- 2022年12月25日
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江藤淳/江頭淳夫の闘争 第5回
風元正さんによる不定期連載「江藤淳/江頭淳夫の闘争」の第5回目です。今回は江藤淳の「60年安保」態度変更などについて、国内だけでなく欧米の同時代の評論家や思想家らと比較して考察されています。
「国家」と私
文=風元正
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「60年安保」における江藤淳の態度変更を「転向」と呼ぶべきなのか。論点は多岐にわたり、下手すると近年の国会論議のごとくスコラ学的な「定義」からはじめなければならない。はっきりしているのは、〝戦後民主主義のゴーストライター〟たる丸山眞男と〝反スタを先取りした永久革命家〟埴谷雄高の勢力圏から離れたことだ。吉祥寺の「反体制戦後派」から、「文壇」のヘゲモニーを握る「文學界」グループの川端康成/小林秀雄の傘下への鮮やかな移行は、よほどの頭脳の持ち主でなければ成し得ない。しかし、文壇政治的にみれば、弱者から強者への足抜けという意味で最大級の裏切りである。
見逃がせないのは、江藤の文学評価の軸がまったくブレていないという事実だ。変化したのは、小林秀雄を「正」とみるか「負」とみるかであるが、もともと戦中に最強の論理を構築したという判断を下していたのだから、論理構成は同じでも支障はない。もうひとつ、「生きた廃墟」の呪術的な言葉による文学が、結局、この国においては質が高いという状況も、いつか克服すべき課題だと捉えれば矛盾はない。「散文」的主体の確立による日本人の近代化、という丸山的な目標は『夏目漱石』以降、一貫していて揺らいでいない。
小林秀雄は嫌味なことに、「生きている人間などというものは、どうも仕方のない代物だな。何を考えているのやら、何を言い出すのやら、仕出かすのやら、自分の事にせよ他人事にせよ、解った例しがあったのか。鑑賞にも観察にも堪えない。其処に行くと死んでしまった人間というものは大したものだ。何故、ああはっきりとしっかりとして来るんだろう。まさに人間の形をしているよ。してみると、生きている人間とは、人間になりつつある一種の動物かな」(「無常といふ事」)と川端康成に語りかけたりする。小林と比較すれば、現実は文学によって変革しうるという理念を手放さない江藤の姿勢は、「右」か「左」かというレッテル貼りを越えて、よほど「積極的」である。
丸山は埴谷との対談で、「勝目のないたたかいを、専門化の傾向に対して不断にいどんでゆく必要がある」という発言からの流れで、「これでいいのか、といういってみれば形而上学的な悩みをもって日常的な仕事をしている。つまり、そういう人々(=官僚組織、自治体、企業などの世界)の仕事のなかに滲みとおるような形で、埴谷哲学というものが広まってもらいたい。ところがそういう専門家や実務家でもたまには読んでる人いるけど……」(「文学と学問」「ユリイカ」1978年3月号)と発言していて、埴谷は「いや読まれる筈ない」と言下に応じている。丸山は、「毎日の仕事に追われてやりきれないんで、それからの逃避で埴谷文学も読む」という正確な認識を示し、埴谷は丸山の願望を夢物語だと暗示する。ギリギリ「知識人」幻想が生きていた70年代末のおける丸山のボヤキは、戦後日本がいわゆる「近代化」とまったく違う道を通って成長したことを、端的に表している。
江藤は1960年、武田泰淳の「政治家の文章」についての評論で、近衛文麿について「もともと私はこの貴族政治家が好きである」と打ち明けた後、次のように論じている。
