江藤淳/江頭淳夫の闘争 第2回

風元正さんによる不定期連載「江藤淳/江頭淳夫の闘争」の第2回目です。今回は第4巻のタイトル『海賊の唄』にもある「海賊」、そして日本の戦後に対する丸山眞男と江藤淳の見解のズレなどについて書かれています。Kindle版「江藤淳全集」は第7巻まで発売中です。
kazemoto_eto2b.jpeg 149.16 KB



「海賊」の敵




文=風元 正
 


 *

若き批評家として世に出た江藤淳は、自らを「海賊」に擬えた。文学者にしては物騒だが、武張ったイメージには由来がある。江頭惇夫の祖父である海軍中将・江頭安太郎がその源だった。祖母の米子の父も、海軍少佐をへて、海軍兵学校の予備校の海城学園を創設する古賀喜三郎である。海軍一家に生まれた惇夫は、「鉄骨木皮の練習艦」に乗っていた海軍士官の祖父が台湾沖で、暴風雨の中、灰色の幽霊船に遭遇して危うく命拾いした逸話などを子守歌にして育った。
安太郎は海軍学校を主席で卒業した秀才であり、1913年、48歳で早逝しなければ海軍大将も有望視されていた逸材だった。しかし、息子の隆は銀行員となり、米子の期待は孫の敦夫に向かう。しかし、4歳半の時母・廣子を結核で亡くし、それが感染したと思しい淳夫は病弱で「あらゆる点で船乗りに不適格な子供」だった。
江頭淳夫の読書遍歴は、7歳の頃の『ロビンソン・クルーソー』に始まる。「極度の病身で、学校にすらろくろく顔を出さなかった、というより、それをよいことにし、両親の心配を利用して、世の中で最も不愉快極まる学校という場所を徹底的に拒否していたのであった。このようなぼくにとって、学校のない、絶海の孤島で、山羊を飼い、フライデーを家来とし、人喰人種と戦うロビンソン・クルーソーほど魅力的な男なはいなかった。」という子供が、祖母が江頭家の「家業」とみなす海軍軍人になれるはずもない。
しかし、「船乗り」のイメージは江藤淳/江頭淳夫を魅了し続ける。『夏目漱石』を書いた時の江藤は、「マジェランのように、平たい大地が丸いことを証拠立てて、地球をひとまわりすることができる」と思っていたが、3年でその目論見を崩れ、「「さまよえるオランダ人」の船長のように、上陸のあてのない航海をつづける」身の上となったという。しかし、批評という行為が「私の視た陸地のかたちを書きつけ」、檣で「海賊の唄」をうたうことだという考えは終生変わらなかった。
 江頭安太郎の如く国家を背負った海軍軍人が、孤島にいるロビンソン・クルーソーか。しかも安太郎は、ロマンティックな「船乗り」でもある。「あれか、これか」という葛藤が少年の内面を引き裂き、やがて文学という「海」に船出してゆく原動力となる。

