカ映画へと差し戻しているのだといえよう。
註
※1:Dario Argento, Leone : Sofia Loren sarà Calamity Jane, Dario Argento: il brivido della critica : scritti sul cinema, Testo & immagine, 2000
※2:Bernardo Bertolucci, Once Upon A Time In Italy, Film Comment, July-August, 1989
※3:Christopher Frayling , Once Upon a Time in the West: Shooting a Masterpiece, Reel Art Press, 2019
※4:Noël Simsolo, Conversation avec Sergio Leone, Cahiers du cinéma, 1999
※5:Simsolo, Conversation avec Sergio Leone
※6:Frayling , Once Upon a Time in the West: Shooting a Masterpiece
※7:T. Jefferson Kline, Bruce H. Sklarew, Fabien S. Gerard(ed.), Bernardo Bertolucci: Interviews, University Press of Mississippi, 2000
1968年 / イタリア、アメリカ / 165分 / 監督・脚本・原案:セルジオ・レオーネ / 原案:ダリオ・アルジェント、ベルナルド・ベルトルッチ / 脚本:セルジオ・ドナーティ / 出演:クラウディア・カルディナーレ、ヘンリー・フォンダ、ジェイソン・ロバーツ、チャールズ・ブロンソン、ガブリエレ・フェルゼッティ、ジャック・イーラム、ウディ・ストロード、フランク・ウルフほか