「政治家の内面に「純粋」なもの、「深く精神的なもの」が存在することは悪いことではない。それが彼の政治的行動にプラスするかマイナスするかは知らない。が、とにかく彼も一個の人間であって、その内面の深みにどんな宝石がかくされていようと不思議はないのである。しかし、政治に「深く精神的なもの」などありようはずはない。むしろあってはならない。政治は詩ではない。自己表現ですらない。それは単なる手続き、技術、無味乾燥な義務にすぎない。あるいは、政治から完全に「精神的なもの」の影をぬぐい去ったとき、政治家は自己の内面の「精神的なもの」を回復するというべきかも知れない。つまり、このために、彼は最も厳格なストア主義者にならねばならないのである。民衆が理想を要求すれば、彼は民衆に「理想」をあたえるだろう。それが蜃気楼にすぎぬことを百も承知の上で。彼は自らは砂漠の中を行きながら、常に蜃気楼の実在を説きつづける隊商の長である。が、危険は実にこのようなときにおこる。」(「政治と純粋」・『西欧の影』所収)
この一節は元祖「風見鶏」政治家についての論評であると同時に、江藤自身の「1960年」の行動原理の告白のようにも読めるのが不思議である。すでに堀川正美の「抒情詩」からは遠い場所にいる。
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江藤淳の67年間の生涯を見渡して、ずっと吉祥寺グループ的なリベラル知識人であり続ければ、悲劇的な晩年を回避できたのではないか、という漠然とした仮定を抱いていた。しかし、当時の状況をつぶさに見れば、ありえない想像だったとわかった。まず、丸山/埴谷のヘゲモニーは60年がピークであり、「伝説」的な存在ではあり続けたものの、現実社会への影響力は低下する一方だった。
丸山は70年に東京大学を早期退職する。主な理由は体調不振であるが、信じようとした「戦後民主主義の虚妄」があまりに愚かな形に堕落し、権威側代表の「東大教授」として矢面に立ち続けるのがバカバカしくなったと覚しい。江藤は丸山について「只の個人主義を心がけてる人だと思う。ところがこの日本では漱鷗二家の昔から只の個人主義者になることは並大ていのことじゃないんだ。ぼくのみるところでは、こいつに成功したのは明治以来正宗白鳥只一人、あとはみんなミイラとりがミイラになりかけた。/現在の丸山真男といえどもその例外じゃない」(「人物歴訪」・『日附のない文章』所収)と評した。江藤は敬意を込めながら、丸山と道を違えたと見るのが妥当であろう。
アカデミシャンとしての節度を守り、大学は去っても福沢諭吉を論じることを通じて「啓蒙」を続けた丸山の生き方は見事だ。埴谷の方は、あくまで「革命」は未来に「幻視」され続けるものなのだから、現実はどうなろうと知ったことではない、という態度を貫くことができる。若くて生活欲が旺盛な江藤淳が、両者の浮世離れした生き方に従い、ダンスパーティや囲碁に興じ続けることなどありえない。
江藤の個性はむしろ、日本の知識人と比較するより、世界に目を転じる方がはっきり浮かび上がる。1933年生まれでほぼ同年齢のスーザン・ソンダクのデビュー評論集『反解釈』を久々に読み返してみて、初期江藤の問題意識とのあまりの類似に驚いた。
「芸術は呪文であり魔術である――これが芸術の体験のいちばん始めの形であったにちがいない(たとえばラスコー、アルタミラ、ニオー、ラ・パシエガの洞窟絵画)。芸術とは模倣(ミメーシス)であり現実の模写である――これが芸術の理論のいちばん始めの形、ギリシアの哲学者たちの理論であった。
この時、たちまち芸術の価値という問題が生じてきた。なぜなら、模倣説という用語自体がすでに、芸術の存在理由はどこにあるか、という問いをつきつけているからだ。」
(「反解釈」高橋康也訳)
エッセイの冒頭であるが、この「問い」は「生きている廃墟の影」のモチーフとほとんど近接している。少なくとも、両者はラスコーの壁画を芸術の原点として参照し、ギリシア哲学以前に立ち帰ろうとしていることは共通している。ソンダグは「解釈は世界に対する知性の復讐である。解釈するとは対象を貧困化させること、世界を萎縮させることである。そしてその目的は、さまざまな「意味」によって成り立つ影の世界を打ち立てることだ」(同前)としてあらゆる「解釈」を批判し、「解釈学の代わりに、われわれは芸術の官能美学(エロテイクス)を必要としている」(同前)と宣言する。このような「ラデイカルな意志のスタイル」こそ、まさに江藤淳の批評精神の隣人ではないか。