 *

「海賊」として出発した江藤淳/江頭淳夫の「敵」は2つあった。まず、ひとつの敵は「散文の欠如」、すなわち真の散文が書かれることの稀な日本の精神風土である。
こちらの方は主に、批評家・江藤淳の標的だった。初期の論文で高らかに挙げた理想主義的な狼煙は先達の心を動かす。伊藤整、中村光夫、平野謙などの錚々たる書き手が一連の評論について言及し、何より当時の造反学生たちの「神」であった埴谷雄高の熱っぽい批評が強く江藤の背中を押した。
1957年10月の『図書新聞』の埴谷の文芸時評は、「さながら数学の証明のような文章を系統的に提出しているこの若い筆者は、吾国で珍しい体系的な文学論の建築をなし得る批評家となるかもしれない」という将来像とともに、「もしさまざまな文学作品が、現実の奴隷でなく主人になることを要求する江藤淳の評論など必要せぬほど続出してくれば、まことに喜ばしいが、現実の総体はまだそこへ向かっていないのである」という分析で結ばれていて、その鋭利さと予見性に舌を巻く。
1957年4月、江藤は慶應義塾大学文学部英文学科を卒業して大学院に進学し、5月に大学の同期生だった三浦慶子と結婚。新居は埴谷の住む吉祥寺のアパートであり、慶子は山川方夫ともに「江藤淳」のプロデュースに力を発揮する。そして、江藤は吉祥寺の主で『死霊』の著者である「永久革命者」埴谷雄高の家に通うようになり、妻とともに埴谷邸で催されるダンスパーティにも出席した。
埴谷は、荒正人、平野謙、本多秋五、佐々木基一、花田清輝、大西巨人、野間宏、福永武彦、加藤周一、中村真一郎などがメンバーだった「近代文学」同人であり、丸山眞男や竹内好とも親交がある戦後派の代表格である。戦前、収監されて共産党を脱党する過程を徹底的に考え抜いた体験が、反スターリニスムを先取りする履歴となり、戦後は筋金入りの反権力アナキストとして畏敬されていた。そして、埴谷に認められた初期の江藤も、戦後派系の新人と見做される。
58年に書かれた「神話の克服」は、埴谷を筆頭にした戦後派の影響が濃厚である。前年の57年は原田康子『挽歌』、三島由紀夫『美徳のよろめき』、井上靖『氷壁』などのベストセラーが出た「文運隆盛」期であったが、江藤はその3作に共通する傾向を批判した。主な標的となった『美徳のよろめき』は、有閑階級の貞淑な夫人の「不倫」をテーマにして「風俗小説」であるはずだが、いつ起こった出来事なのか痕跡がほぼ消されている。時代相を描写した唯一のシーンを引用してみる。
「ある晩、二人は待ち合わせて、映画を見、九時前にそれがすんで、映画館を出た時にめずらしい大停電があった。町のあらゆる灯は消え、ネオンはまたたきながら消えていった。数秒のちに又ともり、ネオンというネオンはわなわなとふるえながらともり、新聞社の窓々も一せいにともった。しかしともったと思うと、又消えた。残っているのは自家発電ビルのあかりだけである。(略)
二人はとある新聞社の発送部の前をとおりかかった。発送部の内部は真暗な洞窟のようで、トラックが数台黒々と止まっている。大ぜいの男が闇の中に動いている気配がする。その中の一人が叫んだ。
「猪苗代の発電所に爆薬が仕掛けられたんだぞ。爆発だ。発電所が爆発だ!」
 このとき忽ち、明るい光が目を射たのは、朝刊の第一版発送のトラックが、ものものしくヘッドライトを転じて発車したのである。」
そして翌朝、停電の原因は、猪苗代発電所の送電線への落雷と新聞報道で知る。主人公が望む「革命や暴動」は起きる気配すらなく、「騒擾」の前兆は結局「官能を促す」だけに終わる。江藤は『美徳のよろめき』という小説は、大停電の間、主人公が感じた「不安な感じ」を増幅しただけの小説である」と断じる。
『美徳のよろめき』の主人公について、北原武夫は「姦通という悪徳を犯しても穢れることを知らない優雅な人間の持つ、真の意味での贅沢な魂」と形容している。ただし、小説は全編、主人公のモノローグで構成されており、彼女の内面は決して他者と共有されることはない。読者はもっぱらその心理ドラマを鑑賞するわけだが、作中で起こる出来事は、有夫の婦人が姦通して妊娠し、誰にも相談せずに自らの手で関係を整理した、というだけにすぎない。
江藤は、「作中の人物における生活不在であり、現実逃避的傾向であり、ある種の稀薄さ、リアリティの不在」を危険な兆候として指摘する。単なる平凡な恋愛事件に過ぎない物語が、「ひとつのムードとしてとらえられた強烈な危機感」に支えられ、1957年の「文運隆盛」の主潮となる。つまりは「散文の欠如」ゆえにかえって作品が読まれるという状況を、どう捉えればいいのか。

