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  • 2021年2月21日

映画川 『Sombre』

今回の映画川は『Sombre』という、1998年のロカルノ国際映画祭で初上映されたフィリップ・グランドリュー監督の長編処女作を取り上げています。同作を含め日本未公開の作品が多いグランドリュー監督作の「日本公開のための嘆願書」として、原智広さんが寄稿してくれました。”暗い”、”陰鬱な”、”闇”といった意味の言葉をタイトルに持つ映画に原さんが魅了される理由とは――。

フィリップ・グランドリューという怪物を知っているか?



文=原 智広
 
 
フィリップ・グランドリューの日本での紹介は非常に遅れている。足立正生を主題にしたドキュメンタリー映画『美が私たちの決断をいっそう強めたのだろう』が公開されたのみである。本テキストはグランドリューの映画の日本公開のための嘆願書であり、遠く離れた友人への愛のメッセージでもある。グランドリューには素晴らしい作品があり、国際的には評価が高い、とりわけ『Un lac』、『La vie nouvelle』、今回はロカルノ国際映画祭で上映された『Sombre』について取り上げたい。
 
グランドリューの視点は圧倒的に挑戦的で、見るものをある種の特異体験へと導く、この映画は麻薬であり、極めて危なげな暴走ドライブシーンのような驚異的で暴力的で生成的な映画だ。このヴィジョンは何なのか? 彼は繰り返しをやめない。彼は特定のシーンについて話しているのではなく、人類最初のヴィジョンへと誘う原初の風景を、さらに分析することが不可能な映画全体に投げかけているのだ。したがって、言葉だけでは不十分だ。極めて異質な、一方、直観的なイマージュの連続性に眩暈と閃光をうけて、何も主張してはいないというように一見思える作品の原始的な力を拡張しているのだから。映画は考えること、何か目的があることが当然だとでも思うのか? いいえ、我々を内部から揺るがし、ほぼすべての残像の武装を解除し、我々を安楽さへと誘い、確実なものというよりか、我々の欲望を浮き彫りにする。グランドリューの過激なヴィジョンは世界のすべてを綺麗に一掃するだろう。
 
グランドリューの映画を見るといつも、生まれて最初に見た光景は何だったのだろうかと考える。グランドリューの描く闇とフレームの振動は、驚くべきヴィジョンを与え、現代的で、最も適切な映画装置として機能している。「太古の昔」としての資格を得ることを躊躇しなかったこの夜に人々は身を包まなければならない。感覚の幸福のために、概略的なナレーションを全滅させたこれらの暗いエネルギーにすべてを委ねる。この本能的な(そして時には反発的な)深淵に浸っている間、すべてを理解するというわけではないが、感覚的に「何か」を受容する、何か他のものを視覚化する感覚を表出する。前例のない打撃のための切断に直面しているイメージのパズルをゴミ箱に投げ入れて、シネフィルどもを焼き殺そう!
 
映画に評価を与えることに無論意味はない。我々が感じたことを知覚してそれを事後的に理解しようとすると、もうそれは固有の体験となる。我々は長きに渡り、物語から原始的なものに巻き戻すことによって、映画の歴史の中で新しい章を書くことができると信じていた。愚かにも。この映画はこの世のどこにも見つからなかった。そしてこの行軍の果てでやっとのことで、Sombreは我々を満たしたのだから。
 
当初から、計画は非常に吸収的である、ほんの少しの言葉も省くために。フレームを独占する山脈、山道の単純なスイッチバック、夜が明けても車がその上を滑る、画像の切り刻まれた質感。ぶつかるレリーフとフレームの構図。明滅。完璧な、この無秩序に同時発生的な精神的事象、つまり内部に、Xの眼にはイメージや観念、外的な存在領域を撃ち抜く。我々は未知のものに魅了され、巻き込まれる。そして、輪廻、そして突然、そして、暗黙、それは電気ショックのように飛来する。本作品の最初のシーンで子供たちの群衆は彼らを怖がらせているように見える何かをいじくり回して発狂しているように思える。恐怖と驚きが混ざり合った。不穏な効果音の集合体が発狂した声に重ねられ、サウンドトラックの喧騒の中でそれらを渦巻の中に溺死させるのだ。その後、原始的な内力に野次られたかのように、山岳地帯の起伏に数発の銃弾が当たったが、それでも奇妙な騒ぎを背景にした映画はほとんど始まっておらず、筋書きもまだ明らかにされておらず、我々はすでに議論を使い果たし、語ることを放棄する。しかし、我々は感受し、震え、泣き、放心する、沈黙して、ベッドのシーツに包まりながら、映画も振動するので、誰が何を知っているかによって汚染されるのだ。画面外のショーに怯えている小さな子供たちを見るのがトリガーなのだろうか? 夜はいずれにせよ目覚めることはないのだ。
 