もちろん、「リベラル」を貫いたソンダクと江藤とは政治なポジションは180度違うし、「反解釈」以後の仕事は領域がまったく重ならない。しかし、初発のモチーフの類似は偶然ではない。江藤とソンダクは「批評の時代」の産物とも呼ぶべき英米文学の「ニュー・クリティシズム」を学んだ上で、「反スターリズム」が前提となった時代に世に出た。「マッカーシズム」による「赤狩り」の暴風は芸術の領域では決定的な影響を与えたが、ケネス・バークの指導を受けたソンダグは「マルクス・レーニン主義」実践の可能性がほぼ閉じられた空白に登場したスター批評家だった。それは、「六全協」以後の批評家である江藤淳の新しさと共通する。
実人生において江藤とソンダクが交わることはなかったし、お互いの仕事をきちんと参照し合うこともなかっただろう。しかし、両者を育んだ時代背景と、栄誉ある「孤立」を保った精神性はとても近い。何より、ソンダグの「反解釈」、すなわち徹底的なイデオロギー批判を、江藤は批評の原理として共有している。
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アメリカにはもうひとり、参照項として重要な人物がいる。「ネオコン」の元祖として知られ、「ネトウヨ」から常に「トロツキスト」とののしられるノーマン・ポドーレツである。ポドレーツは1930年生まれ。その半生を書いた〝MAKIG IT〟は、「世界でもっとも長い旅路の一つはブルックリンからマンハッタンにいたる旅――少なくともブルックリンのさる地区から、マンハッタンのさる地区にいたる旅である」という一行から始まる。この本は、1973年に北川克彦訳で、『文学対アメリカ――ユダヤ人作家の記録』というタイトルで晶文社から出ているのだが、文学で『成り上がり』のような「アメリカン・ドリーム」を実現した批評家の自伝という捉え方が、現在から見ればピントがズレているのが面白い。もちろん、刊行当時は「ネオコン」など影も形もないのだから当然のことだ。
「ブルックリンのさる地区」というのはユダヤ移民のゲットーであり、下層階級を意味する。ポドーレツは、コロンビア大学とユダヤ神学校を卒業した後、ケレット奨学金、フルブライト奨学金を得てケンブリッジ大学に留学し、F・R・リーヴィスの指導のもと、文学修士を取得した。ブルックリンから来た「野蛮人」はよほど頭脳明晰だったのだろう。英文学批評の重鎮リーヴィスから、編集していた評論誌「スクルーティニィ」に、21歳で書くように勧められ、批評家としてのデビューを果たす。ここまでのキャリアで重要なのは、年齢的に徴兵されない、第二次世界大戦戦中に学生だったアメリカの「高尚」なエリートは、戦争の直接的な影響をほとんど受けていない、ということである。
23歳でアメリカに帰国し、アメリカのマルクス主義批評の牙城『パーティザン・レビュー』やユダヤ人委員会が支援する月刊誌『コメンタリー』への寄稿をはじめる。両誌はデルモア・シュワーツ、クレメント・グリーバーグ、ハンナ・アーレントなどのユダヤ系のニューヨーク知識人の拠点であり、ボドーレツはソンダグと同じく、反スターリニスムとモダニズムの結合が自明の前提となった世代であることは「戦後」を生き抜く上で幸運であった。
『コメンタリー』誌上で、ユダヤ系作家の大先輩であるソール・ベロウの『オーギー・マーチの冒険』の書評でこきおろして話題になり、知的洗練を追求する『ニューヨーカー』から原稿を依頼されて、若くしてハイブロウな体制派と反体制派の雑誌の、両方の寄稿者となり、至難の業である「ブルックリンからマンハッタンにいたる旅」に「成功」する。ポドーレツの足跡は、自覚しているかどうかは別として、「反ナチズム」を根拠として、ユダヤ人が戦後の知識人社会のヘゲモニーを握ってゆくプロセスに重なっている。