 *

丸山眞男は1946年、政治学の今後について、次のように高らかな宣言をした。
「日本の国家構造は八・一五を契機として見られる如き歴史的な転換を遂げつつある。神秘のとばりにとざされていた国家の中核はいまはじめて合理的批判の対象となりうるに至つた。アンシャン・レジームのもろもろの政治力は解体し、暗黒のなかで行われた錯雑した国家意思の形成過程は、いまや国会が「国権の最高機関」とされ、議院内閣制が採用される事とよつて著しく透明となった。また、天皇が実体的な価値の源泉たる地位を去つて「象徴」となつた事によつて国家権力の中世的、形式的性格がはじめて公然と表明され、その実質的な少悪をめざして国民の眼前で行われる本来の政治闘争がここに漸く出現した。政治的現実はいまこそ科学的批判の前に自らを残るくまなく曝け出したわけである」
(「科学としての政治学」『現代政治の思想と行動』所収)
丸山は戦前の日本ファシズム支配を「無責任の体系」と批判した上で、戦後に「科学」を基礎とした諸学の変革が成されることを期待していた。日本文学に根強く残る「呪術性」を徹底的に批判した江藤の散文論は、丸山の呼びかけに文学の側から応じた論旨を含んでいる。埴谷が江藤の未来を嘱望するのも、丸山の諸論文との関係から考えれば自然な文脈であった。
すでに参照した「現代文学の問題」では、創作活動を職業にできなかった18世紀の英国において、教区の牧師だったローレン・スターンが成り立たせた「伝達(コミュニケーション)」の可能性が失われてゆく経緯を明らかにしている。小説というジャンルは18世紀から20世紀にかけて、「最初は社会を背景とし、その中で他人との積極的な交渉を持ちながら行動していた主人公を、いつの間にか閉鎖的な「個人」に極限して、その内的世界にのみ関心を持つようにして行く過程である。この推移は、散文の機能の衰退の過程と密接な関係を持っているので、別の言葉でいえば、一つの倫理的な行為の伝達(コミュニケーション)の媒体であった小説が、それ自体の自己完結的な美や芸術的完成のために、そもそもの発生当初に持っていたこのジャンルの最も基本的な機能を無視するにいたる過程であるといってもよい。」という変容を経ていた。
日本の現代小説も、一種の詩語によって書かれることにより「呪歌的性格」を帯び、日常生活とかけ離れた修道院めいた「文壇」のみで棲息することとなる。詩語によって批評を書く人間として小林秀雄も批判されており、「近代文学」派がおこなう戦争責任の追及と問題意識と重なっていた。初期江藤の主張が、日本を代表する近代主義者・丸山眞男と響き合う論旨を含んでいる。と同時に、江藤と丸山の立論の間に無視できないズレもあった。最初は近かった両者の距離の変化が、「戦後」の論壇と文壇の行く末を左右する。

