妄想映画日記 その156

今回の樋口泰人の「妄想映画日記」は、初めての内視鏡検査などで病院に通い、白浜や那智勝浦をめぐる和歌山の旅に出た6月下旬の日記をお届けします。
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文・写真=樋口泰人



6月16日(金)
一度病院に行ってしまうとなんだか自分が完全に病人になってしまった気分にまとわりつかれてまったくよろしくない。鬱々とするばかりである。とはいえ社長仕事。税理士の4月分のまとめの報告などを聞き、今後のboidの企画について思いを巡らすがまったく気持ちが入らない。帰宅後もぐったりしていた。
 


6月17日(土)
近所の内科医からの紹介状を持ってやはり徒歩圏内にある佼成病院へ。散歩の際に前を通ったりしていたのでなんとなく様子はわかっているのだが初めてである。建物は新しく、1階の受付ロビーは明るくいわゆる病院感はあまりない。案内された2階の診察階はさすがにいかにも病院といった感じだがしかし天井が高く外部からの採光もあり緊張感はほぐれ、担当医には昨年からの詳細を話し、検査の日取りなどを決め血液検査のための採血をした。血液検査は20年ぶりくらいか。血圧でさえ数年は計っていなかった。こういうことを普通にしておかないとダメだったと思っても後の祭り。とりあえず血圧も正常、血液も当日わかる分に関しては正常。そして検査の詳細を説明されるわけだが、胃カメラも大腸カメラも造影剤を使ってのCTスキャンも初めてだから、その際消費されるエネルギーのことを考えるだけでくらくらする。メニエルが一気に悪くなる予感しかしない。いったん悪いほうに考え始めると止まらなくなる自分の性格を何とかしたいが今更どうにもならず。まあいずれにしても、すべてを医者に預けるしかないことは頭ではわかっていても気持ちがまだそこに追いつかない。
 


6月18日(日)
どうしようかと迷っていたのだが、予定通り家族旅行で和歌山へ。白浜、那智勝浦などを巡る旅。飛行機が揺れた。何年か前やはり家族旅行で長崎に行ったとき、あれは台風とすれ違いで激しく揺れたのだが、その時ほどではないにしてもわたしがこれまで乗った飛行機の中で2番目くらいではないかという揺れ方。とはいえ無事南紀白浜空港に到着。ホテルに荷物を置き、千畳敷と呼ばれる平らな岩が作り出す奇妙な海岸へ。ほとんどが海外からの観光客でびっくり。その後、どこに行っても同じ状況でいったい海外の方たちはどこでこういった情報を仕入れ、白浜や那智勝浦まで出向こうと思うのだろうかと頭を抱えるが、もう20年以上も前やはり家族旅行でスコットランド北部やアイルランドの西海岸、あるいはマン島などに行ったとき、現地の人々から「どうして日本からこんなところに?」と不思議がられたのだが、多分それと同じことなのだろう。
そして南方熊楠記念館へ。田辺湾の南端にあって湾に突き出た細長い小さな半島(?)のような場所にある、番所山と呼ばれる高さ163mというからそれほど高くない山の中にある。高くないとはいえほぼ海抜0メートルのところから登っていくわけだから最後の階段や上り坂は年寄りにはそれなりにきつい。それ以上にあまりに風景が独特である。SNSには「ウォン・カーワイの『欲望の翼』の最後でレスリー・チャンがたどり着くフィリピンのジャングルのような」と思わず書いてしまったが、もはや迷い込んだら絶対に出られそうにない世界の濃密な空気に包まれる。ふだんはまったく気にしていない植物たちの生命の力が作り出す空気と言ったらいいか、いや熊楠にあわせて言うなら植物とともに生きる菌類たちの生命の力、そこに入ったら吸い込まざるを得ない空気中を漂う胞子が作り出す濃密さということになるのだろう。記念館の中で語られる熊楠の人生こそ、実体としての菌類ということではなくこういった菌類的なものとその胞子を世界に向けて放つ実験の場であったと言えるのかもしれないと思った。しかし1日アンパン6個、という暮らしには笑った。わたしも見習いたい。
 