ポドーレツは53年から55年まで兵役に服して、グリーンバーグらとの軋轢を経て『コメンタリー』の編集長となり、依頼していた黒人公民権運動をテーマとしたジェイムズ・ボールドウィンの話題作『次は火だ』を「ニューヨーカー」のウィリアム・ショーンに高値で横取りされて、同じテーマでブルックリンでの自分自身の体験に根差した評論「わたしのニグロ問題――そしてわれわれのニグロ問題」をコメンタリー誌に発表する。
「アメリカにおける白人のニグロに対するたいする関係には、理性的な分析をはばむことではユダヤ人についてのキリスト教のヨーロッパの感情にも似ている、ほとんど精神病的なものがあるのだ。人種統合は答えにならないのであって、その理由も、リベラルたちが、白人のアメリカがそれに同意すると信じて自らを欺いているからだけではなく、それが効果のあるのは、ニグロたちが黒人であることの条件を逃れたいとの秘かな夢を自ら断念するときにかぎられるからなのだ。おそらく、いつの日か、ニグロたちは白人集団への大規模な種族混交によって消えてしまうのだろう。それはこの悲しい物語の全体にとって最良の結論なのであろう」(『文学対アメリカ』)
ボールドウインと意気投合したというこの見解は、子供時代を過ごしたブルックリンでは黒人は強者で、自分自身はその身体の優美さや屈強な体力に憧れを抱いていたという正直な告白と合わせて、黒人問題についての「WASP」的な見解としてセンセイションを巻き起こす。ポド-レツはユダヤ系知識人の代表として、アーヴィング・クリストルとともにホワイトハウスに呼ばれていたが、ケネディ大統領を支持していた頃は「ベトナム反戦」というサブカルチャーの動向に追随していた。しかし、前述の黒人公民権運動についての論文が賛否両論でもみくちゃにされたポドーレツは言論の第一線から身を引いた後、リベラルからニクソン大統領支持に転じる。その後、『コメンタリー』の編集長の座を拠点としてホワイトハウスのブレーンを現在に至るまで続け、2004年に大統領自由勲章を授与されるという名誉に浴し、保守派知識人として功なり名を遂げた。
「ネオコン」なるものが世界にどのような影響を与えているか、私には手に余る問題である。しばしば「陰謀論」の主役として取り沙汰され、イスラエルやユダヤ系国際資本家の存在が問題を複雑化している。しかし、「アメリカ」的な価値を至上のものとする主張に報道等で触れるたび、ヘミングウエイのような文学的マッチョイズムを感じるし、実は何を目指している集団なのか、本当のところがよくわからない。「ネオコン」のせいで、アメリカが弱体化しているのではないか、という疑いも持っている。
ただし、「国家」との関係性は江藤のあり方と近いし、晩年の政治的主張と「ネオコン」の論理は重なる部分もある。そして、両者が常に過激な改革を志向する点で、「横丁のそば屋を守れ」的な「保守」とは一線を画している。中島一夫は江藤とドイツの新右翼との類似を指摘しており、その慧眼には敬服している。しかし、私はナチズム忘却の反動から生まれたムーブメントより、アメリカの「ネオコン」とのシンクロニシティが強いと考えている。
江藤淳とノーマン・ポドーレツは、「保守」派と目されるようになった紆余曲折が似通っている。どことなく倫理的な疚しさを抱えている点でも。たとえば、同じように「左」から「右」に転じたと目される西部邁の経歴を見ても、活動家時代の思想がどこまで突き詰めたものだったかが見えず、どんな「転向」だったのか実態がはっきりしない。その点、初期の批評から明白に「ブント」の思考が刻まれていて、その問題意識を今日まで持続している柄谷行人の一貫性には驚かされる。