 *

57年時点の丸山と江藤のズレは、どこに見いだされるのか。論点は、丸山の担当編集者であり、処女評論「日本浪漫派批判序説」を同人雑誌「同時代」で公にし始めていた橋川文三からもたらされた。橋川は江藤の10歳上の22年生まれで満州事変の時11歳であり、一高時代に保田与重郎の文章を耽読して、勤労動員中に敗戦を迎えた戦中派である。
橋川は丸山の日本ファシズム論を前提としつつ、「特異なウルトラ・ナショナリストの文学グループ」日本浪漫派を、「あの戦争とファシズムの時代の奇怪な悪夢として、あるいはその悪夢の中に生まれたおぞましい神がかりの現象として、いまさら思い出すのも胸くその悪いような錯乱の記憶」として忘れ去るのではなく、内在的に批評することにより、「日本帝国主義イデオロギーの構造的秘密」を見出そうとした。
橋川が「保田=日本ロマン派の精神史・精神構造」を示すという文章は、次のようなものである。
「我々の世界観を、本当の地上表現を伴うものとして教えたのは、やはりマルクス主義であった。この「マルクス主義」は、ある日にはすでに純粋にソヴェートと関係なく、マルクスとさえ関係ない正義を闘おうとする心持になっていた。日本の状態を世界の規模から改革するという考え方から、しかしそういう心情の合言葉になったころにマルクス主義は本質的に変化したのである。
さて「満州国」という思想が、新思想として、また革命的世界観として、いくらか理解された頃に、我々の日本浪漫派は萌芽状態を表現していたのである。しかも、そういう理解が生まれたころは、一等若い青年のあるデスパレートな心情であったということは、すべての人々に幾度の要求する事実である。(略)現在の満州国の理想や現実といったものを思想としての満州国というのではない。私のいうのはもっとさきの日本の浪曼主義である。」(「「満州国皇帝旗に捧げる曲」について」保田与重郎/昭和1940年12月「コギト」)
保田はもともとマルクス主義者であり、「唯物史観」が唯一の「地上的な表現」だった1920年代に青春を過ごした。しかし、ロシア革命の如く、天皇に塁が及ぶことを怖れた政府は共産主義運動を徹底的に弾圧して、1933年、「日本共産党万歳!」と最後の小説に書いた小林多喜二が虐殺された直後、獄中の日本共産党幹部が集団転向する。江藤の史観によれば、明治以来、文学者によって発展継承されてきた「実体論(リアリスム)」は、最終的にインターナショナルな理論である「科学的社会主義」を根拠にした「マルクス主義文学運動」の形態をとったが、党の合法的な活動が禁じられた地点で日本文学の「近代主義」は終わった。
日本浪漫派の活動は、日中事変のさ中の「文芸復興期」とよばれる時期がピークである。日中事変は続いていたものの、社会は小春日和的に安定していた。マルクス主義者をのぞいた文学者は旺盛に執筆しており、いつ徴兵されるかも知れぬ若者たちの「デスパレートな心情」の受け皿になっていた。その状況下で保田は、集団転向のちマルクス主義を「純粋にソヴェートと関係なく、マルクスとさえ関係ない正義を闘おうとする心持」として認識する。ここで「唯物史観」の「心情の合言葉」だった「科学」はどこかへ消えてしまう。
「どのやうに言つても古代をいふ我々の方が、今のところでは最も尖鋭な近代と、又すでに頽廃する以外に更生法のない現代の皮膚の尖端にあきらかに通暁してゐるのである。」(『万葉集の精神』保田与重郎)というロマン主義的イロニイは、とりわけ病める若者の心情を戦地へ向けた。保田のポレミークにより、戦争について「科学」(=「散文」)的な判断を免除された知識人たちは、自らすすんで『万葉集』を携えて戦地へ赴く。
橋川は保田与重郎に「いかれた」戦中の心情を否定せず、どこかで「自然」と「古典」回帰する日本浪漫派の主張に共感している。一方、江藤は日本浪曼派のメタフィジックによりもたらされる「原始的エネルギーの解放、非合理的なはんらんなどといった状況」を「神話」的状況として危険視し、保田の反「政治」主義、反「知性」主義への警戒を隠さない。
とはいえ、橋川と江藤の両者は、日本の近代文学に残る古い「神話」の呪縛と、「危機の機の到来とともにたちまち蠢動を開始する生きたイドラ」を重視する点では変わらない。その上で江藤は、日本浪漫派の影響下にあった三島由紀夫を筆頭に、日本浪漫派が影響力を発揮した「集団転向」後の「文芸復興期」と1957年は、「極度のロマンティシズム過剰」という特徴を備えて文学作品が「神話的な象徴」として機能する事態が共通しており、それゆえ「個性」と「近代」が圧殺されている状況ととらえた。
江藤にとって57年は、日本浪漫派の登場がもたらした病弊が再帰した年である。かつては「満州国の思想」により「五族協和」という理想が実現されていると信じ、そして戦争に負ければ、保田に「騙された」と「一億総懺悔」して「戦後民主主義」という新たな「神話的象徴」に向かう。その繰り返し……。
丸山の方は、「美」と「政治」を一体化した日本浪漫派の活動と保田を一貫して軽視している。64年においても、「私自身の選択についていうならば、大日本帝国の「実在」よりも戦後民主主義の「虚妄」の方に賭ける。」という有名な言葉を書き付けた政治学者は、民主主義を「特定の体制をこえた「永遠」な運動」として考える立場を崩さなかった。丸山と江藤のズレは、「政治」と「文学」というジャンルの違いに帰することができるかどうか。
ここで改めて、「神話の克服」の結びが文学者・江藤淳の文章でありながら、丸山眞男の問題意識と似通っていることを確認しておこう。
「われわれがファシズムや破壊や残酷さから自らをすくい、われわれのなかに現にひそむそのような行動の憧れをならし、「神話」を手なずけるということ以上のリアリスティックな行為は、現在ほかにない。それは正確に、われわれの極く些末な日常生活にまでつながつている。こうして神話的状況を対象化することは、われわれが人間になり、歴史を人間化することに連続するであろう。そしてその時、民族のエネルギーもまた、ムードとなつて拡散することなく、定着されて、その方向に働きだすであろう。その責任を回避するとき、文学者は、人間になることを回避したということになるにちがいない」

