- 2023年09月14日
- テレビ
Television Freak 第81回
家では常にテレビつけっぱなしの生活を送る編集者・風元正さんによるTV時評「Television Freak」。今回は現在放送中の連続ドラマから『何曜日に生まれたの』(ABC・テレビ朝日系)、『らんまん』(NHK)、『VIVANT』(TBS系)、Netflixのドラマシリーズ『今際の国のアリス』などが取り上げられています。
「時」はもう止まっていない
文・写真=風元 正
藤井聡太の8冠がかかった王座戦の第1局、永瀬拓矢王座の勝利があまりに見事で驚いた。近年の藤井さんは強すぎて、負けるのも対戦相手の研究がたまたま当たった時だけで、しかも同じ手は2度喰わない。新しい手段を探すといっても、棋士全員が血眼で藤井将棋の隙を探しているわけで、短期間に何局も戦うタイトル戦の渦中に有力な趣向を複数発見するのは容易ではない。トップ棋士でも藤井さんの穴をひとつ見つけるのがやっとで、本格的に鎬を削る手前に根負けしてしまい、退屈だった。
ところが、永瀬さんは、振りほどきにくいパンチを放ち続ける藤井さんの強力な攻めを正面から受けとめ、どう見ても厳しそうな局面でも自分のリズムを決して崩さない。そして、妙手で逆転みたいな軽い勝ち方ではなく、一貫して読みが藤井さんより上回るという過程を踏んで勝ち切った。藤井さん相手の対局でここまで地力の強さは発揮した棋士はいない。将棋の心得がある人ならば、終盤、1四銀と立って王様の逃げ道が一気に開ける瞬間の気持ち良さを味わって頂きたい。
全棋士の中で、一番、藤井さんと多く練習将棋を指している好敵手・永瀬さんならではの堂々たる指し回しであり、永瀬さんが藤井さんとのタイトル戦に馴染んだことも影響しているだろう。永瀬さんの将棋は、バスケット日本代表が圧倒的な練習量で培われた走力により後半で逆転するスタイルとどこか似ている。「宮城リョータ」河村勇輝が何度止められても大柄なディフェンスが揃うゴール下へのチャレンジを続け、ついには壁をブチ抜いてゆくリズムと、強靭な受けがいつの間にか攻めに転じる永瀬さんの指し手の連続性には共通項がある。技術と体力はムリでも、リズムだけならば凡人の私でも真似ることができるのではないか。
王座戦第2局、“遠慮会釈のない藤井クン”が出現したのも愉快だった。
今、山﨑賢人が一番国際的に名の通った日本の俳優であり、その原動力がNetflixの『今際の国のアリス』だと知って、ついほくそ笑んでしまった。『今際の国のアリス』はシーズン1、シーズン2とも全部見て、ともあれ感銘は受けた。Netflixのドラマは“この世界はサバイバル・ゲーム”というテーゼに基づいて作られており、せっかく馴染んだ登場人物がバタバタ死んでゆくのが好みではなく、最近ではご無沙汰している。しかし、『アリス』は、山﨑・土屋太鳳の主人公コンビが次々に登場する敵に対して、理不尽なルールを勝ち抜く仲間として敬意を払いながらフェアに戦い続け、こちらに「諸行無常」の想いを抱かせる出来栄えによって飛び抜けていた。
山﨑・土屋の両者の清潔感ゆえに表現できた世界であり、可哀そうだがジャニーズのタレントなどにはすでに失われてしまった美質である。土屋は『警部補ダイマジン』でもほとんど同じようなキャラクターで起用されていたが、生田斗真をはじめに登場人物全員が小さな「悪」を抱えているだけで陰謀にも展開がなく、リアリティを欠いたままだった。この世は欲望と悪にまみれた生存競争の場、という世界観そのものは当たり前の話だから、作品として自立させるのはそう簡単ではない。
『今際の国のアリス』の舞台となる異次元の東京で、ひ弱な落ちこぼれのゲーマーだったアリス(山﨑賢人)は、身体能力や頭脳において飛び抜けた能力のある敵に直面して、まず怖がって悩み、生い立ちまで溯って相手の長所と短所を慎重に分析し、共感を抱きつつ冷静に弱点を突いてゆく。ほとんど「剣豪小説」と同じで、土屋は『宮本武蔵』の「お通」みたい。『今際の国のアリス』の物語全体も『平家物語』そっくりで、「祇園精舎の鐘の声」が鳴り響いている。竹内涼真の『君と世界が終わる日に』や、山田裕貴・赤楚衛二の『ペンディングトレイン-8時23分、明日 君と』は、物語を小器用に工夫しようとしてかえってチャチになり、「無常感」が醸し出されない。