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柄谷行人は産業革命以降の国家について、次のような見解を示している。
「産業資本の発達が国家と切り離しえないということである。たとえば、商人資本は、特に海外交易において、軍事力、すなわち国家の支えを必要とする。一方、産業資本も国家の支えを必要とするのだが、その役割が異なる。くりかえすが、産業資本の利潤は、たんに労働者を安い賃金で働かせることによって得られるのではない。それは、労働者が生産したものを、彼ら自身が消費者として買い戻すことによってのみ、実現されるのだ。
つまり、資本はたんに労働者から搾取するだけでは、剰余価値は得られない。労働者自身にその生産物を買ってもらわなければならないのだ。むろん、個々の資本は目先の利益だけを目指すだろうが、「総資本」にとっては、それは自滅的なものとなる。産業資本が存続するためには、労働者の育成・保護が必要である。具体的にいえば、国家による教育政策や福祉政策などが必要なのだ。」(『力と交換様式』)
1989年11月「ベルリンの壁」が崩壊し、93年にEUが成立して、私は第2次世界大戦の反省から生まれた「国際連合」的な理性が、より前進する日が訪れたと信じた。まだ若かった。生まれてから当然のように続いていた東西冷戦によるイデオロギー対立が諸悪の根源という先入観から逃れられなかった。しかし、90年の湾岸戦争が暗い翳を落とし、やがて、民主主義VS.共産主義の如きイデオロギー対立は、実質的に無意味であることを徐々に知ってゆく。この論考で、私が「右」「左」という言葉しか使わないのは、柄谷のいうような「国家」のインフラが「人類」にとって逃れられないのならば、「保守」「リベラル」のような分類も、単なる記号的な差異にすぎない、という認識を前提にしているからである。
最近、ようやく「若者の保守化」あるいは「右傾化」のような表現を目にしなくなった。常にスマートフォンを手にしていて、隅々まで情報化された社会しか与えられていない世代にとって、PCと携帯電話出現以前の不便な生活環境など想像すらできない。養老孟司流にいえば、石油がなくなったら終わり、であるが、いずれにせよスティーブン・ピンカー的な相対的豊かさを享受し続けてきた人々にとって、現状維持はますます至上命令となる。
まだイデオロギー対立が騒々しく、インフラも隙間だらけだった60年から、江藤は「国家」の権能の増大に気づいており、「人間(=文学)」を対抗させることによって、その専横に対抗しようとした。江藤の「60年安保」の時の行動をこのように解釈するならば、「転向」は現代人がみな強いられている「国家」との関係を予見したもの、と考えることもできる。
話は少し脇道に逸れるが、柄谷の『マルクスその可能性の中心』をアメリカで最初に評価したのは、1919年ベルギー生まれのポール・ド・マンだったことはよく知られている。ジャック・デリダにも深い影響を与えた「脱構築」派の創始者で、こちらもユダヤ系のアメリカ移民。71年に刊行された『盲目と洞察』の「まえがき」には、このような一節がある。
「数人の現代の批評家の検討から浮上してくる読解の構図は、単純なものではない。彼らのすべてにおいて、文学の本性について彼らが述べる一般的言明(彼らの批評方法の基盤となる言明)と、彼らの解釈から生ずる実際の結果とのあいだで逆説的な齟齬が現れる。テクスト構造についての彼らの発見は、彼らがみずからのモデルとして用いている一般的な考え方と矛盾してしまう。彼らはこの齟齬に無自覚なままであるばかりか、この齟齬を糧にして生きながらえており、彼らの最良の洞察自体、当の洞察が論駁する諸前提に負っているように思われるのである。