 *

これまで述べた通り、初期江藤の言語論は、日本語は「詩」の要素を濃厚に残した言語であり、その呪術性を克服し克服した「散文」を鍛えてゆかなければ、わが国に真の近代はおとずれない、という拡がりを備えていた。もっとも、日本語の悪しき「呪術性」の例は多数挙げられているものの、肯定的な例としては、フィールディグ、リチャードソン、スモレット、スターンという18世紀の英国作家や、二葉亭四迷、夏目漱石、有島武郎の名ぐらいしか挙がっていない。江藤の考えている「散文」像はどういうものか、ここでもう一度、素描しておこう。
江藤の世界観は基本プラトニスム側、天上に「観念(イデア)」が存在し地上の現実はその似姿にすぎない、という立場である。プラトニスムは時代が進むにつれて穏健化してゆくものの、「実体論(リアリスム)」により現実を描写するだけでは「観念(イデア)」に到達できない、というベースは変わらない。そして、プラトニズム的世界の様相は、たとえば次のような鮮烈な表現が与えられる。
「「万物流転」の壮麗な光景。人はこの光景を眺めながら、感覚の虚妄に欺かれて有無転換の真相に気づかず、冷然として者が在ると言い、現象界の多様多彩を見てその無幻のような実体を徹見せず、不変恒常の事物が存在するものと思い、物に名を付け、物を固定化する。相対的な事物を指してこれを絶対視する。いわんや彼は自分自らの存在の相対性についてはかつて顧みたこともない。しかしながら、あらゆる事物の、そして特に自分自身の存在性の本質を意識する能力を人は生まれながらに与えられている。それはひとり人間のみが有する特権ですらある。」(『神秘哲学』井筒俊彦)
この『神秘哲学』は、井筒が学者になったばかりの頃、慶應大学で行ったギリシャ哲学を巡る講義をまとめたものである。井筒はその後イスラムやアジアに研究対象を広げてゆくわけが、その関心は一貫して、人類が宗教や言語を持った段階の、はじまりの神秘体験に向かっていた。そして、江藤の関心もまた、「詩」と「散文」という近代的な区分が生じる前の、プラトンが「観念(イデア)」と呼んだ真なるものから離れない。
江藤は、小林秀雄が最後の著作『本居宣長補記』での到達点を、「文字が日本に導入されるより前に、国語はすでに完全に完成されていた。その完成された言葉を世々の人々が受け継いで私どもに伝えてくれている。文字を見て言葉の生きた姿を見失ってはいけない」(「小林秀雄と私」)という簡潔な言葉でまとめた。それは江藤自身の思想でもある。
ここで、井筒俊彦が20代の頃、アジア主義者・大川周明の依頼を受けてイスラム語の文献の翻訳をしたことが後年の仕事につながることや、小林秀雄が日本主義の元凶として非難されていた本居宣長の真の姿を描き出すことにより、戦後を根底から批判したことを付け加えておきたい。そして、江藤が高校時代、日本浪漫派の精神の粋を詩のかたちで表した伊東静雄の愛読者だったことも忘れてはならない。
しかし、単純に「観念(イデア)」に還れ、と「近代」をすっ飛ばせば保田与重郎と同じになってしまう。江藤は日々の生計に縛られる現実も否定しないし、5W1Hを守る新聞記者の文章倫理も当然の前提としていた。
「「いつだったか、なにかの会合のときに、安岡章太郎氏が、なんの気なしにといった調子で、ちょっと間の抜けた声で、
「小島、まだ大学にいるのかア」
といったことがあった。そうすると、小島氏は憤然として、
「ああ、いるともさ。ぼくは停年まで絶対に辞めないよ」
と噛みつきそうないきおいでやりかえした。ああ怒ったな、小島さんは、と私は思い、その怒りの性質がよくわかったような気がした。いわば小島さんは、常識の枠のなかで、指導力をもって生きて行こうと決意し、またそういう生きかたを強制されている人間として、この努力を軽く見るような人間や思想が赦せないのである」(「私の知っている小島さん」)
「文学の話しかしない人」と揶揄されがちな作家・小島信夫が、実は「筆一本」的なロマン主義者とは一線を画する人であることを、鮮やかに捉えた一文である。ラスコーの壁画と埃まみれの憂き世、どちらも手放さないのが江藤の「散文論」であり、その振れ幅の大きさが真骨頂である。

