- 2023年01月04日
- 映画
映画音楽急性増悪 第39回
新年初回のboidマガジンは虹釜太郎さんによる「映画音楽急性増悪」第39回です。今回はロトスコープという表現の可能性ついて。リチャード・リンクレイター作品や岩井澤健治作品を。
第39回 再来
文=虹釜太郎
リンクレイター監督の作品たちはどれも好きだけれど、どのリンクレイター作品の音楽たちも入り方はまったく「おもしろくない」…にもかかわらずそれら映画たちはまぎれもなくすばらしい映画であって。そのおもしろくなさについては様々な反感があるだろうけれど、それらは多くの映画やドラマに非常によくあるなんらかの制度が生むメロディが方向づけたがる感情の筋道ばかりの次から次への占有ばかりのつまらなさたちとは違う。
この音楽たちの入り方がまったくおもしろくない(作品自体はすばらしい)というのがいままでとてもひっかかってきたのだけれど、それはリンクレイター作品群に共通するかもしれないマンブルコア性? によるのかもしれない。ひたすらべらべらというよりだらだらというよりまべらまべらかどらだらというべきか決まった形容をもはや許さないというよりかは言語による形容が溶けるような、けれどそれこそが日常なマンブルコアが音楽たちとどれも相性が悪いのか…どうかまだわからない。
マンブルコアな映画たちは何なのかについてはいろんな議論があるけれど、以下からはリンクレイター関連ではマンブルコアとは使わず、止むを得ず使用する場合はマンブルマンブルと…
ロトスコープによる共通点という点では、『Apollo 10 1/2: A Space Age Adventure』(リチャード・リンクレイター/2022年)はリンクレイターの他の作品『ウェイキング・ライフ』(2001年)や『スキャナー・ダークリー』(2006年)と近いかもしれないが、『スキャナー・ダークリー』もディック原作であることよりもよりだらだらひたすらしゃべり続ける映画であることが気になるし、なにより『ウェイキング・ライフ』はひとりだらだらくだくだのひとり問答と浮遊が乖離不可能な映画としてその浮遊感の持続はいまだ続いている。
『Apollo 10 1/2: A Space Age Adventure』は音楽についてはフィーヴァー・トゥリー、ジョー・ラパソ、ジョン・フォガーティ、ハーマン・ゲイズ、モートン・スティーブンズ、シェル・シルヴァースタイン、ヘンリー・マンシーニ、ヴァニラ・ファッジ、ピンク・フロイドまでいつになく贅沢にいちいち放棄するかのように使われ、また本作では当時のボードゲームたちも『"Clue"』『MONOPOLY』『OPERATION SKiLL GAME』『RISK』『SORRY!』『FLEA CIRCUS』『Oh,nuts!』『GO TO THE HEAD OF THE CLASS』『PARCHEESI』『mouse trap game』『SPILL and SPELL』『FASY MONEY』『PIRATE and TRAVELER』『caRNiVaL』『STRATEGO』『CONCENTRATION』と複数だらだらと紹介され、また当時の新しい建物たちがユートーテムダッチケトル、テキサコ、ミニマックス、ピグリーウィグリー、ワッタバーガー、ムーンボウルと次々に紹介され、当時のTV戦争を彩った作品として『じゃじゃ馬億万長者』(原題『HILLBILLIES』)『ダークシャドウ』(原題『DARK SHADOWS』)『ガンスモーク』(原題『GUNSMOKE』)『パパ大好き』(原題『MY THREE SONS』)『マンスターズ』(原題『THE MUNSTERS』)『ボナンザ』(原題『BONANZA』)『奥様は魔女』(原題『Bewitched』)『スタートレック』(原題『STAR TREK』)『特捜隊アダム12』(原題『ADAM-12』)『それ行けスマート』(原題『GET SMART』)『マイペース二等兵』(原題『GOMER PYLE-USMC』)『バットマン』(原題『BATMAN』)『ギリガン君SOS』(原題『Gilligan's ISLAND』)『わんぱくフリッパー』(原題『FliPPeR』)『ペチコート作戦』(原題『PETTICOAT JUNCTION』)『メイベリー110番』(原題『THE ANDY GRIFFITH SHOW』)『かわいい魔女ジニー』(原題『DReAM of JeANNie』)『アダムズのお化け一家(原題『THE