私は、こうした奇妙なパターンを多くの例で文献上に跡づけようとした。ここで取り上げた批評家の文学的鋭敏さに議論の余地はないが、他のさまざまな書き手のなかでも批評家を選ぶことによって私が示唆しているのは、こうした齟齬のパターンが、個人的もしくは集団的な逸脱により誤りの帰結ではけっしてなく、むしろ文学言語一般に不可欠な公正的特徴なのだということである。」(『盲目と明察』宮崎裕助・木内久美子訳)
「脱構築」の論理を端的に表している箇所であるが、どこかで聴いたことのあるメロディではないだろうか。いうまでもなく、小林秀雄が「様々なる意匠」で採用した等距離迂回戦術である。小林は1902年生まれ。江藤の分析通り、小林がマルクス主義と帝国主義の狭間で芸術の自立性を確立したとしても、戦争協力の問題が付きまとうとするならば、死後、反ユダヤ主義的発言が発見されたド・マンの「脱構築」批評もまた同種の構成で成り立っている。
たとえば、どのように糊塗しようとも、1889年生まれのマルティン・ハイデガーが「ドイツ精神の再興」のためにナチズムに本心から加担したことは歴史的事実である。弟子の愛人ハンナ・アーレントは戦後、罪の軽減に奔走したものの、ハイデガー自身は結局、一切反省していない。次世代の小林とド・マンは帝国主義戦争との関係とマルクス主義の席捲が必然となった世代の芸術家として、「様々なる意匠」的な事態から逃れられない。そして、江藤や柄谷の戦後世代になると、「国家」や「資本主義」などにより「人間」抜きで形成される「環境(=システム)」とでも呼ぶほかないものへの違和との対峙を強いられる。人は生まれる時代を選ぶことはできない。人間への「信」を貫いた『本居宣長』を完結することができた小林秀雄は、幸福な世代に属していたのだろうか。
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先回りし過ぎたので、『小林秀雄』を完結した時期の江藤淳に戻ろう。繰り返しになるが、死後20年以上の歴史の推移を見つつ後知恵によって私が徐々に気付いた文明論的問題系について、当時の江藤が視野に入れて活動していたことは確かである。と同時に、当時の日本は1ドル=360円の固定ルートに甘んじた、まだ占領の記憶も新しい、行く末も不確かな敗戦国だった。
江藤は1960年から毎日新聞で論壇時評を2ヵ月書いた後に「文芸時評」を連載し、年末、つまり新年号分から舞台が朝日新聞に移る。文壇的な地位は、ほぼ確定したと見ていい。61年には西独政府の招待によりヨーロッパ6ヵ国を旅し、連載完結した『小林秀雄』が講談社より刊行される。そして、62年8月、ロックフェラー財団研究員となり、米国プリンストン大学に留学する。
「日本文壇」を代表する若手批評家として、世界に雄飛したということになるのだろうか。実はこの時期から、正確に区分するならば『小林秀雄』が選考委員である当の小林秀雄の強力な推挽を受けて第9回新潮社文学賞を授賞してから、私がこれまでに引用してきたように、さり気ない形で行動の真意を解き明かすことはほとんどなくなる。カードが固い小林秀雄譲りなのか、あるいは「成功」後のポドーレツと似た動機なのか。
『アメリカと私』から続く「と私」シリーズで江頭淳夫は、ペルソナとしての「江藤淳」の中に「江頭淳夫(=私)」の場所を用意した。とはいえ、江藤淳が江頭淳夫の一部分であることは変わらない。しかし、啓蒙「活動家」の面を捨て「批評家」という自己限定をしたことにより生まれたペルソナと実存の亀裂を埋めるためには、「私」という人称の導入はどうしても必要なであった。
生前に単行本化を許可しなかった未完の「日本と私」は逆に、ほとんどグチの集積のような文章であるからが著者として不満なのは当然として、この時期の文章を読んでいて気付くのは単純に、日本が嫌い、という深い絶望である。もちろん、江藤は愛国者であり、否定の対象はあくまで「戦後」である。しかし、時が経つ毎に深まる嫌悪感は止めようがない。
渡米中のエッセイの中で、私が最も好きなのは「ローガン親爺の店」である。アメリカでは生活必需品の自動車を貧乏留学生だから中古で購うのだが、その車がすごい。