 *

第二の「敵」は「戦後」である。「戦後」否定は、江頭淳夫が終生、抱きつづけた真情だった。しかし、社会的なペルソナである江藤淳は、1957年の時点ではまだ公言できない。
江藤が若くして世に出たのは、戦争責任から自由な「戦後」世代だから、という背景が大きかった。日本の近代文学の歴史全体を否定し、高邁な理想を掲げて論を張った新進批評家は、サルトル的知識人としての「アンガージュマン(政治参加)」が当然のごとく要請される。占領から脱したばかりの日本はまだ可塑的に見えたし、各ジャンルに新世代が抬頭して改革の機運が漲っていた。
なにより、60年の日米安保条約の改定が目前だった。55年に結党された自由民主党の党是には「平和主義、民主主義及び基本的人権尊重の原則を堅持しつつ、現行憲法の自主的改正をはかり、また占領諸法制を再検討し、国情に即してこれが改廃を行う。/世界の平和と国家の独立及び国民の自由を保護するため、集団安全保障体制の下、国力と国情に相応した自衛軍備を整え、駐留外国軍隊の撤退に備える」とある通り、「改憲」は占領から脱した後の当然の前提であった。
盟友の山川方夫は当時の江藤について、こう書いている。
「現在、彼はすぐれた文芸批評家であると同時に、若い世代の代表者の一人として、そのスポークスマンの役をはたしているが、これは彼にしたらただの結果、一つの必然であるにすぎず、すぐ古くなる「新しさ」や「若さ」などは、彼の意欲とは関係あるまい。彼の人間についての心情が、ただの目新しさや流行とは関係のない一つの人間についての考え方として正当に評価される日を一日もはやくつくり出すことこそ、むしろ現在の彼の望みだろう。
 タフ・ガイ扱いされるのにいくらか照れてもいるが、でも、そのためにもまだまだ精力的な仕事をつづけなければならぬのを覚悟しているようだ。」(「江藤淳について」)
しかし、もともと江頭惇夫は「戦後」にノレる人間ではない。読書遍歴を通して語る自伝『なつかしい本の話』では、「この新時代に心を閉して、古本屋に足を向けた」旧制中学三年生の姿が印象的に描かれている。新刊書店の店頭に賑やかに並ぶ新刊本に背を向け、十条銀座の古本屋で手に入れた伊藤静雄の『反響』に心を震わす少年。その感受性は終生変わらない。
1971年に書かれた「場所と私」では、「日本の〝戦後〟」は「国は敗亡し、一切の所有を奪われ(dispossessed)、そのかわりに奇怪な観念に憑かれた(possessed)連中が、浮き足立って右往左往しているような時代だからだ」という認識を示している。この苦い想いが、突然宿ったとは思えない。山川が「タフ・ガイ扱いされる」と形容する江藤淳の内面に、このような絶望的な認識が揺るぎなく定着したのはいつ頃なのか。ここでまた、江藤淳/江頭淳夫の分裂が顕わになる。