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6月19日(月)
起きていつものようにメニエル体操(メニエル予防のための体操)をしていたら、いきなり腰の筋肉がピキンと延びた音が体内から聞こえ、そのままダウン。ああ、先に温泉に入って体をほぐしてから体操をすればよかったと後悔してもどうにもならず。ホテルのフロントに連絡して何か冷やすものをということで冷えピタシートを受け取り腰に。そこまでが早かったのとぎっくり腰ほどひどい症状ではなかったのとで、何とか歩ける状態に。最悪の事態は免れた。タクシーを呼び、ドラッグストア経由で湿布薬を手に入れそのまま白浜駅。那智大社へ行くのであった。ホテルのある白浜からは特急で90分くらい。那智勝浦からバスが出ている。当初は参道へと続く山道の停留所で降り、そこから山道を登り大社へという予定だったのだがもちろんわたしの腰はそこまで回復せず。妻だけが山道を登りわたしは大社入口の参道のところまでバスということになった。
しかし参道の階段がものすごく、いや、これはもし山道から登ってきたらひとたまりもなかったなと昨年城崎に行ったときの途中で寄った竹田城までの道のりを思い出しそれから1年ぶりの大汗かきながら途中でたまらず休んでいると、参道の階段を上ってくる1匹の鹿。この付近で生息してるのだろうが、こうやってこの場所で出くわすと何か特別なものに出会ったのではないかという思いが沸き上がる。心が弱っているので何にでもすがりたくなる。その鹿に挨拶をしてさらに階段を上り何とか汗だくで大社の鳥居までたどり着くわけだが、老人たちはいったいどうやってここまで登ってきているのだろう。山道から登ってきた妻も遅れて到着し、さすがに呆れていた。『宝ヶ池の沈まぬ亀』の中で甫木元と連れ立って那智大社にやってきた青山はこの参道を登ることをあきらめ、甫木元だけが大社に行ったという記述があると妻が言い、確かにそんなことが書かれていたという話しになったのだが、とにかく弱っている人はここは無理だ。途中、いくつもある休憩所はもちろんそんな人のためにあるわけだが。
しかし大社のあたりの空気には、昨日の熊楠の森とはまったく違う何かが漂っていた。熊楠の森が人間の目には見えないがしかし確実に生きているものたちの生命の力であるならば、那智大社は生き物ではない何かがしかしそれゆえに生き物とともにある場所を作り出している、生命を支える時間の力と言ったらいいのか。番所山(熊楠の森)の鬱蒼とした茂みと那智大社の樹齢850年と言われる大樟の木の違いがすべてを物語っているように思えた。とにかく弱った心に久々にすがすがしい風が吹いた。
その後さらに階段を上り下りして那智の滝へ。このとんでもない滝の飛沫と昨日の菌類の胞子とが同時に体の中を駆け巡る。この感触をまたどこかで思い出すときがあるだろう。

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6月20日(火)
帰りの飛行機が14時前なのでそれまでに何をするか。妻はがぜん「ふうひん」なのだと言う。アドベンチャーワールドのパンダである。わたしは別行動をとるつもりでいたのだが、腰も体調も心もとなく同行することに。いやしかしパンダはすごいね。わたしのようなまったく興味のないものが見ても、パンダがそこにいるだけで感動する。生きてるだけですごいと思う。大したことなんて何もしなくていい。何かがただそこにいるだけ、という奇跡のような瞬間を見せてくれる。人間はこのように生きることは絶対に無理なのだが、ある時、誰かに向かって、このような生を願うことはあるのではないかと思う。あなたがそこにいるだけでいい。ピンク・フロイドの「Wish You Were Here」をそんな風に言い換えるとそこにはまた少しだけ別の物語が浮かび上がってくるような気がした。
そしてあの曲が流れていたのは『ロード・オブ・ドッグタウン』だったか『マーヴェリックス/波に魅せられた男たち』だったかとあれこれ調べていたら、『マーヴェリックス』は批評家たちから酷評、Rotten Tomatoesでの平均点は10点満点中の4.9点との記事を見つけてしまった。カーティス・ハンソンの大傑作なのに。わたしはこれを爆音で観てもらうために数少ない友人たちに「もうこんな誘いは2度としないのでとにかく観に来てほしい」と一晩中かけてメールして上映したのだった。あの時のことは一生忘れない。

