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  • 2019年7月19日

映画川 『裁かるるジャンヌ』

7月27日(土)~8月23日(金)にYEBISU GARDEN CINEMAで世界最古の映画制作会社・ゴーモンの作品を集めた特集上映「ゴーモン 珠玉のフランス映画史」が開催されます。そのなかで上映されるカール・テオドア・ドライヤー監督の『裁かるるジャンヌ』について、boidマガジン初登場の原智広さんが寄稿してくれました。ジャンヌ・ダルクを題材とした映画として、映画史を語る上で欠かせない作品として、あまりに有名なこの映画が何を描いているのか。その本質がいま改めて浮き彫りにされています。

ジャンヌ・ダルクの受難



 
 文=原 智広
 
 

2019年7月27日から8月23日まで、世界最古の映画会社「Gaumont(ゴーモン)」の特集が恵比寿ガーデンシネマにて開催される。厳選された26本の作品の中で、とりわけ注目している1本であるカール・テオドア・ドライヤー監督の『裁かるるジャンヌ(原題 La Passion de Jeanne d'Arc)』を取り上げたい。原題は「ジャンヌ・ダルクの受難」という意味だが、既にドライヤーは彼女をキリストや殉教者になぞらえていることが理解出来る。
 
そもそも、グノーシス主義者である私にとって、この作品を語ること自体非常に畏れ多いのではあるが…私にとっての神(デミウルゴス)とは癒し難き怒りと憎悪の造物主であり、この世の不条理そのものであるから。だが、血と文字が滲み果て降臨するこの殉教者であり、「神の声を聞いた」ジャンヌに私は特別な思い入れがあるのだ。世界がまばたきをしたときにジャンヌ役であるルネ・ファルコネッティの涙はこの政治的宗教裁判も、高僧どもの野蛮な言葉もなきものとし、ただ純粋な涙を蘇らせ、クロースアップの連続で繋がれるイメージの連鎖が炸裂したこの時代全体を覆う陰気な悲しみであり、我々全員が共有しているある感情であるともいえる。一人の田舎の少女にすぎなかった彼女が何故このような悲劇に巻き込まれてしまうのか? 想像を絶する受難、悪魔はささやかなる隠喩を使い、世をまどわせた魔女として1431年5月30日朝ルーアンの広場で火あぶりにされてジャンヌ・ダルクはこの世を去った。
 
穏やかなる狂気と戦慄、澄んだ涙が暗示する浄化の夢、シュルレアリスム的シークエンス、言うまでもなく、これは異端審問という名の魔女裁判であり、ジャンヌ・ダルクの処刑には様々な思惑がある。イングランド軍がこの異端審問に拘ったのは、2年前にジャンヌのおかげでシャルル7世がランスで戴冠式をあげ、正統のフランス国王になってしまったからだ。実はイングランド側でも、既に自国の王ヘンリー6世をフランス国王とすると宣言しているのだが、まだ幼いので戴冠式まですませていなかったのだ。だからジャンヌが魔女だと証明出来れば、同時にシャルル7世も正当な王ではないということになる。
 
誠実な教会人(この言葉が正しいのかは分からないが)ならば絶対に手を貸さない茶番である。ドライヤーの視点によるルネ・ファルコネッティの演技で一人の少女にすぎないジャンヌ・ダルクの生に対する執着を描いたのも実に見事だ。彼女だって一人のか弱い人間にすぎないのだ。これ以上ないまでの痛ましい犠牲者として。死はいたるところに偏在する、不吉な運命について果てしない夢想のすべてが、かくも多くの魂を一人の少女が背負う羽目になろうとは一体誰が想像し得たであろうか。涙のイマージュはすべての魂が救われた時に全世界とともに雄叫びをあげ、泣くことになる。

サイレント映画である本作はただただ心的因果を想起させると共に我々の精神を掠めとり、我々はただ打ちひしがれることしか出来ない。我々は何も持たないし、何も持ったことはなかった。ただ、ひたすら残酷な映画でもある。神聖なる魂の懺悔? 物質的世界の反旗? 権威への無意識の抵抗? ああ、そういうことだ。反逆の血はなかなか拭えるものではない。この高僧どものような悪魔や悪魔の手先はいつの時代にもいるし、これは常に変わりない。今も電車の中に、会社に、学校に、今でも何処にでもいる。それは顔つきを見れば明瞭である。ジャンヌは精神分裂病(時代錯誤だが、敢えてこの病名を使う。そもそも、人間の精神は誰であっても統合なんぞされていない)だった? 違う、全く違う。あなたたちは間違っている。多数が少数を排他するというのはいつの時代でも虫唾が走る。裁くものも裁かれるものも本来存在しては決してならないからだ。人間が人間を裁くことなんぞ出来るわけがない。我々は平等に罪を背負っている。自惚れは大概にして頂きたい。(私を含め我々全員は犯罪者であるのだから。我々は全員くたばっている。無論、悪魔や悪魔の手先は人間ではない。)

