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  • 2019年6月21日

映画は心意気だと思うんです。 第10回

ホラー映画をこよなく愛する冨田翔子さんが“わが心意気映画”を紹介してくれる連載の第10回。今回はホラー映画ではなく、現在実写版が公開中のディズニー映画『アラジン』を取り上げます。冨田さんがこの物語に惹かれる理由とは何か、そしてその要素の描かれ方が1992年のアニメーション版『アラジン』と実写版でどのように変わっているかについて書いてくれています。

『アラジン』

私にとっての孤独映画、ディズニーの名作『アラジン』

文=冨田翔子

公開中の実写版『アラジン』が大ヒットしている。初めて予告編が公開されたときは、“青いウィル・スミス”という動揺が世界に走ったが、蓋を開けてみればハリウッドスターという大物感と、ウィル・スミスの持ち味であるコミカルさ、手練具合は物語の重鎮であるランプの魔神ジーニー役にピッタリ。 青くて“ウィル・スミスすぎる”ことは、気がかりから“やっぱりスターだね”という称賛に変わったのではないだろうか。

そんな実写版が公開される前、私は仕事も兼ねて復習がてら1992年公開のディズニーアニメ『アラジン』を観ていた。復習といっても、幼少期に観た記憶はほぼ何も残っておらず、初見と言ってよいレベル。しかし、いざ観てみると、私は登場キャラクターたちの抱える孤独に胸を打たれてしまった。常に主人に仕え、金の手枷に縛られる虚しい人生を明るく振る舞うことで吹き飛ばすジーニー。伝説の存在であるにもかかわらず、久方ぶりに会った人間におっかなびっくり近づき仲良くしようとする姿が微笑ましい魔法の絨毯。しかもジーニーと絨毯は、1万年も誰にも会わないという恐ろしく孤独な期間を過ごしている。また、王女ジャスミンに夢中になるアラジンに、自分のこともかまってほしいとアピールする猿の相棒アブー。王宮の外に出てみたいというジャスミンの願望を、心配顔で見守る彼女の唯一の友人・虎のラジャー。

そして主人公たちにも孤独がある。「このドブネズミ!」と強烈な罵声を浴びせられるアラジンは早くに両親を亡くし、盗みで生計を立てており、貧しさのせいで本当の自分を見てもらえないことに悩んでいる。砂漠の王国アグラバーの王女ジャスミンは、お城という限られた空間での生活に耐えかね、自由を求めて真実のロマンスに憧れる可憐なヒロインだ。王様は溺愛する娘ジャスミンの婿探しには熱心だが、国を統治する仕事を全くしているようには見えず(少なくともしている場面がない)、いつも鳥にクッキーをやったり積み木遊びをしたり、無邪気に魔法のじゅうたんに乗って喜んだりと、その王様らしからぬ振る舞いはなかなかに衝撃的である。そんな王様の座を虎視眈々と狙う万年2位の悪役ジャファーの悔しさは、推して知るべしといったところ。

そんなわけで、全員が少しずつ持っている寂しさの具合が、アニメーションの軽やかさの中、程よいバランスで醸し出されており、「なんとも素晴らしいではないか!」とグッと来たのだった。「これぞ『アラジン』の魅力なのだ!」とそこそこの自信を持っていたのだが、その後すぐ実写版『アラジン』を観ることになる。すると、実写版では私が気に入っていた孤独の要素は削ぎ落とされ、真っ当な大人監督ガイ・リッチーにより成熟した現代的な物語に進化していた。王様は至極まともになり、ジーニーはアラジンを見守る父のような存在。アラジンは自分の領分を理解してジャスミンに寄り添い、ジャスミンは女性としての幸せとキャリアを臆せず獲りにいく。私にとって孤独映画だった『アラジン』は、私が最も苦手とする「自立」の物語へと成り代わっていたのである!