//イマージュなき存在//二つの生の間のこの死から//この映画が夜からやってきたこと//そしてその夜は明けることはないということ//光と闇は同じであることを知るあなた//もし私の声をすでに知らないなら//映画を再生する前に//すべてが失われてしまったからだ///
 
感覚が先か。イマージュが先か。素晴らしい一致という想念。始まり、有機性、回帰、フレーム、運動、突出部、空虚な秩序、明るさ、期待、不安、入り交じり、表現された存在と幽霊と死者たちと、嘆きのために幻視から出発し、交互に残余に依拠する。
 
我々の眼が我々に示すものは、何よりも、我々がそこから抽き出す非視覚的なるものによって、実は我々の関心を惹くということを忘れてはならぬだろう。この映画の特殊感受性は我々を外部へと惹きつけ、また我々のほうへと惹きつける。つまり、世界の変容だ、説明でもなく概念でもなく真なるものの追及でもなく、現実的なるものの変容なのだ。
 
子供の眼差し
子供たち、その子供
その子供たち、ああ!
絞め殺して 絞め殺して!!!
 
現代的で、邪魔で、恐ろしく、種類の例示、 有機的な存在たちと背後にいる幽霊たちは世界論ともイメージ論とも関係がない、しかし、我々は感じている。震えるのだから。我々は内側から振動している。映画も振動するので、誰が何を知っているかによって汚染されるのだ、ジョルジュ・バタイユが否定しなかったであろう、体への痙攣と熱狂的なアプローチによって動かされ、自然もまた、神話の意味合いを示すと脆くも崩れ去る。ここでも、コンクリートで夢のような、地電流で邪魔なもので、深い森を彷徨し、誰もいない道を進み、そしてもちろん、脅威としての動物の力を備えている。それを予測することができずに出現するのだ。この脅威、愛撫と痙攣、リラクゼーションと収縮の間で、常に暗闇の中で、本当の言葉なしで捕らえられた残忍で混乱したリフレクション、精神分析的外傷のない暴力のシークエンス、野生の谷に病的な正弦波を描く。逆ショットとして使用されているシーンの数々、主人公たるジャンを救うために、またはジャンの次の犠牲者になるために? 愛のためか? 死のためか? そして、神秘。ジャンは、文学と映画の両方のアメリカの想像力のセクション全体の礎石を殺人者のルートに置く、文字通り失われた若い女性であり、比喩的な意味での処女の女神であり、いずれにせよ人生から少し離れた分身の役割を受け入れている。暗闇とは? 殺人ドライブについての形而上学的な物語? レイプに恋をした男(または女)の破壊的な物語? いくつかのシークエンスを描いてみようじゃないか。まず第一に、我々が上で喚起したこの考え、すなわち心理学のない物語の考えがあるにはある。映画はそのプロットの断片を非常に幼い頃(心理学の外のこの期間)に添付することによって破壊されるのだ。映画の正確なシーンは我々にこれの良い着想を与え、彼の後ろ(奇妙な家)と彼の上(ますます暗い空)で暗闇をもって目隠しをして歩いているこの子供は突然死体に変貌するのだから、女性、子供の頃、自分の母親の死体を見つけたのはジャンなのだろか?
 
//原始の無垢の状態のイマージュの不器用さ//永遠性のイマージュに似せて//このイマージュの連続性に映画を用いる神がそれを形づくっていたかのように手で触れる///
 
最近、私は性的に逸脱している。この映画は凄くセクシャルなことも描かれるが、もうすべてが崩壊して、あるホテルのベッドで脱力して放心状態になったときに、『Sombre』を思い出した。全くありそうもないことが起こったり、見えたり、それは残像となって私に問いかけたり、グランドリューの震えるようなカットの連続が鼓膜に響いてきて、私は眠ることが出来ず、白昼夢の中で、感覚とイマージュの闘争が始まる。ああ、そうだっけ、もう随分昔のこと、このグランドリューの質感っていうものは何なのだろうかとホテルのバルコニーから地上を見下ろして、一本の木に目が止まり、その木でぐるぐる遊んでいる少女に魅了された。一般性という状態、自己というものについて賦与された予感、盲目的にみる人、眼に衝撃を与え、その眼は何物も凌駕せず、抱合せず、嚙み砕かず、羽化せず、おろそかにせず、映画のことは告発しない。過去でも未来でもなくこの体験は今だ。発見する! この発見の瞬間の再開を、まるで際限もなく惹き起こすほどにまで、こちらを満足させるものを発見すること。はっきりと、あるいは暗々のうちに期待されていたものを、捉え、触り、見るという事実によって放たれたエネルギーの殺到を無視せぬこと。そして、映画たる奇跡はようやくそこで認められ、容認されるのだから。
 
映画になる前に、一方では場所や画像に固有の光の質、他方では誰かを巨大な放浪に誘う秩序や脅威、深淵に陥る森の中の彼の最終的な計画は、そのほかにも響き渡る、ある音色。しかし、それはまた、彼の中で何が起こっているのか、影と光の間で野次られ、一方に鎖でつながれ、もう一方を探しているという混沌とした抽象画のようでもある。したがって、グランドリューはプラスチックの対立に表れる内部対立。彼が感覚部門によって描く愛と死の原始的なバレエは、確かに非常に単純な要素にのみ要約することができるだろう。影の塊は、いくつかの、痙攣性の身体から身体への超有形のこの音声の和解を望んでいるのだろうか?