天啓、宿命、栄光、没落、静謐、貫かれたリアリズム、ドライヤーの照明技法である光と影の演出が人間の善悪を浮彫にしている。単純な言い方であるが、これが彼の狙いだろう。自然で安らかな変わりやすい光の中に佇み、ベッドで安らかに眠る時、影があなたたちを覆い尽くし、もう身動きはしない。我々は処刑され、火あぶりにされる運命にあるのだから! そして、一緒に目覚め、我々はある一点を見つめることになるだろう。それは当然不可視の領域ではあるにはあるのだが…本作を観て逃れ難き宿命を心に刻み、ある原初の風景として、聖書を枕元に置きながら眠りにつくというのも良い選択だろう。もしかしたらこの世に対する免罪符を得られるかもしれないし。(或いは部屋に置いてある本が唯一、聖書だけだったというボードレール風のロマンチシズムに該当するか?)

さて、数奇な運命を感じざるを得ないのが本作に出演しているジャン・マシュー修道士役のアントナン・アルトーである。彼の瞳の透明さには心が浄化される想いがし、ほぼ救いのない本作で唯一の救いとなっている。しきりに告解を求めるジャンヌを誰もが聞き入れぬ中、マシューは唯一彼女のためにミサを手配し、告解を聞く。永遠に封印されかねなかった血なまぐさい物語、この不安定な、不憫な状態、裁判として記録され、告解が為されたことが刻印される。両開きの扉は開かれ、解放されて、死の汽笛が遠くから聞こえる。本作出演後、フランス領を奪還せよという神の声を聞いたジャンヌ・ダルクと同様に、アントナン・アルトーはアムステルダムの骨董品屋で手に入れた聖パトリックの杖をドルイドの子孫たちに還すという目的で旅をするが(無論のこと、ジャンヌやパウロと同様にアルトーも神の声を聞いたに違いない)、ダブリンにて放浪罪の廉で逮捕され、投獄され、精神病院に強制収容される。処刑されることはなかったが、50回以上にも及ぶ電気ショックを浴びることとなる。実際にアルトーは「私はゴルゴダを覚えている」と声高に叫んでいたし、かつてのジャンヌと同様に何かに覚醒したのは疑いようのない事実と思われる。具体的には、ヒルデガルト(中世ドイツの神秘主義者)によって描写された前アダム的状態は、そこでは諸存在が性なくして繁殖しており、それは完全な純潔を表していると。そしてこの完全な純潔を失ったこと、性を身につける誘惑に身をゆだねたことがアダムの失墜であったのだと。そしてイエス・キリストはこの失墜を消し去るために地上にやって来たのに他ならないとアルトーは断言する。

そして、ゴルゴタの磔刑の後やってきた、マリア・ガルバ、エジプトのマリア、マルコ、ヨハネ、ルカ、マタイ、ジャンヌ・ダルク、パウロ、アントナン・アルトー、この神の仲介者たる系譜がいかなるものであろうか私には知る由もないが、偉大なるドライヤーの手によって、本作は光と影を通してフィルムとして受肉された。僅かではあるが、私にはその道標がうっすらと見える気がする。ふと、この世ではないどこかがあるのではないかと考え、感慨に耽ってしまう映画である。やがて、果てなき夜、そして、やがて来る、明けそめる朝、実際には長い裁判(約3ヵ月)が本作では一日に集約されている。彼女の精神の響きを、声を、聴きたまえ、硬ばって、年老いた皆さんよ(年齢のことではない。若者も年寄りも年老いているように私には見える)、聴きたまえ!

他にもジャンヌ・ダルクを描いた映画はあるが、決定的に違うのは、彼女は常に不安そうで、自分のしたことに対して苦悩しているように見える。それは人間的な過ちなのか、神の声による過ちなのか、そもそも過ちであるのかどうかさえ、検証する余地もない、これが正しい結末なのかもしれない。だが、高僧どもが拷問器具を見せ、彼女を脅し、失神する、このような現象は現代でもどこにでも見られる。殆どが見て見ぬふりをしているだけだ。癒しようのない深い悲しみは不変的である。何処にでも悲劇は転がっている。ただ、我々は彼女のした行為は、人々を救うためだったと、純潔さと純粋さから織り成す洗練されたものであると、垂直なまなざしが訴えかけたものは本物であることは疑いようがない。本作を観て、自分と周囲のこと以外のことも考えてみようじゃないか。彼女のような人間がいたことを、この光景を記憶にせめてこの機会にとどめておこうではないか。

そして、空想の、そのまた先の空想の、空想の彼方にある導かれるべき土地へ。


 


裁かるるジャンヌ La Passion de Jeanne d'Arc
1928年 / フランス / 97分 / 監督・脚本:カール・テオドア・ドライヤー / 出演:ルネ・ファルコネッティ、ウジェーヌ・シルヴァン、モーリス・シュッツ、アントナン・アルトーほか
7月27日(土)~8月23日(金)YEBISU GARDEN CINEMAで開催の「ゴーモン 珠玉のフランス映画史」で上映
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