『るろうに剣心』のモデルが幕末の人斬り、佐久間象山を斬った河上彦斎であることを最近知った。五味康祐の『人斬り彦斎』を読むと、幕末は長州とともに働いたのに維新にノレずに滅びてゆく倫理観が日本人好みであり、佐藤健が生涯かけて負うに足る「剣豪」のイメージであるとわかった。「新選組」好きが若い世代にも一定数いるのと同じ理屈である。山﨑賢人のキャラクターはもう少し王道寄りであり、どこか“ZEN”“Buddhist”の雰囲気を漂わせている。
遅ればせながら『ミッション:インポッシブル/デッドレコニング』を見て、アブダビの砂漠のシークエンスになった時、スパイが主人公という点も含めて『VIVANT』との表面的類似に驚いた。しかし、2つのヒット作には大きな違いがある。『ミッション:インポッシブル』の方は、観客は「先がまったくわからない」という心地になれるのに、『VIVANT』の方は「制作者や俳優は先を知っているのに」という気分になってしまうことだ。
トム・クルーズは今、最も刺激的なスターである。スクリーンの上に限らず、自分自身の人生そのものが“Mission: Impossible”であることを一点の曇りもなく受け入れている。だから、われわれの日常生活の原理でもある「一寸先は闇」を虚構の中で体現するという難事を楽々やっている。一方、『VIVANT』の方は、作った「謎」で引っ張ってゆこうという意図が見え透いていて、その「謎」を提供するのが「娯楽」という上から目線の制作者の意識がウザったい。結局、お金をかけて「別斑」とか国際テロ組織についての都市伝説を上書きするだけのことにしかならない。原作の問題はあるとしても、すべては新興宗教のせいになってゆく『ハヤブサ消防団』にも興醒めしてしまう。
もちろん、トム・クルーズのような演技のできる俳優は常に存在している。黒澤明映画の三船敏郎は大仰すぎて微妙であるが、戦後の小津映画の笠智衆は「先」を考える意味などなく、ただただ眼の前に「今」だけがある。そのあり方はトム・クルーズの現在と共通する。逆に、ある種の映画は、「今」の時間を表現することのみに腐心しているけれども、多くの場合「物語」的な喜びを放棄している。トム・クルーズという俳優は「娯楽大作」で、身体を張って前衛的な実験に挑み、大金を稼いでいるのだから呆れてしまう。
三船敏郎に似た阿部寛はトム・クルーズ的な存在になれる可能性を孕んでいる俳優である。しかし、もう一段スケールの大きい場に立たないと今と同じままで終わりそうだ。堺雅人と福澤克雄は一心同体の「ヒットメーカー」であるとして、「顔芸」みたいな盛り上げ要素をなくして突き詰めると話がショボいという拍子抜け感がつきまとう。子役が演じる「なる」が最高な『ばらかもん』のシンプルさを見習って欲しい。次の堺雅人は『CODE』もヒットした坂口健太郎であろう。
同世代のトム・クルーズに興味を持ちすぎてサイエントロジーの本を読みあさってしまった。活字だけでは実態に手が届くはずもなく、フロイトの精神分析治療の現場などから得られた知見を実践的に改良したような手法だとは推察できる。メソッドに根拠がないわけではなく、心の問題が解決される場合もあるだろう。ただし、ひとつの教義だけが正しいと信じて、その仲間の中だけで生きなければならなくなるのはカルトであり、大金を払わなければ最終段階に辿りつけない(本格的な情報は外部には非公開)のは問題である。
サイエントロジーは「手かざし」的なものに科学の要素を加えた新しい宗教であるが、自己啓発の時代に対応して出現したのはまちがいない。そして、トム・クルーズが結果として、始祖であるSF作家L・ロン・ハバードより高い悟りの境地にいるような印象を受けるのにちょっと笑ってしまう。トムは最近、信者ではない親には接触するな、というような数々の無理難題に疑問を持って、教団に距離を置いていると噂されている。
『何曜日に生まれたの』は野島伸司脚本。地上波では石原さとみ主演『高嶺の花』以来であり、飯豊まりえ主演の「なんうま」も女優の「今」を輝かせることに徹する手法は共通している。しかし、『何曜日に生まれたの』は大人気ラノベ作家・公文竜炎(溝端淳平)が、主人公の黒目すいをヒロインにして脚本を書き、その父の売れない漫画家・黒目文治(陣内孝則)が作画するというコラボーレーションが作中で進行していて、公文の視点が野島と重なる仕掛けになっており、『高嶺の花』より無理やりな設定ではない。