 *

戦前派の宿願である「改憲」=「自主憲法の制定」が実現する機運が盛り上がっていた57年の時点でも、「戦後」のルールの基本となる日本国憲法は、憲法学者・宮沢俊義の「八月革命説」という守護神がすでに整えられていた。この説が、丸山眞男の示唆によって成立したことは、江藤にとっての因果話のように見える。ここで「世界文化」1946年5月号に掲載された宮沢の「八月革命と国民主権主義」の一部を引こう。
「昨年の八月、日本は刀折れ矢尽きて敵陣に降伏し、ポツダム宣言を受諾した。その宣言の中に「日本の最終的な政治形態は自由に表明せられた人民の意思にもとづいて決せられる」という趣旨の言葉がある。ここに注目する必要がある。(略)国民主権主義は、さきにのべられたように、それまでの日本の政治の根本原理である神権主義を棄てて国民主権主義を採ることに改めたのである。
かやうな改革はもとより日本政府が合法的に為し得るかぎりではない。天皇の意思を以つてしても合法的に為し得ぬ筈である。従つて、この変革は、憲法上からいへば、ひとつの革命だといはなくてはならぬ。勿論、まづまづ平穏裡に行はれた変革である。しかし、憲法の予想する範囲内においてその定める改正手続きによつて為されることのできぬ改革であるという意味で、それは憲法的には、革命を以つて目すべきでものであるとおもふ。
終戦によつて、つまり、ひとつの革命が行はれたのである。」
この論文、最初に読んだ時は心底びっくりした。煎じ詰めればあの1945年8月15日に革命が起こった、という話なのだから、いったいどこの国で、と普通は思う。しかし、現在の憲法学会では、さほどの議論もないまま、江藤流の呼び方をすれば「一九四六年憲法」の正統性を保証する論拠となっている。しかも、憲法学者たちは宮沢の説を引用して日本国憲法の成立を論ずることをしないため、広く知られることもない。
「八月革命説」がなぜ必要とされたのか。そもそも、「神権主義」から「国民主義」への転換は美濃部達吉の「天皇機関説」に内包されていたし、昭和天皇自身も美濃部説を支持していた。それゆえ、政府はあくまで大日本帝国憲法の範囲内で改憲しようとした。しかし、GHQにすれば、それでは敗戦したことにならない。一方で、敗戦後日本は自らの手で「民主主義国家」に生まれ変った、という前提が守られなければ国際法上の問題が生じる。
いかにして、GHQの指導による「押し付け」の憲法ではなく、自発的に改正したという形を整えるか。相矛盾する論理を成り立たせるために、降伏してポツダム宣言を受諾し、その条項にある「日本国民の自由に表明された意志」により、「神権主義」から「国民主権主義」という転換が起こり、それを「ひとつの革命だといはなくてはならぬ」という強弁するというレトリックがひねり出される。
GHQと東大法学部代表である宮沢の関係は、正確な経緯は「私自身の記憶が頗る怪しい」という証言でお茶を濁されている。丸山も談話で「八月革命説」への関与を示唆しているが、こちらも曖昧なままである。しかし、日本国憲法を瑕疵なく成立させるためには、憲法学の見地からの詳細な検討が必須であり、どこかで宮沢/丸山の悪魔的な頭脳の冴えが大きく反映したのではないか、という疑いは拭えない。
まず、「国体護持」という日本側の至上命令については、皇位を動かさないことで解決する。天皇についての「国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬(そうらん)シ」という規定を、「日本国の象徴であり日本国民統合の象徴」とし「統帥権」をなくすという大変更は、8月15日に「国民主権主義」への「革命」が起こったという概念を導入することにより不問に付す。「革命」の根拠はポツダム宣言の受諾なのだから、日本はきちんと敗戦している。
昭和天皇の国際法的な戦争責任を問わないことと「天皇大権」の剥奪というセットは、潜在的に、「太平洋戦争は軍部の独走」という戦後の歴史観を前提としている。そして、皇位に退位のような影響が及ぶことは「押し付け」の証拠として後々の火種となるため、絶対に避けなければならないことだった。憲法学者や知識人が「八月革命説」を暗黙の前提とし共有することにより、世界に類のない「平和憲法」が、帝国議会の採決により公布されたというとりあえずの形式が実体になってゆく。