「「古フォード? ああ、あれはいいオートモビルだ。こっちへ来な。いいか、俺は自分で車を継ぎ合わせてつくる。あっちに一杯スクラップがあるだろう。あそこから部品をとって来てな、自分で組立て直して新しいのにするんだ。このフォードには三台分ぐらいかかっている。エンジンはオーバーホールしたばかりだしな、タイヤはこの間アクシデントにあってこわれた新車のをはめたしな。こんなオートモビルはないぜ。俺は趣味で商売をしてる男だ。値段? 三つ半よ(スリーフイフテイ)」
件(くだん)の車は、水たまりに片足かけたかっこうで、空地の隅にころがっていた。ツウ・ドアのハードトップで、白とブルーのツートーンだといえばきこえがいいが、果して動くのかどうかよくわからない。」(「ローガン親爺の店」・『犬と私』所収)
とまあ、こんな調子である。イマドキの車検が通るかどうか怪しい代物を買うわけだが、ローガン親爺がキーを回せば動くのだが、江藤がやったら上手くエンジンがかからない。
「私が同じようにもう一度ちょっと手をひねると、やはり車は動かない。
「つまりこの車はあなたに馴れていて、私になつかないんですな、長いこと飼っていた犬みたいに」
「フム、犬みたいに? お前は犬を飼ったことがあるかい」
「イエス」
ローガンは何ともいえないほど幸福そうな顔をして、鍵をカチリ、カチリとまわしてみせた。そのたびに車は、喜び勇んでガタガタこおどりするのであった。」(同前)
エッセイはこのようなオチを迎えるわけだが、私の知る限り、これだけ手放しに楽し気な江藤の文章はほかに読んだことがない。つまり、江頭淳夫は、スクラップの山から一台の車をセルフメイドして売り物にする「親爺」がいるような国柄が好きなのである。このボロ車は、ロングドライブのためにオイル交換したら立ち往生して修理が必要となった話がまたエッセイの種になったりして、体験的「アメリカ」を語る際には欠かせぬアイテムとなる。
中原弓彦(小林信彦)編集の「ヒッチコックマガジン」に掲載された留学中の消息を伝えるエッセイ群は、その他にも留学先でのびのびと呼吸している朗らかな江頭淳夫の姿が記されており、心温まる。一方、『西洋の影』に収められたヨーロッパ見聞記の文体は硬く、「西欧文明」への挑戦という強張りが抜けない。つまり、江頭淳夫が最も寛げるのは、皮肉なことに、かつての憎い敵だったアメリカの地だった。
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江藤は、アメリカでの2年間の滞在を「社会的な死」と形容した。しかし、プリンストン大学での生活に馴れるうちに、次のような感慨を抱いている。
「プリンストンで、私が自分のままでいられるというのは、そこで自分が日本人として抱いている欲望をかくす必要がなかった、という意味である。これは、東京ではむしろ逆であった。そこでは、「日本人ばなれのした」という言葉が、何につけても讃辞として用いられるような空気が充満していたからである。これが、いかに無意味な言葉であるかを知るために、私には、図書館の便所にはいるたびに、黒人の小使や白人の学生の顔といっしょに鏡に映っている自分の黄色い顔を、一瞥するだけで十分であった。」(『アメリカと私』)
「適者生存」の国アメリカの比較文化論として意図されている『アメリカと私』はさまざまな韜晦がまぶされているが、この一節は正直な告白に近い。なにより、「さようならマリアス、さようならマリア、さようならジーン、さようならプリンストン」というエッセイの結びの一文に、江頭淳夫の真情が溢れ出ている。
とはいえ、世界で最も豊かな覇権国だったベトナム戦争前のアメリカの寛容さは、長くは維持されない。1979年に再訪したアメリカのへ失望は『アメリカ再訪』に収められたエッセイに詳しい。また、渡米してすぐ、あごが外れてしまった慶子夫人にとって、快適な土地であったとも思えない。ソンダグやポドーレツのような、いけ好かないニューヨークのユダヤ系知識人とは、たとえ接点があったとしても、まったく趣味が合わなかっただろう。