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6月21日(水)
2日連続の検査前にやることをやっておかねばと事務作業。すでに緊張している。事務所では皆様から胃カメラや大腸カメラの経験談を聞く。すごすぎる。この年になるまで未経験な上に必要以上に緊張している自分が単にダメ人間に思えてきた。夜になって、胃を通り越して十二指腸までカメラを入れられたときはマジでつらかったという話も聞いた。
 


6月22日(木)
緊張しながら病院へ。朝食抜きだがそのため胃腸も軽く気分はいい。知り合いたちには、『インターステラー』の主人公の娘が年老いて入院している病院みたいな未来的な感じと、今度の病院の風景を例によって大げさに伝えたのだが2度目ちゃんと見てるとさすがにそこまでではない。ガラス張りのロビーの向こう側の中庭が見えたりするのでそれでもやはり気持ちはいい。今日は胃カメラとその後CTスキャンという予定だったが、都合により順番が逆になったのだがとにかく問題は胃カメラである。どうなることやらと待っていたのだが、絶え間なくさまざまな人が撮影室に入り出てくる。ああ具合の悪い人がこんなにも世間に入るのだとちょっとホッとしていたらよく見ると大抵は人間ドックの検査のようであった。つまりきちんとした人生を生きて健康管理もできる人たちである。いや今や普通の人はそれくらいちゃんとやっているだろうと言われてしまえば確かにそうである。落ち込みながら撮影室に入ると、わたしの場合は歯医者の麻酔がダメなので喉の麻酔はせず、鎮静剤を打って半分眠りながらカメラを胃に入れるというやり方の説明を受け点滴が始まったと思ったら起こされて胃カメラ終了とのこと。嘘のようだがマジで途中の記憶がまったくなく時間だけが過ぎていた。こんなことがあるのかといまだに「検査やらなかった疑惑」が消えない。その後隣室のベッドで休んでから帰宅とのことなのだがそこでも眠ってしまい、帰宅してもほぼ寝ていた。
 


6月23日(金)
検査2日目。大腸内視鏡検査なので昨夜から下剤を。考えてみたらいわゆる下剤と呼ばれるものを飲んだのは初めてではないか。とにかく記憶にない。病院に着いても2時間くらいかけて下剤を飲み、便が透明になったら検査開始である。ここまで、とにかく入れては出しなので大変である。いよいよ内視鏡検査なのだが、昨日の胃カメラで楽をしたので本日も当然鎮静剤をというお願いでほぼ眠りながらの検査だった。ここまで約5時間。その後、最悪ではないがあまり良く無い知らせを医者から説明され、帰宅。7月1日の担当内科医との面談で今後のスケジュールが決まる。おそらくエクスネ・ケディのライヴにも参加できない。わたしの代わりにエクスネ・ライヴに1,500人くらい集まってくれたらいいのだが。この数年で受けた巨大なストレスによる病を今年1年かけてゆっくり治すと4月に宣言したわけだからとりあえず焦らずゆっくり。みなさまに大いに迷惑をかけつつ生きていけたら。
 