「愛を」そして「死を」。世界のすべての素材を。

極度の緊張状態、妄想と悟りの間のどこかに立ち往生している。フレームに収まるすべてのもの(体、風景、影、光の3分割など(例えば知性としての光、化学としての光、天啓を受けたかのような光))が前例のない密度を獲得する、全体的でてんかん発作のようなトランスに簡単に同化する状態。フィルムの各フレームを引用して回る加速する自然の風景と彼女の渦巻く髪の間の驚異的な相関関係。夜を貫き、道路を示す木々を明らかにする車のヘッドライト、背景には、かすれたロッカーの叫びを呼び起こす恐ろしい不協和音が聞こえる。不透明で暗い顔は、変化する人物を観察し、問題を抱え、冷静になる。それを取り巻くすべてのものの。このシルエットは、画面に向かって、画像に向かっている観客のシルエットでも同時にある。光と影でぼやけたこの渦巻き映画の中で、ほぼ平和な独白の背景に対して、フレームの下でゆっくりと消える青い空の背景に対する彼女の恍惚とした顔。再び子供になった大人の観客として、暗い部屋の夜に叫びながら、我々のものとなるこれらの幼稚な叫び。影と光、これらの2つの単語の関係は、暗い空間(部屋の空間)内の光の化学的印象として作成されて記録された。肉体的感覚を味わい、起源の無声映画に特有のこの物理的および塑性振動は、まさに最初の映画の発見からグランドリューを魅了したものであり、彼の言葉を信じるならば、訓練や映画を愛するフェティシズムなしで一度だけ実行されたのだと言う。したがって、彼の映画を特徴付ける物語の遺産の欠如は、それ自体が偶然ではなく、ありきたりのヴィジョンから遠ざかり、目立たせるために、映画の禁呪法を違反したいという願望さえもない。彼は生まれつきであるため、作家や芸術的主張から解放されるのだから。映画を見る代わりに生きて、巨大な隕石のように正面から見て頂きたい。視聴者の感情が増幅される一方で、視聴者の視覚は徐々に低下する、道徳的な目的のためにそれを組み立てようとするのではなく、本能的に他の人との関係を組み立て、その形を見つけるために自分の芸術を上から下にかき混ぜ、印刷と投影の間にこの一定の振り子の感覚を生み出すだろう。これが映画監督としての彼の賭けの主な目的だ。ビデオエッセイやさまざまなドキュメンタリーで中断された長い旅の終わりに来るこの最初の映画は、彼を新種のデヴィッド・リンチとして紹介することさえ可能だ。無音のcで終わり、pかfを含み、亀裂、風化の同義語、倒置法、詩句とイマージュの規則性、意味、フィルムの手触り、暗く、すべてがフィルム素材の白熱光の中にあり、読書と創造のモードとしての無意識。振動の影響で画像がちらつき、ほぼ2倍になり、グラフィックが物語の原則になり、アラン・ヴェガ(Suicideの元メンバー)の幻覚的なサウンドトラックがまた凄い、映画小説の地では前例のないグランドリューの実験的な繊維が、映画の起源とその最も前衛的なエッセイの両方を一掃し、網羅するだろう。あなたが自分で選んだもの以外すべて。それは結局何であったのか? あなたたちが産まれる以前に見たものでもあり、既に太古から存在はするが、同時にあなたたちが決して見ようとしないものである。
再定義された映画のマニフェストと相まって、巨大で貴重な単なる影、闇を貫いた映画。
 
 
1998年 / フランス / 112分 / 監督・脚本:フィリップ・グランドリュー / 脚本:ソフィー・フィリエール、ピエール・ホジソン / 出演:マルク・バルべ、エリナ・レーヴェンソン、ジェラルディン・ヴォイヤほか



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日時:2月26日(金)18時開場 / 18時30分開始(20時終了予定)
会場:bar bonobo(〒150-0001 東京都渋谷区神宮前2-23-4 / 電話  03-6804-5542)
料金:前売り&冊子「イリュミナシオン」予約の方=2000円+ワンドリンク
         前売り=2500円+ワンドリンク
         当日=3000円+ワンドリンク
 
・既に「イリュミナシオン」を予約した方はこちらまでご連絡下さい(担当:編集部・矢田)
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