それにしても、江頭惇夫のまだ若々しく素朴で実質を重んじる国であるアメリカへの愛着は隠せない。留学から帰国後の惨憺たる疲労が滲み出ている「日本と私」を読むにつけ、あれだけの英語使いならば、アメリカでキャリアを積めばよかったのではないか、という疑問が生まれても当然であろう。少なくとも、丸山/埴谷クループに留まるよりはよほど可能性の高い選択肢だった。それでは、なぜ、帰国して日本で活動することを択んだのであろうか? もちろん、日本に小林秀雄がおり、しかも、江藤淳に後事を託すことを62年の第9回新潮社文学賞の選考結果により端的に表明したからである。
安部公房『砂の女』(! 本作は読売文学賞を授賞)、安岡章太郎『花祭』、野間宏『わが塔はそこに立つ』、花田清輝『鳥獣戯画』など他の候補作も強力で、江藤の『小林秀雄』の受賞は世評とは違っていた。小林の選評は「批評といふものが、新しく何かを創りだそうとする動機のうちにある、少なくともさういう時勢に生活を強ひられてゐるとは、いつも私が考へてゐたところであるから、江藤氏の批評的作品が、私自身を素材としてゐるといふ事を特に考へようとは思はない。江藤氏自身のヴィジョンは延び延びとしてゐる」。他の選考委員も『小林秀雄』は小林についての評論ではない、と示唆している……。まだ若手批評家だった江藤にとって、十二分な勢力を保っていた日本の「文壇」からの強い引力に抗することは難しい。
『漱石とその時代』により、37歳で野間文芸賞と菊池寛賞を受賞するという文壇的出世は、とても早い。さほど周囲に好かれる人柄でもなく、つまりは小林秀雄グループの政治力に帰する。もちろん、江藤は小林に唯々諾々と従っていたわけではなく、常に出し抜こうとしていた。しかし、小林が戦後、たとえば「文芸時評」のようなタイプの文章を喜々として書く図など想像できない。未完に終わったベルグソン論『感想』が、江藤の目覚ましい活躍が始まった時期の58年に連載開始されたことは偶然とはいえ、ある種の符合を感じる。脛に戦争責任という傷を抱える小林にとって、自派に属する若くて優秀で雄弁で同時代的な活動を展開する論客はどうしても必要だった。
30代の江藤の各メディアでの華やかな活躍と、江頭惇夫として東京工業大学教授という「国家公務員」への就職を年譜で確認するにつけ、社会的に安定し病にも苦しまない時間が続いたことにほっとする。『海舟余波』を読んでいると、江藤淳/江頭敦夫にとって、かくあるべしという対象ではあっても、現実に海舟のような政治的手腕を発揮することは感性が鋭敏すぎて無理だろうと感じてしまう。つまり、キャラクターが違うとして、「政治的人間」という大看板の理想として掲げている分には社会的に収まりがいい。
江藤は順調に「名士」となり、ポドーレツのように政治家のブレーンの座に収まってゆく。文芸批評家であるにもかかわらず、国家権力に近づくことも躊躇わない。しかし、そこで江藤とポドーレツを分かつものがひとつある。それは、「文学」である。ポドーレツは世俗的な成功を収めて上昇志向が充たされた時点で、ちゃんと書けば書くほど多方面に怨みを買いかねない「批評」を捨てて、国家にたいするアドバイサーと「ネオコン」のオルガナイザーとして活動することを択んだ。しかし、江藤淳/江頭淳夫は、「文芸時評」という場では公平に、遠慮会釈なく作品を論じ続ける。
休止期間はあったにせよ、発表されたばかりの、決して既知の文脈だけで片づけることができない数多くの作品を、江藤はほぼ毎月、20年間心を開いて読み、「文学者」として率直に振舞い続けた。その集成である『文芸時評』こそが、批評家「江藤淳」の最高の作品である。そしてそれは、もっともリアルな「同時代文学史」でもあった。私はこれから、今日の眼から「文芸時評」を読み込んでゆく。