6月24日(土)
病気の診断をされてしまうとそれだけで本当の病人になった気がしていろんなことをするのにあれこれ躊躇してしまう。昨日までは普通に感じていたこともまったく普通でなくなる。月曜日のアナログばかをどうしようとか、食事はこれでいいのかとか、体のちょっとした痛みとか不調がすべて病気のせいのようにも感じてしまうから恐ろしい。とりあえず我が家で出せるぎりぎりの爆音でアナログばか用の1974年リリースのアルバムを聴く。浅川さんの新作のカートリッジがやはりすごくて隠れていた背後の音の存在が新たな空間を作り出す。ヴァン・モリソンの『VEEDON FLEECE』は本当に名曲ぞろいで本番でかけるのはどの曲にするか頭を抱えるが結論は出ない。
午後からは散歩、昼寝。そして大学生たちの卒業制作のための映画の企画書、プロットをいくつか読んだ。自分が20代前半だったころいったい何を考えていたか、シナリオを書こうとしていたこともあったのだが、その頃自分が書いたものを今読んだらどんな気分だろう。幸いどこにも残っていないので読むことはできないが、おそらく目の前にある企画書類と大差ないかもっとひどいものだったのではないか。ただこの音楽を使いたいとか、ここはこの展開でとか、映画の細部への強烈なイメージはあったように思う。おそらくそれ以外は全くダメだったはずだ。そんなことを思い出すと、40年ほど前はまだでたらめが許されていたのどかな時代だったと思わざるを得ない。その意味で、このよくまとまった夢見がちでしかし簡単にはワイルドサイドへとは踏み出しはしない今の若者たちの企画書に隠れた野心を読み取りそれを浮かび上がらせることがこちらの仕事のように思えた。

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6月25日(日)
導眠剤のおかげで寝つきはすっかり良くなったのだがだからといってしっかりと眠れるわけではない。4時間前後で目覚めてしまう。その間の眠りが深いことだけが救いである。その分、一度目覚めるとなかなか眠れない。4時間では体力は続かない。どうしようかとぐずぐずしているうちに時間が過ぎる。日々そんなことの繰り返しなのであるが、日曜日だと思うと余計損した気分になる。それやこれやでさっぱりしない1日であった。ブライアン・フェリーの74年リリースのセカンドに入っている「Help Me Make It Through The Night」が良くてうっとりした。この路線で行けば、スコット・ウォーカーが遺した可能性のひとつをまっとうできたのではないかと思った。この曲はクリス・クリストファーソンの曲でそれをサミ・スミスが歌って大ヒットしたものだが、それがモンテ・ヘルマンの『果てなき路』で使われている。かなえられなかった夢や忘れられた夢や見向きもされなかった夢やかなえられるかもしれない夢やぼんやりとまだ形にならない夢の数々が埃のように舞い上がり歌の背景を作り出す。かなえられなかったことに対する怒りや悲しみとも遠いただひたすらその夢の残骸たちとともにあることの中から生まれてくる幽かな感情がちょっとだけ明日を夢見させる。そんな歌だ。

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6月26日(月)
アナログばかは楽しいね。今回ばかりはばか3人と参加された皆様のおかげで大いに励まされた。谷口くんのレーナード・スキナード「スウィートホーム・アラバマ」や直枝さんのミック・ロンソン「ラヴ・ミー・テンダー」、湯浅さんのジェリー・ガルシア「レッツ・スペンド・ザ・ナイツ・トゥゲザー」など、うるうるするばかり。途中何度も湯浅さんが「ロック喫茶みたい」とか「ブラック・ホークにいるみたい」とか言っていたが、ご機嫌な音楽をでかい音で聴いてニコニコしているだけ。どうでもいいと言えばまったくどうでもいい時間を他に何も考えずただひたすら皆さんと堪能する。流れてくる音楽が伝える時間や空間にそれを聴いているそれぞれが抱える時間や空間が混ざり合い、会場の空気が温まる。その空気の温かさを感じるだけ。次は5時間やろうとか6時間だとか、最後そんな話になったのは、みんなこんな何でもない時間のありがたさと豊かさをここで実感したからだろう。
そして今回で長い間アナログばかを支えてくれた細井さんが最後。オーストラリアへ2年くらい留学である。boidの手伝いをしてくれる時、半年か1年後に海外留学するのでその時まで、という約束だったのがコロナにぶち当たり結局4年ほど。本当に助かりました。どうもありがとう。そして出発ぎりぎりのあたりでみんなでボーリング大会をすることにした。