 *

丸山眞男は57年当時、次のように証言をしている。
「昨年(一九五五年)の衆議院選挙と今年の参議院選挙の結果が如実に示したように、「新憲法」は今日相当広い国民層において一種の保守感覚に転化しつつあり、この微妙な変化を見誤ってもつぱら「押しつけ憲法」というスローガンに依拠していたことに保守政党の致命的な錯誤があった。(略)「既成事実」の積重ねはこれまで主として支配層の政治的手法であり、革新派はその名のごとく多かれ少かれ抽象的なシンボルに訴えていたのが、次第に事態が変つて、憲法擁護の旗印が(広汎な婦人層や婦人層や組織労働者はもとより「太陽族」に至るまでの)日常的な生活感覚ないしは受益感の上に根を下すようになつた」(『現代政治の思想と行動』「第一部 追記および補注」) 
この分析は今から見ても、半分は当たっている。丸山は、起源はどうあれ「八月革命」が起こったことにより「戦後民主主義」が根づけば日本は近代化しうると、プラグマティックに捉えていた。この姿勢は、江藤の「戦後」批判である「国は敗亡し、一切の所有を奪われ(dispossessed)、そのかわりに奇怪な観念に憑かれた(possessed)連中が、浮き足立って右往左往しているような時代」という認識と鋭く対立する。
江藤は宮沢の死後、占領期の一次資料『占領史録』第三巻『憲法制定過程』の解説の一部を「〝八・一五革命説〟成立の事情――宮沢俊義教授の転向」というタイトルで『諸君!』82年5月号に発表し、宮沢説のいかがわしさを世に問うた。江藤は、もともとは宮沢が大日本帝国憲法の延長線上で新憲法を定めようという、師・美濃部達吉の説に従いながら、政府案がGHQの逆鱗に触れた後、「〝コペルニクス的〟転向」した経緯を当時の論文に即して検証しているが、出し遅れの証文という感が否めない。
日本国憲法の成立過程については、新資料の公開により詳細な経緯が明かされているものの、今後も「始まり」は正確な形で公にされることは決してないだろう。そして、「改憲」は自民党にとって常に潜在的な課題であり続け、選挙に勝てば具体性を帯びる。しかし、丸山のいう「日常的な生活感覚ないしは受益感」に基づく「護憲」勢力を納得させるのは困難だろう。小手先で文言を変えて「改憲」と称しても、これまで重ねてきた「解釈改憲」と似たようなものだ。
江藤淳は、「戦後」の起源を「「文学」の問題」として徹底して問い続ける。それは、起源の隠蔽がもたらす病が社会を蔽うことに対する異議申し立てだった。丸山の「「戦後民主主義」の虚妄の方に賭ける」という言葉が「八月革命説」をも念頭に置いているとするならば、対立は「思想戦」に発展する。18歳離れた丸山と江藤は節度ある交際を保ち、論戦を交わしたわけではない。しかし、2人の議論の呼応関係は今後も注視してゆく必要がある。そして、「戦後」を拒絶し、伊東静雄の詩に感応する江頭淳夫の感受性は揺るがない。
内面に分裂を秘めたまま、「海賊」は「アンガージュマン」に向かう。江藤の掲げた「理想」の旗が、現実社会で試される時がやってきた。
 
 
JE_Flyer_Omote_small.jpeg 1.03 MB



JE_4web.jpeg 375.03 KB


 
Kindle版「江藤淳全集」
 詳細はVOICE OF GHOSTのページ
 
 <発売中>
 第1巻『奴隷の思想を排す』
 第2巻『新版 日米戦争は終わっていない』
 第3巻『犬と私』
 第4巻『海賊の唄』
 第5巻『随筆集 夜の紅茶』
第6巻『批評と私』
第7巻『なつかしい本の話』

 

風元正

1961年川西市生まれ。早稲田大学文学部日本史学科卒。週刊、月刊、単行本など、 活字仕事全般の周辺に携わり現在に至る。ありがちな中央線沿線居住者。吉本隆明の流儀に従い、家ではTVつけっぱなし生活を30年間続けている。土日はグリーンチャンネル視聴。