映画を観終わった私は呆然とし、「あれ?みんなの孤独は?」と若干置いてきぼりを食らった気分になり、この顛末をディズニー映画ファンの同居人に伝えたところ、「アニメ版はそこまで孤独を掘り下げて描いているわけじゃない。それ、あんたが勝手に感じ取っただけよ」と言われたのである。さらに食い下がってやいのやいの言っていたら、公開当時アニメを劇場で2回観て「ホール・ニュー・ワールド」を英語でフルコーラス歌える同居人から、「このニワカが!」と罵られてしまう始末。

同居人曰く、実写版『アラジン』は、やや子供向けだったアニメ版で深く描かれなかった王国アグラバーの背景や、王様がちゃんと国を治めていたり、何かと描写が足りなかった部分がしっかり補われており、ウィル・スミスの存在感もあって、とても満足できる出来だったらしい。つまるところ、私がディズニーの『アラジン』の魅力だと確信していた“孤独”は、映画の主題ではなかったのである。現に映画は大ヒットしているし、実写版から孤独部分が無くなっていたとしても、観客にはさして問題なかったのだった。

『アラジン』

孤独といえば、私はホラー映画の孤独な人物たちに感情移入してしまいがちである。それがどうやら最近では、そんなに孤独ではない人の孤独とか、そんなに描かれていない孤独にまでアンテナが反応し、自分で補完して感じ入るようになってしまったらしい…。困った習性ではあるのだが、つい登場人物の孤独を気にしてしまう。それは自分にとって、ホラー映画を観るときの一番のテーマといってもいいもので、私は人間にとって一番の問題は「疎外」だと思う。生きていれば疎外される可能性は誰にでもある。疎外は人を孤独にする。そして孤独が自分の手に負えなくなったり、うまく向き合えなくなると、どんどん追い詰められていく。ホラー映画は幽霊もモンスターも、彼らによって命を脅かされる主人公も、疎外された存在として描かれることが多い。孤立や孤独をエンタテインメントとして描くのに最適なジャンルがホラーだと思っている。そこで、いかに疎外を乗り越えるのか、あるいはどうしたって癒えない孤独にどのように落とし前をつけるのか、それが、私がホラー映画に最も心を寄せる部分であるし、ホラー映画が好きな所以はそこなのだと思う。

なんだか話がずいぶん飛躍してしまったが、そんな性分が、ついついディズニーの名作『アラジン』にまで働いてしまった。会社の同僚に、「実写版『アラジン』には孤独が足りない…」と言うと、「もともとそんな闇あったっけ?」と言われてしまった。おかしい、こんなはずでは…。なぜみんな気が付かないのだろう。

ところで、ジーニーの孤独については、共感してくれた人がいる。それは、演じたウィル・スミスその人である。彼はUSプレミアで次のように発言している。「僕がジーニーに共感したことのひとつに、彼が閉じ込められていることにある。彼はすごいパワーを持っているが、同時に囚人でもあるんだよ。僕自身もまさに、ウィル・スミスというものに閉じ込められているような感じがしていた。でも、この2年の間に、僕は少しずつウィル・スミスというものから離れ、自分自身を見つけ、自由を得るようになっていた。その後の最初の作品が『アラジン』だったわけだよ」。ジーニーを演じたウィル・スミスは実に生き生きしていた。故ロビン・ウィリアムズが名演したジーニーとは違う、ウィル・スミスによる新たなジーニーがそこにいた。それはアニメ版よりも人間的であり、そしてそこには、彼がジーニーに重ねた自身の孤独があったのである。ほら!やっぱり!

というわけで、たとえホラーではないジャンルでも、今後も映画に“孤独”のアンテナを張っていこうと心に決めた次第である。私は今でもディズニーの名作アニメ『アラジン』には孤独が描かれていると信じている。残念ながら実写版ではそれが削ぎ落とされてしまったが、ぜひ実写版を観て、ウィル・スミスの新しいジーニーの素晴らしいパフォーマンスに加えて、彼自身の人生を重ね合わせた孤独を感じてみてほしい。

アラジン  Araddin

2019年 / アメリカ / 128分 / 配給:ウォルト・ディズニー・ジャパン / 監督:ガイ・リッチー / 脚本:ジョン・オーガスト、ガイ・リッチー / 出演:メナ・マスード、ナオミ・スコット、ウィル・スミス、マーワン・ケンザリ、ナヴィド・ネガーバン、ナシム・ペドラドほか

大ヒット公開中

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