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6月27日(火)
入院中の母親の具合が思わしくなく、今のうち、ということで顔を見がてら見舞いに行く。半年ぶりの山梨である。前回行ったときはわたしの目の前で意識を失い大変だったのだがそれからはまったく普通に暮らしていたものの5月くらいから調子を崩し6月に入って入院。謎の肺炎(なかなか抗生剤が効かない)と膠原病を発症。入院後は食欲が落ち、寝たきりになっているという。久々に実家のある町に着くと、身延線の駅から町内に向かうときにわたる富士川橋の新築工事が完成間近である。しかもほぼ廃墟と化しているかつてのメインストリートにガラス張りの法務局や図書館を集めた新施設が作られこちらも7月にオープンだという。わたしの通っていた小学校は今や1学年10名を切る勢いということなのだが、そんな町でも新たな動きは始まっている。
母親は完全に弱っていた。どうやら肺炎の方はだいぶ良くなってきたらしく酸素マスクも取れ鼻からの吸引のみになっていて、肺にたまった水もほとんどなくなってきているということなのだがとにかく食べない。ほとんど寝ていて、呼びかけると答え、何か言おうとするのだが声にならない。体の中から音が出てこない。完全なガス欠状態である。これが一時的なものなのか、あるいは生きるエネルギー自体がいよいよ燃え尽きようとしているのか、素人目には判断できない。ただ、もはや病気の問題ではなく体力の問題であることだけははっきりとわかる。痛いところや苦しいところがあるかと尋ねると首を振るので本人としては単に眠いだけなのかもしれない。昨年末に倒れたときも、目覚めたときには本人にとっては単に寝て起きただけのつもりだったようだ。寝て起きただけなのにどうして病院にまで連れていかれないとならないのかと、ご立腹であった。
しかし今回はそれに比べても弱り方がひどいので、病院から戻った後に母親の姉妹たちに連絡を入れた。実家の庭は完全に夏の庭になっていた。

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6月28日(水)
大学生たちの卒業制作映画企画書やシナリオを読みながら自分の大学時代のことを思い出していた。それぞれの状況にもよるだろうが、20歳前後、未来の果てしなさに押しつぶされそうになっている年頃と言えるかもしれない。ナイーヴすぎる感触だろうか。自分にとってはもはや45年くらい前のことである。記憶の彼方と言えば記憶の彼方。今回の企画書やシナリオを読まなければ忘れていた感触である。したがってそれについて彼らにあれやこれや言うつもりはまったくない。未来に向けての不安や戸惑いをあらわにする映画の中の登場人物たちにわたしの中の忘れていた感触を刺激されあれから45年間自分はいったい何をしてきたのかと頭を抱えているという次第。日々更新され蓄積されていく「過去」がいつの間にか現在を追い越していったい自分がどこに向かっていくのかますます見えなくなってそれ故にひたすら現在と向き合わざるを得なくなったのはいったいいつ頃だろうか。boidを立ち上げたのもそんな「現在」との向き合い方のためだったように思う。もちろん今から振り返ってみてそう思うということなのだが、それはそれで気持ちのいいものだ。今ここと全力で向き合うことが目の前に立ちはだかる「過去」もそしてその向こうにあるかもしれない「未来」をも変える。未来のために現在を生きるのではなく、現在を生きることが過去も未来をも変えると言ったらいいか。目の前にあふれ続ける過去に押しつぶされないための生き方と言ってもいい。しかし押しつぶされないようにするのではない、あふれ続ける過去と戯れることはできないかとも思い始めたのは、今度の病気のせいかもしれない。いわゆる「終活」とも違う、目の前の「過去」と戯れることで現在や未来やそして翻って今戯れている過去をも変えてしまうような生き方。未来への不安満載の若者たちと過去と戯れる老人が思わぬ形で結びつく、そんな現在を描くことはできないだろうか。

