映画音楽急性増悪 第37回

今回の虹釜太郎さんによる「映画音楽急性増悪」は2022年に開催されたマルセル・アヌーン監督「四季」シリーズ特別上映会で上映された『夏L’ÉTÉ』『冬L’HIVER』『春LE PRINTEMPS』『秋L’AUTOMNE』以外のアヌーン作品について。

第三十七回 棒読み


 

文=虹釜太郎


映画の最後は本当のエンディングではなく宙に浮いて中断したままのノンエンディングなのですと『Une simple histoire』について語るマルセル・アヌーン。現在でありながら未来に語りかけるパースペクティブな映画、時間が消滅し、時を超えた映画を作りたいと言うアヌーン。

 
『Octobre à Madrid』(マルセル・アヌーン/1967年)
度重なるスペインの映像はいずれも居住者でなく訪問者のもの。でもなにかがおかしい。マルセルは一時期スペインに住んでいた。この映画の終わりは女優の化粧で終わるが、その側面では本作はフィクションであり、画家をはじめとしたアヌーンの友人たちを映すドキュメンタリーでもあり、しかし全編を覆うボイスはフィルム製作日誌であり、それは必要以上に思えるほどの声の量で、しかしそれらの順序はばらけ続けて、全編にわたってそれらが混在することにより、『Octobre à Madrid』という作品があきらかに存在しているけれど上記のいずれかである/いずれかでしかないという事態も避けるという場が。フィルムエッセイというのとも違う。女優の化粧で終わる時、観ていた方は愕然とするけれど、音楽の入り方もおかしい。メインの不穏なピアノ曲だけでなくドキュメンタリーならではの音楽たちのいくつかが繋がっているようだが、それらはやはりばらばらで、老人と子供が映る街並みに不自然に女優が紛れこむ。

 
『Une simple histoire』(マルセル・アヌーン/1959年)
映画の最後は本当のエンディングではなく宙に浮いて中断したままのノンエンディングとのことだけれど、本作で流れる時間たちとは。仕事がない。パリに娘と共にいる女性が主人公だが全編とにかく仕事なく、右に左に移動している人間が生きていく記録でない怖く寒い時間。
労働そのものが主人公の顔だけを映すなかで音だけの編集で現されたりするなか、落ち着いて寝ることができない日々のうちに彼らはひたすら疲れてゆく。473フランから303フランに。そして77フランに。しかし主人公の感覚は変わらず、時間もはっきりとしないまま映画は終わりようがない。

 
『la nuit claire』(マルセル・アヌーン/1978年)
「オルフェウス」。度重なる「リハーサル」と共に。
 度重なるリハーサルは顔たちだけが交互に映され、リハの合間に自転車で走る少女が、舞台の音楽班への指導が、そして舞台以外の場所でさまざまにつぶやかれ叫ばれる声たちと引き裂かれる首でない音たち。
 リハーサルの中に反復する顔たちと間延びする音響。フィルムでの臨海は緩やかに多時間に、そして海を歩く二人に静かに執拗に叫びはじめる海。女たちに裂かれる際の編集と脱力する音たちのしつこさ。喰われることとリハのしつこさと投げられ続ける首のしつこさ。フィルムでしかできない裸たちの刻み。リハの多重。剥がされ続ける手袋、重ねあわせられる手たち…流される音の破裂の自由…
公演のリハーサルでも純映画でもなくなった作が浮かんでゆく様。破砕する音の自由さの中で見つける/見失う相手。風の荒れる海をなんとか歩く二人はいったいどこにいるのかとそこに流れる音の異様さ(音楽と音響とリハ中の音声と海の音)。

 
『Un film (Autoportrait)』(マルセル・アヌーン/1985年)
上記の『la nuit claire』製作についても触れられているアヌーンによる自画像の拡散たち。ロブ=グリエとの話し合いもあるが、ロブ=グリエとアヌーンによるフィルムの拡大についてさらに考えることを要請するような自画像たち。フィルムの半分は8ミリと写真について音声(ナレーション、サイレン、雑踏音、獣の声)がついたものだが、そのうち数ある写真のなかでも部分的に色がつけられた写真たちと写真を指で擦るシーンの連続や床に転がって撮影する人間についての撮影のアヌーンらしさ。木にゆわえつけられた網の中にカメラが一瞬入ることによる視線の拡散を含むあらゆる自画像の拡散たち。そのなかにはアヌーンの作業に困惑するかのような人間たちも入っている。