ADDAMS FAMILY』)『ディック・ヴァン・ダイク・ショー』(原題『THE DICK VAN DyKE SHOW』)『グリーン・ホーネット』(原題『THE GREEN HORNET』)『ホット・ネイビー』(原題『McHALE'S NAVY』)『スパイ大作戦』(原題『MISSION:IMPOSSIBLE』)『農園天国』(原題『GREEN ACRES』)『0012捕虜収容所』(原題『HOGAN'S HEROES』)『ドラグネット』(原題『DRAGNET 1969』)『ハワイ5-O』(原題『Hawaii Five-0』)『マックとヘックの原始旅行』(原題『iT'S ABOUT TiME』)『ウィアード』(原題『WEiRD』)がひたすらだらりと挙げられ、また押しボタン式電話のいたずら消費はビッキー(兄弟の中で唯一世界のことを気にかけてる)、スティーヴ、ジャナ、グレッグ、ステファニー、末っ子(僕)の家族多数で行われるが、それら消費のコレクションの星座群に対抗するかのように木板を家族で盗むシーンが挟まれたり、釘の直し方を祖父から丁寧に教わったり、祖母から数々の恐ろしい陰謀論を仕込まれたり(ギリシャの島にケネディは隠されている、地球には35億人以上住めない、ヒザまでゴミに埋まる未来の到来…祖母にとって世界は滅亡寸前)、日曜のパイナップル乗せハムから月曜のハムキャセロールから火曜のハムサンドイッチから水曜は残りのハムを入れたスープからの節約レシピを仕込まれたりもするが(それら対抗群の描かれ方により思いっきりの競争消費世界を描いてるのに競争描写過多にならないだけでなく遠近法をも数々ぼかす)それらはともかくひたすらマンブルマンブルにひたすらしゃべくり続ける映画であるが、ここで重要なのは主人公は宇宙飛行士になるべくNASAにスカウトを受けていたが、そのことは誰にもあかしてはいけないとされていた設定。この設定はそのまま、本来主人公はNASAにスカウトなどされていないけれどそういう妄想で当時の生活を続けていた…ともなりうるけれど、そこで重要なのは本作が実写でなくロトスコープであるという点で、ロトスコープはそもそも実写で撮った映像をいったんすべてアニメーションに起こし直す技術であって、その起こし直す際に生じるかもしれない齟齬と予想外の融通がひたすらマンブルマンブルにだらだらしゃべくり続けるなかでたぐられて。
それは例えば、メインの登場人物たちでなく地元球団がホームランを打った時の花火群やアストロターフからドーム型コロニーの映像たちのなんでもないような部分でも活きている。これらが実写だったとしたらNASAにスカウトされたという謎はこのような形でごかされなかったろう。
そもそも妄想、幻想、夢、深層心理、幻覚、無意識を区別すると、というかいちいち区別することでわかりにくくなってしまう現実が確実にあるにも関わらず、「表現」活動ではいちいちそれらは、時に音も含めて表現し直さなければならないという現実。しかしロトスコープならばそれを解決はできなくてもそこにいくらかの齟齬らを挟むことができる。
ロトスコープ映画は、大橋裕之原作の『音楽』(岩井澤健治/2019年)での冒頭の研二の歩き方でまた新たな境地に達する。一度も楽器を触ったことがないバンド古武術での大田と朝倉の歩き方もだが、研二の動きと大橋裕之ならではの眼の描き方の共存が研二が楽器と遭遇する前の深夜喫茶銭ゲバ前でも明らかな。
偶然による奇跡が商業アニメだと起きにくいのが、ロトスコープ活用によりアクシデントは起きやすくなるという意見もある。岩井澤健治による今後のロトスコープ映画がどうなるか。
意図的な歪曲はどうか。齟齬はいろいろに生まれる。であるならばできる限りロトスコープを使えるなら使い、妄想、幻想、夢、深層心理、幻覚、無意識をいちいち区別することに伴う音を使った細かい工作群などとは無縁に活動が一部できるかもしれない。それがリンクレイターが音使いに「消極的」だったり「鈍感」だったりする理由かもとも思うけれど、そもそも音使いに消極的だったり鈍感であることは映画作りにほとんど関係がない。けれどそれでもマンブルマンブルであったりロトスコープを使ってもいない映画たちにはそれらへの手抜き群が無数に存在する。ただリンクレイターの場合は違う…
『ビフォア・サンセット』(2004年)や『ビフォア・ミッドナイト』(2013年)がマンブルコア映画であるかどうかは別として、これらの対話が延々と終わらずに続くだけの映画には、そもそも音楽が入っていない(ソースミュージックは除いて)。