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6月29日(木)
以前から約束していたのだがさすがに検査の結果も出て無理して食べても体によろしくないだろうし今回はあきらめておとなしくしていようとも思っていたのだが、しかしよく考えてみると病院で薬をもらったわけでもないし緊急手術というわけでもなくとにかく手術までは消化のいいものを食べていてくださいと言われただけで手術しない限りどうにもならないわけだから自分の体調さえ問題ないならここでおとなしくしていても何も変わらないということで予定通り食べに行くことにした。日本橋いづもやのうなぎ。ここの名物が蒲焼以前のレシピである「蒲の穂焼き」というやつで、下記のような説明がある。
 
「割く技術、また醤油や味醂を醸造するというような技術などが無かった時代は棒に鰻を丸のまま刺して、当時あった唯一の調味料「塩」で食べていました。この姿が水辺に生える「蒲(がま)」の穂に似ていることから「蒲焼き(がまやき)」と呼ばれ、それが訛(なま)って「蒲焼き(かばやき)」と呼ばれるようになりました。珍しい鰻の蒲焼きの語源ともなった鰻料理です。」
 
というわけで一度食ってみたかった。要予約。目の前にやってきたそれはまさに「蒲の穂」で、そのままかぶりついてみた。蒲焼とはまったく違う、うなぎそのものの味。油の染みわたった白身魚の塩焼き、という塩梅でめちゃくちゃうまい。以前富山で食った太刀魚の塩焼きを思い出した。あの太刀魚も絶品だった。身も心も喜ぶ、ということで病気とはいえ、食事制限されているわけではないので無茶せず普通にうまいものを食う。食べ過ぎない。美味しくいただく。白焼きも、うなぎの魚醤で焼いたといういづも焼きも、そしてうな重も、それぞれ小ぶりながらそれゆえに凝縮されたおいしさ、やさしい東京のうなぎであった。
その他本日は、YCAM爆音のオンラインミーティング、『PLASTIC』パンフとエクスネ・ケディのガイド本の入稿作業のちょっとした手伝い、月末の社長仕事などをした。

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6月30日(金)
具合悪くほったらかしになっていた作業がいろいろあって、この際なのでそれらをひとつひとつ片付けていく。この数年の体調の悪さの元が結局ひとつの病気からだったというのはわかってしまえばすっきりはするが、当たり前に毎年検査をしていればこの数年を無駄にせずに済んだことでもあって、かつてのすっきりした体調での日々の暮らしのことを思い出すこともできない。しかしその時期はその時期でメニエル含め体調不安は満載なのであった。
夜は爆音お台場の打ち上げ。今回は目標動員数の倍を達成ということで打ち上げというよりお祝い。毎回こんなことになるとは思えないので、次回はこれを期待せず、しかしこの勢いをうまく取り入れつつということで。機材チーム、爆音チーム、ユナイテッドシネマの担当者で美味しいイタリアンを食した。boidから歩いて数分のところなのだが、ここは本当にいつ来てもおいしい。とはいえわたしは病気のこともあるので、適度な分量、デザートはちょっと味見しただけでやめておいた。手術の経過さえ順調なら、またそのうちデザートまで食えるようになる日が来る。

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樋口泰人

映画批評家、boid主宰、爆音映画祭プロデューサー。98年に「boid」設立。04年から吉祥寺バウスシアターにて、音楽用のライヴ音響システムを使用しての爆音上映シリーズを企画・上映。08年より始まった「爆音映画祭」は全国的に展開中。著書に『映画は爆音でささやく』(boid)、『映画とロックンロールにおいてアメリカと合衆国はいかに闘ったか』(青土社)、編書に『ロスト・イン・アメリカ』(デジタルハリウッド)、『恐怖の映画史』(黒沢清、篠崎誠著/青土社)など。