「なんうま」では飯豊まりえのコケティッシュな魅力が全開しており、10年間のひきこもり生活から社会復帰することにより、少しずつ輝きを増してゆく「今」が見事に捉えられている。休日にピクニックへ誘い、手の込んだサンドウイッチをバスケット一杯に用意し、ひらひらの洋服に歩きにくい靴を履いてきて、男の側はぬいぐるみの熊みたいにふるまわなくてはならない、手強いメルヘン趣味の女性。年齢を経てもサマになるのがミソである。
しかし、すいは現代の収容所である学校で、高校日本代表のサッカー部のエースMF雨宮純平(YU)とバイクに乗って事故を起こし、高校時代最後の試合を台無しにして、学校に行けなくなってしまう。10年ぶりの同窓会でサッカー部の仲間と再会し、過去の秘められた恋心や現在の境遇の差に嫉妬と欲望が渦巻き、封印していた感情が目覚めて、笑い、泣き、走り、雨に濡れ、過呼吸になり、さまざまな表情が引き出されてゆく。作家として観察しつつ「物語」を刺激的にしようと暗躍する公文も、すいに「好き避け」することになってゆく。
野島脚本は飯豊まりえのあらゆる表情を引き出そうという点では見事に機能している。しかし、高校時代の友だちが10年経ても四六時中連絡をとって、とか毎週フットサルをしてるのか、という疑問は残ってしまう。顔出しNGという公文も、すいの同窓生にちょっかいを出しすぎだし、陣内孝則もあまりにダサくなりすぎである。ただ、『最高の教師』のように松岡茉優と芦田愛菜の2人が「2周目の人生」を生きているという設定よりはまだマシだとは思う。生まれ変わり、記憶喪失、タイムリープ、幽霊……リアリティがあれば何でもいい。しかし、「2周目の人生」は古今東西、ありとあらゆる宗教者が考え抜いた難題であり、そして、「輪廻転生」はあっても、この人生は1度しかない、と受け入れるしかなかった。現実と虚構の境を歩む野島脚本の臭みも飯豊まりえの未知の顔を引き出すためには機能している。
不倫や事件の真相などおどろおどろしい道具立ては揃い、拍子抜けの予感も半分。でも、納得できる結末に至れば、野島伸司はすごいと再認識できる。同世代の稀代の鬼才が書く大芝居を、怖いものみたさでも最後まで見届けたい。
『らんまん』は牧野富太郎がモデルの槙野万太郎が主人公だが、史実から遠い。とはいえ、ご都合主義の改変ではなく、歴史を踏まえた上で虚構の物語を作ってゆくNHK朝ドラ特有のパターンが功を奏している。何より、ラストに向かい槙野の妻・寿恵子を演じる浜辺美波が、女優としては大輪のバラのように美しく花開いて行く「今」が、日々TV画面に映し出されるとは予測不能だった。
夫を演じる神木隆之介の実力も開花の触媒になり、壮大な夢を実現するための貧乏が寿恵子の才能と美に磨きをかけてゆく。酒蔵を継いだ牧野竹雄(志尊淳)と綾(佐久間由衣)の夫婦の地に足のついた成熟や、仲間の植物学徒の成長など、ドラマの中できちんと「時」が経っているからこそのお手柄である。『どうする家康』の松本潤が、いつまでたっても“マツジュン”であるのと対照的である。ジャニーズ事務所のタレントさんは、一人の天才の力により、日本、いや世界中の「成熟拒否」を求める願望を結実させて、「時」を止める魔法をかけ続けてきた。気づいたらただの初老の「アイドル」が居並ぶことになった頃、天才の寿命が尽きたのも歴史の必然だろう。
去年10月の大手町三井ホールから、2月“Quicksand” Tour 2023の恵比寿LIQUIDROOMを経て、9月10日Bialystocks 2nd Tour 2023のEX THEATER ROPPONGIにおいて、Bialystocksというバンドの短期間での変貌と成長に心が震えた。同じ曲でも、同じ人たちが演奏しているとは信じられない。ステージに立っている全員の潜在能力が解き放たれ、今や最強のライブバンドである。
「現状維持」を至上命題にした平成年間は、「時」が流れぬようみなで表面を取り繕っていた。しかし、「時」はもう止まっていない。知らぬ間に開かれていた新たなる「歴史」の段階への扉に歩み入り、手探りでもどう進んでゆくのか。やはり、人生は“Mission: Impossible”という自覚が必要だろう。私はとりあえず、初めての野菜の収獲に向けて、土づくりに励みます。『子供の科学』のアイドルだった牧野富太郎に倣い、植物の心を学ぶつもりである。
螻蛄鳴いて犬の散歩も楽になる