ロトスコープがごかすことでないのはあきらかだけれど、ごかすについては「動詞「こかす」の連用形の名詞化した「こかし」の濁音化したもの、そのこと、またはその物のようなふりをして、他人をだます意をあらわす」を参照すると、他人をだます意はないが、そのこと、またはその物のようなふりをしているのは事実で、そのこと、またはその物のようなふりをし続けるなかでさまざまなものが実写たちとは違うエフェクトでふり注いで残り続ける。それは『Apollo 10 1/2: A Space Age Adventure』で映るなんでもない映像たちのいくつもが。
『スキャナー・ダークリー』ではスクランブルスーツ着用の効果(完全実写でスクランブルスーツ着用の映像を作っていたならどうなったか)をより際立たせるためにまず大きく役だったロトスコープ導入だけれど、『Apollo 10 1/2: A Space Age Adventure』では、NASAから極秘裏に宇宙飛行士になるべくスカウトされたという設定自体がロトスコープ使用の効果を高めた。
ただロトスコープ導入といっても使われ方には違いがある。たとえばヒューストンの南で住宅地がどんどん広がった時の描写の際の子供たちの輪郭の濃さと雑さなどは特徴的で、これが実写なら輪郭の描線の太さが雑さになるような事態にはならない。また背景の空たちのより平坦な具合なども、その限りない平坦さ=人工さには実写ではなかなか接近できない。アポロ8号から帰還時の映像の直後に無作為に踊る少女の映像の輪郭の太さはさらに太く、雑だ。『Apollo 10 1/2: A Space Age Adventure』においてこれらの輪郭の太さは決して忘れることはできない。輪郭の太さと言えば『おそ松さん』のアニメも全体が奇妙な青い線で常にズレて縁取られる「翻訳」がありえないほどに徹底していた。『おそ松さん』はロトスコープではないが、このような特殊翻訳たちにも名が必要だろう。ウテナやコードギアスの宝塚歌劇風翻訳のような名付けたちとはまた別の。
実写から起こしているとはいってもロトスコープで映るシャツの影たちはどれも嘘くさい。
僕は率直に言えば嘘つきだという劇中での主人公による教室での堂々とし過ぎる告白とロトスコープ。
ギリシャの島にケネディは隠されているという祖母による告白とロトスコープ。
マーキュリー・セブン紹介映像の嘘くささとロトスコープ。
月面着陸船は金属でなくマイラーフィルムを24回まいたという信じがたい事実とロトスコープ。
1969年の再現が難しい実写と実写よりかなり嘘臭くなることが再現度を高めるロトスコープ。
ところで文章におけるロトスコープ、音におけるロトスコープのようなものはどのようなものなのか思いついた人はどうか教えてほしい。たとえば翻訳ソフトを複数回起動して元の文章を似たような違うものに「翻訳」するようなやり方。たとえば音楽家のセキグチサトルによる元ネタの隠蔽による新たな意味の発生と同じものを期待して曲を一通り作ったあとにその曲を構成するメインの音を丸々ミュートにするという「翻訳」。
クロクス、クルロス、クルクル、クラリス、カラカル、クラクフ…と瞬間に移りゆく『君たちはしかし再び来い』(山下澄人)のしかし再び来るさまざまなものの境目が薄らいでゆく世界の到来を実現させるようでいて誰かが咳をし誰かが笑い知らないうちに熊が来てわたしたちのにおいを鼻を上げてかいで少しして引き返して行くような文章たちとロトスコープ。ロトスコープという映画における補助具。ロトスコープと無意識の書き取り。
ロトスコープを使うことによる妄想、幻想、夢、深層心理、幻覚、無意識をいちいち格段に区別することへの敷居を低くすること(監督の能力によるところが大きいけれど)以外の利点群についても同じく。
ロトスコープを使った戦いがメインの映画も今後出てくるにしてもロトスコープはあらゆる闘いを脱臼させがちなことと上記の区別の困難の組み合わせにより新たな思弁映画の到来やこれからの失敗も予感させる。
プールでジャック・ナイフやキャノンボールが得意だと語った後のロトスコープ使っているからこそのエフェクトから月周回軌道に入る頃(時速約3680キロ)の映像。どこに降りればいいのかからのテレビで紹介されるモンキーズ。それは合法の枠内での音楽たち。にもかかわらず映画はロマンティックなものとはまったくならない。